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5 ルイス・ザンペリーニ 原爆へのスタンス

 2012年にカヤホガ・コミュニティー・カレッジで講演をするルイス・ザンペリー

 

「原爆により多くの命が助かった」という本編の記述には、日本人ならおやっと思わない人はいないのではないでしょうか?日本では核の使用は絶対に禁止であるべきだと、学校のかなり早い段階で習うからです。ところが一方で海外で原水爆禁止運動を行うと、必ず「原爆は戦争終結を、人命を軽視して無駄な抵抗を続ける日本の降伏を早めた」という反論があり、アメリカでは場所により、これを学校で明確に教える所もあるようです。(アメリカでは日本の様に一律で教科書を採用しておらず、地域や教師に任される部分も大きいことは、町山智浩 荻上チキsession-22「戦争の歴史・原爆投下にアメリカはどう向きあう?」でも扱っています)

https://www.youtube.com/watch?v=2hC0hGP33i4&t=1251s

では「悪魔に追われし男」を教材採用した「Awesome stories」では、原爆についてどう扱っているのでしょう?この教材は「ミズーリ号での降伏」という項目で、原爆と降伏について以下の様に記述しています。(※メンバーになると無料で閲覧できます)   https://www.awesomestories.com/asset/view/SURRENDER-on-the-USS-MISSOURI-Pearl-Har

スターリンの手紙

—ハリー・トルーマンは原子爆弾を使用すべきか思案していました。それは最終的には、彼のみができる決断だったのです。

 そこまでの大量破壊兵器を使用することで直面するだろう批判に、彼は怯んだりしませんでした。彼の一番の目的は、アメリカ人の生命を守ることだったからです。この決断は、日本本土への侵攻で死の危険を負うやもしれなかった兵士達により、支持を受けました。

 ポール・ファッセル教授は、(ヨーロッパで陸軍の歩兵をしていた)「Thank God for the Atom Bomb:有難き原爆」というエッセイの中でこう言っています。

 「二つの原爆が投下され、数か月以内に東京沿岸を急襲する必要は無くなった。―つまり機銃掃射や迫撃砲、砲弾を受けながら突撃射撃をする必要がなくなった、というニュースが広がり始めた時、自分達は安堵と喜びでその場に泣き崩れた。自分達は死なずに済むのだ。自分達は成長を続け、大人になって生きるのだ。」

 ここには明らかに国策として開発された原爆の投下を肯定するプロパガンダが含まれており、アメリカではこういった論調が昔よりある一方、しかし近年では原爆使用への疑問も高まっており、この疑問は実は既にして、月刊誌アトランティックのジョン・メロニーが、東日本大震災後の2014年に、ルーイーに行ったインタビューの中でぶつけています。

https://www.theatlantic.com/politics/archive/2014/11/world-war-ii-isnt-over-talking-to-unbroken-veteran-louis-zamperini/382616/

 

  —メロニー「核兵器を使用したと言う、トルーマン大統領への批判をどう思いますか?」

 ザンペリーニ「私は全ての核に反対だ。原発もそこに入る。チェルノブイリや最近日本で起きたこと(※福島の事例)を見てみたらいい。1950年には広島で被害者にインタビューもした。彼らは皆、同じことを言っていた。『自分は名誉あることだと思っている。これが自分に起きたが故に、何百万もの命が助かったんだ』って」

 メロニー「どうして彼らにインタビューしたんですか?」

 ザンペリーニ「彼らの意見が聞きたくてね。今や、(※原爆投下)これがあった後に生まれた人たちが歴史家になっていて、彼らはアメリカを批判するが、しかし彼らは何も分かっちゃいない。原爆は必要だったんだ。日本軍は未だに神風特攻隊を、何千人も東京の近くに配備していたし、それに加えて陸軍元帥は(※東条英機)、捕虜は全員殺せと収容所の所長全員に命令していたんだ。自分達は虐殺されていたかも知れなかった。また日本の指導者達は、沖縄やサイパンの女性や女の子達に、『アメリカ人達に占領されたら、レイプされて殺されてしまう』と伝えた。それ故に、沖縄やサイパンでは家族が崖から飛び降りたんだ」

 メロニー「彼らはこちらを恐れていたからですね」

 ザンペリーニ「そう、日本の全ての女性と娘たちは、錐(※キリ)を渡されていた。アメリカ軍が来たら、それで自身を突くように言われていたんだ。原爆はそれを止めた。原爆は何千もの命を救い、戦争を終わらせたんだ。自分達はそれを、あまりに簡単に忘れてしまう」—

