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第14章 赦し

 Forgiveness

 リスチャンとして、初のスピーチをモデストで終えると、自分の元には他でもこの体験談をして欲しいと言う依頼が殺到するようになった。自分でも自身の「証し」・スピーチは、不良からオリンピアン、戦時捕虜から酒浸り、さらには悪夢から改宗へと続き、「それでその先どうなるんだ?」という、人の注目を得る要素で溢れていることはよく分かっていた。自分はこの依頼は神の意志の証明であり、これに沿うことが、自らの新たな信仰を試す好機だと捉え、引き受けることにした。

 ほとんどの依頼には車で出向いたが、電車や飛行機を使う場合もあり、時にはシンシアとシッシーもこれに同行してくれた。スピーチに呼ばれると経費は全て持って貰え、また謝礼も支払われた。神は自分の必要とする物をご存じで、それに応じて手を差し伸べてくれるのだ。自分としても謝礼の1割を、勧んで教会に寄付することは忘れなかった。

 

 ある晩バーバンク(※ロスから20キロ弱)の小さな教会でスピーチを終えると、信徒席の最後列の向こうで、旧友のハリー・リードが立っているのが見えた。

 「ちょっと寄って、一体何の騒ぎなのか、見てみようと思ってさ」

 ハリーはこう言った。こちらとしてはハリーが来るなどとは全く思っておらず、これは大学時代の相棒がよりによって教会にいるというだけでなく、なんでこんな所にというのがあった。ハリーは先立つこと8ヵ月前に、ボート・レースにエントリーするとハワイに越していて、こちらもハリーがロスにいるとは思ってもみなかったのだ。

 「家まで送るよ」

 ハリーはそう言うと、ハリウッドへ向かう車中、島々で過ごした数ヶ月に及ぶ日々について話し始めた。

 「自分用にボートをチャーターしようとしたんだけどできなくて、お陰で長いこと時間を持て余しちまってさ。そこであくせくするのもナンだから、パーティーに出たりしてさ。カワイイ子もいたし、酒も飲んでさ。昔一緒にやったろ」

 自分もそれはやった。しかしそう言うハリーは楽しくて仕方がないというより、むしろ何かに困惑しているように見えた。

 「なあルーイー、楽しい時間と綺麗な情景にいながら、なんかつまんなくてさ。オレは・・・幸せじゃあなかった。何かがおかしいっていうか、でもどうしてか分からなくて」

 自分はそこで何か言うこともできたのかもしれないが、代わりにハリーに自分の改宗後の生活について質問を幾つかさせると、メッセージは自身で汲み取って貰えるように願った。加えてその表情から、自分が教会で語った内容がハリーに響いたのか、もしくは反発を呼んだのか分からなかったし、そもそも話を聞いたのかさえハッキリしなかったからだ。

 それから1週間後、ハリーは自分が参加していない別の集会に姿を見せ、牧師がイエス・キリストを受け入れるかという呼びかけを行うと、前に向かって踏み出した。後になってから、ハリーが自分に言った所によるとこうだ。

 「オマエの改宗が本当か確信が持てなくてさ。オレはオマエのことよく知ってるからこそ、どうしても信じられなくて。でもオマエ見てると、それで納得がいったんだよ」

 ハリーはそれから新たな生活に身を投じた。サンディエゴのオーシャンサイドに引っ越すと、そこで機材のレンタル・ビジネスをしており、自分達も時おり顔を合わせていたのだが、美人なモデルと結婚すると体型維持のために、夫婦にランニングを教えてくれるよう頼んできた。それから月日も経つと、ハリーは肝臓がんを患った。そして余命も1~2週間となった時、自分はハリーの元へ車で駆け付けると、祈りを共にした。

 

 大いなる戒律とは、全ての生きとし生ける者に福音を説くことだが、神も聖書もそのどちらもが、人々に何かを無理に飲ませるようなことは言ってはいない。人がもし布教のためにどこかの家を訪れ、そこで拒否をされてもすべきは靴のチリを払ってその場を去ることであって、(※マタイ第10章14節)間違ってもその靴で家のドアを蹴破ることではない。遡ってハリウッド大通りで、熱狂的なキリスト教信者達が闊歩しては通りがかりの人達に話しかけていた頃、自分はあの圧迫戦術はキリスト教の信用を落としているだけだと思った。聖書は「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と言っているが、自分はこれを真実だと思っている。ここに、こんにちにおける大きな問題が一つある。世界中に頑迷な原理主義者達があまりにも多すぎるのだ。彼らは自身の言うこと全てに同意が得られなければ、そのまなざしには憎しみが見て取れる。危うい少数派に至っては危険な段階にまで至り、自分達の信仰を広めるためなら暴力ですら厭わない。私は多くのキリストを受け入れない人達を見てきたが、怒りの感情を爆発させていくのは、いつも布教を試みる側だ。彼らは布教とはまるで、改宗者の数を稼ぐゲームで、これには絶対に勝たねばならないとでも考えているようだ。

 私も当初は、自分の持つ熱い布教への想いと格闘してきたし、時としてやり過ぎることもあった。だが幾つかのもどかしい、また時には自らを恥ずかしく思うような体験を通し、最終的には真実を受け入れることとなった。つまり聖書も言っているが、人は誰でも彼でも改宗させることなんてできやしないのだ。できることと言ったら、種を植えて水をやることだけで、それを大きく育てるかどうかは、神がその御心のままになさることだ。

 

 1950年代の半ばに、私はインディアナ州のウィノナ湖で行われた、年に一度の巨大なクリスチャンの集会に参加した。そこで自分は土の床の講堂に毎晩立っては、世界中から集まった宣教師や伝道師達の報告を熱心に聞き入っていた。

 そんな折り、ワールド・ビジョンを立ち上げ、東洋より戻ったばかりのボブ・ピアースのスピーチの会ばかりは、自分はすんなりと参加できないものを感じた。ボブは従軍記者になっており、日本やその他のアジア諸国の問題を扱うラジオ番組も持っていた。

 1950年に韓国の孤児と共に写るボブ・ピアース。福音派のキャンペーンで中国や韓国に赴くと、戦争の引き起こす子どもへの惨状に心を痛め、極東における孤児の救済、病院の建設などに尽力した。ワールド・ビジョンとは1950年9月にアメリカのオレゴン州で設立された、世界の子供を支援する国際NGOで、現在もキリスト教精神に基づく援助・支援を世界で実施している

 「どうして!」

 彼はあの、押しの強い口調で言った。

 「一切日本へ宣教師のチームが派遣されていないのでしょう?ヨーロッパへは何組ものチームが予定されているというのに、です」

 実はこのヨーロッパ・チームには自分も入っていて、さらに24時間以内に現地へ出発することにもなっていた。

 「それなのに東洋へは、たった1チームのみ!もっと派遣が必要なのです」

 ピアースは酷く憤慨した様子で、これに自分は彼が直接自分に向かって話をしているように感じずにはいられなかった。実際にそうだったかどうかはさておき、自分がそう感じたのも無理はない。誰かが日本行くハメになるなら、それには自分が適役だったからだ。別に誰かに頼まれた訳ではなかったが、しかし例え頼まれても絶対にそんな所には行きたくなかった。

