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第8章 英霊に就ての御知らせ

 We Regret To Inform,,,

第二次大戦時の日本の戦死通知書

 ェームズ・ササキの姿を見ているということには、何ともいたたまれないものがあった。それは自分達がUSCで一緒だったというからだけではない。よりによって人もあろうに、長いことアメリカ人に接していて、彼の故国が自分達にやって見せた残虐な行為と憎悪が、いかに見当違いであるのかを誰よりも知る人間だったはずだからだ。

 「座れよルイス」

 ササキはそう言うと椅子を指さし、自分は机の角に座ると、一体どうしてこんなことになっているのか、こちらが必死に理解しようとしているのを察してか、事の次第を語りだした。

 「アメリカの大学にいた時は、いつでも現地の日本人コミュニティに講義をしに行っていてね」

 「トーランスの日本人街に行っていたな」

 「カーソンとガーディナ、それとロミータのもだ。そこで彼らに講義を、特に移民のイッセイに、これはアメリカに来た最初の世代のことだが、日本文化を実践し続けて、故国への忠誠を失わないよう伝えていてね」

 「なぜだ?彼らはアメリカ市民だろう」

 「自分はアメリカ市民であったことはないぞ。日本は貧しい国だからな。だから彼らに『助力を必要とする祖国にいる、貧しき家族のため故郷に送金しよう』と伝えて、さらにガムとタバコの包み紙から鉛の金属箔をとって丸めて、デカい玉にする方法を教えたよ。あとは銅も真鍮もアルミも回収して、日本の貨物船がサン・ペドロに金属スクラップを買いに来たら、それで故国に貢献できる、という訳だよ」

 彼の言うことはこちらも分かった。自分も実際に、ロサンゼルスのリバーサイド・ドライブという通りの、ブレックファスト・クラブというプライベート・クラブで、鉛の玉を見たことがあったからだ。仲のいい友達がそこのオーナーの息子で、大学在学中の週末に大きな招待制のイベントがあると、オレはそこでアルバイトをしていた。敷地には清掃員と庭師を兼ねた日本人の男が一人住み込みで働いていて、自分は彼の小屋にも何度か行っていたのだが、そこで20ポンド(※9キロ)もの柔らかい鉛の玉を2つ、彼が手で押し固めたのを見ていた。あれは各イベントの後に、手間暇をかけて集めた物だったのだ。オレはその一つを実際に手に取り持ち上げてみて、重さを確かめてもいた。

 リバーサイド・ドライブにあったロサンゼルス・ブレックファスト・クラブ。1930年の写真。著名人が名を連ね、1927年の入会金が500ドル(※80万円以上)という高級プライベート・クラブだった

https://calisphere.org/item/cdaf485538c9bf021933d297b599aa49/

https://friendsofgriffithpark.org/the-los-angeles-breakfast-club/

 以前ならササキの理想を、自分は立派なことだと思ったのかもしれない。だが今となっては、それらを戦争を背景に考えねばならない。ササキは自らの同胞に、絶対に戦争と関連付けて話などしなかっただろう。将来に起こる戦争への協力をさせていると認めたりするなど、そんな危ない橋を渡る人間などいない。ササキがやり取りをしていた日系アメリカ人達の中には、来たるべき戦争について知っていた人間など誰もいなかったろうと、自分は確信を持って言える。あの庭師も自分の集めた鉛が、いつか弾丸となりアメリカ人に向けて放たれるやも知れぬなどとは、夢にも思わなかったハズだ。彼は合衆国を愛していたし、そこに住めるのを幸せに思っていた。

 この活動について、ほとんどのアメリカ人は露ほども知らなかった。言われなき真珠湾への奇襲は、布告なしに我々を全滅させ、アメリカ側の報復願望を高めていたが、もしこういった地下活動が戦争勃発直後に判明してなどいれば、それはさらなる報復感情を呼んでいたろう。あれは危険な時期で、多くのアメリカ人は理由があろうとなかろうと、日本人と見れば、いや東洋人と見ればこれを憎み、このことこそがアメリカ政府が日系人を強制収容所に移した理由の一つで、絶対の必要性にかられたものだった。もし彼らがそのまま一般の人の中に留まっていれば、彼らの家が放火されたり、人命すら失われたやもしれない。自分はアメリカ政府による、日本人を祖先に持つアメリカ市民の資産没収が正しかったと言う訳ではない。なぜなら彼らはそれに対し、全くの無防備だったからだ。その内の幾人かは自分の近しい友人ですらあり、学校へ共に通う日系人の同級生だった。他には愛国的な市民もいて、彼らは史上最も叙勲を受けた連隊である、第442歩兵連隊に属すると、ヨーロッパ戦線での戦闘でその愛国心を何度も証明して見せた。あの当時に起きた国家レベルでの衝撃と混乱、恐怖の中では、強制収容は不完全な選択肢の中での、残念ながら甘んじて最良の選択であったのだ。

 最良の選択の一例!?のカリフォルニア、サンタ・アニータの日系人収容所。日系人は日本への戦争協力があろうとなかろうと強制収容所送りとなり、土地やその他の資産は問答無用で没収された

https://latoyarjeffersonjames.medium.com/sadly-detaining-innocent-people-basis-not-a-new-government-policy-e080b42c4c77

 第442歩兵連隊。日系二世でほぼ完全に構成された部隊で、士官は白人であることが条件だった。危険な戦地に回され、兵士の家族の多くは強制収容所にいた           https://imgur.com/gallery/86cV1

 ササキはそこでクッと笑うと、こちらの回想を遮った。

 「そういやあ、大学生協の朝メシが懐かしいね。ハムエッグにベーコン、ソーセージにコーヒー。アメリカ料理は最高だった」

 無論それはこちらとて同じで、ササキがそう言うと、もはや70ポンド(※31キロ)しかない骨と皮の自分からは、口から湧く唾が止まらなくなった。

 それからオレ達はUSCについてもう少し話すと、ササキは救命ボートでの体験のあらましをこちらに話すように言い、日本軍の進撃についても、落ち着いて自信に満ちた態度で太平洋戦線での成功を語った。

 「時折こうして、お互い顔を合わせることになるよ」

 向こうは最後にこうつけ加えた。2人はかつて友人同士だったが、今や机を挟むだけでなく、戦争における敵味方となっていた。こちらからすれば、昔のよしみや特別な扱いを期待することもなかったし、何かを頼むつもりも全くなかった。もはやオレからササキのことを、友人と呼ぶことはできないのだ。

 ササキがオレを退出させると、オレは自分の独房に戻った。そして巡回担当の看守が音の届く範囲から出るや否や、他の捕虜達がこちらに質問の嵐を浴びせて来た。一体誰なのか?基地の所属は?所属の隊は?どうして捕まったのか?そして質問が収まり静かになると、自分の腹の中では一つの疑念が湧き、それは一度膨らむと頭から離れなくなってしまった。ササキはこちらに一度たりとも軍事関連の質問をしてこなかったのだ。大船が高度な尋問施設だということは自分も知っていた。もしパイロットが一人、火曜日に撃ち落とされれば、翌日の水曜には苛烈な尋問に遭うような所なのだ。しかもササキは自分を民間人でありながら、提督に値する地位を持つだけでなく(※将官。佐官の上)、日本の収容所システムにおける尋問官のトップとして、日本中を回っては一日に一つか二つの収容所を訪れるとも言っていたのだ。オレが47日間もの漂流の後に、43日間をクワジェリンの牢獄に過ごし、さらにはひと月近くを使って横浜に来たが故に、こちらが持つ情報などカビが生えて使えないと知った上で、ササキは尋問に値しないと判断したのだろうか?おそらくそうだろう。それならば完全に筋が通るし、こちらが何を言おうともそこに価値などない。

