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第4章 片翼の機体と神頼みの戦線

 On a Wing and a Prayer

 自分がロッキードの購買の監査部門に配属されるのに、時間はそうかからなかった。こうなると服装も上等なものになる。だがこれは一時的なものに過ぎなかった。戦争の時代にあって、アメリカもいつなんどき巻き込まれても不思議でないことを、自分とて分かっていたからだ。会社の滑走路にP-38ライトニング(※戦闘機)が一機、また一機と入って来ては飛び立つ様子を、オレは昼食休憩の度に眺めていた。そしてそこへ乗る自分を想像すると面白そうに思い、陸軍航空隊へと願書を出した。

 自分の予備訓練は1941年3月19日に、カリフォルニアのサン・ルイス・オビスポすぐ南、サンタ・マリアのハンコック航空学校で始まった。飛行場は石油王の一人である、G・アラン・ハンコック大尉から名前をとっていて、彼はUSCにハンコック生物海洋学図書館を建てていた。彼はまた父親のヘンリー・ハンコック少佐から引き継いだロサンゼルスの土地の一部に、ハンコック・パークという住宅地区を建てていて、これはウィルシェア中部では有名な所だ。

 出発は何人かの仲間と車で北に向かった。陸軍ではオレにトラック・スーツを着せると飛行機の羽に載せ、クラウチング・スタートのポーズで写真を撮った。今までの陸上のキャリアのせいで、オレはこういった無料の宣伝にいつでも活用される存在で、自分としても役に立てるのなら嬉しいことだった。

 それから数週間の座学の後、軍は遂にオレを訓練機に乗せた。ところがこれは自分にとって衝撃となった。それまでニューヨークに行く時は商用機で飛んでいたが、小さな機体ではこうはいかなかったのだ。中にはこんな飛び方が大好きな奴もいたが、自分はそうはいかず、まず左右に揺れる機体が舵が切ると方向感覚を失い、さらに「錐み」が始まると、もはや完全に飛行機酔いを起こしてしまった。

 オレには地上の方が楽しかったろう。週末は休みで、自分達のほとんどは町へ飲みに出かけた。これは酔って基地に帰らない限り別に悪いことではなく、しかし酔っていた場合は、軍警察(※MP)がその兵士を医務室に連れて行き、強制で15%のアージロールという殺菌剤の溶液を、男の大事な場所に直接注射した。これは焼けるように痛くて、兵士達は頭がもげる程に叫ぶと、その夜はまともに眠れない。航空隊によればこれは兵士のため、とのことではあったが。航空隊は街の女性から、誰一人として性病を持ち込みたくなかったのだ。オレはこれに新兵が抵抗しているのを、1度ならず聞いている。 「いや、そんな、絶対に誰ともヤッてなんていません」 とか言っていたが、酔っ払いの言うことなんか誰が信じるだろうか?

 オレは女の子とは遊んで回らなかったが、一度まっすぐ歩けない状態で基地に帰ったことがある。そしてこれは自分がアージロールを食らうと察し、基地のフェンスを飛び越えるとそのまま事なきを得た。が、その次に再びフェンスを越えた時には捕まってしまい、2週に渡る週末外出禁止令を食らうことになった。

 その最初の週末に、ハンコック大尉が自家用機のロッキード・ロードスターでオレ達の基地にやって来た。実は大尉とはUSCで、オレが大尉のチェロの腕に魅かれたのが縁で友達になっていて、今回も大尉は基地での演奏が予定されていた。これに正規の軍人は全員出席するよう言われていたが、訓練生の出席は任意で、実際に出席した訓練生はオレだけだった。お陰で大尉とはさらに仲良くなることになった。

 演奏会の後、大尉は

 「ルーイー。実はこれからロング・ビーチに飛ぶんだけど、一緒に飛行機に乗ってトーランスの両親に会いに行ったらいいよ。日曜には航空学校にまた送るから」

 と言ってくれた。オレはその提案にとても感謝しているが、外出禁止を食らっている旨を伝えた。

 「ゲートに看板があって、『以下の訓練生はゲートを通るべからず』とある中に、自分の名前があるんです」

 「何言ってんだよルーイー。ゲートなんて通らないよ。だって飛んで出るんだから」

 そう言うと大尉は笑った。お陰でオレは2週間の外出禁止令の間、実家に帰ることができ、誰もそれに気づくこともなかった。

 そんなこんなで結局、オレは訓練を通過できず、航空学校を退学することになってしまった。そこでカリフォルニアに帰り、これも退学になった2人の同僚と、アパートをハリウッドに借りた。自分達は公式にはまだ士官候補生のままで、そこで除隊通知を待ったのだが、ビーチに行ったり映画に行ったり、スポーツ観戦をしに行ったりする以外はやることがなかった。それから除隊命令が来てから、オレはトーランスに帰って再び民間人へと戻ったが、しかし徴兵の対象から外れた訳ではなかった。

 そして身体検査のための徴兵出頭命令は、映画のエキストラとして働いている時に届いた。エキストラでは日給7ドルを(※14,000円)稼いでいて、さらに1本の映画の撮影全てが終わるまでスタジオに残ると、ボーナスで25ドル(※49,000円)貰えた。このボーナスはかなりの魅力で、かといって国への義務を怠る訳にもいかず、すると以前に聞いた、第一次大戦時のあるエピソードが頭に浮かんだ。軍役を延期させたい、またそもそも軍に行きたくないという連中が、の下にタバコの塊を詰め込んで体温を上げたというのだ。中には肛門に葉巻を突っ込んだ奴もいたそうだが、彼らが身体検査の列の前まで行くと、めまいがして気持ちが悪くなったという。オレはそこまではやりたくなかったので、高血糖値を誘発すべく、飴を山のように食べた。とはいえこれが効くのかは正直自分でも疑問で、しかし検尿を受けると後日の再検査を言い渡され、これには自分も喜んだ。お陰で撮影に最後まで参加するとボーナスを貰い、それから再度身体検査を受けると、今度は通った。

 1941年9月29日、オレは陸軍に入隊すると、カリフォルニアのパソ・ロブレス近くの基地キャンプ・ロバーツに配属となり、まずは基礎訓練に就いた。陸軍としては自分に素養を見込んでくれたようで、肉体教練担当の伍長代理に任命された。また、基地内の下士官養成校にも行き、トップの成績でコースを終えた。

 そして自分がキャンプ・ロバーツにいる時、正確には週末外出許可を貰って基地の外にいたのだが 、 真珠湾を日本軍が爆撃した。オレは同僚の一人と街の映画館にいたのだが、映画が途中で止まったかと思うと、支配人がアナウンスを流した。

