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第7章 処刑島

 Execution Island

 2本のマストがついた船は、日本の巡視艇だった。オレ達はそれを見た時まずは救命ボートに伏せたのだが、しかし考えてみればすぐに陸へ上陸して身を隠す方が先決で、オレは自分達から一番近い島へと、必死になってオールを漕いだ。とはいえ自分の体でサッと進むような芸当ができるハズもなく、程なくしてオレ達は発見されてしまった。

 もう、終わりだった。

 巡視艇はゆっくりと進み、こちらから約30フィート(※9M)先の所を進む。甲板には乗組員が見え、刀とライフルで武装しており、一人はマシンガンの照準をこちらの方向に向けていた。フィルとオレは頭の上に手を弱々しく挙げると、突如として太平洋の上にポツンと漂流することが、これまでになく魅惑的なことに思えてきた。誰かが何かを日本語で叫び、しかしこちらには何のことか分からず、一人の乗組員がこっちに向かってロープを投げ、だがこれはこちらの手の届く範囲には落ちなかった。するとライフルがこちらに向かって構えられ、数人の男達が彼らのシャツのボタンを外すと、こちらにも同じことをするよう身振りで伝えてきた。もう終わりだ!奴らはこっちの胸を撃ち抜くつもりなのだ。オレはそう思うとシャツをはだけ、目を閉じ、来たるべきその瞬間を待った、が、何も起きない。目を開けると同じ男達が手を振っている。これにオレ達も手を振り返す。そこで判明したのだが、彼らはこちらが銃を隠しているのかを見たかっただけで、この絶望的かつ無力で骨と皮だけの2人は、今や恐れる必要など全くないことに彼らも気づいたのだ。この一連のやりとりはもはや滑稽ですらあり、鹵獲するならもっとマシな相手を期待していたやもしれない兵士達には、おそらく歯痒いのもいい所だったのかもしれない。

 そこから巡視艇は再びこちらの近くに寄せると、今回はロープを投げ入れられる距離にまで来て、オレ達を引き寄せた。それから彼らは手を伸ばしてきて、こちらを掴んで甲板に持ち上げる。甲板に接地した際、オレはこの2か月ぶりに味わう固い地面に踏ん張ってみたのだが、立つことなどできず、何とかして這うのがやっとだった。

 自分達が引き上げられると、救命ボートの方も乗組員の一人が海から引き上げ甲板に投げ込んだ。それはもうボロボロもいい所で、黄色のゴムの部分などガムのようにぐちゃぐちゃで、もう弾け飛ぶ寸前だった。フィルとオレはあと2週間程は生き長らえたのかもしれないが、ボートはあと2日が限界だったろう。

 そんな状態だったから、日本軍も別にこちらを警戒することなど何もなかったろうに、オレ達をマストに縛り付けた。そしてデカい男が出てくると、自身の権威を見せつけたかったのか、もしくはただ自分の怒りをぶつけたかっただけなのか、フィルの横っ面をピストルで殴りつけた。ともなれば次はオレの番だ。しかし頭の冴えていた自分には秘策があった。頭を前に出しておいて、男がピストルを振りぬく瞬間に、さっと頭を引いたのだ。ピストルは空を切り、しかし勢い余ってオレは後頭部をしたたかにマストにぶつけ、意識が朦朧とすると気を失いかけた。これには敵側も十分に満足したようで、その振る舞いも野卑な物ではなくなった。誰かがオレ達に水と数枚の乾パンをくれ、オレはそれを猛烈な飢餓感を感じながらも少しずつ食べ、敵の前で自制を失わないように努めた。

 

 2時間後、巡視艇はウォッジェ環礁に錨を降ろした。これはまさに自分が予想した通りマーシャル諸島の島の一つで、となると自分達は実に約2,000マイル(3,200キロ)もの距離を漂流して生き延びてきた訳で、これは自分でも仰天せずにはいられなかった。

 そこから自分達は目隠しをされた状態ではしけ舟に乗せられ、陸へと向かった。金属製のはしけの底をサンゴが擦ると、上陸するのが分かる。兵士の一人がオレを肩越しに投げ、もう一人がフィルを運んだ。彼らはオレ達をトラックに投げ入れると、前哨に向け車を走らせた。到着すると計りに乗せられる。「30キロ」と言われても、オレには何のことやらピンとこなかったが、しかし後になってそれはほぼ67ポンドしかないことが分かり、自分はその時の体重の1.3倍以上である、ほぼ100ポンド近くを(※45キロ)海上で失っていたのだ。

 ウォッジェでは、フィルとオレは親切な日本人医師にいい扱いをして貰えた。食料と水を貰え、これをゆっくり噛んで食べることで、何とか吐かずにすんだ。日本人士官の数人は英語を話し、一体何が起きたのかを聞いて来た。

 「自分達は自軍の圏内海域で救助ミッションを行っていて、エンジン・トラブルから海に墜落して・・・」

 それから程なく会話は別の話題に移り、オレがどこの大学に行ったとか、アスリートとしてのキャリアの話になった。この自分達の捕獲者にして救助を行った彼らの興味を大いに引いた点は、オレ達がかくなる状況にも関わらず生き残ったということで、こちらの話を聞くその姿は明確に同情を示しており、その態度は全く敵らしくなかった。また、こちらの意識がハッキリしていることも日本人達を驚かせた。彼らはこちらを、精神が錯乱してしまいロクに物を考えられない、生ける屍のようなものだと思っていたのかもしれないが、しかしボロボロになっていたのは肉体のみで、自分達の理性は決して壊れてなどいなかった。

