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第3章 ワールド・クラス

World Class

選手村

軍人のヴォルフガング・フュルストナーが建設を指揮

競技場

建築士ヴェルナー・マリヒによる設計

 選手村のゴージャスぶりには目も眩まんばかりで、これに自分は圧倒されてしまった。完璧にフェンスで仕切られた中では野生動物がうろうろと歩き回り、フィンランド人には特別の浴場があって、自分もサウナに座りユーカリの葉で体を叩いて、桟橋の端から白鳥でいっぱいの湖に飛び込むこともできた。ドイツ側は選手達の部屋をまるでホテルのように建てたが、しかし浴槽はつけなかった。新聞で読んだのだが、これはヒトラーが潔癖症だったからだそうだ。自分から出る垢の溜まる浴槽の中に座り、しかもそれが綺麗に流せないのは彼のお好みではなく、この信念の前では我々選手団全員が、このお手本に倣わないといけないのだ。この結果オリンピアン達は、シャワーはオードル消毒液(※商品名)のボトルで済まさないといけなかった。

 ヒトラーはまた、構内に落ちるゴミの類も我慢できなかった。数人のアメリカ人選手がバナナの皮とリンゴの芯をそこらにポイ捨てしたところ、ドイツ人達がすっ飛んで来たかと思うと拾ってしまうのだ。ベルリンの街はあまりに綺麗で、もう無菌状態かと思う程だった。道端で放置されるタン唾の類もなければ、側溝に捨ててある新聞もなく、さらには白いコートを着た人が全ての街角に配置されていて、馬の後を追って掃き掃除をしていたからハエもいなかった。ドイツはもはや地球上で最も清潔な場所に見えた。無論、今となればヒトラーがオリンピックで誇大な大見栄を切らなければならなかったのも分かる。そこには隠れた思惑があったし、また私は別にここでヒトラーを擁護するつもりもない。

 選手村の食堂は、巨大な半円状の2階か3階建ての建物で、各ドアを開けると国別の料理が用意されていた。オレはそれを全部試してみたが、バカなことをしたもんで、船で増えた体重がさらにここで増えた。

ダイニング・ホール 。4階建て?

ライヒ・スポーツフィールド東門

http://www.thirdreichruins.com/olympichdsport.htm

 突撃隊の兵士もいた。みんな背が高く金髪のイケメンで、いつでも警備体制についていたが、雰囲気は柔らかいもので、明るく陽気な感じですらした。誰かが「ハイル・ヒットラー!」と言うと、オレ達も同じセリフを返し、しかし名前の部分だけファースト・ネームに変えて、「ハイル・アドルフ!」と言うと、突撃隊の兵士達は笑い、誰も怒ったりはしなかった。

 1936年当時、我々はまだヒトラーを、危ないピエロとしか思っていなかったのだ。

 

 自分は新しい環境にも順応し、開会式に備えることができた。そして迎えた1936年8月1日の土曜日。全ての国を代表するアスリート達は、大会会場に居並んだ。アメリカ代表は白のスラックスにネイビーブルーのジャケット、麦わら帽をかぶり、女の子達は小さなタム・キャップ(※ベレー帽とミリタリーキャップをベースにデザインされた、当時はやった帽子)をかぶった。式の目玉には何千羽もの伝書鳩が空へと放たれ、鳩達は一斉に高い場所まで飛んで上がるとスタジアムの上を旋回し、するとすぐに大砲が打ち鳴らされ、これが鳩を脅かしてしまったらしい。数秒してパラパラと変な音がしたかと思うと、それは鳩の糞で、チームの麦わら帽や肩に容赦なく降りかかった。オレは「気を付け」の姿勢で固まったまま、考えたのは自分のことではなく、気の毒にも髪が糞まみれになる女の子達のことで、それを思うと笑いが止まらなかった。

大会時のブランデンブルク門及び、開会式の様子。至る所がマスゲームと鍵十字で溢れた

 5,000メートル決勝に出るためには予選があり、まずはこれを一度走った。レースは最後まで集団で走り、最後にスパートをかけるとトップ近くまで寄せることができ、何とか予選は通過できた。しかしこれは深刻な体重オーバーのせいで、もう本当に大変だった。

 決勝では選手達はそれぞれのペースに従うと、幾つかの集団を形成して走った。オレはスタートと同時にともかく内側のレーンを取りに行く戦術で、いいスタートを切ることもできたのだが、それでも当時世界を制していたフィンランド人達からなるトップ集団は、すぐに他を引き離した。一周を終える頃になると、増えた体重から見てこのペースはオレにとってやや早いものとなり、フィンランド人達はそこから更に抜け出し、オレを含む第2グループがその約50ヤード(※約45メートル)後方、更に第3グループがその約30ヤード(※約30メートル弱)後方というレース展開となった。

 最終ラップを迎える頃には、第2グループで少しでも余力が残っているのは、自分だけのようだった。とはいえこちらもクタクタで、息は上がり汗も滴り、だがそれでも頭の中には、ピートのアドバイスがあった。もうダメだと思う時こそ、全力を尽くす時だということだ。

 「たった1分の辛抱が、一生の栄光にもなるんじゃないのか?」

 オレはスパートを始めると全力までスピードを上げた。そして最後の1/4マイルの記録は、信じられないことに56秒だった。あれだけ長いレースの最後にも関わらず、あそこまで早く走れるとは自分でも思わなかった。結果はトップグループに食い込んだ8位で、アメリカ人としてはトップでゴールテープを切ることになった。

 だが、オレは自分の出来栄えに舞い上がってなどいなかった。これは一種のウォーミング・アップで、東京オリンピックへの序曲に過ぎない。そう思うことで自分を慰めていた。東京で、本当の自分の舞台 、つまり1マイル走で、真の実力を世界に見せてやるのだ。

 それからオレはシャワーを浴びると、スタンドのチームメート達に合流した。自分達が座った席は、ヒトラーのコンクリート製のボックス席の近くだった。両者の間には緩衝地帯があり、そこにはゲーリングやゲッペルスのような将校達が陣取っていた。彼らは誰も「総統」に近づくことを許さなかったが、しかしカメラを持っていてそれを将校の誰かにお願いできれば、代わりにヒトラーの写真を撮ってくれていた。そこでオレはゲッペルスにカメラを預け、ゲッペルスはこちらの競技名を聞いた。

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 専用ボックスシートで、歓声に応えるヒトラー。実はルーイーもこの時、驚異的な最終ラップのみならず、5,000Mの自己ベストを出している

 党宣伝全国指導者、ゲッペルス。「ウソも100回繰り返せば真実となる」は真実!?