 「全ての軍関係者は今すぐ所属基地へ出頭するように。日本軍が真珠湾を攻撃しました」

 ところが映画館から出る途中、オレは地元の空軍基地所属の友人と出くわした。自分もキャンプ・ロバーツに急いで帰ろうとは全くしていなかったのだが、彼は 「キミがウチの基地に来てくれたら助かる」 と言ってきた。自分には軍用ライフルの訓練経験があり、空軍では兵舎いっぱいの銃があったのだが、そこの航空隊員達はライフル訓練を一度も受けておらず、誰も使い方を知らないというのだ。そこでオレは自分の司令官に承認を貰うと、その日は空軍のパイロットや、整備士といった人達と時間を過ごした。彼らに訓練を施すと銃の各部名称と、火器を分解しては元通りにする方法を教え、そして訓練が終わると、空軍はオレをキャンプ・ロバーツまで車で送ってくれた。

 基礎訓練の成果は上々で、陸軍はオレをジョージア州、フォート・ベニングの士官候補生の養成校に入れた。すると次の辞令が下った。これはハンコック航空学校を退学になった後に、よく考えもせずに一枚の紙にサインをした結果なのだが、歩兵隊より異動してヒューストンのエリントン基地で、爆撃手養成校に行くようにとのことだった。だがオレはこの命令に対し、キャンプ・ロバーツの司令官である大将に会いに行くと、歩兵隊に残りたいと直訴した。大将はそうするよう努力はすると言ってくれたが、しかし実際には彼にもできることは何もなかった。

 エリントン基地に行くと、オレは自分以外にも、エリントンから転属を希望する男に会い、そこでオレ達は2人共、別の隊への異動を申請した。その間にオレは学校での学科をこなし、陸軍航空隊のためのパブリシティー活動を行った。新聞用に爆撃機と滑走路で走る写真を撮ったり、ナチの旗を奪った話についてラジオのインタビューを受けたのだ。どうやら航空隊は、オレを連れて歩くことで浴びる注目を失いたくないようで、従って異動の希望もいつまで経っても通ることはなく、こちらとしては 「私の異動はどうなりました?先週は誰それが異動になったのに・・・」 と聞き続けるのが関の山となった。

 ぶっちゃけて言えば、ある日2人の士官候補生とヒューストンの街の通りを歩いている時に、白くてデカいキャデラックのオープンカーに乗った2人の若い美人がオレ達の所に車を寄せるまで、オレは航空隊が嫌いだった。オレ達はその時まだ候補生でしかなかったが、胸には航空隊の印であるウイング章を刺していた。そして女の子達は、羽を挿した男を探していたのだ。  「プランテーション・パーティーがあるんだけど、来ない?」(※「風と共に去りぬ」のような大農場でのパーティー、もしくはそれを模したコスプレ・パーティー)

 もちろんオレ達は車に飛び乗った。パーティーでは食事も飲み物もたっぷりあって、しかもタダ、おまけにテキサス美人とのダンスまでついてきた。とまあ、こんな感じのパーティーが何回かあった後、結局のところ航空隊にいるってのも、そんなに悪くはないんじゃないかとオレは思い直した。しかもその後、オレは士官候補生のキャプテンに選出されたし、大きな編成の軍楽隊も(※軍の鼓笛隊というかブラスバンドみたいなもの)任された。この楽団はスタジアムで、軍のトップやワシントンの高官の前で、真珠湾で死んだ兵士たちの鎮魂のために音楽を奏でた。

 次にオレはテキサスのミッドランドにある、爆撃手と士官候補生の学校に移った。カリキュラムはかなり詰まったもので数学と物理を含み、爆撃手は放出された爆弾をまっすぐに落とさねばならない。生徒が落第する確率も高く、オレは教科書にかじりついて勉強すると、何とかこれを通り抜けた。

 とはいえ、こんな状況下でも面白いことがなかった訳ではない。ある夜間爆撃訓練の前に、同じクルーのパイロットの軍曹がオレに、自分のガールフレンドとの「ランデブー」に行けるよう、爆弾なんぞちゃっちゃっと落としてしまえないか?と聞いてきたのだ。オレはこれに思わず聞き返した。

 「は?どこで彼女を拾うんだ?」

 「違う違う。地上でなんか拾わないよ。オレは彼女にね、地元の映画館の上を映画の終わる9時に飛ぶから、彼女もこっちに向かって手を振ってくれって、約束したんだよ」

 その夜、オレ達は他のクルーと共に、訓練機AT-11カンザンで飛び立った。まず軍曹がターゲットの地点まで飛ぶと、オレは大急ぎで爆弾を放出し、お陰でこれは後で自分の命中点数に影響し、基準点を下回ってしまった。

訓練機AT-11カンザン

爆撃訓練中のルーイー。1943年
http://thetorrancetornado.com/

 それからパイロットは急上昇してから垂直にフラット・ターンを決め、ミッドランドへ大急ぎで戻った。そして目抜き通りを低空でブンブン言わせながら飛ぶと、危うく電線をひっかけそうになった。オレが映画館の方を見ると、人が続々と中から出て来て、この限界ギリギリの超低空飛行に、一体何事かとこちらを見上げる。そしてこの調子で、映画館を4回ほど行ったり来たりする頃には、軍曹は

 「こっちに向かってスカーフを振るオレの彼女は見つかったかー!?」

 と叫んだ。これにこちらは

 「いたぞー!通りの真ん中で他の皆と一緒に、ちょっと何してくれちゃったのよ!って感じだったぞー」

 と大声で返した。 パイロットはさらに2回この低空飛行をすると、翼を揺らしてエンジンを吹かし、着陸灯をつけたり消したりし、ガールフレンドの側はスカーフを振り続け、軍曹はそれに満足するとミッドランド航空基地へと向かった。だがオレ達が戻る前に、パニックに陥った市民と警察の電話は、既に基地に殺到していた。その全ては未確認機による、街上空での飛行を報告していた。

 中には既に敵軍がミッドランドへ侵攻していたと、本気で信じている人もいた。

 え?バカにも程があるって? いや、そんなことはない。日付の巻き戻ることその数か月前、1942年2月23日の午後7時。アメリカ中のほとんどが、ルーズベルト大統領の家庭向けラジオ演説・ファイヤーサイド・チャット(※炉辺談話)を聞いている間、一隻の日本軍の潜水艦がカリフォルニアのサンタ・バーバラの西、12マイル沖(※19キロ)の水面に浮上していた。そしてここはエルウッド・ビーチの大油田のすぐそばだった。ある新聞報道によると「日本軍は16発の砲弾を干潟の地帯に向けて発射、[住民は]奇妙な爆発音を聞いた。・・・中略[だがジャップの]射撃の腕は極めてヘタクソだった」一方、これに対する東京側の主張は「軍事的大戦果」とのことだったが、実際の損害は大きく見積もっても、500ドル以上にはならなかった。(※84万円。ルーイーの愛車1台にも及ばない)とはいえ、これはアメリカ本土が攻撃されたケースとしては1812年の戦争以来のものとなり、その後、テロリストがニューヨークとワシントン・DCを攻撃した2001年の9・11までの、最後のものとなった。

