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アンブロークンにおける、渡邊睦裕へのCBSインタビューと

ルーイーからバードへの手紙(日本語版より:ラッセル秀子訳)

 一九九七年はじめ、CBSテレビのドレーガン・ミハイロヴィッチはワタナベを探すために住所と電話番号を手に東京に着いた。CBS日本支局のチーフが電話して見ると、ワタナベの妻が出た。夫は重病で寝たきりで話せないという。ミハイロヴィッチは支局のチーフにふたたび電話してもらい、どうぞくれぐれもお大事にと伝えた。するとそれが効いたのか、ワタナベの妻は、夫は実は仕事で海外出張に出かけているが、いつ戻るかわからないといった。

 嘘に感づき、ミハイロヴィッチはワタナベのアパートの前や会社の前で待った。何時間も張ったが、現れなかった。諦めようとしたその矢先に、携帯電話が鳴った。ワタナベが支局チーフの電話に返事をしたのだ。ルイ・ザンペリーニからのメッセージを持ってきたと伝えると、ワタナベはミハイロヴィッチと東京のホテルで会うことを約束した。

 ※※※

 ミハイロヴィッチはホテルの部屋を取り、カメラマンを入れた。だがワタナベは部屋に行ってまでインタビューは受けないだろうと考えてカメラマンには野球帽のなかに小さなカメラを入れさせた。約束の時間ロビーにワタナベはやってきた。

 まずロビーに座り、ワタナベはビールを注文した。ミハイロヴィッチは、彼らがルイを特集する番組をやることを伝えた。ワタナベはルイの名前をすぐに思い出した。「捕虜は六百人いましたが、ザンペリーニはナンバーワンです」

 CBSの放送記者ボブ・サイモンは、ワタナベに質問できるのはこのチャンス(※ホテルのロビーでの、アポを取った面会で)しかないと考え、ルイに対する扱いについて厳しい質問を浴びせた。ワタナベは心外だというように驚いてみせた。ザンペリーニはいい人間だ、自分は戦争を憎んでいたのだ。自分がいちばん気にかけていたのは捕虜たちを守ることだった、逃げ出したら民間人に殺されただろうから、と。それでは戦犯リストのトップに載せられたのはなぜかと聞いたところ、得意そうに、こううそぶいた。『私は七番目、東条は一番目だった』そして逃亡生活はとてもつらかったと嘆いた。」

 ミハイロヴィッチはたちはワタナベに、上の部屋に来て、カメラが入った取材を受けてもらえるか聞いた。ワタナベは、番組は日本でも放送されるのか聞いた。ミハイロヴィッチはいや、と答えた。意外にもワタナベは取材を受けることに同意した。

 上の階でじゃカメラが回り、ワタナベに若いころのルイの写真を渡した。笑顔で陸上競技のコースの上に立っている。サイモンが質問を始めた。

 「ザンペリーニと他の戦時捕虜たちは、監視員のなかで特にあなたがいちばん凶暴だったことを覚えています。これについてあなたはどう説明しますか」

 ワタナベの右のまぶたがぴくっと下がった。ミハイロヴィッチは落ち着かない気分になった。

 「ミリタリーオーダー(軍の命令)でやったといいのじゃなくて」ワタナベはそういった。一九九五年のインタビューのときとは矛盾した答えだ。「やはり私自身の気持ちから見て、フレンドにはならなかったですね。ザンパリーニさんは(原文ママ)は有名な人だったんだし、彼がワタナベに殴られたというならば、キャンプ内でそういう事実があったことは考えられます。私の立場上」(訳注:同インタビュー動画からワタナベ氏の発言を引用)

 「ワタナベはあごを上げ、サイモンをじっと見た。捕虜たちは『くだらない』ことで文句をいい、日本人をあだ名で呼んでいた、そういったことで自分は怒ったのだ、捕虜は何百人もいたから、自分は大きな重圧を感じていたのだと。」

 「ビート(殴ったり)、キッキング(蹴ったり)というのは、白人社会においては、非情な仕打ちだと。ただ、殴ったりビートする程度のものは、共同生活のなかでやむを得ない場合もあったわけです」(訳注同上)ワタナベはゆっくりとそう話した。

 インタビューが終わったとき、ワタナベは動揺して怒っている様子だった。ルイがワタナベを許すために、彼に会いたいといっていると聞くと、ワタナベはルイに会って謝りたい、と答えた。あくまでも個人的な謝罪であり、旧日本軍部を代表したものではないなら、ということだった。

 終わる前、ミハイロヴィッチは最後のリクエストをした。道を歩くところを撮らせてもらえないかと。ワタナベはこのために来たかったようだった。帽子をかぶって、歩道に出てきびすを返し、カメラに向かって歩いた。捕虜たちの前で行進してみせたときのように、頭を高く、胸を張り、目は横柄な様子で。

(※内容に関しては、ローラ・ヒレンブラントが、ドレーガン・ミハイロヴィッチにEメールにて取材)

 

 

 

ルーイーからバードへの手紙

 

 

 ワタナベ・マツヒロ(原文ママ)様

 私は戦争捕虜として、貴君の不当で常軌を逸した折檻を受けたことにより、悪夢のような日々を戦後送りました。痛みや苦しみよりも、ストレスと恥辱感で張り詰めたようになり、復讐心と憎しみに駆られました。

 貴君の折檻により、捕虜としてだけではなく、人間としての私の人権は奪われました。戦争が終わるまで、人としての尊厳と生きる希望を持ち続けることは至難の業でした。

 戦後私は悪夢にうなされ続け、破綻寸前まで行きました。けれども、福音者ビリー・グラハムによって神と対話をしたおかげで、人生をキリストに捧げるようになりました。貴君に抱いていた憎しみは、慈愛に変わったのです。「あなたの敵を許し、あなたの敵のために祈りなさい」そうキリストはおっしゃっています。

 ご存じかと思いますが、私は一九五二年(原文ママ。※50年の間違い)に日本の地をふたたび踏み、巣鴨プリズンで戦犯の方たちと話すことを許されました。……そのとき貴君について聞いたところ、おそらく割腹自殺されたと伺い、悲しい思いになりました、その瞬間、ほかの人にそうしたのと同じように、私は貴君を許しました。いまは、貴君もクリスチャンになられることを願っています。

 

 ルイス・ザンペリーニ 

 

 ルイは手紙をたたんで日本に持っていった。

 だがけっきょくは再会は叶わなかった。CBSテレビはワタナベに連絡し、ルイが会いたいといっていることを伝えた。ワタナベはまるで吐き捨てるかのように「ノー」と答えたという。

 上越に着いたルイはまだ手紙を持っていた。誰かがそれを受け取り、ワタナベに渡すと約束した。彼は受け取ったとしても、返事は書いていない。

 ワタナベは二〇〇三年四月に亡くなった。

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