 実は遡ること数年前に、自分はタイム紙のインタビューを受けていて、そこでハッキリこう言っていたのだ。

 「あの国に戻るくらいなら、死んだ方がマシだね」

 日本など自分は大嫌いなのだ。ジャガイモやニンジンなんかの作物に、自分から出た人糞で肥しをやって、それでできたものを食べる。あそこへ行くと考えるだけで、戦争の記憶は自分を憂鬱にさせた。

 日本では未だに貧しい生活が当たり前で、自分は宣教師をやるなら生活環境がもっとアメリカナイズされていて、民主主義の浸透した所でやりたいと思っていた。ヨーロッパなら友達もそこら中にいたし、楽しく過ごせるのも間違いなかった。自分とてクリスチャンになっていなければ、いずれはバード発見のために日本へ戻り、相手が生きていれば、自分にしてくれたことへの落とし前をつけたのかもしれない。しかし自分が全ての日本人を赦して以来、かの国はもはや、自分の興味の範疇などではなかった。少なくとも私は自分自身に、そう言い聞かせていた。

 ピアースが演説を終えると、自分は誰かが自分に話しかけてくる前に、こっそりと会場を後にした。だがそれでもホテルの部屋へと戻る最中、頭の中にある確信が頭をもたげてくると、自分はそこから逃れることができなくなっていった。つまり、自分が日本人達と実際にもう一度メンと向かい、その目に反映された、新たとなったハズの自身を見ていないのに、自分が過去の呪縛から本当に自由になったかどうかなど、決して分かりようがない、ということだ。であるなら自分は、今となっては巣鴨プリズンに収容されている、かつて自らを虜囚とした人間達と顔と顔を合わせ、彼らを赦すべきなのだろうか?その時になって初めて、自分は完結を迎えるのではないだろうか?

 ホテルのロビーでは、これから祈祷会を持ちたいという信者仲間と会った。そしてその祈祷会で、自分が口上を述べる番になると、私はこう祈った。

 「神よ、私は今、自分が日本へ戻るべきだという、おぞましい確信を胸にしていながら、迷い、まるで心を焼かれるようです」

 すると、この決心をすべきか否かという責任を、他方へ向ける名案が閃いた。

 「改宗まもない私には、お尻でも叩くような何かなくしては御心も伝わらぬやもしれません」

 つまり言い換えれば、自分に誤解のしようのない啓示をすぐにでも与えて欲しい、でないと予定通りチームと一緒にヨーロッパへ行ってしまうよ、ということだ。

 部屋に戻るとその途中、ちょうど会議室から人が出て来ている所を通った。するとそこには若い牧師が一人いて、自分とは全く面識もなかったが、こちらを呼び止めた。

 「私はエリック・フォルサムといいます。ツーソン(※アリゾナ)出身の伝道師なんですが、あなたのお話を聞いたんです。私の教会でも、証しをして頂けないでしょうか?」

 「もちろんですよ」

 自分はそれに、名刺を渡しながら答えた。

 「地元へ戻られましたら、ご都合がいい時を手紙で教えて頂ければ調整ができます」

 すると彼は言った。

 「ところでなんですが、何とも挑発的でしたが、日本のお話は聞かれましたか?」

 「ええ、でもちょっと部屋に戻らないといけないし・・・」

 「ボブ・ピアースさんのお話に、私は感動したんです」

 「ああ、それは私もです。それはそうと、自分はそろそろ寝ようかと・・・」

 するとフォルサムは、自分の手をこちらの腕にかけた。

 「少しだけいいですか、ルーイー」

 「どうしました?」

 「私達は今ここで話をしていたのですが、神は私の心に軛(※くびき)を掛けられたのです。あなたに500ドルを渡して、(※51万円以上)日本へと戻る、その旅程につかせるためにです」

 これに自分は、彼を抱きしめてよいのやら突飛ばしていいのやら、分からなくなってしまった。だが真実は私にとり、もはや避けて通れるものではないようだ。自分はこちらから神に啓示を与えてくれるように求め、そしてそれは願いの通りとなった。フォルサムによると、実は彼も今はお金を持っていないので、地元に帰ったらすぐにでもカリフォルニアに送ると約束してくれた。(後で知ったのだが、彼はアリゾナに戻ると、自分の車を売ったのだ!)

 それから1時間もしないうちに、今度は6名程の合唱団の人達が、自分のホテルの部屋のドアをノックすると、こう言った。

 「私達も日本には、誰かが行かねばならないと思ったのですが、それならあなたが適任なんです。信者さん達からの献金も受け取って頂けませんか?」

 次なる啓示が現れた。

 そしてその晩、自分は寝床に入る前に、シンシアとシッシーに手紙を書いた。

 

 寂しい思いをさせている2人へ

 お父さんは全くもって本当に、困ったことになってしまいました。ここではあんまり色々なことが起きてしまい、お陰でずっと緊張のしっ放しです。布教の旅に神の御導きがあるよう祈りを続けていましたが、その道へのドアは全ての方向に向け、開いていっているようです。今夜はとても明確な形で、そのお導きがありました。神はまさに、ここにいらっしゃるのです。

 シンシアへ。神は自分のみならず、あなたのためにも私をここへ留め置かれています。自分達の考えるべきは、まずは神の御意志ですが、その中にはきっと、自分達の家のことも入っていると、自分は信じています。心から日本について、また青少年プログラム、例のテレビ番組、そして私達の家について祈りを捧げて下さい。

 自分のとれる飛行機は一つだけで、ロサンゼルスには日曜の夜の11:30に、10分だけ止まって、そこからサンフランシスコへと飛び立ちます。飛行機が止まっている間に、ロッキード・ターミナルから電話をかけるつもりです。それから火曜日の晩までには、家に向かって全力で帰ります。そういえば、予約していた歯医者には行けませんので、どの日でもいいので、朝に予約を2つ入れておいて下さい。

 小さくて冷たいお足には、しばらく会えません

 愛を込めて、あなたと共に神に仕えるルーイーより

 

 ロサンゼルスに帰ると、ユース・フォー・クライスト・インターナショナル(※YFCI:福音派NPO)の副代表が、自分の日本行きに必要な資金協力を申し出てくれ、彼は西海岸のあちこちで、私の講演ツアーを組んでくれた。自分はまた、YFCIによる、非行少年のための更生プログラム・ディレクターにも就任した。ワシントン州では、東洋に向かう若い福音派伝道師チームと会い、自分達は2ヵ月間行動を共にすることにし、彼らも私のための資金調達を手伝ってくれた。