 だがこの話は、オレ達がミッドランド航空隊基地に帰還した時へと戻る。基地の最高司令官は全てのクルーに、司令部に即刻出頭するよう命令を下した。

 「そこでだ」

 司令官は怒鳴った。

 「ミッドランドの善良な市民を、限界まで脅かした大バカは、どこのどいつだぁ!」

 軍曹はこの勝手に改変された飛行計画について、他の隊にはバレていないのを承知で、口を閉ざすとダンマリを決めた。オレもこれに続いて何も言わない。この態度に司令官の怒りにはますます火がつき、だがこのドアホ極まる大冒険について、誰かが代わりに「自分がやりましたー」と言う訳もなく、司令官も誰か他の基地所属の人間が、タチの悪いいたずらをしたのではないか?ということにしたようだ。

 この「ミッション」が達成された時、オレ達がお祝いをしたのは言うまでもない。

左:1942年1月25日付のニューヨークタイムズ1面(上)と、翌日の写真の合成(下)及び、26日付の朝日新聞
朝日の全面と日本側の予告爆撃ラジオ!?については「参考資料一覧」へ
右:同じく翌日26日付のニューヨークタイムズ、1面(上)と3面(下画像)の合成及び、1943年1月30日付読売報知新聞(右)
同じく幻影の爆撃についても「参考資料」一覧へ

 1942年8月13日、オレは上から15番圏内の成績で学校を卒業した。そして10月25日に航空隊はオレを、真珠湾襲撃の時に同時に攻撃された、ハワイ・オアフ島のヒッカム・フィールドに配属した。階級は、第7航空軍・第11爆撃団・第42飛行中隊B-24爆撃隊所属・2等少尉となる。そしてこの第11爆撃団は、真珠湾での虐殺への報復のため、最終的に6,000回以上の出撃を行うこととなる。

 オレの任務は他に、オアフ島北岸のカフク空軍基地での業務があった。そこで引き続き訓練をし、ハワイ語を少し勉強し、高度8,000フィート(※約2,438M)で爆撃誤差が約50フィート(※15M)になるまで、爆撃訓練を繰り返した。これはド真ん中のストライクとも言える命中率で、お陰で「熟練爆撃手」の格付けと、ユージン・ユーバンクス少将が言う所の、心得を体得することができた。 「世界で最も優れた爆撃機は、いかなる攻撃があろうとも彼[爆撃手]を戦闘に向かわせ、標的上の30秒で彼は、兵士個人に課せられた最大の責務を果たさなければならない」

 ここに自分の乗ったB-24リベレーターのスペックがある。

軍用機種:重爆撃機

乗組員:8~10人

搭載された武器:50口径機関銃10機

及び 最大12,800ポンド(5,805キロ)の爆載

全長:66フィート4インチ(20.22メートル)

高さ:17フィート11インチ(5.46メートル)

翼幅:110フィート(33.53メートル)

総重量:56,000ポンド(25,401キロ)

エンジン数:4

発電装置:プラット&ホイットニー社製 R-1830

エンジン馬力:各1,200

航続距離:3,200 マイル(5,120キロ)

巡航速度(※最も燃費のいい速さ):時速175 マイル(時速281 キロ)

最高速度:時速303 マイル (時速487 キロ)

最高高度:28,000 フィート(8,534 メートル)

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アンカー ユージン

 ユーバンクスの心得:1943年の映画「Bombardier:ボンバーライダー・世紀のトップ・ガン」で少将が本人役で登場、上記のように言う。「東京とベルリンへの空爆を、フィクションの世界でいち早くお届け」と銘打った
https://www.youtube.com/watch?v=9AkXHWovv0M

 セクシーなノーズアートも再現したB-24 の模型。エンジンは不意に止まることがあり、一つでも止まると空中に留まることは難しくなった http://freepages.rootsweb.com/~webermd1/family/Liberator-Info.html

 ミッドランド陸軍航空学校を卒業し、イサイア・デイビス准将・司令長官から爆撃手として銀のウイング章を胸につけて貰い、晴れて士官「様」になったルーイー

出征前に撮った最後の家族写真。後列左から、この後シルビアの旦那さんになるハーベイ・フラマー、バージニア、シルビア、お父さんのアンソニー。前列ピート(海軍所属)、お母さんのルイーズ、ルーイー、03年版より

巨大な鉄の飛行物体は、時に空飛ぶ「家」とも言われた

「爆弾倉を通る狭いキャットウォークが、銃手のいる後部セクションとフライトデッキ・飛行甲板を隔てている」http://beneathhauntedwaters.com/B-24.htm

キャットウォーク
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 そして自分の初陣は、1942年のクリスマス・イヴの深夜を過ぎてすぐに行われた。出撃に先立つこと2日前、オレ達は自分たちのB-24の爆弾倉に、予備の燃料タンクをつけるよう命じられ、これは長距離飛行があるのを意味したが、行き先は誰も知らず、司令部は3日分の服をしっかり用意するように、とだけ言った。オレはノルデン製の高価なモデルではなく、低高度用にシンプルな1ドルの照準器を支給された。午前10時になると、26機の機体がカフク基地から離陸していった。その5分後、オレ達は極秘の命令書を開けた。オレ達のミッションはまず、ホノルルの1,300マイル北西の(2,092キロ)ミッドウェイ島まで飛べ、とのことだった。それには8時間かかり、現地に着陸すると、一機につき冷えたバドワイザーが1ケースずつ支給された。現地の海兵隊は、オレ達が次にどこへ向かうのか正確に知っているようで、オレ達のことを数週間前から待っていたという男もいた。だがその時こちらの頭の中にあったのは、ともかくシャワーのことしかなく、例えそこにはお湯でも水でも海水しかなくとも、ちゃちゃっと浴びてしまいたくて、自分はシャワーを浴びた。

 その後、周囲を見て回る時間は多くはなかったが、別にそれはガッカリするようなことでもなく、というのもミッドウェイで人目を惹く自然はアルバトロス、またの名をアホウドリくらいなものだったからだ。この鳥は厚いくちばしに、胸の羽毛は白で、(※頭部に向けて)栗色のグラデーションになり、飛ぶときは風に乗り、飛行機のように滑空してスピードに乗った。このため着地の時に高度が高すぎたり低すぎたりすると、(※羽ばたいて高度を調整しないので)容赦なく島の茂みに突っ込んだ。時には電柱や電線の類にも気づかず、方角を変えるのが間に合わなくなり突っ込み、これもまた飛行機そっくりだった。事実、民間の輸送機DC-3の軍用機バージョン、C-47スカイトレインの愛称は、アホウドリこと、グーニー・バードだった。