 それからオレ達の財布を没収して容器に入れた後、兵士の一人が救命ボートにあった48個の弾痕を数えた。するとぞろぞろと兵士が集まり出し、その損傷について調べだすと、弾痕がこれだけゴムの部分にあるのに、オレ達が無傷であることを不思議がった。そこでオレは言った。

 「漂流27日目に、そちらのパイロットの一人がオレ達に機銃掃射をかけたんだ。あれはサリー・ボンバー(※97式重爆撃機)だったぞ」

 すると彼らは、

 「そんなまさか、日本人はそんなことはしないぞ」

 と言いうので、オレはボートを指して

 「だってそこに穴があるだろう」

 と言った。だがそれでも彼らは信じようとはしなかった。

 その2日後、フィルとオレは商用船に乗せられた。分隊長は

 「お前たちはクワジェリンと呼ばれる島へ移送される。だが・・・」

 とまで言うと、その先を不吉な言い方で続けた。

 「オレは船を離れた後の、お前たちの命の保証はできん」

 真西に向けての航行はおよそ24時間もかかり、そこでも扱いはよかった。船長は何度かこちらに来ては、ほぼ完全な英語で、自分が何度もシアトルを訪れていたこと、世界の商品を扱う海商としてのそれまでの人生が、いかに楽しいものであったのかを語り、さらにはなぜ日本が戦争をしなければならないのかを正当化しようともした。彼が言う所によれば、日本という国は貧しいにも関わらず人口が多過ぎ、我々人類は全て同じ世界の仕組みの一部であるが故、彼らはもっと領土を得る資格があると言うのだ。

 クワジェリンに近づくにつれ、彼らはこちらに米やスープ、大根を気前よく持って来てくれ、オレの食欲は既に復活していたのだが、しかしこれが仇となった。もはや死にたい程に気分が悪くなったのだ。これに2人の乗組員が自分を甲板に連れて行き、そこには手すりがなかったので、オレは2人に抱えられたまま吐いた。嘔吐をしながらすぐ目の前の、30~40フィート(※9~12M)ほど下に広がる海を覗いては思う。いっそこのまま、2人が手を放してくれたらいいのに、と。

 

 クワジェリンに着くと、オレは再び目隠しをされ、まるで小麦を入れた麻袋のように陸へと輸送された。そこでは4人の兵士がオレとフィルを砂浜まで運び、トラックの荷台へと投げ込むと、ある建物まで行き、そこの独房にオレ達をそれぞれ投げ込んだ。尻餅をついたまま地面を滑ると、背中が壁にぶつかる。目隠しを外してみると、そこに広がる非現実感に、オレの脳と目はソワソワとしだした。ほぼ2か月もの間、広大に開かれた空と無限に広がる海に浮遊していた後に、自分が犬小屋のような小部屋に閉じ込められているのだ。自分にはすぐに強い閉所恐怖症が込み上げ、思わず叫びたくなった。だが体はあまりにも弱りすぎていて、叫ぶことすら叶わず代わりに横になると、自分は我が身を見つめた。たった6週間前に、自分は1マイルを4分ちょっとで走る、強健なアスリートであったにも関わらず、今や肉を失った骨でしかない。今までの人生では、困難にブチ当たった際も感情を厳しく抑制していた自分だが、もはやその範疇などではなかった。

 オレは感情のコントロールを失うと、その場に泣き崩れた。

 

 拘置所の建物には、木製の独房が片側3つずつ、計6つあった。それぞれ長さが6フィート(※1.8M)、高さ6フィート、幅30インチ(※76センチ)程で、後ろの壁には空気穴のスリットがあり、ハエでびっしりと覆われていた。熱帯の建物はだいたいモンスーン時の洪水を避けるため、数フィートほど地面から上に上がった高床式になっていて、床下からはかすかに風が抜けるようになっていた。しかし窓がなく、その暑さはもはや耐えがたいもので、しかも蚊が至る所にブンブンと羽音を鳴らしていた。トイレは床に切られた直径6インチの穴から(※15.2センチ)、その下の缶に向かってするのだが、そこを覗き込むと缶はその半分に至るまで、蠢く蛆虫で一杯だった。さらに最悪だったのは、寝る際は頭を穴の横、足をドアの近く、と看守達が指定してきたことだ。

 食事は頑丈な木製の扉についた、8インチ(※20センチ)程の細長い穴から、看守達が押し込んできた。食欲をそそるようなものではなく、貰えた物と言えば魚の頭や大根の煮た物といった類で、兵士達の残飯でなきゃあ豚のエサ以外の何物でもなかった。さらに奴らは時折、生ごみのバケツに手を突っ込むとコメの塊をゴルフボール大に押し固め、こっちに向かって投げつけて来た。こうなると通常、こちらは1時間から2時間の間、薄暗い独房の汚れた床を這い回っては、米の粒を最後の一粒に至るまで探す羽目となり、この様子に看守達は声を上げて喜んだ。そしてこんな状況で、こちらは米に混じった砂を口から吐かなければならなかった。