 (※自分の日本行きについて、)自分の友人達の中でも、キリスト教徒ではない人間に言わせれば、

 「自分だったら絶対にそんなことしないよ。余程の覚悟がいるだろう」

 とのことだったが、一方でクリスチャンの友人達は理解をしてくれ、少なくとも今回に至っては、誰もこれを売名行為だとは思わないようだった。

 1950年に伝道活動のため、日本行きの飛行機の搭乗を待つルーイー。右はユース・フォー・クライストの副代表、ロイ・B・マキーン。(おそらく上記人物)ロサンゼルス・タイムズより

https://www.latimes.com/la-me-ln-louis-zamperini-20140509-pg-photogallery.html

 YFCIとは福音派NPOで、ビリーグラハムが初代代表を務めた。日本でも現地法人が活動をしている

 私はノースウエスト航空の大型プロペラ機に乗り込むと、まずはハワイへと飛び立ち、そこで一晩を過ごすと次にウェイク島へ向かった。自分はウェイク島を大戦中に空爆していて、その地形は隅から隅まで知っていたが、しかし実際にその地に降り立つのは初めてだった。実際に旅程に出ると、自分には激しく二の足を踏む思いが湧き出てきて、自ら決めた日本行きに対し、ほとんどの時間を苛立ちと怒りの感情を持って過ごした。起きている現実を受け入れることができなかったのだ。だが自分が狼狽していようがそれは問題ではなく、この旅は神の意志によるもので、自分はそのことを理解していた。神は、人がその意志に従う時、私達が必ず楽しく幸せであるべきだなどとは言っていない。彼はただ、我々はその意志に対して従順であるように、そうすれば喜びは後からついてくるものだと仰っているのだ。さしあたり自分はそのことを、受け入れねばならない。その他の全てのことも、自らの信仰を頼りに、だ。

 

 1950年10月のある肌寒い薄曇りの日、私は殺風景な東京の空港に降り立つと、即座に数百日にも及んだ、同じような天気の日々を思い出すこととなった。あとどれだけ耐えれば生き延びられるのか、それさえも分からぬままに幽閉された、あの日々。私は再び、自身に問うた。自分は一体ここで、何をしているのだろう?と。そして答えは既に、自分の知るものが再び返ってくる。その答えが、自分はどうしても気に食わないのだ。

 税関を抜けると、出迎えに来たホスト役や、通訳担当の宣教師達に会った。またターミナルでは、ライフ・マガジン東京支局の一隊に呼び止められた。彼らは自分が巣鴨プリズンに行こうとしているのを知っており、そこには自分を看守として虐待した人間の多くが他の戦争犯罪者と共に収容されていた。週刊誌のクルーは取材のため、その内部に入ろうと試みていたが許可されず、彼らの話を聞いてみると、自分も中に入れるのかは定かではなく、だが自分は陸軍総司令部(※GHQ)付きの従軍牧師と話をして、その時にライフ紙の件も自分の許可と一緒に聞いてくることと、随時連絡も入れることを約束した。

 東京に向け車が走り出すと、自分はすぐに街の様子が変わっていることに気がついた。過去に見た、黒焦げになって骨組みだけになった建物や、悲惨にも飢えに苦しむ人々は、今や賑わいを見せる大都市として成長し、広い大通りとそこで活気と熱気に満ち溢れる市民達が目に入ったのだ。通りに向かって店頭を開いた店舗は、巨大な大根や吊り下げられた肉、瓶に入った色とりどりの飴玉でいっぱいになっていた。行商人達が屋台を押しては通りを縫って進み、小規模な店舗ではお茶や紙を売っている。焼夷弾を食らって廃墟となった古い工場の隣りには新たな工場が立ち並び、かつて一度はB-29が文字通り灰燼に帰した地を、無数の小さな家々が埋めていた。街を覆う空気は憎悪などではなく、代わりに希望で満ち溢れて見えた。自分とて同じようにその空気を一緒になって吸いたい。―そう思うのと同時に、心の中ではかつての苦しみと敵意の痕跡がどこかにないだろうかと、私は自らを注意深く探り続け、それは自分に拳やそれ以上の手段で殴打を加えて来た面々を思う時に、特に顕著となった。

 スケジュールはパンパンに詰まっていた。多岐にわたるキリスト教関連の団体が、集会や公開スピーチを組んでくれ、従軍牧師達からは所属基地への訪問依頼があり、大学や市民団体も講義の予定を組んでいた。さらには新聞各紙が多くの紙面を割き、自分の来日と到着を伝えていたのだ。

 自分がしなければいけないのはきちんと旅費を管理することくらいで、飛行機代を支払うと手元にはもう数ドルくらいしか残らなかったのだが、自分がホノルルで飛行機を降りている間にさらに幾らかの寄付が集められ、合算すると50ドル(※5万7千円)程になっていた。幸運にも当時の50ドルは、現在の500ドルのようなもので、25セントか30セントもあれば(※286円~343円。実際にInflation Calculator での2021年比較は105,3%で、当時の50ドルは21年の576.66ドル)ステーキのセットが食べられたし、それに日本滞在中のたいていは、各教会グループとの食事会や、家庭で料理が我々に振舞われた。しかも軍は、自分が除隊した1946年以来、ずっとIDカードを返却させずにいたので、自分は軍の売店にすら行け、食べ物なら格安で買えたのだ。とはいえ宿泊先は別の問題で、自分達は眠れる場所ならどこでも使わねばならず、多くの場合は安いホテルに薄いマットを敷いて寝た。だがそんな中でも、出先で受ける歓待と公式の場に立つことへの期待から、自分は徐々にこの滞在を楽しめるようになっていった。自分がこんなにも歓迎して貰えるとは、思ってもみなかったのだ。

 

 自分は終戦後からの数多くのスピーチによって、かなり以前からその標準となる骨格を確立していた。そこで学んだのは物語りを30分に凝縮させることで、なぜなら人というのは、多くがそれより長く話を聞いていられないからだ。そして改宗して間もないこの頃も、講義の内容を大きく変えたり聖書の引用を多くすることもしなかった。これは当時の信念かつ、今も変わらないことだが、聖書の引用は軽めにして最後に取って置いて、聞き手の方々に自分の体験全体から、必要な部分と自身の役に立つ所を選んで貰うのだ。

 しかし今回勝手が違うのは、自分は今まで日本人の聴衆相手に一度もスピーチをやったことがなく、どんな反応が返ってくるのか予想がつかないということだった。過酷な体験の詳細や、怒りと憎悪の記憶について、彼らは受け止められるのだろうか?そこで自分は、沖縄で占領軍を相手にスピーチをした時と同じことをすることにした。つまり、真実を述べるのみなのだ。加納、つまりいい人だった看守やバードのこと、また一命を拾ったクワジェリンと、どうして自分の命が助かったのか、全く分かっていないことの経緯について話をするのだ。

 スピーチが終わるといつも、自分の団体では小冊子とパンフレットを配るのだが、ここで(※日本で)感銘を受けたのは、人々がこれを受け取る際の熱意だった。アメリカの場合、資料の多くは講堂の床に捨てられたりして、後はゴミになってしまう。ところが日本の場合、物を無駄にすることはあまりしなかった。

 ある日の午後、自分は早稲田という、日本でも最も大きな大学の一つでスピーチをするためホテルを出ようとしていると、大学の総長より電話があり、自分の出演をキャンセルしないといけないと言って来た。

 「大変に申し訳ありませんが、キャンパスでちょっとしたトラブルがありまして」

 彼はこれを「ちょっとしたトラブル」と控えめに述べたのだが、その実、ちっともちょっとなどしていなかった。共産化の波は戦後の日本においても強烈で、千人を越える学生と同じだけの警察がまさにその瞬間において、6時間にも及ぶ血みどろの戦いを繰り広げていたのだ。これには143名もの人間が逮捕され、34名の学生と11名の警察が負傷し、その内の数名は重篤な状態だった。