 ノルデン爆撃照準器:兵士の命よりも重要とされ、価格も当時の8,000ドル・1,200万円以上もした当時最高の軍事機密。コンピュータ制御により爆撃機の自動操縦と連動し、これが作動すると機体の軌道は爆撃手が修正した。しかしこの間は被弾の確立が激増した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E7%88%86%E6%92%83%E7%85%A7%E6%BA%96%E5%99%A8

 六分儀:レンズを除いてカメラのピント調整のようにして、GPSのない時代に現在地を測った道具。第二次大戦では中世の海賊よろしく、こんな器具まで使われた。しかし船と違って飛行機内からの視界は限られており、「アンブロークン」によると航空士は操縦室の非常口を開け、無線士と航空士の机に立って、飛ばされないよう両足を掴んで貰ってこれを使ったとある。しかしそれでも標的や帰着地点を見つけるのは至難の業で、迷ってしまう機体が続出。夜には六分儀すら使えず星を見て航行したが、雲が出ていればそれも叶わず、同書ではこれを「comically primitive 」滑稽なほど原始的としている

アホウドリとC-47スカイトレイン

 そしてその後の作戦会議で、オレ達は残りのミッションを告げられた。日本軍が1年前にそこを占領して以来、初となるウェイク島への爆撃の先陣を切るのだ。

 これは極めて長距離の飛行を伴う、爆撃のマラソンのようなミッションだったが、しかし自分の初陣に不足はなかった。太平洋戦線では、いつでもこのマラソンが行われたのだ。ヨーロッパ戦線ではほとんどの場合、パイロットたちは数百マイルしか飛ばずに爆撃をし(※数百キロ)、機体によっては積み直しを挟んで、一日に2度も3度も出撃した。一方でオレ達のウェイク島への行程は、片道だけで5,000マイル(※8,000キロ)もあったのだが、B-24の航続距離は爆載フルの給油なしでは、およそ3,000マイル(※4,800キロ)しかない。つまりウェイク島に到達するには何らかのトリックが必要なのだが、これが爆弾倉の燃料タンクで、爆弾自体も500ポンド(※226キロ)の爆弾を6個、キャパの半分しか積めなかった。その日、地上クルーはこの時代のステルス・テクノロジーとでも言おうか、両翼の下側をすす(油煙)で黒く塗った。こうすれば、夜間に目視されないという算段だ。

 次の日の14時の作戦会議の後、クルー達は標的と地図を徹底的に頭に叩き込んだ。そしてその2時間後、オレ達は離陸した。余計な重量物を全て剥ぎ取られた機体は、8時間離れたウェイク島へと向かう。この前代未聞の長距離飛行はもちろんリスクを伴ったが、しかし奇襲というのは、相手が予想できる所からするのでは成立しない。ウェイク島では、こちらの海軍が手前を通過しては散発的に砲撃を加える程度だったので、現地の日本軍は安全を決め込み警戒も緩く、爆撃隊の襲来など想定していなかったのだ。

 B-24という機種は必要な速度や、航続距離も使い方次第で出せたにも関わらず、従来機のB-17のように支持しないと言う人もいる。B-17の横から見た流線形は優雅なラインそのもので、優秀な機種だったが、飛行機ってものは横に飛ぶものではないし、B-24は戦争を勝利に導いた真の立役者だ。コンソリデ―テッド・エアクラフト社及び各社は、19,600機もの記録的な数のB-24を製造したそうで、B-29の登場まで、スピードでも航続距離でも爆載量でも、B-24に勝てる機種はなかった。

 迷彩を施された零戦と、1941年12月23日にウェイク島の占領を祝う日本軍 https://www.nationalww2museum.org/war/articles/battle-of-wake-island-1941

 左のB-17の垂直尾翼は1枚に対し、B-24の垂直尾翼は右左の2枚。24は17に比べ航続距離が長くなり太平洋戦線に大量に投入されたが、兵士達は乗りたがらず「コンソリデーテッド・リベレイター」ではなく、「コンスティペイテッド・ランバー(便秘のガラクタ)」または「空飛ぶ棺桶」と呼ばれた

左:「1942年ワシントン・エフラタにて―爆撃手となり配属機待ちの時。自分達はB-17が良かったのだが、配属されたのはB-24だった。自分に向かって左にいるのが我らがパイロット、ラッセル・フィリップス」—03年版より
​右:フィル―
https://russellallenphillips.weebly.com/

 クルー達は自分の担当機に愛称をつけると、それをノーズアート(※グラフィティのようなもの)として機首に描いた。オレ達は自分達のB-24に「スーパーマン」という洗礼名を付けると、この鉄の男の絵を胴体に描いた。

 オレ達のパイロットは二等少尉のラッセル・フィリップスで、背の低い、典型的なインディアナ出身の鷹揚とした男で、無駄口をきくタイプではなく、オレ達はフィルと呼んだ。フィルはこのスーパーマンを、ミッドウェイからウェイク島まで高度1万フィート(※3,000M)で、標的から150マイル(240キロ)圏内に入るまで夜間灯をつけて飛んだ。計画では深夜を過ぎた直後に、先鋒機が爆撃を開始する予定だった。

  そして0時5分に、マスィーニ大佐の機体からの爆弾が島にあたったのを見ると、自分も爆撃倉の扉を開けた。ウェイク島は断続的に雲に覆われ、これにより飛行隊は攻撃時に8,000フィート(※約2,438M)より4,000フィート(※1,219M)へ急降下しては、高度を上げて引き返した。この急降下爆撃により、自分は敵が対空砲火と7.7ミリ焼夷弾を撃ってくる中、手持ちの照準器で数秒で計器の測定と同期をせねばならず、この間、敵の砲弾はまるで火の鳥のようにこちらの右翼をかすめた。

 それまでの常識では、エンジンを4つも積んだこんなにデカい爆撃機が急降下爆撃をするなど、誰も予想だにしなかっただろう。だがB-24はデイビス・ウイング設計になっており、これが爆撃機に撃墜機のような飛行性能を持たせていた。つまりB-24は、ほぼ戦闘爆撃機と言ってもよかったのだ。事実、ハップ・アーノルド将軍はオレ達を実験的な部隊として展開しており、カフクでは魚雷を使った反跳爆撃を訓練したりしていた。これは低空で飛んで爆発物を海面のすぐ上で落とし、それを石切りのように跳ねさせて敵に当てるという方法だが、実はかなりの欠陥があった。海面で跳ね返った魚雷が、それを落とした飛行機に当たってしまうのだ。ありがたいことに、これが起きたのはあくまでシミュレーションの時だけであって、魚雷も訓練用のそれだったということだ。最終的にアーノルド大将は、こんなに重い爆撃機に反跳爆撃は使えないと結論付けた。

