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2、ロバート・トランブルによる1945年9月6日横浜発

9日付ニューヨーク・タイムズ

(先に注釈)

 ビリーブ・オア・ノット:1918年にアメリカ人のロバート・リプリーが新聞で始めた人気一コマ漫画で、読者がビックリするようなネタを集めた。画像ではゾウの埋葬と墓参りの習慣と共に、リアルすぎるミニ姫路城で井村裕保、郁子さんが紹介されている

 おそらくトランブルが間違えていると思われるが、ルーイーが持っていたのは上の漫画ではなくこちら、スターズ・イン・サービス(軍役中のスター達)―1943年5月21日トレド・ユニオン・ジャーナル。トランブルの記事と違ってルーイーは航空服を着てはいない

 日本も負けずに戦時中のジャパン・タイムズである、ニッポン・タイムズが「Stranger than Fiction : 小説より奇なり」という1コマ漫画を掲載。「スゴーイですね」というプロパガンダの風に乗り、二宮忠八が宮崎アニメの様に空を飛んでいる。でもよく見るとノノミヤだから別人であって、ウソではない!?

 編では「トランブルの記事」とだけ記され、その詳細も日付も記されない、9月9日付ニューヨーク・タイムズの記事ですが、その内容は一体どんなものだったのでしょうか?戦争が終わってしまえば、敵対関係も無くなり戦争の真実も全てが明るみに出る!?と思うのは実は早計で、21世紀から見ればその後に続いて起こる、証拠隠滅や逃亡、時間の経過で失われる真実があり、読んでみるとなかなか貴重な内容になっています。記事では

 ①ルーイーがマックのことを、「マッキンタイアーとしか身元の情報を提供できない」

 ②上記新聞記事の「Stars in service (軍役中のスター達)」と「Believe it or not (信じられない事実)」が間違えられている

 ③「アフリカの○○」と現代のポリティカル・コレクトネスの観点に適さない部分があったり(56年版でも同様に表現)

 ④チョコレート6本と水の缶6パイントが合体し、「救命ボートにはチョコレートが6ポンド(2.7キロ)しかなかった」になっている

 点はありはしますが、しかし全体的には03年版本編ともほぼ合致し、解放直後の即席インタビューで作った記事としては、完璧とも言える仕上がりとなっています。記事としては比較的長く詳細に渡り、おそらくルーイーの記憶の照合には痛みが伴ったと思われること、また受け取り手であるトランブルにも、理解には理屈ではない時間が必要だったと思われることから、取材時間も、好ましいと言われる1時間弱で終わったとは決して思われず、取材自体が実質、被害者ルーイーへのほぼ尋問の様な二次災害となったことも想像されます。無論、ニュースが家族の元に届いたこと、さらには心情を思う存分に吐露できたのなら、ルーイーには悪いことだけではなかったでしょうが、お陰でドーナツもコーラも貰えず、赤十字の女の子への接点も無くなってしまったのなら、トランブルに対する思いは決して本編を覆うユーモラスな感情だけではなかったのかもしれません。また記事には本編にはない情報として、

 ①ウォッジェではコニャックまで貰えた

 ②ルーイーのラジオ放送後に陸軍が自国のマスコミを通じ、ルーイーは間違いなく1年前に死んでいる、と発表、これを日本軍がルーイーに伝えた

 ③それでも家族はあきらめずに手紙を書くと、「3週間前(1945年8月16日、つまり終戦日の翌日)」にこれがルーイーに届いた

 と言った情報があり、「アンブロークン」の典拠にもなっています。そしてこの報道が1945年の9月9日に出たことにより、アメリカ陸軍のルーイーの死亡認定は覆され、50年後にはドレガン・ミハイロビッチが、この記事を通じてルーイーとバードを「発見」する契機となるのです。

 

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ザンペリーニ、オリンピック1マイル走者

壮大なるサバイバルの後に生存を確認

 

 

 ロバート・トランブル

 ニューヨーク・タイムズへ無線送信

 9月6日横浜、日本(遅延報道)—1936年のオリンピックの1マイル走者で、およそ28ヵ月前の陸軍の航空機による探索ミッションから帰還せず、生存の見込み無しとされた、ルイス・ザンペリーニ中尉が、47日間の救命ボートによる漂流という信じがたいサバイバル、及びマーシャル諸島からホンシュウに至るまで、日本の収容所で受けた同じく信じがたい虐待を経て、帰国の途上にある。