 だが辻褄が合わないのは、それならばなぜ、そもそもオレは大船に連れてこられたのだろう?ということだ。

 

 大船は2つの谷の合流点にある丘陵地帯にあり、そこでの9月はニューヨークの冬によく似ていて、地表を薄い雪の層が覆うと、厳しい寒さは肌身に沁みた。

 収容所は薄っぺらい木材でできており、その構成は主に簡素な造りの3つのマッチ箱のような建物からなり、それぞれが番号でイチ、ニ、サン、つまり1、2、3と呼ばれ、アルファベットのEの字のように配置されていた。この3つの捕虜棟はそれぞれ20ヤード(※18M)程、離されていて、全てが(※Eの字の縦棒の)本館に繋がり、そこには将校達の司令部とトイレ、キッチンがあった。

 捕虜棟の内部は独房になっており、自分達が寝た畳の畳数とピッタリ同じ幅だった。与えられた毛布は紙でできており、これをそれぞれ2枚ずつ支給されると、キッチリと折りたたむ方法を練習して、層と層を重ね最も効率よく暖をとらねばならなかった。枕は藁でできていて、自分は服を着て靴を履いたまま寝た。服はと言えば、それはグリーンホーネットが墜落した時に着ていた物で、今やもう袖なしのカーキシャツと破れたズボンだけだった。収容所にはノルウェー人のソワー・ビョルン・クリスチャンセンという、拿捕された商船の乗組員もいて、彼が自分の持ち物を見繕うと、予備に持っていた自身のコートをくれた。この好意がなければ、自分はおそらく凍死していただろう。

 左:1945年8月30日撮影の大船収容所

ササキによる尋問:ルーイーはササキが他の捕虜には苛烈な尋問をしているのを知っていた

 元捕虜にして、後にオーストラリア公式戦争画家となった、ジョン・G・グッドチャイルド大尉による、大船の独房のイラスト

 「一人の捕虜が床に敷いた薄いマットレスの上で寝ており、体に毛布を、頭は日本で昔から使われている固い枕にのっている。1945年にこのスケッチが記念館に所蔵された時、そこには以下の添え書きが添えられていた。『この絵は、最近できたばかりの3層合板で覆われた独房を描いており、それ以前には壁などない枠組みのみで、雨風がそのまま吹き込んで捕虜達の不快な思いをさらに増幅させた。日本・鎌倉近郊・大船収容所・1945年9月』」—上下とも、オーストラリア戦争記念館より

https://www.awm.gov.au/advanced-search?query=ofuna

 この凍えるような温度にも関わらず、看守達は日中に捕虜達が室内にいることを許さなかった。そこでオレは太陽が出ている間はいつでも外に出て、体を丸めてはこの気候に耐えた。だが幸いにも捕虜達は、この寒さに対して対策を生み出していた。一列に並んでゆっくりと歩いては、とぐろを巻く蛇のように動き、外側を歩く人間が内側に入って暖をとると再び外に出たのだ。

 また独房には四角い小さな窓があり、ここには(※鉄ではなく)木の格子が入っており、誰でも容易に脱走ができた。しかしそんなことをしても何になるだろう?日本はヨーロッパのような、ほとんどの人がこちらと外見が似通った場所ではないのだ。さらには看守達はハッキリと、

 「もしオマエらが逃げれば、10人並べて撃つぞ」

 と言っていた。

 捕虜にはフランク・ティンカーという、ジュリアード音楽院に行ったパイロットもいて、フランクとオレはそれでも脱走を計画した。収容所からは飛行機の音が絶えず聞こえていて、しかもそれはさほど遠い場所からの音ではなかったのだ。おそらく大船から2~3マイル(※3.2~4.8キロ)ほどだったろう。そこでオレはフランクに、

 「日本の飛行機は飛ばせるか?」

 と聞いてみた。するとフランクは

 「ルーイー」

 と言ってから答えた。

 「翼がありゃあ、オレは何だって飛ばせるよ」

 自分が考えたのは、近くの空港に忍び込み、飛行機を乗っ取るというものだ。だが無論、その機体の燃料タンクが満タンかどうかなど分かりはしない。中国まで辿りつけるか、もしくは日本海に墜落するのかも分からないのだ。それでも数週間に渡りオレ達はこの計画を練り、それからこの無謀すぎるアイデアをあきらめた。

 それでも一人、実際に脱走した男がいた。しかしその男は24時間もしないうちに、丘に隠れているのを発見されてしまった。運がいいことに、誰もが彼は頭のおかしい男だと、日本人ですらそう思っていたので、日本側は脱走した男も他の捕虜達も、誰も撃ったりはしなかった。

 だが誰もがそこまで幸運だった訳ではない。収容所から捕虜が出ていく際、オレは彼らを何度も出口で目撃したが、彼らが左に曲がると通常、それは彼らの生存を意味しなかった。一方で右に曲がると、それは別の収容所へ行くということを意味し、それが左でも右でもいずれにせよ、大船の空いた席には新たな捕虜がやって来て、その席を埋めた。

 フランク・ティンカーは第二次大戦後、朝鮮戦争中の1951年に来日すると、上の大船収容所の画像を残している。画像右から三番目の窓がルーイーの独房だったという(56年版より)。大船は「数多くあった収容所の中でも大船だけは、陸軍ではなく海軍の管轄で、本土爆撃中に撃ち落とされたパイロット等が特殊捕虜として入れられ、飴と鞭でこの情報を引き出す特殊尋問施設だった。ここから別の収容所に移すまでの間は赤十字にも捕虜通達をせず、時には精神に異常をきたす程に苛烈な尋問が行われた」(連合国軍の墓銘碑より)

 アメリカ側の兵器はルーイーが海や牢獄で格闘している間にも、空飛ぶ棺桶ことB-24から「超空の要塞」ことB-29や、パラボラ型レーダーに至るまで飛躍的に向上。日本側は出撃するそばから襲撃される艦隊などから、品川病室の捕虜達によるスパイ無線等を疑い(Barbed-Wire Surgeon)、レーダーについても何とか聞き出そうとしているのを捕虜全員が知っていた。これを主に担ったのは、ジェームズ・ササキ及びプリンストン大学を出た知米派の実松譲大佐、さらに本編14章で突然登場する與倉提督こと與倉三四三(よくらさしぞう)中佐で、実松譲は後に「大船収容所始末記」など多くの著作を発表、米軍のニミッツ提督の書籍の翻訳もしている。

 捕虜棟にはそれぞれ、長く狭い通路が通り、それは約4フィート程の幅(※1M強)の滑らかな木材でできていて、捕虜達はここを絶えずモップ掛けするように命じられていた。独房はその両側にあり、地面から一段、階段を上った所になる。一日は看守が日の出と共に朝の鐘を鳴らすと始まり、自分はこの時にたまに体操や筋トレをしたりもした。それから用を足した後に、自分の独房の下の階段の所へ座り、足を通路側へ出して朝御飯を待った。そうしているとキッチンで鳴る調理器具の音が、まるで音楽のように聞こえてくる。さらにはたまに食事の匂いも風に乗って来て、これには唾が出た。そしてこの習慣は今になってもやめることができない。