 配給は全くもって最悪で、食べれば絶えず下痢に悩まされ、それは粘液便となって垂れ流しになった。するとそれにハエがたかっては卵を産む。時にはその症状があまりに酷く、オレは夜に独房の片隅に丸くなると、剥き出しの下半身を穴の上に持ってきてそのまま垂れ流した。これは収まってきたなと思うとその5分後には再びぶり返し、自分は眠ることさえできなかった。

 ほとんどの人は、捕虜になるとどれだけ酷いことになりうるのか、決して理解などしない。なぜならそれは生き延びた側とて、そんな不快な体験の詳細を、誰も晩餐会のスピーチで率直に話す訳がないからだ。

 フィルは独房の2つ先に収容されていたが、その唸り声からこちらと同じ目に遭っているのが分かった。しかし看守達はオレ達が話すのを許さず、少しでもコミュニケーションを試みれば、即座に蹴られるか、鋭利な棒で突きを入れられた。だが別にそんなことはせずとも、オレ達は日常的に殴られては打たれた。

 自分の新たなる生活とは、決して人の生活と呼べるようなものではなく、こんなことなら飢え死にさせられるか、再び救命ボートで海の彼方へ送り出された方がよっぽどマシだった。少なくともそうやって死んだ方が、幾らかでも尊厳が保てるというものだ。

 

 またオレは自分の独房の壁に、簡素なメッセージが彫られているのを見つけた。「1942年8月18日、マキン島に取り残された9名の海兵隊員」とあり、それぞれの名前が続く。この話と日付のことは、自分もよく知ることだった。

 (※オレ達がウォッジェに漂着した時から遡ること、約一年前の1942年8月、)2艇のアメリカの潜水艦が、深夜にマキン島に奇襲をかけた。この襲撃隊を率いるのは海兵隊のカールソン中佐で、副官はジェームズ・ルーズベルト(※フランクリン・ルーズベルト大統領の長男)だった。彼らはゴムボートで危険なサンゴ礁を渡り、密かに上陸すると入江の船を一艘沈め、島の日本兵をほぼ全滅させた。この作戦の目的はマキン島の占領ではなく、日本軍の士気を挫き逆にアメリカ軍を鼓舞するものだった。だが後から考えれば、これは失敗だったのかもしれない。日本軍は島を10倍以上に再度要塞化してしまい、次なる上陸がより困難になってしまったからだ。

 戦闘によりアメリカ側は16名の海兵隊員が戦死し、指揮官のカールソンは島を離れる際、現地人の族長に「ここに50ドル(※9万2千円)あるから、海兵隊員達を埋葬して貰えないだろうか?」と言ったという。

 ところが予定された退避時間となっても、9名の海兵隊員が上陸地点に現れようとはせず、無事に潜水艦に到着することはなかった。これに2艇の潜水艦は、9名の仲間も戦死したものと思ったのか、時間通りに島から退避をしていた。

 だがこの海兵隊員9名は日本軍に捕らえられ、クワジェリンに幽閉されていたのだ。そして少なくともその内の一人は、今この自分がいるこの独房で生き続け、後に続く人間に向け己が足跡(※そくせき)を壁に彫っていたのだ。

 オレは彼らの名の下に自分の名前も彫りつけると、自分の到着日も添えた。

 

 またクワジェリンに来て初日のいつ頃だったか、島の地元民が一人、独房のドアの穴から顔を出すと、驚いたことに流暢な英語で話しかけて来た。

 「あなた、ルイス・ザンペリーニですよね、USCのスター選手の?」

 「何だって!?」

 自分は我が耳を疑った。

 「だからあなたは、ルー・ザンペリーニでしょ?アスリートで、オリンピアン、USCの」

 「そうだ」

 答えながら頭が混乱する。自分が今いるここは、本土より遥か彼方の南洋の孤島のはずで、そこでも自分は知られているようだ。だがこれは驚くほどのことではなかった。当時はラジオや新聞、ニュース映画によって、国際的なスポーツ選手は映画スター並みに人気があったのだ。

 その男は、というのも彼の名前を聞く機会を、自分は遂に得ることがなかったのだが、彼は日本軍のために働き、おそらく人夫のようなことをしていたのだろう、自分はトロージャンズのファンだと言い(※USCのアメフトチーム)、さらにはこちらに向かってオレの陸上の記録を言ってみせた。

 「USCのスポーツは全部チェックしてるんだよ」

 彼はアメフトの選手なら名前を全て知っており、のみならずスコアも全部知っていた。そこでオレ達はローズボールについて、(※毎年元日に行われる大学の大会)さらにはオリンピックについてすら語り合うと、彼の知識は自分より豊富だった。その後に彼は、

 「そろそろ時間だね。会えて嬉しかったよ」

 と言ったが、自分はこれに食い下がった。

 「ちょっと待ってくれ。その前に9名の海兵隊員がどうなったのか、教えてくれないか?」

 「彼らは全員、処刑されたよ」

 彼は肩をすくめながらそう言った。

 「サムライ・ソードで首を刎ねられたんだよ」

 そう言うと少しの間、黙りこむとこちらの反応を伺い、それから言い澱んでいた部分を吐き出すように言った。

 「クワジェリンに来た人間は全員、こうなるんだよ」

 これは後から知ったのだが、自分の独房に名前のあった9名の海兵隊員は、1942年の10月に日本本土の捕虜収容所へ送られるべく、この移送を待っていたそうなのだ。ところがクワジェリンの前司令官、小原義雄大佐は、海兵隊員を全員処刑せよという命令を、マーシャル諸島の基地全域の司令官であった副提督、阿部孝壮中将により受けたと主張。阿部はこの命令を、書面にてトラック島から受けたと言い、命令の発信源は日本の中央司令部だと主張した。しかしこの主張が裏付けられることは決してなく、また1942年にクワジェリンにいた中央司令部の岡田司令官が、阿部に対して