 ザンペリーニ中尉が爆撃手を務めた陸軍B-24のパイロットで、インディアナ州、プリンストンのラッセル・A・フィリップス中尉もまた、この前代未聞の試練を同じ救命ボートで生き残り、収容所での苦難も共にしたが、最近になって別の収容所へ移送。救命ボートにいた3人目の男性を、ザンペリーニ中尉は後部銃手のマッキンタイアーとしか、身元の情報を提供できないが、彼は33日目の海上にて死亡し、他7名のB-24乗組員達は、機体の墜落と共に死亡している。

 ザンペリーニ中尉の生存は、陸軍にとっては考えられないことだったので、彼が日本のラジオにより合衆国へ放送を行った翌日、アメリカのマスコミは陸軍の声明を発表、彼は間違いなく1年前に死亡しているとし、これは日本側によりザンペリーニ中尉に伝えられた。

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4面、コラム1へ続く

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死とのレースに打ち勝つ

 

ルイス・ザンペリーニ中尉

AP通信

ザンペリーニは救われ;壮大なるサバイバルが語られる

1面よりの続き

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 しかしカリフォルニア州、トーランスの彼の家族は、それでも望みを捨てず、彼がまるで生きているかのように手紙を書き、彼はこれを3週間前に受け取った。

〔家族は当時、(1944年11月21日)ラジオで家族しか知らない情報を彼が入れたと語っていた〕

 今この瞬間において彼は、沖縄行きの飛行機に乗っている。飢餓や渇き、厳しい天候に晒され、日本側による拷問を受けたにも関わらず、体重が通常値の160ポンド(※72キロ)から143ポンド(※65キロ)に減ったこと以外は、命に別状はない。だがしかし、日本の漁師が彼とフィリップス中尉をマーシャル諸島で捕えた時には、彼は87ポンド(※39キロ)しかなかった。

 1943年5月27日、パルミラ環礁の北西200マイル(※320キロ)で墜落と報告されたB-25を探索するべく、フィリップス中尉は、別の一機が既に30分前に先行し視界から消えていた中、ハワイ・オアフ島のクアロラ空港を離陸した。彼らは縁起が悪いとされ、誰もこれで飛びたがらなかった機体で出動、操縦を熱望した副操縦士は、フィリップス中尉に互いの席の交換を要望し、後者はこれを受諾。これが理由となり、副操縦士は死亡、フィリップス中尉は生き延びることになる。

 その晴れた日の(※午後)2時、彼らの乗った機体は、B-25が墜落したとされる地点に到着。ザンペリーニ中尉は乗組員に哨戒をするように言い、パイロットの元へ報告へ向かおうとしていた矢先に、左舷のエンジン2機が、一つ、また一つと止まった。これにより機体は左に旋回すると、機首を下にして海へと落下していった。爆発は物凄いもので、ザンペリーニ中尉は自分の首が、マシンガンの台座の下に挟まれ、さらに脚と腰にワイヤーがコイル状に巻き付き、動けなくなってしまう。

 指輪が彼の命を救った

 彼は既に機体中央部窓で救命ボートを掴んでおり、これと指にしていた、南カリフォルニア大学の指輪が彼の命を救うことになる。機体は爆発と共に波の下へと沈み、ザンペリーニ中尉のいた機体部分が水面に戻ると再び窓から光が入り、そこからは水面に浮かぶ、誰だか分からない程メチャクチャになった、二つの死体が流れて行くのが見えた。

 それから機体は再び沈み、ザンペリーニ中尉が水深40フィート(※12M)と見積もった所まで移動。彼はそこでメイ・ウエスト・ライフ・ベルト(※ライフジャケット)を膨らませる紐を引き、これと救命ボートの浮力が彼を上方へと引き上げ、マシンガンとワイヤーが彼を行かせまいとして、酷く首をねじり、脚と体から肉を裂いた。彼の指輪が窓枠を捉えると、指は大きく切り込まれたが、彼はこれで自分が地下の暗闇の中で、片手で窓に捕まっているのが分かった。彼はこれをこじ開けると、水面へと突き進む。