 「5,000メートル走です」

 「で、お名前は?」

 「表彰台にも行きませんでしたし、名乗るほどでは・・・」

 「いや、ヒトラー総統は全てのアスリートの名前を知りたいと思っていらっしゃる」

 「ええ、じゃあ、名前はザンペリーニです」

 カメラを渡すとゲッペルスは、写真を一枚撮った。そして帰って来ると、

 「ヒトラー総統がキミに会いたいとおっしゃっておられる」

 と言い、これにこちらはポカンと口を開いてしまった。

 緩衝地帯を歩いて抜けると、オレはヒトラーと握手をした。彼は友好的とも言える感じで、通訳越しに

 「ああ、キミがあの凄いスパートをした選手だね」

 と言った。それでオレは自分の席に戻った。素直に言うと、自分にとってそれは大したことではなかったし、もしヒトラーがその時に腕時計をくれたとしても、別に凄いことでもなかったろう。彼は、当時よくいた独裁者の一人だったから、だから何?という以上のものではなかった。彼が反ユダヤ主義者だったのは当然知っていたし、自分もそんな主義を信じていた訳ではもちろんないが、恥ずかしながら正直に言うと、あの時、それが一体何を意味するのか、自分には分かっていなかった。自分は高校を出たばっかりだったし、各国の政府や世界がどう機能しているか、またしていないかということより、自分自身の方が大切だった。

 その後、オレはチームの一人とベルリンの街に出てみた。どこへでも歩いて景色を見てみたのだが、オートマットではビールをリットル単位で売っているそうで、ここに行きたかった。

 オートマット:自販機レストラン。ドイツ発祥の「進んだ」形態のレストランで、当時のアメリカにも既にあり、1926年には画家のエドワード・ホッパーが、題名もそのものズバリで画題にしている(右)。写真は1955年のドイツ、フランクフルトのビール自販機。「アンブロークン」によると1936年当時のベルリンでは、ビールは最低でも1リットルからしか買えなかったという。この時何本飲んだのかは「アンブロークン」をどうぞ

 ビールを一杯やると、人はなかなかほろ酔い加減で歩けるというもので、何というか、普段はやらないようなことをやってみたい気分になる。それにオレ達はお土産も欲しかった。そこで「タンズ・バー」、つまりダンス・ホールのあるバーで、灰皿を一つ「ゲット」して、それと折り畳み式の扇子も「ゲット」した。

 もちろん、ヒトラーの総統官邸も外せない。オレ達はカッコイイ建物を見るため、官邸から通りを挟むとそこで立ち止まった。建物の正面では2人の守衛が、入り口中央から角まで行進をしていたのだが、それはいわゆる膝を曲げないグース・ステップという奴で、角まで来ると、くるっと回れ右をしては真ん中に戻っていた。オレ達がその様子をじーっと見ていると、リムジンが一台止まり、中からヒトラーが数人の将校に伴われて出て来ると、官邸の中に入っていった。

総統官邸・ファサード

 官邸は拡張工事が繰り返され、中が繋がっているので、どれも官邸は官邸なのだが、カッコイイ入り口はそれぞれ「何々門」のように「ファサード」と呼ばれた。左が昔からある首相官邸で、真ん中は1936年に撮影された78番街の新館。鷲のマークで有名な、右の新官邸は1939年にできた。上記の描写は真ん中の新館だろうか?

右は第一次大戦のカナダのポスター

「今こそ勝利の国債に踏み出そう、でないと後でこうなるよ

グース・ステップ、ガチョウ歩き

北朝鮮やナチスが大好きなあの行進方法のこと

 そこで思いつく「お土産」は数あれど、オレはどうしてもナチの旗が欲しくなってしまった。とはいえ建物の屋上にはためく、シルクの綺麗なやつには手が届かない。そこで視線を下げると、地面から10~15フィート(※3Mから4.5M)位の所にある、官邸の囲いの壁に差されたポールの1枚に狙いを定めた。頭を集中させ考える。やれるのは守衛が見ていない時だけだ。オレはじっと守衛の行進ルーティンを観察すると、どれくらい時間をかけているのか計った。守衛がそれぞれの角に向かう間に、通りを渡り、ポールを登って降り、こちらの方向を振り返る前にずらかる・・・イケる!

 守衛が外側を向いた瞬間、オレは動いた。だが旗の下まで行ってみるとそれは思ったより高い所にあり、しかもポールに登るのにオレは手間取ってしまった。守衛が回れ右をし、こちらを見る。彼らは何かを叫びだした。オレは思いきり伸びると旗をもぎ取り、地面に飛ぶとそのまま走り出す。逃げながら、ライフルのようなデカい音が、ズガーンと一発響き、後ろからは

 「ホールテン・シー!ホールテン・シー!」

 と言ってくるのが聞こえた。自分はドイツ語なんて知らないが、意味なら当然分かる。

 この状況に自分は「賢明な選択」をとることにした。走るのをやめ、止まったのだ。守衛はこちらを取り押さえると、オマケに何度か平手打ちまで加えてきて、だが相手がオリンピックの公式ユニフォームを着ているのを見て、それがアメリカ代表のアスリートであることに気がついた。守衛の一人はたどたどしいながら英語を話し、オレがどうして旗をもぎ取ったりしたのか知りたいようだった。そこでオレは自分の名前と理由をありのままに話した。アメリカに持って帰るお土産が欲しかった、と。そして少しだけ話を盛った。

 「そうすればいつだって、ドイツでの素晴らしい思い出が甦ると思ったんです」

 彼は別の守衛一人とオレを残すと、官邸内に消え、年上の高級将校を連れて帰ってきた。フリッチュと紹介されたこの将校は、後で知ったのだがヴェルナー・フォン・フリッチュという大将で、ドイツ軍の最高司令官だった。(彼は最終的にヒトラーの方針に逆らった廉で、処刑されることになる)フォン・フリッチュは

 「どうして鉤十字を引き剥がしたりしたんだ?」

 と言い、そこでオレはもう一度説明を繰り返した。そしてそれは正しい答えだったに違いない、だってフリッチュは「ドイツへの旅の記念」として、旗をくれたんだから。

 旗は今でも持っている。

フリッチュ大将

 後に、当時は犯罪だった同性愛者だという嫌疑で罷免。ポーランド侵攻時に無謀な突撃に追い込まれ戦死している

 盗んだ旗の写真にサインして売るなんて・・・

例えチャリティーでもしませんよね!?