 「これより捕虜達を日本へ移送する必要はない。彼らは現地で処断することになる」

 と述べたとも言った。

(※いずれも戦後法廷、東京裁判での供述と合致した内容。阿部孝壮はこれにより絞首刑。小原義雄は懲役10年)

 オレは自らがいずれは処刑される身だと知った瞬間、目の前が真っ暗になり、あまりのことに頭によぎったのは、もうどうにでもなれという思いだった。

 

 そんな中、看守達はフィルとオレを毎日のように挑発してはあざけった。棒でつつき、唾を吐きかけ、顔に向かって熱い茶をかける。時にはこちらに歌って踊ることを強制し、バカにして蔑んだ。こちらがそんなことはできようもなかろうがお構いなしにだ。だが中でも一番嫌だったのは、看守達が自分達の喉に向かい、突き出した親指を引いて見せたり、平手で喉仏を引きながら音を出して、オレ達の逃れられぬ運命を殊更に演じて見せたことだ。

 自分は生きていたかったし、生きたいと願っていた。しかし救命ボートの上で感じていた、生き延びられると信じたあの心は、今や脆くも潰えてしまった。自分は自らの死が定まったと思うが故に、毎朝起きる度に、今日こそ、今日こそはその日ではないかと思った。奴らは自分の骨を一体どこへやるのだろう?自分には何ができるのか?自分には相手がその決行の瞬間を決めるまで、ただただ待つしかなかった。

 

 クワジェリンに来て2日目、看守達はオレを尋問用の施設に連れて行った。その時はこちらを弱らせるため、まだ食料も与えられておらず、途中、陰鬱な面持ちの2人の若い女の子の前を通り過ぎ、その存在は戦闘地帯にあまりにもそぐわなかった。彼女達は所在なげに足を動かし、じっと下を向いていた。

 オレは広い部屋に押し込まれると、6人の貫禄があるように見える日本軍将校達の前に引き出された。お偉方の皆さんは、金の組み紐をあしらった白の制服の上に勲章をつけ、白いテーブルの前にまるでこの星の王族であるかのように座っている。看守の一人がオレに士官達に対面して座るよう、しかし十分に距離をとり、この不潔な身なりと悪臭が不快とならないようにと言った。テーブルの上にはビスケットに焼き菓子、飲み物が埋め尽くす中、士官達はそれぞれシレーっとタバコに火をつけると、こちらに向かって煙を吐く。向こうの戦略は、こちらを誘惑して尋問内容を吐かせようという手口なのは明白だった。

 これから何を期待すべきかも分からないが、オレは覚悟を決めた。そしてその最初の質問は、予想だにしないものだった。

 「ザンペリーニ中尉。キミの所のシマには、軍人を慰安するオンナは、一体どれ位いるんだ?」
 何だコレは?まず最初のウォームアップが、女についてか?それがこの、横柄で鼻持ちならない奴らが本気で知りたいネタなのか?オレはムカつく思いは自制して、話を合わせてやることにした。

 「そんな人達はいませんね」

 「じゃ、どうやってオトコは満足を得るんだ?」

 「彼らは意志の力で、家に帰るその時まで待ってるんです」

 オレがこう言うと尋問者はクッと嗤い、オレのことをバカか嘘つきのどちらかだと思ったのだろう。相手は満足げに続ける。

 「日本は全ての島にオンナを派遣して、オトコを満足させているぞ」

 自分が見たあの2人の若い女の子達は、彼女達の意志に反し明らかに徴用されていたのだ。それなら意味が通じる。そして雑談は終わり、尋問団は本題へと入っていった。

 「オマエが乗っていたB-24のモデルは何だ?」

 一人がぞんざいな態度で聞いてきた。既に数機、向こうがこちらの墜落機を得ていたのを知っていたので、「B-24D」と言ってもこれは別に大したことではなかった。それにD型のグリーンホーネットは借りた機体で、オレ達の常用モデルはB-24Fだった。

 すると彼らはB-24Eの写真を出し、

 「この機体にレーダーはどこについているんだ?絵を描いてみろ」

 と聞いて来た。しかしこれも鎌をかけているのは明らかだった。彼らは既にそのEモデルも入手しており、答えを知っていたからだ。向こうが本当に知りたい質問は、その次に飛んできた。

 「それで、どうやってレーダーは操作するんだ?」

 「知りませんね。無線士と機関兵の仕事なんで」

 実際には知っていたが、しかし自分はこう言ってかわすことにした。彼らはこれが気に入らず、オレはお菓子も飲み物もタバコも貰えないまま、独房へと戻った。

 

 新しい看守の一人は、オレの名前を聞いてきたので、「ルーイー・ザンペリーニ」とオレは教えた。

 「ゥルー・ザンペリーニ、か?」

 「違う違う。単にルーイー、ザンペリーニ」

 彼にはLが早口言葉のように言いずらく、「か」というのは引用符なのだ。(※ママ。実際は引用符ではなく疑問符)

 また別の看守はこう言った。

 「オハイオ」

 そこでオレは「カリフォルニア」と応えた。自分とてこれが「おはよう」の意味であることぐらいは知っていた。だが、だからといって相手の要望に応えてやる必要など、一体どこにあるというのだろう?