 それから我が機は爆撃のため、水平飛行に移った。するとオレは、赤いテールライトをつけた零戦が、島の南端から離陸しようとしているのを見つけた。こちらは薄い雲の層を通してそのテールライトに同期をとると、ゼロが地面より飛び立つのと同時に、南北に走る滑走路へ爆弾を一つ落とした。爆弾は零戦に当たることなく、しかし滑走路にデカいクレーターを作る。それから2秒を待つと、残っていた5発の爆弾を格納庫と、東西に走る滑走路近くの飛行機群に向けて投下した。その後、機体は敵の弾幕の真っ只中を、左に向かって鋭角に急旋回し、航空士のミッチェルが大声で機首方位を叫ぶと、自分達は帰路へとついた。この間オレ達は、まるで空を焼く花火に魅入った。日本軍の猛烈な対空砲火にも関わらず、こちらには一機たりとも着弾がなく、後ろを振り返ると島は文字通り、至る所で「爆発が起き、砲弾は赤い光を放って」いる状態で、まさに火の海だった(※アメリカ国家の引用)。

 我々が島を壊滅させると、日本軍は混乱に陥った。日本軍は急降下爆撃を航空母艦からのものだと考えたのだ。だがしかし、こちらもミスを一つ犯していた。先に翼のガソリンタンクを使ってしまったことだ。最初の急降下を行った際、爆弾倉側のタンクはまだいっぱいで、これに遠心力が加わった結果、1~2インチくらい位置がずれてしまい、爆弾倉のドアに干渉して完全に閉まらなくなってしまったのだ。このことは飛行中の機体に空気抵抗を生み、機内への隙間風は元より、貴重な燃料をさらに使うこととなった。

 帰路では天候が荒れてきて、視界も悪くなっていった。しかし我らが26機の飛行隊は、全て安全にミッドウェイに帰着することができた。着陸は午前8時前後で、今回、海兵隊は一隊につき1クォート(946ml)のウイスキーで祝杯をあげ、14時になると我々に再び招集がかかり、ニミッツ海軍提督より「よくぞやってくれた。大戦果だ」との無線電報が入った。提督は戦果について知っていたが、海軍は目視での攻撃確認のため、2隻の潜水艦でウェイク島沖に潜んでいたのだ。その日はミッドウェイでは盛大に祝杯が上げられ、翌朝オレ達はハワイに向かって飛び立った。ところがカフクに着いた時には、誰も自分達を歓声で出迎えるようなことはなく、これは襲撃自体がまだ公式に発表されていなかったことによる。だがそんなことはどうでもよく、オレの頭の中にあったのは、ただ真水のシャワーを浴びたいという思いと、その夜予定されていた、北岸将校クラブのクリスマス・パーティーのことだけだった。

 左からフィル、臨時副操縦士のグロス、ルーイー、ミッチェル、ダグラス、ピルスベリー、グラスマン。モズネット(副操縦士にして、スーパーマンの名付け親)、ランバート、ブルックスは写っていない。副操縦士は操縦士になる訓練のため、色々な機に回されたので複数名搭乗した—「アンブロークン」より

「我らがB-24を、自分達はスーパーマンと名付けた。窓で笑っているのがパイロットのラッセル・フィリップス」03年版より

  年が改まった1943年の元日、オレ達の隊はウェイク島襲撃の戦功により、ニミッツ提督よりエア・メダルの勲章をもらった。その後、オレはパイロットのニコルズ一等中尉と、爆撃手のキャリンジャー二等少尉とパーティーに行った。これはよかったのだが問題は帰り道で、ホノルルから40マイル(※64キロ)も離れたカフクまで帰らないといけなかったのだ。それから基地に着いたのは午前も4時半で、基地は降りやまない雨のせいで水に飲まれる程のびちょ濡れ(underwater)で、正直言うと自分達も少々飲まれていた(underwater)。

 

 ウェイク島の襲撃の後、ある新聞記者はオレに出撃は怖くはなかったのか?と聞いてきた。オレの答えは彼を驚かせたろうが、実を言えば自分でも驚いた。

 「いや別に。カニンガムやフィンスキとレースで走る前の方が怖かったですよ」

 しかしこれはそこまで不思議な事でもない。日本軍はこちらに着弾も入れなかったし、空中戦を挑んでくることもなかったからだ。さらに自分は

 「それに、自分の爆弾がターゲットに当たるスリルは、今まで感じたこともないものでした」

 と言ったが、例えそうでもこれらのコメントは軍幹部の不興を買ってしまい、それ以来、自分はこの手の強がりは自身の内に留めて置くことにし、荒天にも快晴にも恵まれた数知れない偵察や探索ミッション、さらにはマーシャル諸島とギルバート諸島への爆撃ミッションの間、自らの運がともかく続くよう祈った。

 自分は本土では数年に渡り、ラッキー・ルーイーと呼ばれていたが、気づけば陸軍の戦友達もまた、この名前で自分を呼ぶようになっていた。一人、また一人と続く葬列に黙って立っていると、自分には思いつきもしない理由で、自らが不思議な力で守られているような気がしてくる。体裁を保つため表面では不敵な沈着さを装っていたが、しかし内面では、この幸運がどこまで続くのか?あと何回五体満足で基地に戻れるのだろうか?と考えずにはいられなかったのだ。

 事実、多くの兵士は出撃したまま帰ってこなかった。そしてそれは戦闘での墜落だけが原因ではなかった。B-24は設計上の問題が幾つかあったのだが、この一例が燃料移送ポンプからの燃料漏れだ。飛行中に重量バランスをとるため、B-24では繋がれた複数タンク間で移送が行われていたが、何らかの理由でこのポンプの造りが、酷くお粗末なものだったのだ。また燃料電池は自動補修コートが施されていたが、両翼にはしばしば煙が充満し、これが機体全体に広がった。いつでもガソリンの匂いがするその横で、周りのクルー達はタバコに火をつけていたのだ。

 また電動モーターから出る火花も爆発の要因だった。これは自分の知る爆撃手の乗る飛行機で起きたことだが、ある爆撃機が高度5,000フィートで(※1,500M)爆発を起こした。しかし彼は運がいいことに、爆弾倉の歩行用の細い梁(※キャットウォーク)の端の部分に立っていて、まだドアも開いていたので、彼は爆風で外に吹き飛ばされ、パラシュートで地上に降り立つと、唯一の生存者となった。

 B-24は時に「空飛ぶ棺桶」と呼ばれたが、それはなんの不思議もない。

 その後その爆撃手は、全ての戦闘ミッションで飛ぶことを拒否すると、しばしば腰の痛みを訴えた。しかしその治療に当たった軍医は、いかなる柔組織の損傷の証拠も見つけることはできず、かといって腰痛を訴える本人に、誰がそんなハズはないと言えるだろう?オレは彼と話した時に気づいたが、彼は軍務から外れるために腰を言い訳にしていたのだ。そのまま彼は痛みを訴え続けたが故に、軍は最終的に彼を本国へと送り返さねばならなくなった。