 この自分の小さな「冒険」は新聞に載ると、すぐに人々から忘れ去られた。だがその数年後、つまり第二次大戦の最中にアメリカ側はこの話を、宣伝活動・プロパガンダの一環として甦らせるべく、起きてもいない話にすり替えた。ネタにされたこちらはそんなこととは露知らず、しかしそれが判明した時に分かったのは、こちらの政府は敵側を、可能な限りの悪に描く必要があったということだ。

 ウォルター・ウィンチェル(※ゴシップ・ラジオで有名)とバージェス・メレディス(※映画ロッキーにトレーナー役で出演)がラジオでこれを語っている。旗を総統官邸の壁から引き剥がす代わりに・・・いやまあここは、そのままここにあるラジオの書き起こしを見た方がよさそうだ。

 ー『1936年の現場はベルリン、今、我らがアメリカ代表団は、ヒトラー総統とその取り巻きが、ナチス式の敬礼を送る閲覧席と対面しています。何人かの代表はこれに同じく敬礼で応え、しかし他の選手達は気まずそうに立ったままです。しかし・・・あっ!居並ぶ中より一人の青年が飛び出すと、ポールへ向かい鉤十字の旗をとってしまった、しかも地面で踏みにじっている!少し騒ぎになっているようです!これには総統もカンカンだろう!

 青年の名はルー・ザンペリーニ。南カリフォルニアの長距離ランナーで、何百万といるアメリカの青年の中でも、最初にナチズムへの反逆を宣告した男だ!』ー

 ちなみにこれには別のバージョンもある。旗をもぎ取ってそのままトラックを1周走るというものだ。当時のことを思い出せて何とも懐かしい話だが、どちらもそんなことは起きてはいない。

ロッキーに出演のバージェス・メレディス

これもイタリア系アメリカ人の物語

 ナチ式敬礼:当時ドイツでは現在の北朝鮮よろしく、マスゲームでこの敬礼をしないと処罰された。また今でも白人至上主義者達は、これで人種差別を是とする意思表示をし、このポーズは例えその意図があってもなくても、ただ単にSNSで注目を浴びたいだけでも物議を醸す

 もちろん自分とてオリンピックでメダルが取れたら嬉しかったろう。しかし代表チームに入れただけで同じくらい嬉しかったし、何より旅全体が大冒険だった。競技、パーティー、他の選手達との交流、それは時と共に最高の思い出となり、全ては一体となったものなのだ。こんな至福の時間を、一体誰が言葉にできるだろう?

 8月の半ばに競技が終わると、選手達を祝賀会が次から次へと待っていた。ドイツでは選手達への接待係として、最も美しい女の子たちを選りすぐっていて、全員が若い、魅力的なフロイライン・ Fraüleins(※独身女性)で、こちらをまるで王様のように扱ってくれた。ハンブルグへの列車が出る前日の夜は、高級カントリークラブで晩餐会があり、豪華なダイニングルームには、長テーブルが珍味の類で埋め尽くされた。繰り返しになるが、オレ達の給使係になってくれた、ヒトラーによって徴用された女の子達は、もう本当にかわいい子ばっかりで、こちらにサーブすることにも興奮しているようだった。

 旗を盗んだ時に一緒だった友達とオレは、その中でも一番かわいい2人に、晩餐会の後で会いたい旨を伝えた。それからオレ達は外に出て、オレンジの木の下に隠れ、お互いの首を抱き合って過ごした。でも、したのはそれだけだ。ウソじゃなくて。出発の時間になった時、バスのドライバーはクラクションを何度も鳴らして出発を促したが、オレ達はかわいい子を置いて出発するなんてできなかった。最後にはチームメートに大きな声で呼ばれ、熱い抱擁もそれまでとなった。女の子たちはバスの後を追いかけてきて、

 「私たちもアメリカに連れて行って」

 と大きな声で言い、お陰で自分はチームより、折に触れて散々にからかわれることになった。

 ベルリンにて、オリンピック・ビレッジでのトレーニング

ー03年版より

ベルリンにて、競技前のトレーニング

 ハンブルグでは、陸上のエキシビジョン・マッチが行われ、ここでもアメリカ代表を歓迎するために、食べものでいっぱいの巨大なダイニングルームが用意された。バー・カウンターの真ん中には大きな溝が切ってあって、そこでビール・グラスをお客さんの目の前にスライドできるようになっていた。とまあこうなると、自分なんかは飲めるだけ飲んでしまうのであって、すると競技への準備の時間です、というアナウンスが流れた。アメリカ代表は試合は次の日だと思っていたのだ。なんという卑怯なやり方だろう。腹がいっぱいの状態で走るなど、とんでもない話で、こちらの長距離走者たちは試合を拒否し、フィールド競技(※幅跳びと高跳び、やり投げ等)の選手だけがエキシビションに参加した。

 そしてそれがドイツで最後の出来事だった。翌日には全員がアメリカに向かうSSルーズベルトに乗船し、途中、イギリスで大英帝国杯に出るため、イングランドに寄港した。

 