 キッチンではデューバとミードという2人の捕虜が働いており、配膳から片付けまでを行っていた。デューバは日本軍により、乗っていた潜水艦を航行不能にされた後を生き延び、ミードは海軍のパイロットで、ミッドウェーの海戦で燃料切れを起こして捕まっていた。2人共その大柄で逞しい体格が印象に残る男で、彼らは収容所でもその体形を崩すことはなかった。と言うのもキッチン担当はいつでも、こっそりと余分に食料を得られたからだ。

 彼らは毎日、木でできたデッカイお玉で、こちらのチッポケな丼に米を盛った。捕虜達の幾人かは固めの米が好きだったが、自分はこれで腹が満たされるとは感じられず、特に藁が混入しているのを見るとその思いは強くなった。しかし、そうかと思えば別の時は水分が多すぎ、しかもネズミの糞が混入していたりする。不思議なものだが、貰える物が米しかないと、これがどう調理されてくるのかいつも気になるようになる。時には小さなお椀に入った大根の破片と水も出た。ジャップの言う所の「スープ」という訳だ。運がいいとこれに味噌がついた。

 昼にはこれと全く同じものが出て、夜も同じ。何の代わり映えもしなかった。

 

 自分は飢餓に陥っていたが、しかし時には日本側の支給する物を食べるくらいなら、飢えていた方がマシだと思えることもあった。捕虜達を占めるのはアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人にノルウェー人で、さらにはイタリア人ですら、商業船で拿捕されていたのだが、その内の幾人かは国際法で食事について、肉の支給が週に一度か、それに準じただけなければいけないのを知っていた。そこで我々はそのことを看守達に伝えた。するとその数日後、捕虜達が体を洗ったり唾を吐いたりする、屋外の大きなセメントの流し台の所に、一台のトラックがバックで入ってきた。トラックには冷凍された魚が満載されていたのだが、これは腐っていた。というのも運転手がそれをセメントの流しに投げ入れる前から、既にして臭いがこちらを圧倒するほど立ち込めていたからだ。しかもそのカタマリはまるで動くかのように見え、いや、事実それは動いていた。そこには何千もの蛆虫が群がり蠢いていたのだ。

 看守達はオレ達に「魚」を洗うように言った。それは見ているだけで吐きそうな光景だったが、それでもオレはこの悪臭を何とかすべく、ホースで水をかけると蛆虫を落とし、それからその塊を大きなスープ鍋に移していった。そして捕虜達は全員その成果を、次の日の朝アツイままに頂くことになった。(日本は当時、肥料として大量に人の排泄物を撒いた結果、それで汚染されてしまい、日本側は我々に〔※殺菌のために〕加熱した食事を出さねばならず、そうでなければオレ達は死んでいただろう)

 「スープ」の表面には蛆虫がゆらゆらと浮かび、その様子はまるで彼らがプライベート・プールで遊んでいるかの様で、オレはもはや半分本気で、蛆虫君達がサングラスをかけてレモネードでも飲んでやしないかと思った。果敢にも数人の捕虜達は、蛆虫には栄養価があると考えたのか、これを勢いよく口に入れ、そして吐いた。体重が80ポンド(※36キロ)もない中、オレはおそらく収容所でも最も空腹を抱えた男だったが、それでも自分は首を横に振った。無理、と。

 一人の看守が吠えるように号令を下す。

 「食え!」

 「無理です。食べられません」

 自分はこれに答えた。

 「食うんだ!」

 彼はそう言うと銃剣の先で、オレの耳の後ろの筋肉を突いた。そこからは血が出ると、看守が同じことを繰り返す。

 「食うんだ!」

 オレはそれを口に入れた。

 オレ達が要求した肉に対し、彼らがこちらに提供した「ニク」の、それから2週間後。今度はオレ達にそれぞれ一つずつ、小さな鯨のステーキが提供された。これは50セント硬貨大の大きさ、かつ厚さで照り焼きにしてあり、今度は旨かった。

 

 それから春になってからのある日、消防用に使われていた、捕虜棟の間の貯水池の氷が解けた時、看守達は一匹の小さな子犬を順番で空中に放り投げては、それが池に飛沫を上げて落ちるのを眺めていた。だがそんなことをしていれば、当然いつかは水のない所に子犬は落ちる。この子犬は次の日、シチューになって食事に出て来た。自分にこれはとても食べられたものではなかった。

 配給を嫌がったのは、何もオレだけではない。一人のノルウェー人の老人はしょっちゅう自分の食糧をタバコと交換してしまい、オレ達は彼に食べなければ死んでしまうと言ったのだが、彼は

 「もうね、自分には収容所のメシより、タバコの方がきっと栄養になるんだよ」

 と冗談で返し、最終的には栄養失調から死んでしまった。

 本来、食事はもっといいものが出されるべきだったし、事実、出されるハズだった。ところが調理担当のハタという男は、何と食料の横流しを行っていたのだ。奴は捕虜に割り当てられていた配給を盗むと、それを収容所の塀越しに民間人と物々交換に及んでいた。奴はこの横領品をバンダナ(※風呂敷?)に包むと、オレや他の捕虜に持たせ、日本の農家のちっちゃなご婦人がやって来るまで収容所の端で待たせた。こちらがハタの包みを渡すと代わりの包みが一つ渡され、オレはそれをハタに渡した。ハタは何度か栗ご飯用の栗をここから得ていて、だがこれは捕虜達には少したりとも供されるものではなかった。他にもハタは士官達に上納される贈答品も得ていて、つまりこれは堂々と行われる不法な横流しを可能にする、保険という訳だった。

 

 朝食が終わると、オレは屋外の木でできた長椅子に他の男達と座る。捕虜達はお互い話すことも、手に何か持っていることも禁じられ、つまり読書などできず、一日一日はまるで一か月のようにも感じられた。(収容されてから何か月も経ってから、やっと読書が許されたと思ったら、手に入ったのはパムと言うイギリス人少女についての、「パム自身の物語」「パムの小さな箱」「パム、お祖母ちゃんを訪ねる」といった、簡単な本しかなかった)そこで自分達が少しでもコミュケーションをとるには、モールス信号しかなかった。看守達が十分な距離にいる時に、片方の手でメッセージを叩いて送り、もう片方でこれを隠すのだ。消灯時間の後に捕虜達は、夜警の看守が別の捕虜棟に行っている間に全員が同じことをやっていた。

 規則に対する違反で誰かが捕まると、これに対する罰則は殴る蹴るの激しい殴打となった。多くの看守達が、つまり、シミズ、ヤマザキ(Swivel Neck・クルクル頭)、クマガイ(Canary・カナリヤ、タレコミ屋)、アソマ(Metal Mouth・矯正野郎)、ヒラヤマそしてこの他の看守達が、収容所内でのポイントを稼ぐというためだけに、捕虜達からコンガ・ジョーとあだ名されたボスに大喜びで違反者を突き出したのだ。(これらのカッコはヤマザキとかアソマという日本語の英語への翻訳ではなく、捕虜が付けたあだ名になる)他にも特に北村という衛生兵は、(Quack・ヤブ医者)誰が規則に違反したのかを知りたがり、別にこれは殴打の後の手当てに関心があったのではなかった。

 