 海面はガソリンにまみれていた。半分溺れかけていたザンペリーニは、2艇の救命ボートと海で弱々しく格闘する、フィリップス中とマッキンタイアーを見た。ザンペリーニ中尉は救命ボートによじ登ると、彼らを引き上げ、それからアルミのパドルを手にすると、40フィート(※12M)先の、もう1艇のボートへと漕ぎだし、脆弱な2艇のゴム・ボートを繋げて縛り付けた後、そこをマッキンタイアーの居場所とした。

 フィリップス中尉は頭に、大きな三角形の切り傷を始め、他にも傷を負っていた。救命ボートは海水と血の混じったもので半分ほど浸水し、ザンペリーニ中尉は出血が収まるまで、6時間に及びフィリップス中尉の体の止血点を圧迫し続け、その後に包帯を頭に巻いた。

 ボートにあった備え付けの糧食は、6ポンド(※2.7キロ。前記参照)のチョコレートだけで、緊急用飲料水の缶は、それぞれに数口ずつ飲むと、二日で底を尽きた。

 この後、この冒険は典型的な漂流譚を辿ることになるが、そこで強いられた忍耐は他の追随を許さない。フィリップス中尉はザンペリーニ中尉に、ボートでの指揮を託した。それから彼らは飢えと渇きに襲われ、太陽と海水に晒されると、彼らの上唇は鼻を圧迫する程に腫れ上がり、下唇も皮が剥けると、たるんで垂れ下がって、「アフリカの土人の下唇みたいになったよ」とザンペリーニ中尉は語る。

 彼らは二匹の小さな魚を捕え、ザンペリーニ中尉は一度、2フィート半(※75cm強)の鮫の尻尾を掴むと、肝臓をペンチで裂いたが、彼らに道具の類はそれしかなかったのだ。3羽の小さな鳥と4羽のアホウドリがボートに休息しようととまり、彼らはこれを足から捕え、手に酷く噛みつかれたが、食べた。これらは彼らが47日間で口にした、食料の全てだ。

 空想の調理

 「人はこんな時に、食事のことなんか話したくないと思うかもしれないけど」ザンペリーニ中尉は言う。「でも自分達は食事の話をするのが楽しかった。自分はちょっと料理をしたことがあったから、毎日自分が想像上の食事のために、メニューを準備しないといけなくて、これを朝、昼、晩、とするんだ。しかもそれぞれ準備段階から、食材の正確な分量ですら説明しないといけない。自分は食事について、毎回2時間は語ることになってて、あいつらは一言一句聞き漏らさないんだ。じゃないと満足しないんだよ。

 「あいつらがオレに聞くんだ、『よし、それで今日の昼メシは何だ?』ってさ。それでこっちもこの食事ごっこが本当かのように芝居を続ける。不思議な事なんだけど、これで自分達は元気でいられたんだ」

 フィリップス中尉の頭の圧迫帯は、臭いを発するようになっていた。ザンペリーニ中尉はこれがウジ虫だと分かっていたが、しかしこれが傷に処方できる中でも、最上の薬だと知っていたので、第3週目に凝固した血が塊となって落ちるまで、圧迫帯はそのままにし、包帯はそれからとられた。

 「そこには見たこともないような、細長くて白いまっすぐな、綺麗な傷跡ができてたよ」と彼は言う。

 墜落から27日目に、彼らは3機目の飛行機を見た。だが全ての飛行機は、ボートに悲劇しかもたらさなかった。2日目、一機のB-25が、ボートから2マイル(※3.2m)離れた地点を、高度8,000フィート(※2,438m) で飛んだが、信号弾にも海面に撒いた染料、シー・マーカーにも気づかなかった。3日目、一機の飛行機がボートの真上を高度3,000フィートで(※914m)飛び、これにザンペリーニ中尉はシー・マーカーを撒き、機体の前後に信号弾を打ったにも関わらず、そのまま飛び去った。

 この27日目、実は救命ボートは日本軍の制空権下にあり、この3機目はエンジン二基を積んだ「ベティー(※一式陸攻)」と呼ばれる爆撃機で、300フィート(※91m)まで急降下をかけると、無慈悲にもマシンガンでボートに掃射をかけてきた。

 「銃弾は自分達3人に、ギリギリの所で当たらず」ザンペリーニ中尉は言う。

 「自分達はかすり傷一つ追わなかったのは、奇跡としか言えない」

 彼は身を隠すべく海に滑り込むと、仲間二人は今や共に弱り切って動くこともできず、腕をダランと放り出し、死んだフリに努めた。掃射の通過の度にザンペリーニ中尉は水に潜り、その度に前からも後ろからも迫るサメ達を追い払った。