 1950年10月18日付読売新聞。記述は1950年の「10月17日・早稲田大学事件」。学生側はいわゆるレッド・パージ、赤狩りに反対したのを、当局に共産勢力シンパとみなされて事件は起こったのであって、ルーイー及び読売新聞の記述は、当時の学生の皆さんには、右に傾いたかなり失礼なレッテル貼りとも言える。記事によると私服警官が学生側に発見され、つるし上げられる騒ぎから、(最近も京大で同じことがありましたが)警察予備隊が出動、本編とも数が一致する負傷者、逮捕者が記載されている。ちなみにルーイーはバードの出身校だと知っていたのだろうか?https://www.waseda.jp/culture/archives/assets/uploads/2016/03/0d9d1f79062d2f3df0bdf41f256cc8b7.pdf

 1952年のメーデーに皇居で行われたデモ

 写真は1952年のものだが、当時はデモが起きると自衛隊の前身である警察予備隊が出動し、流血沙汰も珍しくなかった

https://dailynewsagency.com/2014/04/10/japan-in-the-1950s-q08/

 そこで自分は代わりに4つの工場でスピーチをすると、自分達は改めて3日後に早稲田での講演を試みることにした。これに対し大学総長は、キャンパスには自己責任の範疇で来るようにと明言してきた。

 「公演があることは告知します。でも誰か来るか保証なんてできませんよ」

 早稲田の講堂の舞台は、床より約5フィート程(※1.5M)高い位置にあり、自分が集会の準備をしていると、学生達が到着し始めた。生徒の多くは包帯を巻いており、どうやら過激派のようだった。これは怖かったが、しかしそれでも自分はバードとそこで行われた拷問について、話に手加減をするようなことはなかった。これを聴衆は全員行儀よく聞いていて、そして話が終わると、通訳がクリスチャンとなる方は前へ、と言った。すると突如として、包帯を巻いた学生達の波が、前に向かって押し寄せて来た。その様子は、彼らはイエス・キリストを受け入れるために、舞台へ殺到しているのではないのではないか?と、自分にはよぎった。実を言うと収容所に2年いたにも関わらず、自分は未だに日本人の顔を見て、その主が喜んでいるのか怒っているのか、もしくは自分を殺そうとしているのか、推し量ることができなかったのだ。

 私は通訳の方を向くと言った。

 「一体全体、彼らは何がしたいんだ?」

 すると通訳は頭に包帯を巻いた一人に事情を聞き、それからこちらを向いて言った。

 「彼らはクリスチャンになりたいそうです」

 普段、スピーチの後に呼びかけに応じてくれる人の数といったら50名か60名なのだが、その夜はなんとほぼ300名もの人達が、他の宗教の神々やイデオロギー、さらには共産主義すら打ち棄て改宗をすると言うのだ。なんと素晴らしいことだろう!

 

 東京には、新しく巨大な市民ホールが一つ建てられており、そこでは約16,000名もの人を収容することができた。その夜自分が登壇すると、総勢18,000名もの人がそのホールの中でごった返し、さらに5,000名もの人が、酷い土砂降りの中に待つ有様となった。その全ての人に話ができるよう、私は公演を2回行った。自らに起きたことを再び語り、そこでもまた同じく人々は、イエス・キリストを受け入れるべく、前へと踏み出てくれた。

 1950年10月20日付朝日新聞。19日に朝日新聞社を訪れ、22日に巣鴨を訪問して、かつての看守を赦す予定だと伝えている。56年版では明治、日本、東京大学でも講演をしたとあり、記事では共立女子大学・神田講堂で講演をしたことも分かる。右の画像の場所は不明だが、1950年の来日時と思われる。本編では「共産主義すら打ち棄てる」とあるが、実はビリーグラハムの説教には、「神はなぜクリスチャンが苦しむのをそのままにし、神はなぜ共産主義が繫栄するのを許すのか」というものもある。共産主義って、悪の枢軸!?

 それが終わると、皺を刻んだある一人の老齢の女性が、自分に向かってやって来た。そしてお辞儀をすると、単刀直入に言った。

 「私は、クリスチャンです」

 そして、シンプルに言った。

 「あなたがクワジェリンで命拾いをしたのは、自分の息子がそこを指揮する士官の一人を務めていたからです」

 「えっ?」

 自分は思わず我が耳を疑った。

 「私の息子の言葉が、あなたの人生を救ったんです」

 彼女は淡々と繰り返した。

 自分には聞きたいことが山程あったが、しかし口から出たのはこれだけだった。

 「彼はまだ、生きているんですか?」

 連合軍が島を空爆した時に、敵は一掃されていたからだ。

 「ええ、生きていますとも。東京でね、百貨店を経営してるんですよ」

 お婆さんは名前を教えてくれたので、自分はそこへすっ飛んで行った。

 

 あの時、私は彼の名前を書き留めたのだが、その時の紙を無くしてしまい、今となるとクワジェリンで我が命を救ってくれた人の名前を、思い出すことができない。だが彼の写真は持っている。本当にバカなことをしたし、心から後悔しているのだが、それでもあの時自分達は顔を合わせると、通訳越しに約1時間ほど話をすると、自分は話の顛末の全てを知ることができた。

 「あなたが海に墜落したことは、アメリカの新聞でも大きく報じられたんです。こちらとしても、オリンピックとかUSCがあったから、あなたのことは知ってたんです。日本人は全員、知ってましたよ」

 今のアメリカの人にはおそらく理解できないだろうが、当時の日本人はアメリカ映画のスターやアスリートのことを、自分達アメリカ人なんかよりよく知っていたのだ。例えば誰かアメリカ人アスリートが一人、ハリウッド大通りを歩いても騒がれることもなかったろうが、東京ではそうはいかなかったのだ。

 「あなたがウォッジェ環礁で拾われた時は、そりゃあ仰天しましたよ。クワジェリンの士官達はあなたを尋問したがった。その内の一人は、USCにも行ったことがあったんですよ」

 「ええ、知ってますよ、会いましたから」

 「その後、士官達がもうあなたに利用価値がないと判断した時、処刑日も決められたんです。クワジェリンの捕虜は全員、打ち首になりましたからね」

 「それも知ってます」

 「でも私は、諮問団の所へ行きましてね、提案してみたんです、もっといいアイデアがあるって。ルーイーさん、ザンペリーニはアメリカでも有名なランナーだし、オリンピックにだって出場した。さらに行方不明のニュース効果もあるから、捕虜として東京に送って放送要員にできれば、日本のためにもより役に立つって。そしたら諮問団が、そりゃあそうだって同意してくれて、阿部副提督に連絡してくれたんですよ。この人がクワジェリンの捕虜は、誰一人として生かして出すなって自分から命令を出した人なんですけどね、この人も同意してくれたんです」

 そうして、私の命は助かったのだ。話の真相は極めてシンプルだった。我が運命はクワジェリンで決まっていたのだ。

 私は彼に厚くお礼を言うと、自分がどうして命が助かったのか、その謎ゆえに長年に渡って悩んでいたことを伝えた。

 「今となれば、真実を知ることができて、心から感謝の念で一杯です」

 自分達はそこで写真のためにポーズをとって、全員で握手を交わした。

 「1950年日本。彼はクワジェリンで自分の命を救ってくれたのだが、自分はそれを戦後になるまで知ることはなかった。彼の名前を無くしてしまったことは、悔やまれてならない」—03年版より。実はこの時の様子は、カラー動画でも撮影されており、1章のジェットコースターと同じ動画としてユーチューブにもアップされている

https://www.youtube.com/watch?v=OvH1O7vi1hc&t=382s

 もし親類や家族の方が、ルイス・ザンペリーニ財団までご連絡の際は下記リンクへ

https://www.zamperini.org/

 そこからチームと自分は東京の外の、本土以外の島々へと足を伸ばし、さらに広島へと向かった。広島の街の一部では、未だに高い放射線が検出されている状態で、しかし市街地から離れると、既に家並みも修理が終わっている状態だった。