 3か月が経つと、フィルは南本州にある士官用の収容所に移り、そこで赤十字や他の国際機関のための「馬揃え・お披露目」要員の一人とされることとなった。そこは懲罰もない「豪華な」収容所だそうで、誰もが菜園で自分達の食糧を育てるだけでいいそうだった。オレ達は別れの挨拶をする時間すらなく、フィルとの別れは寂しいものだったが、相手のことを思えば嬉しくもあった。大船やクワジェリンとは違い、フィルの新たな居住地は赤十字への展示用収容所であるが故に、捕虜のための国際ルールの幾つかは守ったからだ。

 1944年の春、海兵隊「黒羊航空隊」のエース・パイロットとして有名な、グレゴリー「パピー」ボイントン少佐が大船収容所にやって来た。彼は以前に、フライング・タイガースに志願し、(※日米開戦前に日本と)中国戦線で戦っていたが、その後、太平洋戦線に海兵隊として参戦。1月の攻撃中に墜落し、日本軍の潜水艦に捕らえられていたのだ。日本軍は彼を苛烈な尋問の後にトラック島へと移送し、結果としてここ、大船へ連れて来たという訳だった。

 「看守達の前科者写真台帳(マグ・ショット)。北村(上列真ん中)こと『ヤブ医者』はサディストで、捕虜だったビル・ハリスを二度に渡り殴打、危うく死に至らしめた」―03年版より

 戦後に元捕虜達は看守の虐待を告発したが、看守達も自分のフルネームを教えてはいけないことになっていたため、元捕虜達は被疑者の名前が分からず、GHQ側も多くの場合、あだ名を使って被疑者を追及した「Boa Boa Black Sheep」「貝になりたかった男」より

 1945年にオーストラリアの従軍記者により初めて「発見」された大船収容所で、どのように「大船式蹲踞」が強要され、「ビンボー」バットで殴打が行われたのかを、記者に実演してみせる捕虜達。

 フィルが大船から出るということは、秘匿の扱いを抜け、公式に国際赤十字登録の捕虜になる「ハズ」ということ。そうすれば自分が生きていることが家族に知らされ、家族との手紙のやりとりが許され、赤十字からの慰問品や慰問金が貰える「ハズ」で、場合によっては捕虜交換等による釈放もありえなくはなかった。画像はオーストラリア戦争記念館より        https://www.awm.gov.au/collection/019107

 愛称はグランド・パピーことお爺ちゃんだった、グレゴリー・ボイントン。テストパイロットだったが、研修生を決して落第させなかったことから、都市伝説的な存在である長い白髭の航空教習官から名前がとられた。アメリカ側のエース・パイロットとして、当時から有名人マスコミに追われ、酒好きで軍隊内で規則を守らず、上司とモメて左遷、奥さんが勲章をサプライズで隠した次いでに無くして軍に再発行をお願いした、さらには離婚と借金でフライング・タイガースに参加した等々、面白おかしく書かれていた。日本本土への爆撃に参加したパイロット達は、撃墜されると「特殊捕虜」として隔離されると、食事も風呂も減らされ医者に診てもらえない等、普通の捕虜以上に苛烈な処遇を受けたが、ボイントンもこちらに該当した

 日本側はパピーをオレの隣の小さな独房に入れた。もちろんオレも向こうのことは知っていて、向こうも自分がミッション中に行方不明になっているのを何かで読んで知っていた。ボイントンは炸裂弾の破片が太ももに残ったままで、これでほぼ歩行が不自由なまでに陥っていた。あの時自分は毎朝彼の足をマッサージし、腱をほぐして歩けるようにしたのを覚えている。その後、ヤブ医者は自分なら破片を磁石で見つけて、足を切って取り出せるとか言い出した。ヤブ医者が痛み止めに何を使ったかなど分かったもんじゃあないが、しかし奴は約束した通りそれを実行してみせた。

 自分は当時26歳で、ボイントンはおそらく30歳くらいだったろうが、自分達はなかなか親しい友人となった。運がよかったことに、彼が大船に来る頃には規則も多少なりとも緩くなっていて、自分達もお互いに話せるようになっていたのだ。ボイントンは自慢話の類や話を盛ったりするのが好きだった。こちらとしては、彼の軍隊内やアメリカでの問題の数々について既に聞いていたのだが、今となっては自分が彼の一番の聞き役となっていて、彼は結婚生活の悩みについて自分に打ち明け始めた。大きな痛みを伴った離婚の経緯や、それが未だに彼を引き裂く旨が語られるにつれ、自分はよき話し相手であるように努めたつもりだ。

 「もう死のうが生きようが、どうでもいいって思うことがある・・・それこそまさにオレが空の上で、あの黄色いクソ野郎ども共を撃ち落としてやる時に感じることだよ。だがひとたび敵と互いに相まみえれば、勝ちたい、どうしても勝ちたいと思う。キミも陸上選手なら、きっと伝わるだろ」

 「パピー、それこそがまさに、あなたがあなたをエース足らしめた、究極のコンビネーションだよ。もうどうにでもなれと思いながら、負けることを心底嫌う。多分だから、離婚はそんなに辛かったんじゃないだろうか?負けるのは心底、嫌なんだから」

 その苦しみを敵にぶつけるのは、痛みを処理する一つの方法ではあったろうが、しかしそれは一時的なもので、酒に溺れるのと変わらない。シラフに戻った時に、問題は依然として目の前でこちらをじっと見つめているのだから。

 パピーは頑固で物事が自分の思い通りにならないと気が済まず、収容所内でトラブルを起こし、他の捕虜達と同じように虐待と飢餓に苦しむこととなった。そして禁煙時間での喫煙で捕まり、それによりかなり手酷い殴打で痛い目に遭うと、最終的には自身の頑固一徹なやり方ながらも、従順な捕虜生活への順応を始めた。

 1944年1月7日付シカゴ・トリビューン。1面と3面の合成。「エース中のエース」ボイントンの不明を報じる。数字は各パイロットの敵機撃墜数で、ジョー・フォスと6章に出て来たリッケンバッカーの26機と並んだとされたが、その後に28機とされた

 1943年7月5日AP通信発のルーイー不明記事。ルーイーは海軍の所属ではないが、「ナチスの旗をもぎ取って危うく国際問題になりかけ」フリッチュに「子どものいたずらだよ」と許して貰った、とちゃんと書いてある

https://www.newspapers.com/clip/52184180/louis-zamperini-goes-missing-in-the/?fbclid=IwAR0lZ3DNiIhD5VNU61RNFiN1rhXE1vaz50WhGJ5Yzq--youLFPB0gSJ4ynY

 ボイントンは自身の著作「メエメエ黒羊」で、大船で看守か将校になるためのたった一つの資格は「IQテストでマイナス100を超えることだ」と書いている。

 自分の意見を言うなら、全くもってその通り。奴らはとんでもないバカばっかりだった。

 ある看守が一度、オレを含む3人の捕虜を呼ぶと、司令部の小屋の中を、木材の節穴から覗くように言った。中には彼の同僚がいて、なんと自慰にふけっていた。その看守はまた後日、一匹のアヒルを獣姦に及んだ。この常軌を逸した性的実験の詳細の次第は、ボイントンの本に詳しい。これを見た自分は気分が悪くなり顔をそむけた。今ここで述べるのは、そのアヒルは死んだと言うことだけに留めよう。