 ところがロンドンでの部屋は最悪だった。オリンピック委員たちがグロブナー・ホテルに泊まる一方、オレ達はバスで街を出て辺な所にある、酷い外観の汚いスラム街のような建物に泊まらされ、ロンドン観光や人と触れ合う機会もなかった。この上に伸びた安アパートのような建物の階段は物凄く狭く、荷物を体の前に持って階段を6回上がらないと自分の部屋にたどり着かなかった。(※6回:six flights. おそらく3~6階)部屋もそこにいると、外で寝た方がマシだと思うものだった。おそらく他の選手も同じことを考えていたのだろう、自分の部屋からもう一度下に降りてみると、選手達は全員が外に出ていて、浮かない顔をしていた。

 自分達は全員で簡単な票決をとると、その日はトレーニングもせず、大英帝国杯は完全にボイコットすることを決めた。そしてそのまま文字通り、縁石に座ったままオリンピック委員が来て苦情を聞いてくれるまで、ずっと待っているつもりだった。

 ブランデッジが到着すると、こちらに凄い勢いで割って入って来て、選手に宿舎をそのまま受け入れるように言った。

 「自分達もあなたと同じ、グロブナー・ホテルにしたいんですが」

 年上のオリンピアンが選手達を代表して反論した。彼らは口論を始め、ブランデッジは去り、再び帰って来たが、それでも選手団は譲らず、最終的にはブランデッジが折れた。そうせざるをえなかったのだ。

 そのあとで、オレ達はオリンピック委員たちへの嫌がらせのためだけに、一番高いフランスのシャンパンを朝、昼、晩と頼んで、支払いは部屋につけた。

 

 ニューヨークからトーランスまでの列車の旅は、約5日かかり、到着した時はもう夕暮れ時だった。ロサンゼルスの駅まで行くと、トーランスの新しい警察署長、ジョン・ストロフィーさんが出迎えてくれ、そこから街を縫って走る間、パトカーのサイレンと警告灯を回して送ってくれた。それから車が街の外れまで来ると、群衆が通りに集まっているのが見えた。オレは何か事件でもあったのかと思い車を飛び出した。すると集まっている人達は、オレを1.5T車のトラックの上についた、ピカピカ光る白い玉座みたいな椅子に乗せると、その周りを数人の陸上選手がトラック・スーツを着て囲んだのだが、そこに座っているのはものすごく恥ずかしくて、顔から火が出るかと思った。実は家にはそっと帰ろうと決めていて、両親にだってシカゴに着くまで電報も送っていなかったのだ。

 トーランスの広場は、自分達が到着する頃には人がいっぱいで、町の消防車は吹き流しをたなびかせて走り回っており、そこには「ザンペリーニ今夜帰る」と書いてあった。スピーカーからは「ルーイーお帰り」と大音量で流していて、これにはただ、もう圧倒されてしまった。

 こういう形の、つまり公共の場での愛情表現というのは、昔から大の苦手で逃げるようにしていたのだが、しかし町の人たちは逃がしてはくれなかった。オレは短い挨拶を述べるとその場に座り、そっと逃げる機会を窺った。すると車椅子に乗った女の人を通りに見つけた。これは自分の一番の親友の継母で、チェックの靴下が大好きな人だったので、オレはニューヨークでお土産に靴下を一足買っていた。矢も楯もたまらずトラックから飛び降りると、オレはその母ちゃんにお土産を渡し、ギュッとハグを交わした。

 そしてこれが凱旋祝賀会の始まりで、その歓迎ぶりは本当に素晴らしかった。ストロフィー署長が

 「まーあ、こっちがルーイーをトーランスの小路という小路の、隅から隅まで追い掛け回したお陰で、彼もなかなかの体になったもんです」

 と言った時は、自分でも苦笑いをしつつも、声に出して一緒に笑えた程だ。確かにそれはその通りで、トーランスに1台しかないパトカーが南に行くとこちらは北へ行く、という具合に、オレはいつも逃げに逃げていた。そう思えば今となってはどれだけのトーランスの人達が、自分もかつてはチンケな不良と大差なかったのを知ってるんだろう?と考えずにはいられなかった。

 

 その夏は結構な数の大学がオレを、まあ実はオリンピックの以前からなのだが、スカウトしようとしていた。その中の一つのスタンフォード大学で、オレはクライド・ジェフェリーというスプリンターと1週間を過ごした。学校側はわざわざオープン・カーを用意してくれていて、それを使って数日間に渡り、キャンパスや周囲の様子を覗いてみた。ノートルダム大学は奨学金をオファーしてくれたが、オレはそれを断り、代わりにグレッグ・ライスという二流のランナーを入れるよう、そこのコーチ、ニコルソン氏に伝えた。以前オレはグレッグを1マイル走で、50ヤード(約45メートル)くらい差をつけて負かしていて、その後に

 「キミは1マイルというより、2マイル走の方があってるよ」

 とアドバイスしたのだが、それで彼は自分の代わりに奨学金を貰うと長距離に転向し、世界記録を打ち立てた。

 USCこと、南カリフォルニア大学のディーン・クロムウェル・コーチも、オレを欲しがった一人だ。彼は伝説とも言えるコーチで、彼のチームは他のアメリカのいかなる大学よりも全米選手権で勝っていた。もしUSCに行って、フィールドで練習している選手に、

 「高校で世界記録を持ってたのはどの競技?」

 と誰に聞いても、その答えが返ってきたろう。また一方で誰かがクロムウェル・コーチを

 「世界で最も偉大なる陸上のコーチ」

 と言っても、彼はどんな時でも調子に乗ったりはせず、こう返すのだ。

 「ここに世界一のアスリートが来た以上、こっちも世界で最高の陸上コーチになるのは当然なんじゃないかな?」

 実はクロムウェル・コーチは、1936年のオリンピック陸上チームのコーチで、オレの高校の試合も全部ではないにしろ、そのほとんどに足を運んでくれていた。この人は歯を見せてニコッ、と笑った顔と、自分の所の選手のみならず他のアスリート達にも発破をかけるので有名で、挨拶の仕方からしてこうだ。

 「ハーイ・チャンプ!」

 まあこれも実際の所は、自分のチームへの引き抜きも兼ねていて、つまり彼の仕事の一部ではあったんだが、それでもオレにとってはこのアゲてくれる感じは、自分が認められるようで嬉しかった。