 若く赤毛のマッキンタイアーは、今となっては髭の伸びた骸骨にして、骨と皮と化していた。彼は精神錯乱を起こした時期もあったが、その度にザンペリーニ中尉が、「上に報告を入れるぞ」と脅すと、その結果軍紀が戻り、その後、彼はまた一日か二日に渡って普通に戻った」

 33日目、この飢餓に苦しむ青年は、死期を悟った。

 「オレはあと、どれだけ持つんだろうか?」彼は非常に神妙な態度で、幽霊のようにささやいた。

 ザンペリーニ中尉は、この死期も近いことを悟った若者に、自分もまた正直であるべきだと感じた。この若者にさらなる苦しみを宣告するなど、冷酷なことだった。「自分は、」ザンペリーニ中尉は優しく言った。「きっと今晩にでも、死ぬと思うよ」

 「了解致しました」青年はささやいた。「自分もその通りだと思います、ザンペリーニ中尉」

 午前3時、ザンペリーニ中尉はわずかな呻き声を耳にした。若きマッキンタイアーは目を閉じ横になり、じっと動かない。中尉はそこで彼の鼓動を感じた。鼓動が無いのだ。耳を骸骨となった胸に当てると、そこに心拍は聞こえなかった。若く勇敢であった心臓は、もはや永遠の静寂を迎えていたのだ。

 彼らしかいない世界の水平線を太陽が突き破ると、ザンペリーニ中尉は主の祈りを捧げ(※天にまします我らの父よ~)、それから30分に渡りこの若者に、度重なる善行と親切心への賛辞を送った。そしてこの哀れな葬儀を、この若者とザンペリーニ中尉の信仰していたカトリック教会式に近づけるべく、彼は祈りの口上を即興で述べた。最後に片手で押し、もう片方で誘導だけをすると、ザンペリーニ中尉は縮んだ遺体を、日の光を浴びる朝の海へと、そっと送り出した。

 昼には日に焼かれ、夜には波立つ海に寒さで凍え、ほぼ誰も経験したことがないであろうこの苦しみの中、ザンペリーニ、フィリップス両中尉は、ただひたすらに漂流を続けた。彼らは日本軍の飛行機を一日置きに見るようになり、それらが出現する時間は毎日少しずつ早くなり、その進路とスピードから、彼らは一直線に日本軍占領下のマーシャル諸島に向かい、漂流しているのが分かった。

 これに歓喜をすると、誰が陸地へ辿り着く日を予想できるかに、彼らは一度の食事を賭ける。ザンペリーニ中尉は47日目を選ぶと、この賭けに勝つことになる。

 ボートは嵐で吐き気を催す程に波間に揺れた。一度、おぞましい程に高い波の上に乗った時、ザンペリーニ中尉は、小さく広がる緑を見た。

 「陸地を見つけたら、気が触れたかのように狂喜するんじゃないかと思ってたよ」

 彼はこう語る。「でも実際は、自分はパッと振り返って、『なあ、フィリップス、あそこに島がひとつあるぞ』って普通の会話口調で言っただけだった」

 それから丸々一昼夜、彼らは体が許す限りにボートを漕いだ。そして朝になる頃には、サンゴのリーフに打ち寄せる、波の音を聞くことができた。しかしそれから嵐が起きた。そしてこの嵐の後、彼らは環礁の中に自分達がいることに気づいた。小さな島々が円環状に、10数個並んでいたのだ。彼らは一番近い島の砂浜まで、約300ヤード(※270m)の地点にいた。すると一艇の船がボートを発見し、進路を変えると、あっという間にそれを追い越して行った。

 15人いた日本人は、誰も英語を解さなかった。彼らは用心深く航空兵達を後ろ手に縛ると、マストに向かって座らせた。船の船長は、乗組員達に恐喝騒ぎを止めさせると、この捕虜達に乾パンと水を与え、それは彼らにとって、実に8日ぶりの水と食料だった。