 またある時は、ある看守がオレをキッチンに呼んだ。するとそこには綺麗な日本人の女の子が立っていて、おそらく25歳くらいだったろう、彼女はそこで鍋やフライパン等を洗うのが仕事だった。看守はオレに彼女の後ろに立つように言った。それからオレの後ろに回り、手を回して伸ばすと女の子の体を掴むと、自分の腰をオレに向かって突き出して、無理やりオレが彼女に向かってピストン運動をするように仕向けてきた。これはもうとても恥ずかしく、女の子も可哀そうだった。

 看守と将校達は三流の男達で、なぜなら日本の優秀な男達は、前線に幾ら送っても全く足りない程に不足していたからだ。収容所で働いていたような人間はほぼ、低能な農家のガキか、戦闘になどとても出せたものではない不適合者達だった。とは言え、彼らも戦闘への疑似体験をしようとしなかった訳ではない。ある日の午後、彼らは一人の胸の潰れたB-24のパイロットを担架に乗せて運んできた。そしてその晩彼が死ぬと、看守達はこの遺体を標的に銃剣の模擬訓練をやった。

 日本側はこちらの意志と自尊心を打ち砕くためなら、何でもやった。こちらを嘲っては「よお、こっちは今まさにサンフランシスコを攻めているぞ!」とか「シャーリー・テンプル(※当時十代の元子役女優)が子ども堕ろして死んだぞ」とか「クラーク・ゲーブルがアフリカ上空で殺されたぞ」と言ってみたりした。(※言うまでもなく全部ウソ)こちらを拳やこん棒で無茶苦茶に殴るのは日常茶飯事であって、収容所の聞いたこともない規則に違反した、とかいう理由だけではなく、こちらが少しでも反抗的なことを考えているのではないかと疑われるだけで、オレ達は容赦なく殴られた。

 

 捕虜達は主にキッチンや清掃班で、奴隷労役さながらにこき使われた。またそれに加えて、看守達は散髪と顔剃りを必要とした。これを誰か強制できるなら、こんなに旨い話はない。自分が小さな頃は近所の子ども達は、誰でも25セント(※約500円)硬貨を貰うと、それでタンジーズという理髪店に行っていた。自分はそこに用もないのにずっといて、作業中の床屋さん達をじっと眺めては、最終的にはあれなら自分でもできると踏み、そこで「ビジネス」を開始した。近所の子の髪をオレが切ることで、母ちゃん達から貰った25セントをゲットして、これで皆でビーチに行ってジェットコースターに乗ったりハンバーガーを食べたりしたのだ。このビジネスは近所の母ちゃんの一人が、あそこの床屋は「腕が悪い」と考えだすまで続き、これにオレはビジネスを継続すべく腕を上げようと決心し、ことあるごとにタンジーズに入り浸った。

 この経験をもってして、オレは収容所理髪店を志願しない手はなかったのだ。別にこれは親切心からなどではなく、戦後の就活の準備でもなく、散髪をして顔剃りまですると、もちもちした米をオーブンで焼いた、黄金色に輝くおにぎりが一つ貰えたのだ。

 そしてこれは、他にはない程に簡単な仕事だった。髪は看守達の頭皮ギリギリまで刈り込めばいいだけだったからだ。だが顔剃りとなると、実はあの直線型の床屋のカミソリは使ったことがなく、猛烈に怖かった。しかも看守の一人に至っては、

 「もしオレの顔から血でも出ようもんならなぁ・・・」

 と言っていた。だがこのサービスは決して避けて通ることはできず、そこで自分の顔でまず練習することから始めた。それでも自分は数人の看守を少し切ってしまい、しかし何のお咎めもなく、それから程なくしてオレはこのカミソリの使い方を習得した。

 看守達はまた、オレに額も剃るように言ってきた。これは不可解な話で、別に彼らはそこに、胸毛もそうなのだが、毛が生えている訳でもなく、だがそれでも彼らは、額から眉毛の上までカミソリを入れるように言うのだ。彼らはそういうマゾ体質だったのか、それとも刃が肌を撫でる感じが好きだったのか?理由は分からない。

 散髪が終わると看守達は全員、おにぎりで支払いをしてくれた。だが「イタチ野郎」だけは払わなかった。奴は自分の優位性を示す必要があったようだが、しかしこれにはオレも腹に据えかねた。そこでオレは奴が来る度に

 「オイ、前回の支払いが終わってないぞ」

 と言ってやった。するとこれに対し向こうは、

 「そうか?後で払うわ」

 と言ってきたので、オレは断る訳にも行かず、今回やれば次は約束を守ってくれるんじゃないかという、そんな淡い期待と共に顔剃りをしてやった。ところが奴は約束を守らなかった。そこまで行ってようやくオレも気がついた。奴に払う気など最初からなかったのだ。そこで次の散髪と額剃りの時に、オレは奴の眉毛を限界まで細く、鉛筆の線くらいまでに剃ってやった。奴はリラックスしていて、うわの空で注意など払っていなかった。散髪が終わるとオレはおにぎりをくれるように言ったが、予想通り奴はこれを払わず、本庁舎へと帰って行った。すると突然、罵声と叫び声が聞こえると、続いて他の看守達が爆笑するのが聞こえた。それから聞こえた二つの言葉を、オレは一生忘れないだろう。

 「マレーネ・ディートリッヒだ!マレーネ・ディートリッヒだ!」

 殴られるのは覚悟していた。が、どうも奴はこれをかなり気に入ったようだ。日本人達はアメリカの映画スターに随分と憧れていて、この新しいスタイルが仲間達によって「アリ」だとされると、奴がオレを咎めることはなかった。

 マレーネ・ディートリッヒとイタチ野郎・weasel、またはキングさんこと、小峰芳衛上等兵。公文書館のマグ・ショットなので、残念ながら眉毛はフサフサしている。歴史教材である下記リンクにもこのエピソードについても記される。(下の方のリンクは、登録後にログインした状態ならサイトが見られます)  https://www.awesomestories.com/pdf/make/140342

 http://www.awesomestories.com/asset/view/Ofuna-Prison-Guard-The-Weasel

 「イタチ野郎はルーイーを決して罰したりはしなかったが、次に顔剃りが必要になると、別の人間に頼んだ」—アンブロークンより 

 ササキは時折、オレを自分のオフィスに呼んだ。しかし自分への尋問に意味があるとは思えず、また尋問自体も決してササキの目的とは思われず、向こうは昔のことを懐かしんでいるようだった。

 こちらからはもはや、向こうとの友情を感じることはできなかったが、しかし相手には幾ばくの想いがあるのは感じ取れた。当初ササキは自信に溢れ、自慢げに日本が戦争に勝つだろうと威張っていたのだが、しかし日本が数々の戦闘で敗北を始め、この事実が虜囚となったパピー・ボイントンによって捕虜達に伝わってしまったと分かると、この態度は変わった。彼は皇帝東条のことを(※東条英機)卑劣な野郎呼ばわりさえし、悪態をまくし立てた。こちらの機嫌を取ろうとしたのかも知れないが、実際の所は分からない。だがなぜ自分は士官として、この明らかに場違いな収容所にいるのか?こう聞いても、向こうは決して答えようとはしなかった。