 一方でピートは既に、国内では1マイルのトップ選手としてコンプトン大学に入っていたのだが、クロムウェル・コーチはその点、スカウトとして優秀だった。オレ達2人に、奨学金を用意してくれたのだ。

ルーイーとクロムウェル・コーチ

コーチはジェシー・オーウェンスを主人公にした

映画「栄光のランナー」にも登場

https://en.wikipedia.org/wiki/Dean_Cromwell

1936年のトーランス高校の卒業写真

03年版より

 1936年9月、オレは南カリフォルニア大学に入学し、陸上でのスタートも上々だった。大きな大会であるプリンストン招待杯に1年生として出場すると、そこで2マイル走で初めての国内タイトルを獲ったのだ。ピートは大学に入ってからもたまにコーチをしてくれたが、オレはしばしば言うことを聞かなくなり、アドバイスを無視しては生意気な態度でこんなことを言うようになった。

 「分かった、分かった、分かってるからー」

 だって詰まるところ、オリンピックに出たのはオレなんだから。

 そう、つまり自分はまだまだメンタルが未熟だったのだ。競技場では勝つために、またチームのためにひたすら走ったが、トラックを離れると人気投票の類で選出されるような人間ではなかった。未だにオレは孤独で頑固で、怒りの沸点が低い男だった。

 その冬、クロムウェル・コーチのアドバイスにも関わらず、オレはスキーを始めることにした。それは脚や肺を鍛えて、陸上の役に立つとしか思えなかったからだ。だがビッグ・パイン(※地名。カリフォルニアの山)のゲレンデを滑り出すと、その途中でオレはアイスバーンにあたり、コントロールを失うと勢いよく転倒するハメとなった。そこで自分は立とうと試みたのだが、すると脚と膝に痛みが走り、体がもう一度倒れた。診断の結果は、膝の損傷と足首の靭帯が裂けているとのことで、これで松葉杖をついた2か月の間は、走ることができなくなった。

 これにピートは厳しいことを言ってきた。

 「オマエは、チームやオマエを応援してくれている人達に対して、つまり自分より若い子達に責任があるだろう。アスリートの伝統を守るには、犠牲も必要なんだぞ」

 これにオレはカチンと来た。

 「普通の生活が送れないで、他の人がするようなことができないなら、陸上なんてやりたくないわ」

 オレが棘のある声でそう言い放つと、この言葉はそのまま、その後数年間に渡る自分の行動パターンとなった。自分は全てが欲しかったのだ。名声も、新しいタイトルも、そしてキャンパス・ライフが生むキャッキャッとした時間の全ても、手放すなんて嫌だった。

 

 自分はその頃まで、世界記録を破るといったことにフォーカスしていなかったのだが、国内大会の1マイル走の大学記録だけは別だった。プリンストン大学のビル・ボンスロンという男が、オレのヒーロー、グレン・カニンガムをインチの差で負かしていて、4分8秒08という記録を出していたのだ。そこで自分はタイトルをいつかグレンのために、そして自分のために取り返してやると決心した。

 オレは厳しいトレーニングに励んだ。しかしその方法は、クロムウェル・コーチが賛同したやり方ではなかった。自分は高校の夏に、行く場所行く場所どこであれ走って行くと決心してから、上り坂を走ってトレーニングをしていたのだが、これは当時、陸上のコーチが選手達に禁じていた手法だった。つまり、コロシアムの観覧席の階段を上ったり下りたりするなんてことも許されない。医者に言わせれば階段は心臓に悪いということだったが、しかし事実は真逆で心臓を強くしたし、脚も強化した。オレは周囲の言うことなんて聞かず、毎晩コロシアムのフェンスをよじ登って侵入すると、「マゾヒズム・ラン」に励んだ。階段を上まで駆け上がると脚は炎に焼かれるようで、それから横列を歩いて横切ると、次の縦列を再び下まで降り、次の階段を上がるのだ。そしてそれらは通常のトレーニングの後に行った。なぜそんなことをしたかって?人はポジティブな態度こそが、誰にでも必要な全てだと言う。もちろんそれは大事だが、しかしポジティブな態度と勝利には、実は何の関係もない。自分は往々にしてレースの前から、ポジティブとはかけ離れて、最初からダメだと思って試合に臨んでいた。本当に勝利に関係するのは、体に向かって何を働きかけるか、ということだ。体ができていないのに、自己肯定感だけでレースに勝てる訳がない。

 

 1938年の6月、オレは再び健康を取り戻して2年生を迎えると、NCAA(全米体育協会)の大会のため、ミネアポリスへと向かった。我らがUSCは3年連続でこの大会に勝っていたが、しかし今回は厳しいという言葉では表せない程の苦戦が予想されていた。大会当日の朝、クロムウェル・コーチは自身が抱える34名のアスリートを、昼食のためホテルからカフェテリアまで半マイルを(※0.8キロ)歩かせると、その後通りを渡らせ、そして大きな窓ガラスの中を指さした。

 「ここに、トロフィーがある」

 (※日本で言う高校野球の優勝旗。NCAAのトロフィーも勝利校に一年間保管され、大会時に返還される)

 オレ達が4.5フィートの勝利の象徴(※1.37メートル)をじっと見ていると、コーチはそう言った。

 オレは自分達が今年も勝つ可能性はあると踏んでいて、さらに自分がウィスコンシン大学のチャック・フィンスキに勝てれば、その可能性もかなり上がると考えていた。フィンスキは1マイル走で2年連続で勝っていて、下馬評では誰もが彼が勝つと思っていたし、実際オレが4位以内に入ると見込む人間は誰もいなかったからだ。だがまあ、評論家たちも正しいと言えば正しかったのかもしれない。西海岸のランナーで、今までNCAAを制した人間はおらず、事実として西海岸は有力な長距離走者を輩出したこともなく、全ては東側に制されていたのだ。そんな状況だったから、オレは記録を何としてでも出したかったし、クロムウェル・コーチがオレ達のモチベーションを上げてくれていた一方で、自分の心は悲観論からくる苦い思いで満たされてもいた。

 