 またある時は、別の飛行中隊の爆撃手が病気になり、軍はオレを呼ぶとこの欠員を埋めるように言った。だがこの時自分はインフルエンザの一種を患っていて、 「寝込んでしまっていて、できません」 と断った。すると別の男が招集され、そしてその飛行機は山に突っ込んで墜落した。

 オレはこれら諸々の不運な事故を、戦争日記に残している。

 

  1943年1月8日

 午前8:05、会議のために作戦室へ出頭。モズネットの機がカウアイ島のバーキング・サンドを離陸直後に墜落したとの報告を受ける。モズネットとはたった数週間前に、一緒に救助ミッションに出たばかりで、それは彼の第1パイロットしての初飛行だった。今回はコックスウェル少佐が操縦をしていたらしい。他乗組員:フランクリン尉官、副操縦士。シーモア尉官、航空士。キャリンジャー少尉、爆撃手。ホイト大尉、S-2オフィサー(諜報部)。飛行機は離陸後に海に墜落した。噂によれば燃料がケロシンといつものオクタン100の混合だったという。墜落機はオレ達が同じエリアを高度15,000フィート(4,500M)から演習爆撃しているさなか、陸地より20ヤード(20M)沖で沈没した状態で発見され、乗組員は全員の死亡が確認された。彼らは真珠湾での模擬襲撃訓練のため、高度25,000フィート(7,600M)に向け離陸していた。事故機はランド大尉の同乗するスカーラー尉官と、ニコルズ尉官の機体、別の2機と編隊を組んでいたが、事故当時の周囲は暗く、彼らは死亡事故に気づくことはなかった。死傷者は士官6名、一般兵5名となる。 1943年1月9日 5時に起きると6:30より作戦会議。7:00より探索ミッションのため離陸。700マイル(1,100キロ)の間、ずっと嫌な天気で帰投。何も発見できず。コックスウェル少佐の事故により、到着よりトータルの墜落機数が9機となった。戦死者:53名、士官27名、一般兵26名。

 後に来た最終レポートによると、コックスウェル少佐は、管制塔とは連絡がつかない状態で追い風で離陸し、方向転換を終えた後、たった200~300フィート(※61~91M)で墜落したそうだ。数人のクルーは墜落後に脱出に成功したが、安全な場所へ泳いで出る間に、サメやバラクーダ(オニカマス)によって文字通り八つ裂きにされてしまった。他の2機も管制塔とは連絡がつかない中、ギリギリの所でかろうじて帰着した。オレ達は浜辺に流れ着いた、モズネット宛てのずぶ濡れの給与小切手400ドルを見つけた。

 オレは自分達のクルーも、いつかは海に墜落してそのまま終わりを迎えるかもしれないとは思っていた。もはや我が身の墜落を考えないのはバカじゃないのかと思う程に、既に自分達の飛行中隊は、あまりに多くの機体を失っていたのだ。自分自身、九死に一生を得たのは一度や二度ではない。

 実は2つのミッションで計画された爆撃手の都合がつかなくなり、自分はこれに代替として志願したことがある。これは何も純粋な武人の勲(いさおし)とかいう訳ではなくて、ミッションを3回終えると、休みが1日貰えるようになっていたからだ。自由なら時間ならいつだってもっと欲しい。だがこの志願は両方とも、最後の最後に元の爆撃手が帰ってきて、こっちは出撃にならずかなりがっかりした。だがそれも、その両機が事故に遭ったと知るまでの話だ。一機目は爆弾を満載した状態で、オアフ島の中央部の山の尾根に突っ込んで爆発し、二機目は海に墜落した。

 着陸時と離陸時には、よく飛行機が大破するのが見えた。いつも食堂に来ていた男が、ある日はいるのに次の日にいない。そしてそのまま遺体すら見つからないのだ。死傷者が出てクルーが欠ければ、時に軍は欠けた隊に別の隊から補充をかけ、新たな混成部隊が捜索任務にあたったのだが、隊をまたいだ不慣れな仕事は、さらなる二次災害を引き起こした。

 コックピットを吹き飛ばされても着陸したB-17(左)と
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_11445/(日本語記事)
飛行中に燃料タンクが炎上するB-24(右)
https://albumwar2.com/american-bomber-b-24-liberator-in-fire-on-germany/
 
「アンブロークン」によると、B-24は地上での移動のためのハンドルがついておらず、滑走路での方向転換は左右のエンジンの出力調整で行い、ブレーキも左右均等に利かなかった。―「長時間の操縦でパイロットは熊とレスリングをする程に疲れ果て」「陸軍航空隊の35,933機が戦闘と事故で失われた。驚くべきは、このうち戦闘で落ちた機はごく僅かだった点だ」「陸軍航空隊では3万5946人が非戦闘時に命を落とした」ともある。この命に係わる欠陥を、慣れと独自のルールで補うクルー間の関係性において、再編成で欠員に入ってくる乗組員は事故の原因と言われ、周囲から理由もなく忌み嫌われ、いじめと嫌がらせの対象になった。ルーイーも日記に「搭乗員を混ぜると必ず事故が起きる」と書いている。日本でも炭鉱夫や船乗り、映像業界などで同じことが言えるのだろうか?

 「スーパーマン」でも、ミッション開始後の30分でトラブルがあり、フィルが叫んだことがある。

 「おい、ザーンプ!こっち来てくれ、エンジンが一機止まったぁ。全然かからないし、ダグラスもお手上げで原因が分からない。またグレムリン共が入っちまった。どうしたらいいよ?」

 グレムリンというのは想像上の小さな妖精みたいなもので、戦闘機乗り達を邪魔して遊ぶものだとされていた。大抵は機械上のトラブルや故障を引き起こすとされ、言ってみれば今でいうパソコン上の「バグ」のようなものだ。

 フィルがオレに助けを求めたのは、なぜかよく解決法を捻り出していたからだ。フィルの頭の中は間違いなく、オペレーション・オフィサーのランドで一杯のハズで、この作戦指揮官はパイロットが判断ミスをしたと思えば、大喜びで叱責を加えるような男だった。オレはこれにまず、フィルを落ち着かせるために言った。

 「カフクに戻るんだ」

 オレ達は以前に、同様にエンジンが一つ止まったクルーの事例を知っていた。彼らがその時、既に帰還限界点を越えていて、そのまま攻撃ミッションに入ったのに対し、オレ達はまだミッションを始めたばかりだったのだ。だがフィルは反論した。