 また、折りに触れてオレはササキに、捕虜達がより良い食事と懲罰を減らすよう希望していると伝えた。周りの捕虜達は、自分にこう言ってくるのだ。

 「ルーイー、オマエあいつを知ってるんだろ?ここで何が起きてるのか、あいつに言ってくれよ」

 するとササキはこう答える。

 「それじゃあこちらで、何ができるか検討してみよう」

 そしてササキが収容所を離れるとその数日後、オレ達は全員が殴打を受けるのだ。それからオレがササキに会う際に、殴打の件を抗議すると向こうはこう言う。

 「まあなあ、彼らも収容所では規律を厳格に守らせる必要があってね。だが、こちらで何ができるかは見てみるよ」

 と、これがいつものやり口なのだ。決して「自分が」ではなく「こちら」と言い、つまりこれは「残念ながら」自分の手の及ぶ範囲ではないということで、ササキは何が起きても決して責任を取る必要はなく、もしくはそのつもりもなかったのだ。

 

 ボイントンはササキとの度重なる尋問の度に、得た情報を2人の捕虜に伝えた。その一人はジェフリー・ランプリエールで、オーストラリア軍中尉の彼は、ラバウルの近くのジャングル、つまりパプア・ニューギニアのニューブリテン島で捕まっていた。私人としては裕福な羊毛商で、ランプリエールはボロボロの黒いコートを着ると、公的には牧師として振る舞い、収容所内を精力的に動き回っていた。もう一人はオレと仲のいい友人のビル・ハリス中尉で、彼は身長が6フィート10インチにも及び(※2.08M)、父親は海兵隊航空団を指揮した海兵隊大将・フィールディング・ハリスだった。日本軍は遡ること数年前にビルをフィリピンで捕らえていたが、彼は手に入る紙の切れ端を手当たり次第に読んだり、難易度の高い記憶力の鍛錬をこなすことでその内面を研ぎ澄ませていた。その結果オレ達は、時折看守小屋から盗む新聞を含めた全ての情報を、ビルの元へと急行させるようになった。ビルはまるで写真のように見たものを記憶する力があり、地図を見ると、後から一緒に記載された記号も完全にスケッチして再現すると、これを残りの捕虜に見せることができたのだ。

 ウィリアム・フレデリック・ハリスと父であるフィールド・ハリス大将、母親との1939年の写真。細身の長身は各収容所でも目立ち、外見からは想像もつかないが、実はルーイーに負けず劣らずの猛者で、一度フィリピンで捕虜となるも後のインディアナ州知事、エドガー・ウィットコム(右、著作)と共に脱走。何とマニラ湾を、方向感覚を失いながらも8時間半かけ迂回して泳ぎ渡ると、別の二名とモーターボートで中国への渡航を試みた。ところが中国行きはエンジンが故障し、海上で29日間も漂流。モンスーンでフィリピンに戻されるが、それでもめげずにオーストラリアを目指し、再び捕虜となっていた。自分も同じだけ体力があるなら、最高の脱走バディ!?

  ​https://www.historynet.com/escape-from-corregidor-the-story-of-edgar-whitcomb/

 春になる頃には、オレは少しだけ体重を回復していたが、それでも依然として体は弱く、腹も空かせていた。頭の中ではいつでも配給をくすねる方法を考えていて、しかし同時にそれがどれだけ酷い結果をもたらすのかと恐れてもいた。戦時下における食料の窃盗は、懲罰で死刑にすらなったのだ。

 時折デューバとミードは、夕食の後にオレの独房の近くを通ると、捕まれば深刻な事態が起きるのを承知でおにぎりを一つ投げてくれた。ミードはロサンゼルスの辺りの出身だそうで、つまりオレのことはUSCの陸上選手だった頃から知っていた。だが彼の親切心は別にこちらを特別扱いしたということではなく、自分は今までの苦境があったが故に、収容所内でも最も食料を必要としていたからだ。(つまりフィルも大船にいる時はこれは同じで、オレはいつもこのおにぎりをフィルと分けていた)しかしこの他の点ではみな境遇は同じで、お互いが協力し合っていたに過ぎない。人は何とか生き延びようとする時、互いに助け合うものなのだ。

 だがやがては人の渇望とは、理性の範疇を超えてしまう。自分の頭にあったのは、例え命の危険があろうとも、やってみないことには始まらないということだった。オレはそう考えると警備の行動パターンを探った。そしてある夜の深夜1時頃、収容所は夜警担当の一人を除き、ひっそりと寝静まっていた。担当官は一人で3つの捕虜棟全てを見なければならず、建物全てを繋ぐメインの通路はキッチンを通る。オレはひそかにキッチンに忍び込むと、日本海軍の食事を口いっぱいに頬張った。そうするともう夢中になり、時間が経つのも忘れて食べ続け、それから突然、自分の左側に気配を感じた。ゆっくりとそちらの方向に向いてみると、そこにはオレ達がウンコアタマ(※Shithead)と呼んでいた看守が立っていた。この男はヤカラ共の中でも最悪な部類の男で、コソコソと卑劣かつ、いつもこちらの落ち度を見つけようと目を光らせ、上司に報告してこれで認めて貰おうとするような男だった。これにオレは言わずもがな大きな、大きすぎる厄災を免れ得ないことを悟った。

 奴はライフルを手にしており、銃床を床につけたまま、物陰から出て来るとこちらに直面した。オレは向こうが銃を構えるのを待った。が、奴はそのまま動かず、こちらを凝視するだけだった。どうも様子がおかしい。そこでオレはゆっくりと後ずさりし、その間2人の視線はガッチリと合ったままで、自分が逃げようとしたことを口実に、向こうがいつ自分を撃つかと思うと気が気ではなかった。ウンコアタマはどう見てもオレを撃ち殺してやりたいようだったが、しかしこちらはそれでもそのまま後ろに下がり続け、奴の姿が見えなくなるまで決して視線は外さなかった。

 次の日、オレはビクビクとこれからの運命を待ち続けた。だが、誰も自分に呼び出しをかけない。奴がこちらの盗みを上に報告したのは間違いないと思われた、これはウンコアタマにすれば鬼の首を取ったも同然で、しかし何らかの理由で、所長はこれを無視したか却下したようだ。

 だが、なぜ?

 

 天候も温暖になると、所長は朝のお茶を、通りに面した捕虜棟の前の桜の木の下でとるようになり、彼はそこで新聞も読んだ。所長は年のいった紳士で、階級は准士官でしかなく、捕虜達は彼を「ミイラ」と呼んだ。彼は世間と隔絶すると、自らの世界に余分なものを必要としないかのようだった。

 ある朝、オレは所長の周りの庭を掃いていた。所長は新聞を注意深く読んでいて、それは毎日新聞だったが、眉を顰めており大きな懸念が見てとれた。所長は時折ぶつぶつと独り言も言っており、そこには重要な情報があると思われ、オレはこの新聞は手に入れねばならないことを悟った。

 掃き掃除を続けながら隙を窺う。所長に捕まるのはそこまででもなかったが、この行為を調理担当のハタや、ヤブ医者に見つかるのはマズかった。あの二人は収容所の規律について何の責任も持たないにも関わらず、しょっちゅう捕虜に罰則を与えたのだ。

 所長はそのまま居眠りを始め、新聞を落とすと、それはお茶のテーブルの下にふわっと落ちた。オレはそこにジリジリと距離を詰めると、ほうきを伸ばして新聞を引っ掻け、ゴミのように、くしゃくしゃに丸めた。そしてそれを掃いて角を曲がり、トイレに向かって進むと、そこで丸めた新聞を広げた。蛇がのたくったような日本の字など自分には読めなかったが、そんなことはどうでもいい。地図があり、そこの矢印が軍団の主要な動きを示していたからだ。