 レースの前夜、ベッドで寝転んで本を読んでいると、ホテルのドアをノックする音が聞こえ、ドアを開けるとそこには、ノートルダム大学のニコルソン・コーチが立っていた。

 「ルーイー、話があるんだ」

 彼はそう言うと、オレに外に出るように手で促した。

 「こんなこと、言いたくないんだが・・・今ちょっと東側のコーチの集会があって、こちらは選手達に明日、何をしてでもキミをレースから除外するように言うらしいんだ。これから起こることに気を付けて欲しいし、自分の身を守って欲しい」

 東側のコーチ陣は誰もが、未だに有力な長距離ランナーを輩出していないにも関わらず、マスコミがクロムウェル・コーチのことを「世界最高の陸上コーチ」と呼ぶのが気に食わなかったのだ。彼らにしてみれば、1マイル走こそが至上のレースであり、100ヤード(※91M)や220ヤード(※200M)などお遊びに過ぎないのだ。特別な存在である1マイル走でだけは、クロムウェル・コーチにどうしても勝たせたくなかったのだ。

 「ありがとう、でも自分のことは心配しなくて大丈夫ですよ」

 オレはそう、ニコルソン・コーチに言った。

 「自分のことは自分で守れますから」

 まあ、無理でもせめてできると言ってやる。

 オレはベッドに戻ると、もう言われたことは考えたりしなかった。今まで競技場で酷いことをする奴は見たことがなかったからだ。自分の競技相手はいつでもスポーツマンシップに則っていた。まあ彼らは全員、西側出身ではあったのだが。

 

 次の日の朝、オレはルームメイト達と、ロバート・ドーナット主演の映画「巌窟王(※原題モンテクリスト伯)」を見に行った。イタリア人としてこれは外せない映画で、見所は何と言っても、伯爵による恨みがある奴ら全員への復讐劇だ。オレは見ている最中、アドレナリンが頭から溢れ出るようで、映画の後にオレ達はタクシーでホテルに帰ると、軽い昼食をとってからトラックへと向かった。会場の拡声器からは、3人か4人の勝利予想の選手名が呼ばれ、その一人一人がスタンドの前でジョギングで行っては帰り、会場を沸かせる。

 そしてそこに、オレの名前はなかった。

 

 スタートガンの音と共に、オレ達は走り出す。オレはいつも通り先頭に出ようとはしなかったが、その時は不思議に力がって、全く体が消耗する感じがなかった。走りながらニコルソン・コーチが東側のランナーについて言ったことを考える。きっとそれは自分の周囲を束になって囲んで、前に出させない戦術ではないかと思った。

 すると程なくしてオレは周囲を囲まれたが、すぐに奴らが別の戦術を仕掛けてきたことに気がついた。突然脚に焼けるような痛みが走ったのだ。前を走るランナーが後ろに足を伸ばしてきたか思うと、薄いカミソリのような形状のスパイクで、こちらの弁慶を蹴っていたのだ。蹴られた場所には深さ約1/4インチ(※0.635cm)かつ、上下1.5インチ(※3.81cm)の傷が3つもできた。だが、走っている最中にこの手の傷を食らうのは初めてではなく、集団で走る時のつきものではあった。事実、陸上選手というのは誰でも、練習で犬に追われたりもする。犬を撒くには跳ね上げる足を6インチ程(※15センチ程)、後ろに伸ばして、犬の鼻を切ってやるのだ。

 だが、これはいつものそれとは違った。

 「おいコラ、何やってんだよ?やめろよオイ!」

 オレは怒鳴ったが奴はもう一度やってきて、こちらの靴下には血がんだ。

 ともかく、この集団から出ないといけない。オレは脇を締めたランニングの基本姿勢をとると、2人のランナーの間から横に割って出ようとした。だが奴らは肘を90度に固定すると、こちらの脇腹に向けて肘打ちを入れてきた。主に屋内ランナーお得意の戦術ときた訳だ。後で調べてみると、肋骨にはひびが見つかったが、その時はみぞおちに入って息ができないとしか感じなかった。

 レースはそのままノロノロと進み、オレは3周もの間、歯痒い思いと戦い続けた。すると奴らのリーダーがスパートをかけた。これで他の選手たちも楽に勝てると思ったのだろう、油断したのか囲みが少し緩み、そこでオレはその隙を何とか割って出た。奴らはオレのラスト・スパートがどれだけ速いか、間違いなく忘れていただろう。先にスパートしていたリーダーに楽に追いつくと難なくトップまで出て、スローペースに本気で頭に来ていたオレは、最後の10ヤード(※9.1M)は少し流し気味に走った。

 全てが終わるとクロムウェル・コーチが、どれくらいの速さだったと思う?と聞いてきた。オレは自分のタイムを誤差1秒以内で言い当てるので有名だったのだ。

 「4分20秒を切れたらラッキーな方だけど」

 「だったらその、ラッキーな方だ。4分8秒3で、国内大学新記録だ。しかもそれで息すら上がっていない。もう少し、4分ピッタリだって行けたのかもしれない」

 1マイルを4分ゼロ!?そんな夢のような話が?しかしそれは突然にして、そこまで不可能なことではないように思えてきた。

 今、この歳になって(※86歳)あのレースに悔いがあるとするなら、それは最後の半マイルを全力でスパートするという、当初の戦術が遂行できていたなら、ということだ。そうすればあの日に、1マイル4分ちょうどの壁を破れたのではないか?それほどにあの時の感触はよかったのだ。

 ドクターがケガの部分に応急処置をしてくれた時、には3カ所の深手があり、足にはスパイクの穴ができ、両足の靴下は血で真っ赤だった。そしてデッカイ包帯に包まれた自分の様子はニュース映画となり、これには

 「どうしてこんなことが起きるんだ?—あなたの足にはどうしてテーピングが巻かれているんだ?」

 という手紙が何通も届いた。

 将来の自分の妻となった人も、その当時はまだ多分12歳くらいで、後年に語った所によると、母親とエロール・フリンの「ロビンフッドの冒険」を映画館に見に行った際に、ニュース映画で両足を包帯でぐるぐる巻きになった自分を見たそうだ。