 

 壁に刻まれた海兵隊員達の名前を、オレは何度もじっと見つめては時間を過ごした。それぞれの名前を頭に刻み込み、連合軍の情報部に証言をせねばならない時に備えたのだ。そしてそれがささやかながらも、自分が希望を保つ術だった。彼らを同房と思って考えを巡らせる。毎日、壁の中から一人を選んでは、その個人の人生について想像するのだ。彼の外見はどんなであったろう?出身は?彼女はいたのだろうか?結婚は?子どもは?彼の家族は彼の死亡通知を、どのように受けとめるのだろう?さらには最後の瞬間に日本刀がサッと一閃し、頭がゴロンと転がる中、海兵隊員達一人一人の恐怖や感情、決意についてじっと考えてみる。彼はその亡骸を、この島に埋められたのだろうか?もしくは海へと持ち出された?そしてあとどれくらいで、自分は彼らと一緒になるのだろう?

 

 ある朝、騒がしい音と共に多くの声が聞こえた。すると突然兵士達が、オレの独房のドアの前に列を作った。遂にこの時が来たのだろうか?これが自分の人生、最後の日となるのだろうか?だがそれは幸か不幸か、違った。彼らは潜水艦の乗組員達で、給油と補給、上陸休暇で立ち寄っていたのだ。潜水艦の中では敵兵を実際に見ることはない。そこにちょうど捕虜が2人、補給先の島にいる訳だ。彼らがそれを知ってイキリ立つのも無理はない。おそらく80名くらいだったろうか、男達がまるで映画館のお客のように並んだ。映画の本編はフィルとオレだ。水兵たちは一人一人、こちらを通り過ぎる度に罵声を浴びせ、唾を吐き石を投げ棒で突き、オレ達をまるで檻の動物のように扱った。オレは既に自分が人生でも最悪な状態だと思っていたが、しかしこの人間性の否定と苦痛で、さらにその上があることを嫌と言う程に叩き込まれた。

 

 次の日、オレは再び尋問室に連れて行かれた。そこでは全員が談笑し、歯を出しニヤニヤと笑っていた。こちらはまだ、やりたい放題にやられたばかりで、顔には血がべっとりと付いたままだった。今思えばその場を仕切っていた将校達は、これを巧みで戦略的だとでも考えたのだろう。潜水艦の乗組員がオレ達にヤキを入れた後なら、こちらの心も折れているだろうという算段だ。

 ここで新たに出てきた尋問の核心は、オアフ島の空軍基地の位置と数だった。日本人達はデカい地図を広げると、基地の位置を記して、それぞれに配置された航空機の型と数を書くように言ってきた。そこには既に真珠湾攻撃の際の偵察情報を元に、大規模な基地の位置には丸がされていた。

 ここでもまた、協力の見返りは食料と飲み物と思われた。オレの顔と体は、もはやボロボロだったかもしれない。だが頭の中は冴えており、この横柄で偉そうな野郎共を逆に騙してやれるのではないかと思った。

 実は太平洋戦線におけるアメリカ側の戦術の一環で、偽の空軍基地を造るというものがあり、既に3つは建設を終えており、これは実際に自分の目でも確かめていた。偽の滑走路に精巧に塗られた張りぼての戦闘機が、見た目は本物のP-51やB-24に見えるのだが、その実はベニヤと棒きれでできた偽物なのだ。オレは最初は質問をはぐらかし、答えたくないかのように見せかけ、彼らはこちらに執拗に尋問を繰り返し、オレも向こうの嫌がらせをさせるがままに任せた。こちらが何を言おうと、向こうの不利益にしかならない。奴らが再びハワイを爆撃しようとも、それは偽物でしかないのだ。

 オレはこの猿芝居を続け、最後に仕掛けた。

 「そのつまり、ああ・・・」

 こう言うと、彼らはこちらを仕留めたと感じたようだった。そこで相手がもう少し威圧をかけてきた際に、相手に屈するように見せ、

 「分かった、分かった、ここに一つある」

 と言い、地図上にそれぞれ地点を指し示した。

 「ここに一つと、そっち、あとはここだ」

 すると彼らはやったぞ!という感じになると、遂にこいつを吐かせたぞと言わんばかりに、お互いの顔を見合わせた。

 だが、勝ったのはオレだった。この大学も出たであろう男達を騙した上に、ビスケット一枚とおまけにソーダを小さなグラスに一杯貰ってやった。だがもっと重要だったのは、自分が海の上で気が触れたりしていないことを、自身に証明して見せたことだ。

 尋問団は満足したようで、オレを下がらせた。だが将校の一人は、オレがその場を去る前に、こちらへのマウンティングを忘れなかった。

 「ところでザンペリーニ君。キミは陸上の大スター選手かもしれないが、任務中に行方不明じゃあ、さぞかし注目されてるだろうねえ。言っておきたいんだが、キミがUSC入学した1936年に、こちらは卒業してるんだ」