 オレはこれを解析のためにビル・ハリスに渡した。

 ハリスは本文を読むと、

 「マーシャル諸島から来た時の、オマエのいた島の名前の綴りは何だったよ?」

 と聞いて来た。

 「クワジェリン、K-W-A-J-A-L-E-I-Nだけど、どうしてだ?こちらが占領したのか?」

 「それはもうだいぶ前のことだろうと思う。だって見た所、こちらは日本本土への攻撃に向けて、そこから他の島々に攻撃をしているようだから」

 クワジェリンを占領した!フィルとオレが苦しんだあそこで、今や我が軍はジン・ラミー(※トランプ)をしているのだ。自分達は戦争に勝つことを、決して疑ったことはなかった。巨大工業国である我が国にとって、軌道に乗るのには時間がかかったというだけなのだ。ペースが思うように早くないのも、戦争が敵と大陸を二つに分けてしまっている以上、理解もできる。

 ハリスは新聞をこちらに返すと、オレは外へ出てそれをゴミに出した。その間、ハリスは記憶を頼りに、連合軍の進軍を表した簡単なスケッチを描いた。その後ハリスはそれを主席将校達に見せ、この小さなスパイ活動に参加していた男達は狂喜し、自分達は目前に迫った勝利を想像しては、いつ解放の日が訪れるかをアレコレ言っては推測した。

 だがその喜びは長くは続かなかった。 

 ハリスは自分のスケッチした地図を破棄すべきだったが、しかしそうせず隠し持っていた。そしてその翌日、自分達が屋外に出ている間に、日本側は全員の所持品の検査を行い、この地図が発見されたのだ。収容所には叫び声が響いた。

 「セイレツ!ケンサー!」

 ヤブ医者はそこからハリスを呼び出すと、まずは素手で殴り始め、それから重い桜材のこん棒で何度も殴り気絶させた。誰もがこの人を破壊して喜びを覚える衛生兵に割って入って止めたいのは山々だったが、看守達はライフルを構え、この深刻な事態に備えていた。ヤブ医者はハリスが無抵抗に地面に横たわっているにも関わらず、その上に飛んでは踏みつけ、完全に自制を失っていた。見ているだけで何もできない、それは見る者の心を引き裂くような光景だった。

 この暴行の一部始終が終わると、ヤブ医者は長椅子にもたれ、恍惚の表情を浮かべると激しく息をつき、まるでそれは今、女と終えたばかりの男のようだった。オレ達はハリスが死んでしまったものと思い、そう思うとクワジェリンで憎んだ以上に、オレは日本人共を憎んだ。怒りと同時に無力感に苛まれ、可能なら喜んでヤブ医者を木っ端微塵になるまでこの手で引き裂いて、ドアの向こうから嫌らしい目つきでこちらを見ている奴らや、キッチンの窓の向こうでクスクス笑っている奴ら全員を、撃ち殺してやりたかった。

 所長は一方で、これをまるで意に介さないかのように振舞っていた。彼はこの殴打を止めることなく、させるがままに任せたのだ。捕虜は既に2人が卒倒していたが、気を付けの姿勢で立たされ、コンガ・ジョーがこの列の前を行ったり来たりし、捕虜の動きが疑わしかろうが、まばたきをしようが殴った。

 誰もハリスに触れることはできなかった。そのままにしておく他なく、奇跡的にも彼が身動きをした時、一人のこちらの士官がハリスを独房に連れて行く許可を得て、オレもこれを手伝った。自分達がハリスを畳の上にうつぶせに寝かせ、服を破って脱がせると、そこにはやせ細った背中が血と肉でドロドロになり、黒紫の痣が尻全体に一つとなって広がると、涙なしには見ていられないものがあった。自分達にはヤブ医者がハリスの脊椎の骨を折ったとしか思えず、まだ生きていることが、心から喜ばしいことなのかも分からなかった。

 次の日の朝、誇り高きアメリカ海兵隊員ハリスは、自らの死で看守達に愉悦を与えるより、硬直しながらも歩いて動き、点呼に出ることを選んだ。それから自分のベッドへと戻ると、そこで何日もの間に渡り、伏したまま動くこともなかった。そしてそれから体を動かせるようになるも、精神的に集中できるようになるのはそれから数か月を要することとなった。

 この暴行はあまりに残酷なもので、もしこれが自分だったらどうしただろうということと、ではなぜ自分がキッチンでの「罪」を罰せられないのか?ということを、オレは考えずにはいられなかった。

 真ん中:「北村末得治に発見されたハリスお手製の英日辞典」—「アンブロークン」によると、ルーイーが新聞を盗んだのは「ミイラ」こと所長の飯田角蔵からではなく、北村末得治からになる。よく見ると文面より「ソロモン」「ブーゲンビル」「昭和18年12月17日」「17日同盟発」等の文字が見える。暴行があったのは1944年9月9日とされ、日本ではこの頃、新聞上で太平洋戦線での撤退を「転戦」と表記して暗に認めつつも、誇張した敵機や敵艦の撃破数でごまかしていた。また各社データベースを見ると、新聞は決して広域地図での進路、退路を示していないが、ミッドウェー→ガダルカナル→ニューギニア→フィリピン→沖縄、等の順で戦線が動けば、いずれはアメリカ軍が東京へ到達するのは明白で、広域地図は自身で描く必要があったと推察される。

 左:1944年9月5日付朝刊、毎日新聞。暴行のあった日の4日前の朝刊には、遂にアメリカ軍が硫黄島と父島に達したことが報じられ、また捕虜達も7月にはサイパンが陥落していたことを知っていた。陸地の多いメインルートであるニューギニア等ではまだ戦闘が続いていたが、「日本本土への攻撃に向けて、そこから他の島々に攻撃をしている」「ペースが思うように早くない」とこれらはピッタリ一致する

 このハリスの殴打の件があってからそう経たない頃に、新たに太平洋で撃ち落されたB-24のパイロットが大船に加わった。名前はフレッド・ギャレットと言い、オレは彼が特別に用意された木の椅子に座り、看守に運ばれて来るのを見ていた。というのも、彼は足が一本しかなかったのだ。彼がもう一本の足をクワジェリンで失ったという噂は瞬く間に広がり、さらに彼は収容所にルイス・ザンペリーニという男がいやしないかと、聞いて回っているということだった。

 オレはギャレットに会いに行った。彼によると飛行機が墜落した後、日本軍は彼と部下達をクワジェリンに収監し、この部下達は処刑されてしまったのだが、ギャレットは助かったそうだった。理由は本人にも分からない。またそれに加え彼には足首に傷があったのだが、マトモな処置を受けていなかったので感染してしまい、日本側はこれを切断すると決めた。ギャレットは苦渋に満ちていたが、特にそれはこの「手術」において顕著で、自分とてこれで彼を責めたりはできなかった。たった少しの足首の怪我で、日本軍は彼の足を膝の上から、麻酔も抗菌薬も使わずに、言う所によれば、普通の横引きのノコギリで切ったそうだ。だとすればギャレットが耐えねばならなかった痛みなど、オレは想像もつかなかったし、またしたくもなかった。

 だがしかしなぜ彼は、オレを探していたのだろう?