 それでも最後には、自分は勝てたことに純粋に満足できた。なにせグレン・カニンガムと自分に、記録を通り戻せたんだから。

 その夜は、次のレースと足の治癒のために休んでおくべきだったんだろうが、そうはいかなかった。地元の大物議員がオレ達7人のために、自分のキャデラックを用意してくれて、息子をドライバーにつけてくれたのだ。そこでオレ達はドライバーの彼に映画のチケットを買うと、自分達だけでキャデラックで出かけることにした。まずはホテルで女の子を3人捕まえると、ビールをひっかけて午前3時まで帰らなかった。それから一週間後、ビッグ・テンの大会が(ビッグ・テン・カンファレンス。大学連盟大会の一つ)がエバンストンであり、ここではフィンスキに5ヤード(※4.5M)程つけられて負けてしまった。

 その後、いくつかのレースで勝ったり負けたりしたのだが、翌年1939年のNCAA大会では4分13秒6という、楽な勝利でタイトルを防衛することができ、しかし自分の競技に対する態度は、以前とは変わっていた。

 1939年のパシフィック・コースト・カンファレンスでは

4分16秒で勝利

 足に傷を負ったこの時のルーイー。当時ニュース動画は、光学フィルムで撮ったものを現像してから、映画館で映画の前座に映写機にかけて流していた。テレビは世界に先駆け、ドイツがベルリン・オリンピックで世界に自慢していた時代で、「ブロードキャスト」といえばネットでもテレビでもなく、主にラジオのこと

 数年に及ぶストイックなトレーニングの後、オレはちょっとリラックスと言うか、遊びの時間も欲しくなったのだ。そんな時はハリー・リードという、大学の友達でフラタニティの相棒と過ごした。※同友会。日本で言うサークルのもっと関係の濃ゆいもの。寮を一緒にして住むことが多い。本人の意志だけでは入会できず、メンバーの推挙と本人の誓約がないと入れない。しかも入った後に先輩方からの試練のイジメに耐えねばならないハリーは興奮しやすいタイプではなく、特に何かに打ち込む訳でもなく、だがオレが魅かれたのは、いつも落ち着いていて、感情のバランスがとれていた所だ。欲しいだけの金はいつでも持っていて、新車だけでなくロマンシアという名の、24フィート(※7.3M)の自分用のヨール(※ヨットの一種。ヨットはマストが一本。ヨールは大小2本)ですら持っていた。ハリーは数代前から先祖がアメリカに住んでいて、これはイタリア移民の子のオレに深く根差す、劣等感と不安感を強く刺激した。だがハリーはそのことを利用するような真似は、決してしなかった。

 ハリーからすると、陸上なんて時間の無駄と思っているようで、だが逆にこっちから言わせれば、ハリーのセーリングへの中毒も理解不能だった。ある日、ハリーはオレをマリーナに連れ出すことに成功すると、ビールを飲んだ後、自分のヨールを削ったり紙やすりをかけたりしてから、オレと湾内へと乗り出した。それはそれで楽しいとも言えたが、しかしそれだけといえばそれだけだった。

 だが一方で2人には、大きな共通点があった。2人共、勉強なんて大好きな訳がなく、冒険的で面白いことなら何だってやってやる、それが人生で今すぐすべきことだ!と思っているということだった。オレ達はクリスマス休暇に旅行で東側へ行くと、オレはデトロイトで、ベージュのプリムスのオープンカーを新車で買った。それからカリフォルニアに戻ると、特に目的地も決めず州内をブラブラし、お祭りやビール・パーティーをはしごして回るようになった。

 当時のもう一人の友達に、ジェームズ・ササキという、温厚で聡明な日本人がいた。歳は30歳くらいで痩せていて、四角張った小さな顔に、髪を整髪料で真ん中でペタッと分けていた。ササキは在米中の9年間に、ハーバード、プリンストンとイエール大学に在籍した後、現在USCにいた。彼はアメリカの歴史や、英語のスラングにまで極めて精通していて、オレ達はたまに政治科学の授業の後に、陸上について語り合ったりした。勉強に対する熱意は相当なもので、これにはオレも魅かれた。自分達には2つの共通点があって、スポーツが好きなことと、南岸エリアに日本人の友達が多くいたことだ。

 ルーイー曰く14歳での「my first car」こと、1914年にリリースされたダッチ社の第1号車。当時としては実用的なモデルで、この年代でも値段は785ドル、現代の250万円弱で買えた

 1939年製プリムス・デラックス・P8コンバーチブル。当時、オプションにより値段の違いはあるが、2ドアのクーペなら定価895ドルで現在の約180万円~セダンで1,150ドルの230万円。「どこへ行くにも走って行く」と決めていた人が、コレを買ったと言うことは・・・(詳細はどちらも56年版へ)

 1927年のUSCイヤーブック(卒業アルバム・左)よりジェームズ・クンイチ・ササキ

ハーバード、プリンストン、イエールと言えばどれも名門中の名門だが・・・

​ハリー・リード

 ディーン・クロムウェルはオレのこの態度に、好ましくない思いを募らせていた。彼は多くを口にすることはなかったが、こちらを見ている時の態度で、何を考えているのかは分かった。また1939年の秋になると、屋内陸上競技のプロモーター達から、頼むから試合に出て欲しいという電話が沢山かかってくるようになった。こちらも最初の内は断っていたのだが、プロモーター達はこちらが根負けするまでオレを付け回し、しかしクロムウェルはこれを許さなかった。

 「ダメだよルーイー。ここで奨学金を貰ってるんだぞ、大会シーズンの本番が来る頃には消耗してしまう。それに屋内は屋外のそれとは同じじゃあないし、東部の寒い気候でやられてしまうぞ。体が順応していないんだから」

 オレは自分のしたいことを誰かが反対するようだと、相手の言うことを聞かなくなる。

 「映画スタジオで週に35ドル(※72,000円以上)稼いでるんです」

 自分はこう反論した。

 「つまりお金ならあるんです」(エキストラが必要だと、USCやUCLAの運動選手が最初に声を掛けられることが多かった。お陰で「革命児ファレス」とかチャールズ・ロートンの「ノートルダムのせむし男」に出ることができた)