 最初は緩やかな対応

 「あれは旨かったよ」ザンペリーニ中尉は率直に言う。

 日本軍はそれから30マイル(4.8km)もの移動の後、捕虜と救命ボートを別の船に移し、ウォッジェへと向かった。この時、最初に航空兵達が耳にした命令は、ある士官が英語と日本語で行ったもので、彼らにもこれは「これはアメリカの航空兵だ。丁重に扱え」であるのが分かった。

 ウォッジェでは3日間に渡り、彼らは日本の親切な医師に世話をされ、食事を与えられると、天にも昇る想いでマットレスの上で眠り、強壮剤としてコニャックの配給を受けた。

 彼らはそれからクワジェリンへと移送された。そしてクワジェリンは地獄の別名となる。

 航空兵達は、この最悪の奈落で43日間を過ごすことになった。そこは暗く風も入らず、食事は「ゴルフボールとテニスボールの中間の大きさの米の塊が」日に3度、看守によって彼らに向かって投げつけられ、彼らは不潔な床に落ちた粒を、動物のように必死に拾うことを余儀なくさせられた。

 これと、毎回の「食事」の度に与えられた大さじ4杯のスープで、彼らは47日間の飢餓で衰えた体を、生き長らえさせた。そして日本人達は、そのサディスティックな頭で思いつく限りの、痛みと恥辱をこのアメリカ航空兵達に与えることになる。

 彼らは日本人達の野卑な愉悦のために、歌い踊り、口笛を吹くよう強いられた。看守達は長く先の尖った棒で独房を突き、彼らを(※ローマの暴君)カリグラのコロシアムにいた哀れな野獣達のように、煽り立てては嘲った。

 しかし彼らの試練は、未だ始まったばかりだった。

 トラック島では、日本軍は彼らに所持品検査を行った。ザンペリーニ中尉は財布の中に、自身が載った切り抜きを大事に持っていて、これはアメリカ財務省戦時国債の広告の、「ビリーブ・イット・オア・ノット」という漫画で、彼がランニング・パンツと航空服を着ている物だった。キャプションには、1936年、伝説のルー・ザンペリーニはアメリカ代表としてこの前のベルリン・オリンピックを走り、1942年のクリスマス・イブには、ウェイク島への歴史的な攻撃に爆撃手として参加した、とあった。

 輸送船の乗組員の半分は、クリスマス・イブにウェイク島にいたのだ。

 「彼らは、自分達が残した血だらけの惨状を見てたんだよ」ザンペリーニ中尉は、幾弱の誇りと共に言う。そして輸送船の乗組員達は、ザンペリーニ中尉が誰なのか、またウェイク島と彼らに何をしたのかを知ることになった。酒の勢いに駆られ、その夜、彼らは船内へと駆け込むと、2人の航空兵がいた部屋に群がった。体躯の大きな一人がフィリップス中尉に言う、「オマエは戦争に日本が勝つと思うか?」

 フィリップス中尉は言った。

 「いや」

 この日本人は彼の顔を二度に渡って殴り、それから同じ質問をザンペリーニ中尉に向け、同じ答えを貰うことになった。今や激しく激高したこの日本人は拳を握ると、これを全力でザンペリーニ中尉の鼻目掛けて振るった。彼はザンペリーニ中尉をさらに4度に渡って殴り、他の面々はこれに声援を送り、自分達がこの航空兵を殴る順番を待ったのだ。

 自分で鼻を整骨

 一人の看守がこの殴打を聞きつけると、これを止めさせた。ザンペリーニ中尉の鼻は酷く折れてしまい、しかし彼はこれを、自身の指で元の位置に持ち、この状態を数週間に渡り昼の間中、及び夜も長い間続けることで、整骨を行った。

 彼は未だにこの切り抜きを持っている。財布の札入れにある、秘密の場所にあったので、今では黒くなっているが、ここは日本人達が疑いもしない場所だったのだ。

 1943年9月15日の夜、ザンペリーニ中尉は横浜に到着し、日本軍が自国において勇敢な敵側捕虜を、どのように扱うのかを知ることになる。日本側は彼を、シボレーのセダンの補助席に座らせたが、ランナーである彼の脚は、スペースに入りそうもなかった。日本側士官は苛立ち、彼の折れた鼻めがけて、懐中電灯を6度に及んで振るったのだ。