 「ここで引き返したら、絶対にランドから大目玉を食うぞ」

 たしかにランドはタチの悪い困った男だったが、オレには対処する自信があった。

 「戻るんだ。奴ならオレが何とかする」

 果たしてオレ達が基地に着陸をすると、案の定ヤツはこの様子をオフィスから見ていて、ジープに飛び乗るとこちらに向かい、舗装路の上をすっ飛んで来た。

 「オマエら戻って来るとは、一体何事かぁー!」

 奴は叫び、これにはオレが応えた。

 「エンジンが一機、止まったんです」

 「他の機は稼働するエンジンが一機でも攻撃しておろうがぁ」

 「了解致しました。では稼働エンジンが3つでも離陸し、エンジン3つでミッションを遂行致します。つきましては指揮官殿も、当機で御同行下さい」

 この提案に奴はピクッ、と止まった。

 「よろしい、では、しばし待つように。ここにはだな、うん・・・分かった、9番機を使ってよろしい」

 上官にここまで言えたのは、これが戦争であるからに他ならない。オレが生意気だからと言って、奴に何ができるだろう?オレ達なくして戦争などできない。オレを牢屋にブチ込む?前線から本土へ送る?上等というもんだ、送ったらいい!爆撃機は爆発して乗組員は海の藻屑と消える。戦争ってのはキレイゴトではない。オレを本土に送ればいい。

 

 空を飛んでいない時は、オレは作戦会議と勉強に時間を費やした。銃創に対する救急救護と、一般的な止血処理の講義に行ったのを覚えている。他には零戦に対する攻撃的、かつ守備的攻撃の講義があったし、気象学をとり、計器やコンパスの技術を仕上げ、空爆シミュレーションを行い、催涙ガスの対策も学んだ。クレー射撃(※skeet shooting 動く的に先んじて発射して当てる)も最低、週に一度は行い、先行射撃を訓練した。これは打てば打つほどに、マシンガンで零戦を打ち落とす確率が上がった。またパイロットの訓練も受けた。というのもフィルが一等中尉に昇進し、第3パイロットの資格のため、オレにスーパーマンを操縦させてくれたのだ。

 それ以外の時間は、肉体トレーニングやテニス、また基地やホノルルの映画館で映画を見たり、将校クラブをブラついて、手に入るだけのエラリー・クイーンのミステリーを読んだり、給料が支給されれば買い物に行き、音楽やラジオを聞き、友人と遊んで回り、パーティーに行っては看護婦にカワイイ子がいないかをチェックし、島を周っては友人を作り、家に手紙を書いた。正直、家族がいないのはとても堪えたが、良くも悪くも自分は奥さんや彼女を本土に残してきた訳ではなかったので、糸の切れた凧のようにでも、遊べる間はともかく遊んだ方がいいと思ったのだ。

 同時にアスリートとしてベスト・コンディションを維持するため、オレはカフクビーチ沿いを走ることも忘れなかった。胸膜炎が治っていたが故に、体調は今までで最高だとも感じられたのだ。ホノルルでのエキシビションや飛行場でも走ったが、その時は4分12秒を軽く出すことができた。あと10ポンド(4.5キロ)体重を落とせていたら、もっと早く走れていたかもしれない。事実、ハワイでの走りは内容がよく、ニューヨークのプロモーターから、ヨーロッパのトップ1マイル走者である、グンダー・ハアグ相手に走らないかと、オファーがあった程だ。しかしハップ・アーノルド元帥は、これに対して許可を出さなかった。彼の説明によると、オレは特別な爆撃班に所属し、時に極秘かつ実験的なミッションに参加するため、島を離れる訳にはいかない、とのことだった。

 

 1943年の4月中旬、カフク空軍基地では、オレ達が「ダウン・アンダー」への大規模な空爆を行う直前であることが知らされた。ダウン・アンダーとは今ではオーストラリアとその周辺のことだが、戦争中はそうではなく南太平洋の島々のことだった。4月18日の朝、オレは早くに起きるとビーチで1マイルを走ると、次に50ヤードの(45M)全力疾走を5本行った。それからオレ達のフライト・クルーは特別会議室へ作戦会議のために出頭し、次の任務は史上最も長いレベルの飛行距離となると告げられた。

 オレ達への命令はオアフ島から南西に向けて飛び立ち、赤道すぐ下のカントン島へ行き、給油して再び南西へ飛び、中南部太平洋・エリス諸島(現在のツバル)のフナフティへ向かうというものだった。離陸時間は13:00で、オレ達は機体の一から十までを徹底的にチェックしたが、しかし、離陸はしなかった。フィルが滑走路を走りすぎて、左側の車輪が泥にハマってしまったのだ。オレ達は2時間に渡って四苦八苦した挙句、結局、機体を変更するハメになり、新しい機体は143番機で、レーダーも腹部ターレット(※球型回転式砲塔。回転台のマシンガンで零戦に反撃する)も、機首ターレットもついていなかった。

 道中、オレ達は2つの嵐に見舞われ、機体はこれに大きく揺られたが、カントン島には安全に到着でき、給油するとクルーも食事をし、フナフティに向けて出発した。そこは連なった島々に囲まれた所で、おそらく幅が800ヤード(731M)しかなく、ココナッツやその他の熱帯林に完全に覆われているとのことだった。フナフティは第一次大戦時のエース・パイロット、エディー・リッケンバッカーがアメリカ本土より、太平洋上のマッカーサー大将へ向けた重要な任務の途上で墜落し、救助隊によって運ばれた場所だった。彼は墜落の後27日もの間漂流し続け、自然の猛威と戦ったが、これは極めて長い漂流で、オレは彼が生き抜いてみせた事実にいつも驚嘆させられていた。

 フナフティの先住民は、現地におよそ500年間、同じように生活を続けていると言われる原始からのミクロネシア人で、英語は話さなかったが、「ハロワ」という彼らのやり方で、ハローをこちらに伝えてきた。子どもは男の子も女の子も、5歳にしかならないようなのがタバコを吸い、これを見ているとオレは自分の幼年期を思い出した。フナフティには泳ぐには最高のビーチがあり、しかし難点はたまにサメが出ることで、島はオレの好奇心を大いに刺激すると、自分に村のあちこちを見て回らせた。その中で特にたまげたのは、女の子達は「ラワラワ」という1枚布だけを身に着けて、その他は何も着ないということだ。その晩、軍の映画館ではウォーレン・ウィリアムとゲイル・パトリックの「疑惑の妻たち:Wives Under Suspicion」を上映した。その後、島では大きな嵐が吹き荒れ、オレ達は「ザ・リーフ」(※バーの名前?)で水筒に氷水を入れると、その夜はテント内の地べたに寝ることになった。

 翌朝の朝食は悪くなかった。そして13時の作戦会議を待ち、その間に、泥から救出されたオレ達のスーパーマンが到着した。クルーはそこで機体を交換し、オレは爆弾の搭載を仕切った。内容は500ポンド(※226キロ)の破壊用爆弾を3つと、30ポンド(※13キロ)の子弾を、それぞれ6つ内蔵したクラスター爆弾を5つとなった。

 作戦会議でヘイル少将は、オレ達のターゲットを発表した。ナウル島、つまり世界最大のリン酸塩生産の本拠地だ。日本にとってそれは肥料としても火薬の原料としても、喉から手が出るほど必要な資源だったのだ。命令はガダルカナルに向かって西に飛び、そこから右に(※北東)向かって急転回し、そこからの機首方位で、日本軍にこちらの基地の位置を誤認識させる作戦だった。全26機の爆撃機が正午よりナウル上空、8,000フィート(2,438M)で爆弾投下をする予定で、無線封止も敷かれた。