 オレは心の中で相手を嘲りながら、丁重にお辞儀をくれてやった。

 

 1週間後、新しい看守が一人、任務に就いた。彼はこちらにドアの所まで来るように合図をすると、小声でこちらに「ユー・クリスチャン?」と聞いて来た。これにオレは気怠く頷いて答え、心中ではこれから起こるであろう最悪の事態を思った。すると相手は笑顔になり、こう繰り返した。

 「ユー・クリスチャン。ミー・クリスチャン!」

 彼の名前はカワムラと言い、彼は一握りの米と、自身のべっこう飴の配給をくれた。

 カワムラの英語は酷いものだったが、しかしオレは向こうがカナダの宣教師について話しているのは、何とか理解はできた。また、彼がアメリカ人は全員キリスト教徒だと思っているのも分かった。だが次の日、別の新たな看守が来ると、こちらを棒で突いて遊びだし、オレの顔から流血するまでこれが続いた。それから次にカワムラの当番が始まった時に、こちらにその血はどうしたのか?と聞いて来た。これにオレは賭けてみることにし、誰がこんなことをしたのかを話してみた。カワムラはこれに拳を握って怒ったが、しかしこちらは別に大して気にも留めなかった。だって結局の所オレは、彼らの敵なのだから。

 それから3日間の間は、どちらの看守も顔を見せなかった。だがカワムラが戻ってきた時、彼は独房のドアを開けると、もう一人の看守が50ヤード(45M)ほど先にいるのを指し示した。頭が包帯で巻いてあり、カワムラがこれをやったのが察せられた。もし彼のこの親切心がなければ、オレは日本軍によるこの「救助」を生き延びなかったのかもしれない。

 

 ある朝、看守達はフィルとオレを医務室の入り口に連れて行き、横になるよう言った。すると2人の医者が現れ、こちらに水にインクを溶かしたような液体を注射し、一人が

 「めまいがしたら言うように」

 と言うとメモを取り始め、もう一人はストップウォッチを持った。

 その注射の効果が表れるのには、5秒と掛からなかった。方向感覚がなくなり、吐き気を催すと、赤くかゆみを伴う発疹がサーっと現れたのだ。彼らがもう一度注射をしていたら、自分は意識を失っていただろう。だがそうはならずオレは独房へと戻り、しかしただでさえいつも不快になる独房での数々に加え、自分の体は夜通しに渡り、焼けるように熱かった。

 奴らはその次の日もこの実験を繰り返し、フィルとオレは、それからすぐデング熱に罹った。

 デング熱は熱帯と亜熱帯地方の蚊が媒介する、4種類の関連ウイルスの1つによって引き起こされる。潜伏期間は短く高熱を発し、強烈な頭痛、関節痛と筋肉痛、吐き気、嘔吐、さらには発疹が出る。病気は最大10日で収まるが、完全に治癒するには2~4週間程かかる時もある。その後、特定のウイルスに対する免疫はできるが、それは残りの3つには部分的にしか効力を持たない。またデング熱は往々にして、インフルエンザ、麻疹、マラリア、腸チフス、猩紅熱といった他の感染症と誤診されることが多い。

 幸いなことに、ほとんどのデング熱では死に至ることはまれで、しかしどう見ても幸いなどとは言えなかったのは、罹るとあまりの苦しみで、死んだ方がマシだと思った事だ。

 その苦しみは特に最初の週に激しく、既にオレは精神的にも肉体的にも感情的にも、もうメチャクチャだったが、発熱はそれをさらに悪化させた。それにも関わらず、これには一種の小さな恩恵があった。時間や位置間隔の意識を失い、時が経つのを早く感じるようになり、首を刎ねられることへの恐怖に耐性がついたのだ。そう、自分は死ぬのだ。すぐにしろ後にしろ。受け入れるより他はない。それはまるで、男がいきなり一人現れて、「オマエの頭を撃ち抜くぞ」と言ってきたのに、「だったらやってみろよ」と言い返すような感じだった。

 熱は3~4週間も続き、その間に新たな潜水艦が到着すると、自分達はその乗組員達による前回以上の残忍な扱いにも、再びにして耐えねばならなかった。だが今回は自分はそれを、前回ほど意識したり気にすることもないようだった。

 

 フィルとオレが捕虜となり、互いにその最後を毎日のように案じ、そんな日々がほぼ40日も経った頃。士官将校達は、オレを次なる尋問に呼んだ。彼らはハワイを通して太平洋に送り出された船や兵数、航空機の数を知りたがった。向こうとしては、今回こそオレが限界を迎えて屈すると考えたのだろうが、しかしこちらからすればもうウンザリという所だった。

 「ここへ来てもう40日になりますし、それ以上の日数を救命ボートの上で過ごしています。それで一体、自分が何を知っていると?こちらはもう時代遅れもいい所で、最後に本隊基地を離れた次の日には、自分の情報なんてもう古いというレベルです。何が知りたいにせよ、既にそちらは知っているでしょうし、これ以上のことは何も言えませんよ」

 その日はクッキーは貰えなかった。

 

 42日目、看守達がオレ達の独房エリアの外に集まると、低い声で話し出した。すると突然、一人の将校が入ってきて言った。

 「オマエ達は明日・・・」

 その瞬間、オレは息を止めた。

 「船に乗ってトラック島へ行く。それからそこより、横浜の捕虜収容所へ行く」

 何ということだろう。オレ達はこの試練を生き抜いたのだ。

 