 

 本土決戦があった場合、連合軍側の捕虜を全員殺害すると言う命令が下ったことは、戦後法廷にも提出されており、本書でもルーイーが「(※バードに続いて)山の奥の収容所に移送になる」と言われているのは、満島で捕虜の殺害が計画されていたことを強く推測させ、またトム・ウェイドとデイビッド・ジェームズの著作にも、以下の記述があります。

 —台湾の収容所にいた捕虜全員を殺害せよという、正確かつ疑いようのない命令が、後になって発見され戦後法廷に提出された。ここでは「目的は一人の捕虜をも逃がさず、彼らを全て跡形もなく全滅させる」と述べられている。1945年8月、日本の幾つかの収容所当局では、丘の中腹に短いトンネルを掘っていたが、これは戦後に、虐殺した捕虜を全員埋めるための準備だったと分かった—「Prisoner of the Japanese」

 —しかし、私の興味を最も引いたのは、酒葉大佐と陸軍省の参謀が行った「極秘の講義」だった。私は台湾人の特別抗日部隊より情報を得たが、ある講義では「侵攻戦時の捕虜の処理」が扱われていた。大森はその手法を具体化する実例に選ばれたのだ・・・

 「侵攻軍に利用されそうな地図や書類を全て破棄した後、捕虜将校達を招集し収容所を明け渡す。そしてすぐに進軍を開始するが、機関銃を配した部隊で大森橋を捕捉せよ。敵軍が現れ、捕虜が収容所を脱出する時、橋を渡らせてから機銃掃射をし、敵の攻撃のさ中に彼らを路上で殺処分する。もしこの処理方法が実質的でない場合は、彼らが脱走したり侵攻軍に参加しこれを援護することがないよう、別の手段が講じられなければならない・・・」—「大日本帝国の盛衰」

 

 確かに、本土決戦なしの無条件降伏が自らの命の前提だった捕虜からすれば、これを実現させたのが原爆であり、それ故に自らの命のためには投下もやむなしという考えは、理解できないものではありません。日本人とて、テロ支援国家に核が行使されることが自らの命の前提とされれば、その使用に賛成する人も出て来るのではないでしょうか?しかし、条件によっては核の使用もやむなし、というのは訳者も一市民として看過できません。というのも、条件によっては核兵器の使用が「必要」な軍事局面が容認されてしまうと、これから先に核が兵器として使われることも、条件によっては容認されてしまうからです。これから日本が有事となった際、局面によってはアメリカの核が、いや場合によっては旧東側諸国のそれが「必要」とされてしまうのでしょうか?ましてやこの論理に加えて、敵基地先制攻撃すら「必要」とされてしまったら・・・

 この核必要論は、アメリカでもいっときのピークを過ぎたとは言え、未だに世界で一定数以上の支持者がいるのも事実で、現実にそういった人達と「核兵器使用も保持も反対代表」として討論するとなると、なかなかに厳しいものがあります。自分はそもそも、日本がもし無条件降伏をよしとしなかった場合の、いわゆるコードネーム・ダウンフォール作戦の現実性について、考えてみたこともなく、そこに関する情報は日本では破壊され英語に頼らざるを得ず、周囲の日本人に聞けば「そんなん知らん」としか言われず、またもし自らが当時日本にいたとして、もしくはアメリカの責任ある立場だったとしても、ひたすらに本土決戦を叫び、自国の政治家すらテロで殺害する軍部を軍事力を使わずに止められたか?と問われると、全くもって自信がないからです。

 しかしその一方で、戦場となった日本、つまり広島や沖縄においては、こういった戦争容認論に、身を持って強く反対している方々が、終戦直後から現在に至るまでいらっしゃり、訳者も広島では修学旅行で、語り部の方から直接お話を伺いました。その核使用反対の根拠は、武力を持って武力を抑制するのでは決して戦争は無くならない、というものです。これは昨今の世界における、軍事費の増額合戦を見ていると説得力を持ち、また歴史的観点から核使用に反対した人の中には、実は大森に収容され、バードより激しく暴行された捕虜もいます。自身が3歳より、つまり19世紀からの日本を知り、原爆の投下が「新型時差式爆弾」「新型アメリカ式地雷」と呼ばれた時より、リアルタイムで日本を始め世界中の新聞でそれを追った、デイビット・ジェームズです。彼は自書で、