 そうしてどうしてもインドアに出るとなると、金曜日に学校をやめて奨学金を辞退し、週末に大会に出て、月曜日にもう一度学校に入学するという、そんな方法しかなかった。そしてこれには170ドル(※毎週34万円以上)もの、学校への登録料がかかった。だがプロモーター達は、この費用を肩代わりしてくれることを約束してくれ、遂にオレは根負けすると、ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデンでの大会への招待状を受けると、クロムウェル・コーチに反旗を翻した。自分が走るにあたっては、ロサンゼルス・アスレチック・クラブが後援をしてくれた。

 そのバタバタぶりたるや、こうだ。毎週金曜の午後になると、自分はニューヨーク行きの飛行機に乗り、レースを走ると帰りの飛行機に飛び乗りロサンゼルスに帰る。時には試合に勝っても、観覧席へのインタビューまで待てなくて、メダルを貰うとトラック・スーツのままダッシュして、通りを渡ってホテルに戻った。そしてこれは実にアホウな試みだった。容赦ない冬の寒さで、オレはしょっちゅう風邪をひいたからだ。だがそれでも走りは上々で、10回のレースを走って全て4分10秒を連続で切ることができた。一度、ウォナメイカー1マイル杯で、この時は扁桃炎を患って熱もあったのだが、4分7秒6を叩くとフィンスキに次いで2位で、グレン・カニンガムとジーン・ベンツクがそれを追い、しかもその全員が記録を破った。これらのレースでのお陰で、自分は常に4分の壁を破る最初の人間たりうる、という評価を得ていた。

 オレはクロムウェル・コーチが何を言おうと、屋内トラックが大好きになってしまった。屋内なら風も天気もなくて、それと格闘しなくて済んだし、スタンドとの距離も近かった。こちらから観客の顔も見えたし、女の人の香水の香りですら匂うのだ。しかし、クロムウェル・コーチは正しかった。屋内と屋外は違うのだ。勝利への執念からランナー達は躊躇なく、相手をつまずかせては突いて押し、肘を入れる。

 そして競技は最終的に、オレを破壊した。屋内では板を張り合わせた、屋外より小さなトラックの上を走る。マディソン・スクエア・ガーデンの直線コースは、人造大理石の床の1.5インチ程(※3.81センチ)上にあった。あるレースで自分はトラックからはじき出されると、選手達が多重衝突している所に突っ込んだ。ここに全員が折り重なっているライフ・マガジンの写真があるが、そこで自分は靴が片方トラックと床の間に入ってしまい、足を出そうとした時に、左足人差し指の靭帯を損傷してしまったのだ。

 左より、フィンスキ、カニンガム、ルーイー。1939年のマディソン・スクエア・ガーデンの室内大会にて。トラックの外側は競輪場のようにせり上がっていて、同年大会の動画も残っている

https://www.youtube.com/watch?v=GgqqP6kVQOQ

 これには回復するまでのオフの間、自分も今までの人生を振り返ることとなり、足が癒えた時、今後の目標を東京オリンピックに定めることにすると、心に自制と厳しいトレーニングを誓った。そしてもう一度自分が、アスリート人生の極みに近づこうとしているのを感じると、これが自らの自信に繋がった。

 だが不運なことに、その頃からオレは慢性的で厳しい痛みを、右の鎖骨の下に感じるようになった。当初、それは圧迫神経か何かだろうと、無視してトレーニングを続けていたのだが、いつもは40~50ヤード差(※36~45メートル)をつけていた相手が、急にすぐ後ろを走るようになったかと思うと、抜かれるようになってしまった。自分は必死になって離乳食やシリアルの類を食べて、体を元に戻そうとした。勝利は自分にとり、何よりも重要なものであったにも関わらず、しかしいかなる試みも実を結ぶことはなく、遂に1940年のNCAAの1マイル走で、オレは負けてしまった。

 ロサンゼルスのスポーツライターのブラベン・ダイアーは、以前オレを「極西(※極東の反対)が生んだ最も偉大な長距離ランナー」と呼んだが、今となっては自分は彼が間違っていたのではないかと、また4分フラットのタイムなど、ルイス・ザンペリーニにはありえないのではないかと、空恐ろしくなってきた。

 

 だが諦めるわけにはいかない。1940年の、つまりその年の9月に来るオリンピックのため、自分はトレーニングを続けた。だがある日、父がタイムをとってくれていた時に、トラック上で倒れこんでしまった。それから別のレースでも転倒した。クロムウェルはオレを何とかしようとしてくれたが、しかし本当は何をしたらいいのか、誰も分かってなどいなかった。理由は分からないが彼は自分を歯医者に行かせ、歯医者は親知らずの感染が問題の原因と診断するとそれを抜いたのだが、それでも胸の痛みは続いた。そこで別の医者の所へ行き、今度は自分の桃腺を摘出した。だが何の改善も見られない。3番目の医者は副鼻腔に穴をあけ洗浄したが、これも効果などなかった。そして時間の経過と共に、自分の記録はどんどん悪くなる一方だった。

 USCを卒業すると、オレは数人の同級生と共にロッキード社に就職活動に出向いた。だが大学の学位があっても、オレ達はまともな仕事に就けず、自分はオフィス・ワークを希望していたのが、面接では

 「最初は現場で働いて、それから事務作業に応募するのが順序だね」

 と言われ、得られた職種はスポット溶接工で、健康診断を受けることになった。そしてこの診断の後、こちらは担当医の言ったことに仰天することとなった。

 「右の肺が、膿でいっぱいなのが分かりますか?」

 「ええ!?」

 「あなたは胸膜炎です。罹患して数ヶ月は経ってます。しかも陸上選手なんでしょ?片方の肺が膿でいっぱいのままゴールまで走るなんて・・・使える肺は一つだけなんですよ」

 これが謎の痛みの原因という訳だったのだ。オレは注射を受けると抗生物質を処方してもらい、トレーニングを再開した。するとすぐに、まるで自分が野獣になったかのような体の充実を感じた。だがそれには一体何の意味があったろうか?その間に日本は満州を侵略すると、太平洋の島々を一つ、また一つと占領していたからだ。1940年の東京オリンピックは中止となり、オレの夢であったそれは、幻と潰えてしまった。

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