 そこで私は、メイヤー(※Mayer、市長もしくは教区長)であるOye(※大江)氏に迎えられた。彼は敬虔なクリスチャンで、戦争中はキリスト教を説いた廉で収容所生活を強いられていた。彼は戦争中のことをいささかも引きずっているようには見えず、特に強制収用に関しては、冗談までさし挟んで見せた。

 「そりゃあ、文句なんかないですよ」

 彼はそう言うと、クックッと笑った。

 「だって今までで一番たくさん信徒が得られたんですよ。しかも、彼らは私から逃げられない!」

 彼はお土産として、私に原爆投下時に、ある兵士の手にあった、一丁のライフルをくれた。それは熔けて曲がり、恐怖と敗北の象徴であって、彼がそんなものをくれることに、自分はとても驚いた。これが赦しでなくて、何が赦したりえよう?私は深く心を打たれた。

 Mayor Oye:56年版には聖職にある街の市長と明記しているが、しかし条件に該当する市長は当時おらず、政令指定都市以前には区長もおらず、Oyeという音と、キリスト教を説いた廉で強制収容された、また出迎えをする立場と、ライフルを与える行為が赦しとなることから推測すると、おそらくこれは当時、広島アライアンス教会で代表だった、大江捨一牧師の事ではないかと思われる。しかしライフルのエピソードは、残念ながら問い合わせや著書等からは、確認できず

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E6%8D%A8%E4%B8%80

 また私は再建された病院で、通訳と共にベッドからベッドへと周り、原爆に焼かれた被害者達とも話をした。そこではある一人の男が、原爆の閃光によって焼かれた自分の背中を指しこう言った。

 「自分はこうなったことを、名誉なことだと思っとるよ、何百万人もの命が救われたんだから」

 名誉?命を救う?彼は頭がおかしいのではないか?そう思う人もいるだろう。だがそうではない。原爆の閃光により、何千人もの命が失われたにも関わらず、戦争の研究者ならこの発言が理に適うのを理解するのだ。(※原爆が無ければ、)古(いにしえ)よりの「神風」を頑なに信じ、日本人は奇跡を待って決して降伏することなく、我々アメリカ軍に、上陸戦を余儀なくさせたに違いないのだ。あの猛烈で長きに及んだ、沖縄での戦闘がいい例となる。大船でジェームズ・ササキは自分に言った。もし連合軍が日本に侵攻するなら、日本の全人口7千5百万人のうち、約1割は死ぬことになるだろう、と。そしてこれに伴い、侵略軍側の損害も莫大なものになったろう。侵略軍の多くは正規の兵士などではなく、大学から徴用された十代のユース・コー(※青年隊)で、最終決戦に向けた訓練は受けたが、それは死地へ赴くことを意味したからだ。そして戦争が終わり、原爆に対して非難の声が上がった際、この元ユース・コーの若者の一人が、新聞紙面での投書でこう反論したのだ。

 「自分はあの、たった6週間の訓練で、銃や銃剣の使い方を覚えた内の一人だったが、自分とて自らの死すべき命運は理解していた。あの原爆なくして、連合軍側は侵攻で(コードネーム・破滅)50万人を失ったやもしれないし、ならば日本側はその10倍は下らないだろう」 (※ルイス・ザンペリーニの原爆へのスタンスはコラム5へ)

 

 そうこうしていると、東京へ帰る途上で、旅費はほぼ底をついてしまった。しかしある日、広島郊外のホテルで昼食をとっていると、自分の話を聞いたという海軍の少尉がこちらに話しかけてきた。自分は受け取ったライフルを家に送るのを禁止されているのを、広島を出る前に知ったのだが、この少尉は言った。

 「こういうのはどうでしょう?船まで私と一緒に来て頂いて、そこの人間にお話をして頂きたいんです。そうしたら私は、あなたが日本に滞在するために250ドルを(※28万6千円)差し上げるだけでなく、ライフルを持って帰って、あなたが帰国したらお渡しします」

 彼はこの約束を守り、自分は滞在を延長することになった。

 そしてこの資金で私は、日本の地方にまで足を伸ばすことができた。都会にいるより、田舎にいた方が落ち着きを感じたのは、大船や直江津にいたせいだろう。舗装のされていない道を、干し魚や味噌を担いで、目の前で悪戦苦闘している男女の姿を見ると、ふと彼らが自分の古い友人のようにすら思えたのだ。あるどんよりと曇った寒くて陰鬱な日に、自分達は大麦畑で荷を積んだ2輪カートを引いている、一人の老人を呼び止めた。彼は自分達が神について話しているのを、理解するまでこちらの話を聞き、それから空を見上げると、そこを指さして言った。

 「ワシが拝むのはさ、お天道様だよ」

 すると雲が晴れたかと思うと、その間から日の光が射し始め、自分達全員を暖かく包んだ。そして彼は、ニッコリと笑うと言った。

 「これより素晴らしいことなんか、あるのかね?」

 これには微笑み返すこと以外に、私に一体何ができよう?自分達がクリスチャンとなるための小冊子を渡すと、彼は私にお辞儀をして礼を言い、それからこの日の光を楽しみながら、とぼとぼと歩き出した。

 

 東京へ帰ると、ある宣教師の夫婦からこんな話があった。自分の講演を聞いたという一人の元日本海軍の新兵が、彼らに声を掛け質問をしてきたのだという。

 「私はあの横浜に向かう船の上で、ザンペリーニを殴って鼻を折った人間の一人です」

 彼はこう告白していた。

 「あなたは、本当に彼が自分を赦してくれていると、そうお思いですか?」

 この夫婦は大丈夫だよと言っていたのだが、直接手紙で私に聞いてみるようにも勧めた。自分は相手を赦したことに疑念が残らないよう返事を書いたが、しかしこの手紙を書きながら、思うこともあった。手紙を書くのは容易いのだ。面と向かって人を赦すのは、同じだけ容易いのだろうか?