 —ウインストン・チャーチルは(1945年8月16日英国議会にて)、日本とて核を保有していれば、何をしたかを極めて明確に述べた。だがそれでも、私は核の使用が必要だったと言うことには、決して納得できず、とりわけ広島のすぐ後の、長崎への使用には同意できない。これは確かに、「死に物狂いの侵攻戦における、100万ものアメリカ人と、25万人ものイギリス人の生命を犠牲にするのを防ぐ」ためではないのだ。日本はポツダム宣言の前にソビエト連邦に対し、連合国側に降伏する条件について、話し合う用意があることを伝えていたからだ—

 と述べ、この裏付けに大戦中にチャーチルの後を継いだ、イギリス首相、クレメント・アトリーの手紙を引用します。

 —「7月28日のポツダム会談において、大将軍スターリンはトルーマン大統領と私(アトリー)に極秘で、当時極東において参戦していなかったソビエト政府が、日本より無条件降伏以前に、米英との仲介をするよう申し出を受けたと伝えた。大将軍スターリンによると、ソビエト政府はこの動きを、日本の政策推進のために、ソビエト政府の協力を得ようとするものと解釈し、断固とした拒否を伝えたという。日本政府は既に7月26日のポツダム宣言によって、降伏への最も正当な手段をとるよう勧告されており、従って大将軍スターリンのもたらしたこの情報は、戦争終結を早める新たな機会とはならなかった。」

 これより明確なのは、例え何百万ものアメリカ人やイギリス人が、政治的決断に巻き込まれようとも、交渉に先立つ無条件降伏のみが、平和の回復の原則なのであって、それ故に原子爆弾は投下されたのだ—

 ジェームズはこう述べ、「多くの犠牲を回避するため」というルーイーの意見の根拠、核使用側の大義名分を真っ向から否定しています。

 しかしここでは、原爆投下に使われた大義名分のウソと、核使用の前の講和及び無条件降伏の可能性について言及し、戦局の悪化が東条英機より小磯國昭への政権交代を起こし、これが講和への軟化に繋がったことに触れてはいても、日本がソ連の仲介による条件付きの降伏にあくまでこだわり無条件降伏をしなかった場合に、核使用が回避できたかには触れられていません。つまり、人権も民主主義もへったくれもない軍事独裁政権がどれだけ暴走しようとも、それに即時介入するのに、武力以外の有力な方法が見つかっていないのは現在でも変わらず、その延長として核保有国は核の使用を否定してはいないのです。

 そこで訳者は核反対の総本山とも言える、日本原水協にメールにて以下の質問形式で、助力を仰いでみました。

 

 ——質問

 分類:核兵器を取り巻く現状について

 詳細:こんにちは。私はあるアメリカの元軍人の書籍を翻訳している者です。本日は、アメリカで私もきちんとディベートできるよう、ご意見を伺わせて下さい。

 翻訳している本は、ルイス・ザンペリーニの「Devil at My Heels」ですが、ここでは原爆投下の正当性が出てきます。硫黄島、沖縄の焦土作戦により、米軍側も極めて大きな犠牲と心理的な圧迫があったようです。そして日本、本土での焦土作戦があった場合、さらなる犠牲が予想され、原爆投下は、絶対に降伏はしないと言っていた日本の降伏を早めたが故に正当である、というものです。近年ではアメリカでも、原爆投下は必要なかったとの世論がありますが、(※映画「フォッグ・オブ・ウォー —マクナマラ元米国防長官の告白」を参照)これは投下しなくてもアメリカが勝てたからです。私は日本人で、基本的にはもちろん原爆投下には反対の立場ですが、これではもし第二次大戦時の日米間の軍事力が拮抗していた場合、やはり原爆は必要だったとなってしまいます。軍事力が拮抗していた場合でも、原爆投下への反対を唱えられる論拠を、是非ともお聞かせ下さい。よろしくお願い致します。

 

 回答

 ——初めまして。

 日本原水協事務局の○○と申します。

 もし、戦力が拮抗していたとしても核兵器を使ってはならない理由として最適なのは、核兵器の非人道性の側面を強調することが肝要かと存じます。

 そして、そのことを最も伝えてくれているのは、被爆者の証言です。

 リンク先の日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の証言を読むのが、まずは一番良いのではないかと存じ、ご案内させていただきます。

https://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/spread/spread1-01.html

(※以下、こちらのIPアドレス。心無いメッセージをする人への警告と思われます)——

 