 「オレはキミの名前が、自分の独房の壁に彫られているのを見たんだよ。海兵隊員達の名前のすぐ下にあって、キミのことは知っていたよ、だって任務中に行方不明になったのは大々的に報じられたからね」

 自分のことが報道されていたのは朗報で、アメリカ人でこのことについて確認できたのは、ギャレットがボイントンに次いで2人目で、オレ達は仲のいい友人となった。

 

 ある日、所長はオレを呼び物に、陸上大会を開催すると決めた。これは何とも奇妙な話だった。オレの筋肉は委縮したままで走ることはできず、そこで代わりに走り高跳びに参加したのだが、自分はこれで優勝した。きっと痩せていたから、簡単に跳べたのだろう。そしてこのことがあってから、オレは体を鍛えるため、トレーニングをするよう努めだした。

 それから程なくして、日本側は大袈裟な鳴り物入りで地元から一人の陸上選手を連れて来た。この真意は言うまでもなく、オレを出場させて負かすことだった。オレはニヤニヤしている将校達にこの試合はアンフェアだと、またトラックも中長距離走にはとても使えた物ではないと主張した。またそれ以上に何より、オレには走る気など毛頭もなかった。だがそんなことは言わない方が得策だったろう。奴らは単刀直入に、オレが走らなければオレだけではなく、収容所全体が苦しむことになるだろうと言ってきたのだ。自分のプライドなどこれに比べれば何でもない話で、そこでオレは走ることにした。ところが自分でも驚いたことに、コンディションを鑑みれば走るとこれがなかなかに軽く、伸びやかに感じられた。自分はその地元の選手にペースを任せ、自分の前を走るのをゴールテープがすぐ迫るまでそのままにし、それからスパートをかけて追い抜いた。自分とてそんなことはすべきでないと分かってはいたが、その誘惑に勝てなかったのだ。

 すると自分は地面で目を覚ました。誰かが後ろから頭を、桜材のこん棒で殴ったのだ。

 数週間後、奴らは次なる選手を送り込んできて、オレはこれにも勝った。試合の後、彼はオレを脇へ呼ぶと、

 「来週、自分のカノジョを連れてくるから勝たせてくれよ。そうしたら、オレはオリンピアンに勝った、って言えるじゃないか。おにぎりを一つあげるからさ」

 これはお安いご用だった。オレは彼に勝利を譲り、すると彼はオレにおにぎりをくれる代わりに、自分のカノジョとどこかへと消えた。だがその2日後、彼は戻って来るとおにぎりを2つくれた。きっとまあ、2人の仲を取り持つのにグッと一役買えたんだろう。

 

 自分は家族や友人達のことを折りに触れて思っていたが、ランニングやフレッド・ギャレットと会うと、戦争以前の思い出がより鮮明に呼び起こされ、故郷の皆がどうしているのかを再び考えるようになった。自分が忽然と消えてからほぼ1年が経過し、ギャレットによれば誰もがオレは死んだものと思っているそうだった。(後になって分かったのだが、大船は極秘の収容所で、日本側は自分をジュネーブ条約の捕虜協定に則った捕虜登録を決してしなかった)自分はこれに我がことより、自分の愛する一人一人の心労を思うと何より心が痛んだ。

 戦後、自分はギャレットから聞いたこと、つまり自分の失踪がすぐに新聞報道になったということを実際に確かめることができた。墜落からひと月も経たぬうちに、つまり自分が救命ボートで漂流している間にも合同国際通信が、

 「現在、ルー・ザンペリーニ中尉と、彼の夢見た数々の未来の1マイル走のために、小さな旗が太平洋空軍基地の兵舎の、追悼コーナーに掲げられている」

 と報じていた。また別の新聞の描写には、自分が

 「ウイング章を返納 ・・・ザンペリーニ 、 現時点での判断では、最も崇高な犠牲を払った模様」

 というのもあった。

 1943年6月、母は複数の友達によって書かれた、一通の手紙を受け取った。その一部を抜粋するとこうだ。

 「私達はラジオやこちらの新聞で、1943年5月27日に、ルーイーの行方不明報告があったことを知りました。私達も皆いたたまれない思いでいますが、ルーイーの居場所についての情報が入ること、そして彼が何とかどこかで無事であることを、お祈り申し上げております」

 また別の手紙にはこうあるが、これは知らない人からのものだ。

 「拝啓 ザンペリーニ夫人

 あなたの息子さんが行方不明となり、その後、亡くなられたのを紙面で読んで知りました。それでも私は、あなたに朗報のあらんことをお祈りしております。私の子どもハワードは1942年の1月23日に大西洋沖で殺されてしまい・・・」

 そんな中、少なくとも自分にとって最も心を打たれたのは、母が日々の備忘録に、自分が行方不明となった後に誰が電話をくれたのかを、リストに残しておいてくれ、これが後になってから分かったことだ。リストは3ページにも渡りいっぱいになっており、美しい手描きで書かれたそこには最低でも100名以上の名前があった。

 

 1943年11月、陸軍はオレを暫定的に任務中の戦死としたが、これが公式発表となるには、行方不明の状態が1年と1ヵ月以上続くことが必要だった。そして来たる1944年6月、遂に両親は国より戦死通知書を受け取った。そこにはこう書いてある

  得難き者を偲んで

 ルイス・ザンペリーニ一等中尉 陸軍認識番号 0-663341,

 1944年5月28日 中部大平洋地区でにて国家の任務中に殉職 

 彼は連綿と続く死をも厭わぬ愛国者の一員となり、その死は自由を生み育て

 恩恵を広げるであろう

 絶えることなき自由を通し彼は生き続け

 その姿は多くの先人達の偉業をも霞ませる

 フランクリン D ルーズベルト

 アメリカ合衆国大統領

 

 大船では、あまりに短すぎる夏が終わり、秋の初めの冷気が空気を満たしていた。これから程なくしてさらに寒くなり、灰の撒かれた収容所の屋外に、凍えないようにしながら立っていなければいけないのを考えると、とても次の冬を楽しみになど思えなかった。

 夜には毎晩、収容所のゲートのすぐ外で、地元の人達が近くの神社に向かうのが聞こえ、朝には毎朝、厚い霧が水田と丘にかかり、それを通して近くの子ども達が、歌いながら学校に向かうのが聞こえた。今思えばそれはのどかにも思えるが、だがこれは当時の自分の神経を狂おしい程に苛立たせた。ランプリエールがその内容をオレに訳してくれたのだが、子ども達は行進曲を歌っていたのだ。その歌詞は教科書の持つ素朴さや、あどけない面々の無邪気さとはあまりにも対照的で、戦争で戦って来た人間にならその意味も通ろうが、しかし子ども達になど自分は理解に苦しんだ。

 いつの日か戦争は終わるだろう。自分とてそれは理解できる。しかし例え爆撃が止み、銃がその砲火を止めようとも、オレやあの子ども達にとってその影響はいつまで心中に残るというのだろう?自分が最も怖かったのは、日本人達から直接叩き込まれているこの憎悪や憎しみを、オレ達の世代が自分らの子どもに教え、その反感と暴力の連鎖が永遠に止まらないのではないかということだった。

 だが自分の注意を収容所内に向けてみると、そこは不潔で汚い物と非人間性で溢れ、心の中でオレはこの戦争は、自分達のこの戦いは正義なのだと思った。もしその正義の戦いが、自分の憎悪を糧に力を得て、それが戦争に勝利をもたらし、そして何よりも自分が戦争を生き延びられるのなら、だったらそれで構わない。自分はそう思った。

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