 そして遂に、その答えを得る時が来た。

 

 ライフ紙は数日おきに自分に連絡を入れ、巣鴨プリズン入場許可への進捗状況を聞いていた。しかし自分は進捗を得ておらず、今一度掛け合ってみると言っていたのだが、その前にまず、自分がかつて監禁された収容所へ行ってみたいと思っていた。それはトレーニングというか、レースの前のウォーミング・アップとでも言おうか。

 雨の降るその日は、大船へと続く長く狭い道も滑りやすく、進んで行くと私は、未だそこにあった収容所を発見した。木でできた塀は、既に何者かによって持ち去られており、おそらく材木か燃料にでも使われたのだろう。そして2棟の捕虜棟は、畑にとって代わられていた。3棟目のそれは誰かに不法占拠されており、その内の一人が、あの「ミイラ」が新聞を読んだあずま屋で寝ており、あまりの多くの仲間達にさようなら、と言った共同墓地は、焼き払われていた。

 「東京エリア・日本、1945年8月31日。横須賀から大船へ向かう途中の村の写真。イギリス上陸軍が連合軍側元捕虜救助のため、大船収容所へ向かう。J・C・グッドチャイルド大尉撮影」

 オーストラリア戦争記念館より

https://www.awm.gov.au/collection/C200729

 「1951年の大船。『ミイラ』が座っている所を、ルーイーが朝刊を盗んだのは画像左の桜の木の下」「こんにち(※51年)の大船は、避難民の住処となっている。POWキャンプとして使われている時は、庭も灌木の類もなかった」フランク・ティンカー撮影。56年版より

 今では大船はリゾート地だそうだ。だがあの時の大船とは、痛みに満ちた記憶でしかない。

 その状況は、大森とてほぼ同じだった。ただし違ったのは、自ら運転する車であの人口島までの橋を渡った際、私は悲しみより大きな恐怖を感じたということだ。果たして自分がこの先に見つけるものは、爆弾倉に破滅を孕んだB-29の群れが、東京に驀進するのを見た時に覚えた、あの興奮なのだろうか?もしくはバードのあのいやらしいカエルのような顔と、私の頭に一撃を加えてくるバックルの衝撃なのだろうか?

 島はメチャクチャに荒れ果てていた。収容所の塀は消えていて、だが一度は人の排泄物でいっぱいになった、あの深い穴はそのまま残っていた。私は生い茂った雑草を掻き分けて進むと、朽ち果て行く捕虜棟の窓を覗き込み、かつて自らの伏した、あの2枚の板を探した。そこには3名の浮浪者が、今やこの場所を自らの住処とするのみならず、貧しさに苦しむ別の家族数組が、暖を取るため狭い所に縮こまっては、未だにそこに野放しで跋扈するスナノミを突いていた。

 進むと、時おり入浴が許された部屋を見つける。その見物人として、好奇心旺盛な若い女の調理係達が、自分達の裸体を指さしながらクスクス笑い、こちらの体についてあれはいいだの、これはダメだの言ったのを思い出す。

 壁に穴が幾つも空いた、あの納屋にも立った。ここではある捕虜が米を盗んだ廉で、足首まで雪に囲まれ数日に渡って震えているのを見た。加納のことを思い出す。あの親切な看守は夜になると、自分の命を危険に晒してまで、捕虜に毛布を持って行っていた。

 中庭をあてもなく歩いていると、記憶の波が強く早く押し寄せる。自分はもはや骨と皮になりながら、走ることを強要され、新聞を盗み、数々の殴打を受け、鬱々として過ごし、そこには死があり、そしてバードがいた。あの視線が何物も見逃すことはなく、歯を剥いて笑いながら、捕虜に向かって憤怒の矛先を、一人また一人と振り下ろす。あまりに生々しく甦るそれに、自分は胸が締め付けられる。あと少しすれば、私はかつての看守達と顔を合わせて対面するのだ。だが自分の相手を赦すという思いは、看守達それぞれと会うのが楽しみな程に、完全にして紛うことなき真の思いなのだ。自分が切望するのは彼らの目をしっかりと見て、

 「あなたを赦します」

 と口にするだけではない。史上最も偉大な赦しとは、イエス・キリストが十字架に架けられた際、その苦しみの頂点において自身を処刑する人間に向かい、

 「父よ、彼らを赦し給え、彼らは自身が行うことが何であるのか、知らずにいるのです」

 と仰られたことにあると、そう伝えることにあるのだ。

 私は大森から離れる際に、もう一度かつての収容所を見まわした。すると驚いたことに、湧き上がって自分を圧倒したのは、押し寄せる郷愁とも言うべき感情だった。自分はかつてここに住んでおり、ここは私の家だったのだ。かつての仲間達を恋しく思う気持ちが芽生え、しかも何ということだろう、そこにはかつての看守達でさえ含まれていた。

 バードはどうだろう?長い間、自分はバードのことを殺してやりたいと思っていた。だが今となり、自分の心に残ったのは、魂を失った渡邊のイメージだけだった。軍が自分を巣鴨へ入れてくれるなら、私はバードを見つけ、話をすることができるのかもしれない。私が自身を救ったのなら、彼のことをも救える可能性があるはずだ。

 私は本島へと繋がる橋を渡ると、そのまま過去にも背を向けた。もはや自分に残っているのは、最も困難な部分である、巣鴨という試練だけだった。

 今日の大森は、避難民の住処となっている。収容所として使われている時には、菜園や灌木の類はなかった。フランク・ティンカー撮影。56年版より

 巣鴨に入ることは、厳しく規制されていた。入場許可を得るのはほぼ不可能と言ってよく、収容者の肉親もしくは特別に入場に値する要件がない限り、あの木でできた塀の内側へと入ることは許されなかった。

 自分はそこで再び、GHQ付きの従軍牧師に電話を入れた。すると彼によれば唯一の可能性は、戦略航空軍団司令部のマッカーサー元帥に直接訴えることだそうだった。

 「それは少し、話がおかしくないですかね?」

 自分はそれにこう答えた。

 「そうかもしれないですけど、でも元帥は1万冊もの聖書と、2,500人もの宣教師を招聘した男ですよ。電話を入れたらいいでしょう」

 だが、マッカーサーのオフィスで自分を応対した男は、こちらには適当な断り口上しか言ってこず、私はこれに唯一にして最強の手札を切った。

 「自分が電話をしているのは、自分を幽閉した看守達がそこにいるからで、またマッカーサー元帥が2,500人もの宣教師と、1万冊もの聖書を頼まれたからです」

 自分はこの文句が相手に十分に伝わるよう、少し間をおいてから続けた。

 「確かに私はたった一人です。でも自分は既に現場にいて、中に入ることを切望しているんです」

 どうやらマッカーサーはその同じ部屋にいるらしく、するとその男は受話器を手で覆うと、彼に何やら話し出した。自分はそれを待ち、さらに待った。そしてやっと応対の彼が電話口に戻ると、こう言った。

 「了解しました。明日の午前10時です。巣鴨プリズンに行ってよろしい」

 

 それは寒く、陰鬱な朝だった。赤い字で、「SUGAMO」と上部に渡って書かれた、入り口のアーチの下に自分が立つと、頭の中ではゲートをくぐる前に、様々な想像が駆け巡った。中には誰がいるのだろう?ササキ?ウンコアタマ?イタチ野郎?河野?バード?