 上記のリンクを素直に読んでから、核兵器の使用を肯定する人はもちろんいないでしょう。また第二次大戦における大量破壊の惨状は、連合軍側の捕虜によっても記されており、「13番目のミッション」と「アンブロークン」ではそれぞれ、3月9日の東京大空襲のすぐ後に、その惨状を目の当たりにした大森の捕虜、アーネスト・ノーキエストの日記と(※後に「Our Paradise : 我らの楽園 」として出版)、終戦後に広島を通った捕虜、ジョン・ファルコナー(ドナルド・ノックス「Death March:死の行進」)の記述を引用しています。

 —自分(※マーティンデール)の労働隊の報告によると、黒焦げになった死体の山で用水路が詰まっていた。幾人かは見ざるを得ないその光景と臭いから、気分が悪くなったと言った

 「昨日まで薄っぺらい家や店舗が建っていた所に、何マイルも続く荒涼とした風景と、一丁目ごとに炭化した廃墟が、見渡す限りに続くのを見て、収容所で苦しんできた自分達捕虜でさえ、それを誇りに思うことはなかった。(アーネスト・ノーキエストの日記より)」—

 —(※広島へ行くと)最初、そこには木があったが、次に木に葉っぱがなくなった。さらに近づくと、今度は枝がなくなり、さらに近くなると、幹ごとない。中心地に行くと、本当に何もなかった。何も、だ!それは壮観だった。自分はこれが戦争を終わらせたんだと分かった。つまり、自分達はもう空腹に苦しむことはなく、医療を受けられずに仕事をする必要も無いのだ。自分は自分以外の誰かの窮乏や苦しみに、本当に無神経だった。自分は(※今は)あれは壮観だったなんて言うことが正しいことではないのが分かる。なぜならあれは、本当は壮観なんてものじゃないからだ。しかし自分は(※あの時)戦争の終結は手段を正当化すると信じていた。」—

 

 これらを見ると、本物の大量破壊と殺戮を目の当たりにして、人はそれを是認するなどとてもできないことも分かります。しかし暴走する個人は警察によって止められても、暴走する国家はそれが自壊を起こすまで、個人はおろか別の国家や国家連合にもほぼ止められず、最終的な手段が武力に依っていることは、残念ながら今も昔もあまり変わらず、頭の中の議論は結局、堂々巡りを繰り返してしまいます。

 結論は出ませんが、訳者はふと、1950年に広島にやって来たルーイーのことを、改めて想像してみました。なぜ、わざわざ広島に行ったのだろう?と。「彼らの意見が聞きたくてね」は分かっても、その根源は一体なんだろう?本当に被爆者が、「名誉の被爆」と言ったのだろうか?と。

 これは想像でしかありませんが、ルーイー、つまり自身の苦痛にまみれた虜囚体験を否定されれば、自身の尊厳をも傷つけられかねない人間にとって、被爆体験とは自らの虜囚体験と同じく、宗教的な聖なる犠牲の意味合いすら込めて、「名誉」として捉えなければ、とても事実を認めることすらできない、文字通り地獄の現出ではなかったのでしょうか?ルーイーから見て、もし真珠湾の攻撃がなければ、墜落も漂流も虜囚体験もなかった。「なかった」は「なくてもよかった」となり、最後には「必要ない」とまでなってしまいます。ルーイーの虜囚体験が、真珠湾攻撃を必要条件とする貴い犠牲であるなら、ルーイーにとって日本人の被爆体験とは、敵軍と自軍の能力差を全く無視して、精神論しか繰り返さない日本の軍事政権を必要条件とした、貴い犠牲ともならないでしょうか?そしてこれは、「あの時の原爆は必要」であっても、「現在はいかなる核にも反対」の論拠を支える基盤となり得ます。必要条件のない、つまり少なくとも大国間は戦争をしていないという、比較的な平和を享受する2022年現在の世界から考えてみて、過去の戦争自体が全くの無為、無駄であったとするなら、自身の虜囚体験は旧敵国の一市民の被爆体験もろとも「必要なかった」とされてしまい、文字通り命を捧げた自身の存在をも無意味とされてしまう。だからこそ「新しく生まれた歴史家」は「何も分かっちゃあいない」となるのではないでしょうか?立場を変えてみると日本において、戦時の苦痛体験とその時の感情を持ってして、戦時の日本のあり方を、無理にでも肯定するような人は、いないでしょうか?

 結論は出ませんが、しかしアメリカに中国、ロシアに北朝鮮、日本も例外ではなく、時に武力で暴走する国家に対し、どうやってストップをかけられるのか?永遠に終わらないかもしれないこの問いへの探求、議論なくして得をするのは、武力や暴力を持って外交とする国家や、それを利用する人々なのかもしれません。

 2022年。ロシアのウクライナ侵攻時にて

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