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序文

Foreword

 

 上院議員 ジョン・マケイン

 

 イス・ザンペリーニの人生は、彼の仕えてきたこの国の偉大さに相応しい物語と言える。それはどこにでもいる不完全な男でありながら、類まれなる才能を持った人間が、自身を超える大義ある奉仕によって更生し、より偉大な何かへの信念によりありふれた日常の範囲を超え、遥かかなたにあるものを見るようになる、そんな男の物語だ。彼は捕虜収容所の恐怖と、自身が故郷へと持ち帰った幻影の先に見つけるものがあるのだが、それは人を惹きつけて止まない。

 この特筆すべき「ラッキー・ルーイー」の人生の物語は、彼をヒトラーとも会わせた1936年のベルリン・オリンピックのトラックから、人食い鮫や日本軍銃手を受け流す太平洋のド真ん中に浮かんだ救命ボート、さらには理解しがたいまでの卑劣さと、稀に見る高潔さが同時に存在する捕虜収容所の数々を経て、アメリカへ一人の英雄として帰還するまでを巡って周らせる。そして彼は故国で絶望と自己破壊の深淵にまで達すると、それまで予想も想像だにしなかったであろう高みへと飛んで行く。

 この本には、人々が想像するだけで忌むほどの犠牲を、よき人生のために払った男の知恵が詰まっている。そこには醜い事実をも語る正直さと、心に迫る人間性、また親しみやすい平凡さと精神的な鷹揚さが同居する。読者は、ルイスや彼と虜囚体験を共にした捕虜達が、アメリカのために何を犠牲にしたのか、また彼らの軍務により、私達アメリカ人が何を得たのかを知る時、驚嘆しては愛国的な自尊心を呼び起こさずにはいらない。またそこには比較的な平和の時代に、快適かつ豊かに生きる私達が、何のために生きるかについての教訓があろう。

 戦記として以上に、この本の持つ教訓は、ルイスの戦時体験から生まれている。この道徳の力の源は、戦時における捕虜収容側が、アメリカ人捕虜達を残酷に扱う不道徳そのものと、ルイスが最終的に心の傷を追い払うその過程にある。戦争とそれによる欠乏からの恢復は、ルイスの道徳規範を破壊するどころか、むしろ恐怖の巣窟より生き延びるのに必要だったものより、遥かに重要な動機に起因する、彼の信念の謎を明らかにする。

 その対象が宗教であろうと国であろうと、また家族や人の持つ善良さであろうと、信念は戦争において人々の苦闘を支える。私が戦争へ出征する以前において、勇気や名誉、戦争の真実とは、戦争へ行ったことによって永遠に変わってしまった男達の語る、奇妙な言葉の裏に隠された曖昧模糊としたものだった。私は栄光こそが戦争の目的であり、全ての栄光とは虚栄心と変わらないものだと考えていたのだ。

 そしてルイス・ザンペリーニのように、私は戦争を通して真実を知った。真実、―それは利己的な追求などより、偉大な探求があるということだ。栄光とはうぬぼれでも武勇への勲章でもなく、誰よりも賢かった、もしくは最強、果敢であったことへの褒賞でもない。栄光とは、自身より何か大きな大義、信条、また自身が頼りとする人々と、逆にあなたを頼りとする人々への忠誠にこそあるものなのだ。この栄光はいかなる逆境や負傷、屈辱にも傷つけることはできない。

 そしてルイスのように私は戦争において、組織化され想像も及ばなかった規模で行われた、人間性の否定とたった一人で対峙した時、自らを信じることは頼るべき物の中でも、最も弱きものであることを知った。収容所において私は、神が人に与えし尊厳など意にも介さぬ、人類の尽くす限りの残酷さとまみえたのだ。それに対しては自身への信念のみでは、つまり自身より大切なものへの忠節なくしては、とうてい適わぬことを知ったのだ。これはルイスを含む多くのアメリカ人が、収容所で得た教訓である。そしてこれはおそらく、我々が今まで得た中でも、最も重要な教訓ではなかろうか。

 戦争と平和の時を通して、ルイス・ザンペリーニが見つけたものは、自身の信念であったのだ。

 ―2002年10月

1973年5月24日、ヴェトナム戦争で解放され、ニクソン大統領にワシントンにて出迎えられる

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