 だが一体、何が彼らの気を変えさせたのだろう?有名なアスリートでオリンピアンの命は助けておいた方が、みだりに殺してしまうよりいいと考えたのだろうか?しかしその理由は?オレに温情を示すことが、大義名分になるとでも考えたのだろうか?だとしても全く意味が通じない。

 だがその根拠が何であれ、こちらに異存はなかった。ある訳がない。公的な戦時捕虜であるなら、自分は国際法に基づく司法の下にあるのだ。それが大日本帝国のような国の下、一体どのようになるのかは自分とて確証もないが、しかし最低でも、オレ達にマトモな食事と寝床は用意しなければならないはずだ。自分はそう考えた。

 フィルとオレは一隻の船へと乗せられると、クワジェリンを後にした。それは日本軍の船団の一つで、真西に向け、キャロライン諸島のトラック島へと向かった。そこでは約1週間を港で過ごし、その時トイレに行く際は、必ず窓の外を見て船の数を数えた。もしも仮に脱出に成功したら、この巨大な日本の海軍基地の情報を、少なくとも幾ばくかは持ち帰りたいと考えたのだ。

 (6ヶ月後の1944年2月17日の朝6時、ヘイルストーン作戦(※あられ)により、連合軍であるアメリカがトラック環礁の日本の海軍艦隊と空軍機団を攻撃した。70機以上の飛行機と、40隻以上の船が破壊され、何百もの命が失われたが、この襲撃は大戦の勝利に大いに貢献した。今ではトラック環礁は、海底に沈んだ飛行機や船の残骸と、そこを住処とする色とりどりのサンゴや海の生き物で、多くのダイバーの聖地になっている)

 ヘイルストーン作戦時の写真と、今もトラック環礁の海中に眠る「ゴースト・フリート」

https://www.atlasobscura.com/places/ghost-fleet-of-truk-lagoon

https://www.awesomestories.com/pdf/make/140342

 ​捕虜登録:クワジェリンは前哨の監獄であって、捕虜登録前に処刑されてしまえば戦死扱いにしかならない。しかしひとたび本国で捕虜登録されれば、ジュネーブ条約の下に入るだろうということ。赤十字の慰問品が貰え手紙のやりとりが可能になり、場合によっては捕虜交換などでの帰国もなくはなかった。実際、ロバート・マーティンデールは前哨の監獄から大森に移送され、動物から人間の扱いになった、と記録している。

 それからトラック島を後にし、再び横浜への航路上、船上の我が案内役達は、敵と面と向かって対峙しているというこの興奮を、再びにして抑えられなくなってしまった。彼らはオレの財布を引っ掻き回すと、オレが陸上のユニフォームを着て、ウェイク島を爆撃する飛行機を背景にしたイラストを発見してしまった。タイトルも「軍役中のスター達」という、この戦争協力を呼び掛ける愛国広告は、オレがこの襲撃へ参加したことを伝えていた。広告の下には大きな文字で「彼らは命を捧げる ーあなたは資金を国債へ。第二次戦時国債の購入を」と書いてあった。そしてフィルとオレが一緒に使っていた船室に5~6人の水兵達が雪崩れ込んで来た時に、自分は気がついた。どうやらオレ達のクリスマス・イブの攻撃は、この船の乗組員の仲間を数多く戦死させていたようだ。

 「戦争に勝つのはどっちだ?」

 彼らはこう叫び、こちらも負けてはいなかった。

 「アメリカだ」

 そう言うだけで、未だ骨と皮だけのこちらを、向こうがボコボコに殴り倒すには充分で、オレはさらに鼻を折られると、これを自分で元の位置に戻さねばならなかった。それからようやくにして一人の将校が入って来るとこの喧嘩を止め、全員をその場から下がらせた。彼はオレを上の階にある将校用の船室に連れて行くと、そこは上等な船室になっていて、自分は残りの船旅では、そこにあったクッションの入った長椅子で寝た。

 この切り抜きは、救命ボートでの漂流中もずっと、ルーイーの財布に入っていたもので、財布の染料で紫色に染まっていた

「アンブロークン」より

 それからほとんどの時間はその船室で、一人で過ごした。時たま一人の年のいった水兵が入ってきて、こちらの頭をコツンと叩いた。彼はちょっと変わった面白い男で、

 「ビスケット一枚で頭叩く?」

 と言ってくるので、こちらも

 「はいどうぞ」

 と返す。ビスケットが一枚貰えるなら、思いのままに叩いて貰ってもいいというものだ。一度叩くとビスケットをくれて、彼は帰る。一日おきにこれがあり、こちらはたくさん食べることができ、向こうもこれでスッキリするようだった。

 

 横浜に行く途中、一度潜水艦の襲撃騒ぎがあった。警告音が船に鳴り響き、オレは突如恐ろしくなり、頭の中ではもう自分もこれで終わりだ、という思いが渦を巻いた。こちらの海軍がすぐそこにいて、これからジャップ共に目にもの見せてくれるというのに、標的の中には自分もいるのだ。散々苦労して生き延びて、結局自分はここで味方によって殺られてしまうというのか?だが恐怖を感じるのと同じくらい、実はゾクゾクと興奮も感じていた。サイレンが鳴り響くと、水兵達も叫びながら持ち場に走る。これはおよそ30分もの間続き、しかし攻撃など全く起きなかった。