 「鼻から血が出て」ザンペリーニ中尉は言う、「でも、もう一度折れはしませんでしたよ」

 アモモリでは(※大森)ザンペリーニ中尉は「バード」に会った。これは渡邊という軍曹の事で、体格のいいカエルの様な頭をした、輸出入を営む裕福で名のある家の御曹司だった。渡邊の出自は低いものではなかったが、それにも関わらず、ザンペリーニ中尉や他の多くの証言によると、サディスティック(※人に痛みを与えて喜ぶ)偏執狂だった。

 捕虜達は渡邊のことを「バード」と呼び、これは捕虜が彼の名を呼ぶのを恐れていたことによる。彼は邪悪なことに頭が回り、ザンペリーニ中尉や他の捕虜に、言うに堪えないほど汚い小便器用の側溝で、「腕立て」をさせ、弱く痩せ衰えた腕が疲労で崩れ落ち、雑菌に満ちた人の排泄物に顔が突っ込むまでこれを強要したが、これこそが「バード」の意図なのだ。

 「バード」は浴槽に水を貯め、これでザンペリーニ中尉を溺れさせてやると言い、脅しと恥辱で精巧な拷問の頂点に達したと思うと、突然「気が変わった。オマエを溺れさせるのは、明日にする」と言った。

 彼は一度、ザンペリーニ中尉の頭を、耳から血が出るまで殴ったことがある。彼は止血のために中尉に小さな紙のかけらを渡し、血が止まると愛想よく「おお、止まったか」と言ってから、さらに殴打を加えた。これでザンペリーニ中尉はその耳が数週間に渡り、聞こえなくなってしまった。

 「バード」はザンペリーニ中尉を直江津にまでついて来た。ここは蚤の跋扈する伝染病の温床で、東京から250マイル北西の、ホンシュウの西側だ。ここのトイレは筆舌に尽くしがたい程に不潔で、床の汚物には蛆虫が蠢いていた。多くのアメリカ人士官が吐き気を催し、汚水の溜まったトイレからよろめいて出て来ると、日本側の看守は彼らの靴を検査し、底に汚れがあると罰則として、捕虜達に靴底を舌で舐めるよう強要した。程なくして全員が下痢を患い、これは余りに酷く、その痛みで彼らは叫び声を上げる程だった。

 一般兵に士官を殴らせる

 「バード」は98名の一般兵と5名の士官に、船から石炭の荷下ろしに従事させた。

 「ハタラカナケレバ、オマエ殺す!」

 渡邊は士官を憎んでいた。彼の大好きな罰則は、士官を列に並ばせて、この列に沿って98名の一般兵を歩かせると、それぞれが士官の顔の同じ側を、拳で殴るよう強制することだった。この懲罰をザンペリーニ中尉は何度も受けたが、もしこの打撃の強度が「バード」のお気に召さないと、彼はこの一般兵をこん棒で殴り、彼の卑劣でねじれた心が満足するまで、何度も何度も同じ士官を殴らせた。

 「一般兵がそれぞれ一人の士官を殴り、『バード』はこう言うんだ、『次!』そしてこれはゾッとする読経となると、これしか耳に入らず意識も朦朧とするんだ」ザンペリーニ中尉は証言する。「次、次、次、とまるで、足が地面を踏みしめるような調子でね」

 そのうちに士官達は余計な打撃から自身を守ることを覚えた。一般兵達に最初に全力で殴るよう促して、それで終わりにするのだ。

 「結局の所」

 ザンペリーニ中尉は言う、「自分達の一般兵に殴られる方が、汚いジャップの手で殴られるよりいいんだよ。人の殴打を見ているより、受ける方がマシで、やがては意識を失うから、無意識のうちに長時間に渡って殴られたり蹴られたりしても、何も知らずにいられるんだよ」

 これら犯罪の列挙をすれば、延々と続けることができるだろう。直江津のサディスト達の創意工夫には限りがなかったのだ。「バード」は日本が降伏した時にはそこから消えており、看守達は突如として配慮深く親切になった。ザンペリーニ中尉もまたそこを去ったが、しかし彼と何百と言う捕虜達は、そこであったことを決して忘れはしないだろう。ザンペリーニ中尉は自身の感慨を今日、たった一つの文で総括してみせた。彼はそれを口にする前に、しばらく考え込んでから、そして極めてゆっくりとまじめに、こう言った。

 「もし自分が、アレをもう一度やらないといけないとなったら、自分はきっと、自殺するでしょうね」

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