 巣鴨を監督する大佐は、こちらに温かい歓迎の意を伝えてくれた。

 「あなたの看守達はここにいますし、収容所を監督した人間もいます」

 彼はそう言うと、可能なら戦犯全員に話をして貰えると嬉しい、とスピーチを許可してくれ、遠慮しないで忌憚なく話すようにも言ってくれた。また巣鴨の収容状態についても少々説明があり、収容されているのは850名、全ての戦争犯罪人が一カ所に集められており、彼に言わせるとこれしか方法はなく、戦争犯罪法廷のため、東京の近くにいないといけないそうだった。

 「収容者は、自分達のリーダーを選挙で選ぶようになっていて、模擬社会として選出された人間が諸問題にあたるようになっているんです。食事は日本食になっていて、量もたっぷり与えられています。ここでは身体的な脅迫や罰則を執行したりはしません。彼ら戦犯がここで無くしたものと言ったら、自由と自尊心くらいなものです。でも彼らの多くは、それも月を追うごとに取り戻していますがね」

 ベルの音が鳴ると、それは集会の合図だった。自分は舞台に立つと、その前へ縦列で静かに入って来る男達を眺めていた。私も今や顔の肉付きが良くなり、齢もとってはいるが、こちらを見知った顔が自分に気づいたりしないだろうかと思う。しかしこちらにガッチリとスポットライトが当たっている状態では、向こうの顔をよく見ることができない。

 自分はいつものようにスピーチをしたが、そこには今までにはない程の自信を感じられた。話の内容が日本の捕虜収容所で、自身がどのように扱われたかというくだりになった際、頭によぎったのは、自らが過剰に怒って見えないよう、その感情と詳細については加減をした方がいいのではないか、ということだった。だが、私はそんなことはしなかった。さもなければ、自分の赦しの真の意味は欠けてしまうのだ。

 56年版より—1950年に、日本の連邦刑務所の収容者に語りかけるルイス・ザンペリーニ(最前列右側)と通訳(写真:レイモンド・プロヴォット・ジュニア)

 スピーチが終わると私は、聴衆の中でクリスチャンとなるものは、手を挙げるようにと言い、(※巣鴨では前に出てはいけなかった)これには6割程の人間が、高く手を挙げた。

 「言っておきますが、クリスチャンになっても刑期は短くなったりしませんよ。私は別に陸軍の関係者じゃありませんし、戦略航空軍団司令部の人間でもありません。そういった意味では、少しも役には立ちはしないんです」

 自分はこう説明すると、再び挙手を求めた。すると勘違いだったり、減刑に繋がると思って挙げてしまった幾人かは手を下げ、しかしそれ以外の多くの、新たな人生を模索する人達はそのまま留まった。

 すると担当の大佐が、

 「ルーイーの看守や収容所責任者だった人間は、お話があるとのことだから、希望者は前に出てよろしい」

 と言った。

 これに、該当する人間達は、ためらうことなく前に出て来た。遂に、この瞬間が来たのだ。私は舞台に残ったまま、座席の合間の通路を歩いてくる面々を見つめて待った。記憶の中の霞よりその顔が立ち現れる。ササキ、與倉提督、コンガ・ジョー、ウンコアタマ、イタチ野郎、調理番のハタ、加納、そしてその他の面々。忘れもしない一人一人を自分は認める。

 だが、バードはいなかった。

 私は思わず舞台から飛び降りると、彼らに向かって走り寄り、最初の看守の肩に腕をまわした。しかし彼はこの親愛の情に後ろに下がろうと身を引いた。思えば自分の思いは相手に伝わりはしなかったろう。私の示した親しみの表現は、日本の文化では馴染みのないものだったのだ。だがもっとも彼は、自分が親しみを持って彼を迎えるとは思いもよらなかったのだ。

 大佐は我々を小さな別室へと案内した。そこで私は救いについて、もう一度話を続けた。その中の数人はイエス・キリストを受け入れることを決意し、その他の人間は話を理解しなかったのか、もしくは私の提案に拒否の意を示し、中でも特にヤブ医者、つまり大船でビル・ハリスを手酷く殴打した衛生兵はそれを拒否し、彼は敬虔な仏教徒であり続けた。

 スピーチにおいて私は、自分達を同じ人間のように優しく扱ってくれた、加納のような看守のことを称賛していた。だがそれにも関わらず、彼は囚人としてこの部屋にいて、自分はなぜこんなことになっているのか理解に苦しんだ。そのことについて聞いてみると彼はこう説明した。元捕虜達がその思いやりある行為について、証明をする手紙を書いていたにも関わらず、サディスティックな河野と間違われ、数年の懲役刑を言い渡されていると言うのだ。そこで私は彼に、事態を何とかしようと約束した。

 私はまた、ジェームズ・ササキとも話した。彼はその日、クリスチャンとなることを決意していた。

 「一体どうやったらわざわざこんな所まで来て、自分達を赦すなんてことができるのか、自分には理解出来ないよ。だからこそ、キミの信仰心は本物なんだろう。でも自分にはよく分からない」

 「信仰する心は真正の物なんだ。キミだって信仰を続けていれば、いつかは分かる日が来る」

 自分もササキには、聞きたいことが山のようにあった。自分はなぜ14ヵ月もの間、重要人物を集めた尋問施設である大船に、重要でもないのに入れられたのだろう?

 「あれは準備期間だったんだよ。こちらとしては、キミを1年と1ヶ月、つまりそちらの政府が公式にキミの戦死を公表するまで隠しておくって、そう決めたんだ」

 「どうしてそんなに待つ必要があったんだ?」

 「不意打ちになるからだよ」

 「不意打ちって、何の?」

 「肉声によるラジオ放送だね」

 「だから自分が食料を大船で盗んで、死刑になってもおかしくない所を、地面に唾を吐くのを見るだけで懲罰が当たり前のイタチ野郎に捕まったのに、何のお咎めも無しで自分は助かったという訳か?」

 CBSドキュメントの一コマと、56年版より大船の看守のマグショット。「キタムラ」のキャプションには、「北村『コンガ・ジョー』後に死刑を言い渡されるも、1950年現在、未だに執行はされていない」とある。北村末得治は56年版でコンガ・ジョー、03年版ではヤブ医者とされ、この二人は同一人物なのか別人なのかハッキリしない。またイタチ野郎とウンコアタマが、本編03年版、つまり同一書籍の中で混同されているが、原文ママ。どの文献でも床屋代を踏み倒した看守と、アヒルのガガにとんでもないことをしたのは別人だが、ルーイーのキッチン潜入を捕まえたのかはそもそも本書で混同されているため、「アンブロークン」と8章の脚注でリンクを張った「オーサム・ストーリーズ」で見解が異なる。これらを持って本書の信憑性を主張する、〇〇ウヨの類は山のようにいるだろうが、しかしそれだけ収容所の体験が、記憶の配置が狂う程にトラウマティックだったことへの証左とも言える

 「そうだ。自分もそこは伏せておいた。そしてキミの待遇は可能な限り最悪なものにしたんだ。これは大森でも同じだったが、そうすればこちらがラジオ東京での生活を勧めた際に、協力が得られやすいということだよ」

 「それが渡邊に与えられた任務だったんだな?」

 「そうだ」

 「だが私は協力を拒んだ」

 「知ってるよ。だからキミは4-Bキャンプに送られたんだ」

 キャンプ4-B。酷寒にして地獄の収容所。頭の中では自分が到着したあの日、バードが自身のブーツの下で、ザラザラした雪を踏み砕く音が聞こえて来る。奴は自分と対面すると、あの歯を剥いた邪悪な笑いを浮かべる。もはや奴からは逃れられない、そう思うと膝がガクガクと震える。

 「渡邊はどうしたんだ?」

 私は食い下がった。

 「ここにいるのか?生きているのか?」

 生き残った捕虜達の証言を元に、バードはマッカーサー元帥の戦犯リストに、A級戦犯として最重要指名手配犯の、23番目に挙げられたそうだ。だから自分はここで聴衆の中に彼もいると期待していて、例えいなくとも軍事法廷にかけられ、処刑されたと聞かされると思っていたのだ。

 「行方不明だよ。奴の首には未だに2万5千ドル(※7千万円弱)の懸賞金が懸かってる。でも自分達は、奴は切腹したんだと考えてるよ」

 そう言うササキの口調はあっさりとしていた。

 護送されるA級戦犯とジェームズ・ササキのマグショット。A級とは平和に対する罪、分かりやすく言うと上層部に居て戦争を起こした罪で、B級は戦争犯罪、C級は人道に対する罪で、主に捕虜に対する虐待。つまりバードもササキも等級はC級に当たり、ABCは罪の重さではないのだが、日米問わず多くの人がこれを誤用しており、ここでもそれが見られる。とはいえまあ、バードの場合はそれくらいしないと割に合わない極悪人の意味で使われていて、そう言われると誰でも納得できてしまう!?