 

 一日中誰かの船室にいて、何もすることがなく、ゲンコツ・ビスケットを待っている。ずっとそんなことをしていても仕方ないので、オレは船室を漁ってみることにした。そしてやるからには、手ぶらでは終わらなかった。自分の寝床とは別の長椅子の下に隠された、日本酒の入った一升瓶を見つけたのだ。状況から見るに明らかに、この酒の持ち主は誰にもこれを知られたくなかったようだ。封は切られていて、でなければオレも手を付けなかっただろう。オレは一口飲んで、まるで天にも昇るような気分に浸った。体の中で共鳴が始まり、ポッと火が灯る。それから一日待ってみて、こう思った。まあ、あとひと口くらい飲んでも誰も気づきゃあしないだろう、と。

 そしてこれはそのまま2週間、船が横浜海軍基地に到着するまで続き、その頃にはボトルはほぼ空になってしまい、そこまで来るともうどうでもよくなり、オレは残りの酒を全て飲み干した。

 1943年9月15日、遂に我々は日本本土に接岸した。2人の乗組員が再び自分達に目隠しをし、船から降ろす。だが目隠しは緩く、下の隙間からシボレーのホイール・キャップが見え、どのモデルなのかも分かった。車には後部座席の後ろに補助席があった。

 フィルとオレはそこで、次の目的地に自分達を連れて行く船舶士官を待たねばならず、彼はそこへカンカンに怒って到着した。

 「オマエはそっちに入ってろ!」

 彼はそう叫ぶと、オレを補助席に向かって押し込んだ。オレは補助席に座ろうと苦闘したが、しかし自分の足が長すぎてうまく動けず、士官はオレを押し込み続け、最終的にはこちらの横っ面を何度か懐中電灯で殴りつけた。これでオレの鼻はバツ2、つまり再び折れてしまった。

 あの士官は間違いなく、自分が使った部屋の本来の持ち主で、自分が飲み干した酒も彼のものだったのだと、こんにちに至るまで自分は信じている。彼からすれば、誰が酒を飲んだかなど推測の必要すらなく、犯人が犯行の代償を払ったのも確認できた訳だ。

 

 オレ達の新しい住処となるのは大船と呼ばれる捕虜収容所で、横浜を出てすぐの丘陵地帯にあった。オレは西洋人の顔がまた見られると思うと、喜びと安心の入り混じった不思議な感じがした。あの墜落以来、初めてフィルとオレは、自分達が世界より孤立していると思わずに済むのだ。

 収容所のゲートを通り、灰の撒かれた敷地の中央に歩いて入ると、自分は海洋側の谷から来る、湿って冷たい感じを鼻で感じ取った。開けた共同スペースの横には灰色の捕虜棟が隣接し、その壁沿いには捕虜達が立っていて、少しでも暖をとるため近くに密集していた。彼らの表情は沈鬱かつ無言で、空腹なのが見てとれる。例えそうであっても、オレは彼らと一緒になれるのが楽しみだった。そこでそこにいた一人か二人の注意を引こうとしたのだが、しかし誰もこちらと話そうとはしない。それから程なく分かったのだが、大船では捕虜同士で話すことが禁じられていたのだ。

 これには自分も怒りが湧いた。マトモな扱いを夢見てようやく日本に到着し、与えられるのはコレだというのか?収容所の突き当りを仕切る四番目の壁の向こうには、竹や木々に覆われた大きな丘があり、オレはいつの日の晩か、その暗闇へと姿をくらまそうとする自分を想像してみた。

 一人の看守がこちらを小突いて捕虜棟に促すと、そこには自分の独房があった。その晩、見つかれば殴打やそれ以上のリスクもあったが、オレはこっそりと小さな声でやり取りをし、ここでの酷い現実を知った。大船は日本海軍による、極秘かつ尋問に特化された施設で、一般の人間や全ての救援機関には隠された存在だったのだ。つまり赤十字の査察の対象とはなりえず、マトモな待遇も望めない場所であって、なんのことはない、そこに人間性などありはしないのだ。オレは公的な戦時捕虜として登録されないのだから、捕虜がここを出るには、処刑か移送のどちらかしかないのだ。例えもしここで死んだとしても、戦友を除いては誰もそれを知ることすらないのだ。

 翌日、風呂に入ると看守が付き添い、本部のある建物へ行くと、看守はそこにある一つのドアへと自分を促した。

 「部屋に入ると、机の向こうに一人のお方が座っていらっしゃる」

 看守はそう言うと、その先を続けた。

 「お辞儀をしたら、気を付けをした状態で立つように。それから命令を待て」

 そう言うと彼はドアを開け、オレを中に押し入れた。部屋の明かりは午後の陽光だけで、中の男は机に座ってはおらずその前に立ち、背中をこちらに向けていた。軍服を着てはおらず平服で、オレは言われた通りにお辞儀をし、まっすぐに立って待った。すると彼はこちらに向いたかと思うと、笑って見せた。

 「ハロー、ルイス」

 それは聞いたことのある声だった。

 「USC以来、ホントに久しぶりだな」

 それは何の警告も無しに、みぞおちに一発食らったような衝撃だった。

 男はオレの大学時代のクラスメート、ジェームズ・ササキだったのだ。

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