 だが自分としては、それを信じたくはなかった。渡邊は残虐で威張り散らす一方、その性格は臆病で、とても切腹などできないと自分には思えたのだ。これは戦争が終わってから、フランク・ティンカーとありうる話だと考えたことなのだが、渡邊は当時、ともかく士官になりたくて仕方がない男だった。だから彼は直江津を終戦の2日前に出るとそのまま朝鮮半島に逃げ、北朝鮮軍の士官にでもなって、それからそこで死んだのではないか?自分達はそんなことも考えた。

 だがいずれにせよ、自分が都合よく抱いた、淡い期待は潰えた。

 自分は心に赦しを持って日本に来たのだ。私はただその目を見て、バードの肩を抱き、

 「あなたを赦します」

 と言いたかった。しかし、おそらくは死んだであろうと言われても尚、彼は生前の時と同じように、未だ私を悩ませて止まないようだ。

 「私は自分を虜囚とした人間と対峙し、その全てを許した。だがその時、バードだけは行方不明となっていた。写真の右側が自分となる」—03年版より。一緒に写っているのは、56年版で同行が言及される宣教師、フレッド・ジャービスと思われる。與倉三四三(よくらさしぞう)については、56年版に「収容所の現場に長く居る人間ではなかったが、罪を犯した看守ではなく、人当たりのいい人だった」とある

アンカー ホント?

 私は巣鴨プリズンを後にした。加納にジェームズ・ササキ、そして與倉提督に、彼らが早くにそこを出られるよう、審理への働きかけを約束して。與倉提督は、

 「ルーイー、自分はキミ達の言う民主主義が信じられない。自分は何も悪いことはしていないが、25年の刑期を言い渡されたよ」

 と言っていたが、自分の知る限りでは、これは正しいと言わざるを得ない。この戦争裁判の期間に、我々の政府はこれらの日本人を弁護するため、一人の弁護士を雇った。彼は当初この仕事に乗り気ではなかったのだが、幾人かの被告人が裁判官達により、片っ端から時間優先で十分な証拠もないまま、囚人に刑期が性急に下るのを目の当たりにし、態度を改めた。彼は日本に留まると、未だに軍事法廷の記録と通じていて、それを私に見せてくれたのだ。與倉提督のケースでは、彼は親切で好感の持てる人だとされ、自分も彼とは大船と大森で接していたのだが、裁判の文字起こしを読んだ際に仰天することとなった。証拠は全ての告発に対し、彼が無実だと示しており、その次の最後から2ページ目の所では「無実」と書いてあり、それにも関わらず最後のページには「判決:禁固10年」とあり、全くもって意味が分からないのだ。

 そこで自分は、マッカーサー元帥に供述書を書いた。そこには與倉の判例履歴を読んだことと、また

 「あなたの名に於ける法廷において、彼はいかなる犯罪に対しても完全に無実だとされたにも関わらず、最後のページで彼は10年の刑を言い渡されています。これは明らかな間違いです。最後の2ページを読んで頂きたく、それから結論を出して頂きたいのです」

 と書いた。弁護士はこの手紙を、戦略航空軍団の司令部に届くよう手配してくれ、それから最終的に與倉提督は巣鴨プリズンから解放された。

 また自分は加納と河野は別人であることも書いた。河野はバードにへつらった、その右腕かつ嫌な野郎である一方、加納はいい人で、自らの身を危険に晒してまで、自分達を助けようとした、と。すると加納も釈放された。

 だが一方で唯一、ササキへの働きかけだけは奏功しなかった。私は自身が解放されて間もない頃に、ササキのために宣誓を書いていて、それで事は済んだと思っていた。そしてその後巣鴨で彼と会った際も、自分は同じくマッカーサーへ手紙を書き、またその後任である、マシュー・リッジウェイ大将にも書いた。

 「ササキ(と與倉)はいかなる意味合いにおいても、戦争犯罪者などではありません。これは私が個人的に知る範囲のみならず、自分と同じく収容されていた多くの隊員達、またその後に大船捕虜収容所に収容された捕虜達の知る所です。私は帰国して以来、幾人かの元捕虜達と会ってきましたが、この2人の日本人が今、刑務所で刑期を務めていると知った時、元捕虜全員が私と同じだけ驚き、衝撃を受けたのです」

 だがササキのための戦略航空軍団への働きかけは、その最初の段階に至ることすらなく、これは弁護士の試みにおいても同様だった。そしてこの理由は自分達には誰からも語られることはなく、「ハンサム・ハリー」は1952年に行われた、全戦犯を解放した一斉恩赦を待たねばならなかった。

 

 私がロサンゼルスに降り立った時、今回はどんな人達も自分を出迎えたりしなかったし、誰かがスピーチをすることも、セレモニーの類も無かった。自分はただ、妻と子の待つ家へと帰ったが、それは幸せな瞬間だった。自分はずっと神への奉仕をし、それは自らが想像した以上の成功を収めたかもしれないが、しかし自分は家族と会えないのが酷く辛かったのだ。また一つ気づいたのは、自分は紆余曲折を経て、遂に人生のスタートに立ち戻ったということだ。不良に始まり、陸上競技を始め、戦争に行き、虜囚として捕らえられ、酒に溺れ悪夢に苦しみ、富に執着して絶望し、不幸とは何かを知った。これら今までの人生の大きな部分は、体験談を語り続け布教に勤しむということ以外は、もう終焉を迎えていたのだ。私は自らに課された赦しの試練に、心の底から満足を覚えると、次なるものへと進もうと、大きな意欲に満ちていた。

 

 (※本人の手記等から、加納勇吉受刑者が巣鴨プリズンより釈放されたのは1946年3月28日であり、

①1950年の巣鴨プリズンにおいて加納勇吉がルイス・ザンペリーニと再会した

②またこの件についてルイス・ザンペリーニが宣誓書を書いた

 という、本書の記述は明らかに事実とは異なります。また56年版においてもその表記は03年版と異なり、加納勇吉とは巣鴨へ行く前に横浜で行われたクリスチャンの会合で既に解放された状態で再会した、とハッキリ記されております。また彼がクリスチャンだったという記録及び、渡邊睦裕に懸賞金が掛けられたとの記録は他に見られません。

 ちなみに同被告と混同された河野広明は直江津にて終身刑、ヤブ医者こと北村末得治は絞首刑、イタチ野郎こと小峰芳衛は刑期40年、ウンコアタマこと平林正二郎は刑期4年が言い渡されていますが、その後減刑も行われており、以上の受刑者には処刑は行われておらず、少なくとも1958年には全戦犯が解放されています)

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