 だがこの作戦に対し、自分を含めて疑念を持つ人間がいた。ナウルは対空砲によって強固に要塞化されており、オレ達は爆撃隊は高度に変化を持たせるべきだと考えていたからだ。オレはフィルの方を向くと言った。

 「高度がかなり低い爆撃だな。ジャップが先鋒機に同期をとりさえすれば、こっちの全機に着弾するぞ」

 「でもこれは少将の命令だぞ」

 フィルはいつもの笑顔で肩をすくめた。こういった場合、フィルは余計な喧嘩をしたりはしない。だがフィルは今までのフライトによって、既に自分が爆撃団の中でもトップ・パイロットの一人であることを、オレに何度も証明して見せていた。フィルが冷静でいるなら、こちらも冷静でいたい、オレはそう思った。

 翌朝、午前3時に起きると、緊張と覚悟を同時に覚えた。5時に離陸をしたが、これもギリギリの離陸だった。フナフティの限られた滑走路は3,500フィート(※1キロ強)しかない上、そこで10人ものクルーと爆弾と燃料を、文字通り満載したスーパーマンが離陸するのは至難の業だったのだ。離陸した後も機体は低空を飛ぶと、降着装置の車輪がイン・リーフの海面をこすり、それでも何とか高度が上がった。

 スーパーマンは第372爆撃隊、Eフライトの先鋒だった。航空士はミッチェル中尉で、まずターゲットへの到着予想時刻をアナウンスすると、それから長い飛行を経て、最終的に前方の標的まで目前の20分を通達した。それからミッチェルは、50ミリ口径・2連装マシンガンを装備した機首ターレットに潜り込むと、今や他の銃手と同じ職務を担った。つまり敵の追撃機を追い払い、爆撃手であるオレに、標的上で邪魔のない飛行を提供するのだ。自分のノルデン社製・照準器は自動航行システムと繋がり、照準補正の度に自分が機体を制御することとなる。オレは算定値を出し、それを照準器に入力すると爆撃に集中した。

 すると突然自分達は、対空砲の煙や砲火の弾幕の中に飛び込んでいた。ヘイル少将が爆撃隊を全員同じ高度で飛ばせたことは、自分が心配した通りの誤りだったのだ。黒煙が膨れてはオレ達の周りで無数の点を作る。これは相当に危険な状況だった。爆弾を搭載しいつでも爆撃ができるということは、急所に食らえばたった一発でも、オレ達は木っ端微塵になってしまうということなのだ。

 弾幕の中を飛ぶB-24と、主翼に対空砲火を食らった、最も有名な写真の一枚。乗組員は一人しか助からなかった
http://freepages.rootsweb.com/~webermd1/family/Liberator-Info.html

 次に爆発が機体を揺らしたかと思うと、対空砲火がこちらの右の垂直尾翼を粉砕した。さらには機体の下から榴弾が炸裂すると、破片がまるでトタン屋根に当たるヒョウやアラレのように胴体に着弾し、機体の下部を貫通してきた。機体は横揺れをし、それでもオレは必死に照準の十字マークを標的に戻し、何とか爆弾を滑走路沿いの敵機群や建物、対空砲部隊に向けて投下した。爆弾には自由標的の割り当てもあったので、滑走路の端にある無線小屋と見られる小さな建物を見つけると、ここにも爆撃を加えた。するとこれが望外の戦果を生んだ。島の燃料供給庫に当たったのだ。爆発の炎は雲状になった煙と共に空に立ち上り、この様子は写真に撮られると、ライフ・マガジンに載った。

 それから透明な温室状になったコックピットから外を見渡すと、既に9機もの零戦が空を飛んでいた。7機はこちらの10時の方向近くを飛び、そのうち3機は編隊を離れると、こちらに向かって来た。最初の1機は1時の方向から目と鼻の先にまで迫り、向こうが撃つとミッチェルも、お互いがお互いを同時に撃つ。するとドカンという轟音をオレは耳にし、同時に零戦から機関砲が放たれ、こちらのターレット電源ケーブルを切断すると、ヒューという風切り音と共に、オレの顔の数インチ先をかすめて行った。そしてそのままアクリル樹脂の窓を突き抜けると、左翼内の第一エンジンと第二エンジンの間のスペースに入って止まった。爆発のイメージが頭をよぎる。オレ達クルーとスーパーマンが、バラバラに空中分解すると燃え盛る破片となり、スローモーションのように海へ向かって舞い落ちる・・・だが運よくそれは、爆発することはなかった。

 だがこの奇跡の顛末を、アレコレ考えている時間などありはしない。ミッチェルはターレットの電源が死ぬ直前に相手の急所に当てていて、これも運がいいことに日本軍のパイロットはガクンと操縦に向かって倒れたため、零戦はこちらの下に急降下し、海面に向かって狂ったように錐みすると、その尾翼からは燃え盛る深紅の炎が噴き出した。その間、オレは電源が死んで動かないターレットから、ミッチェルを力ずくで出してやらないとならなかった。

 するとまた別の爆発があり、再びスーパーマンの機体が揺れた。通話装置を通して、誰かが助けを呼んでいる。オレはフライトデッキに這って戻ると、無線士のブルックス軍曹が、爆弾倉の狭い歩行梁(※キャットウォーク)からぶら下がっているのを発見した。しかも爆弾倉のドアは開いたままで、高度8,000フィート(2,438M)のそこからは海が見える。歩行梁は全長17フィート(5メートル強)で幅が10インチ(25.4cm)しかなく、動いている飛行機の中でそこを渡るということは、例え交戦中でなくとも、それ自体が文字通りの綱渡りであって、もちろん歩行梁はこんな曲芸の真似事のために作られた訳ではない。

 ブルックスはオレの方をじっと見ていた。あの時の途方にくれ、懇願するような眼差しをオレは忘れることができない。オレはブルックスの両手首を掴むと、今までしてきたウエイト・トレーニングとアドレナリンの爆発のお陰で、すぐに彼を上部ターレットすぐ下の、フライトデッキに連れてくることができた。

 爆弾倉はドロドロした赤紫のオイルでベタベタになっていて、これは機関砲が右翼側を突き抜け、油圧系統を破壊していたことを意味した。それで爆弾倉のドアが閉まらなかったのだ。ということは、この機は手動で行わない限り、(※揚力コントロールの)フラップの上げ下げができず、着陸用のホイールも出せない。そして着陸時にはブレーキが作動しないのだ。

 オレは手動で爆弾倉のドアを閉めると、ブルックスのそばについた。ブルックスは何かを支離滅裂にブツブツ言っていたが、彼の背中を見た時にその理由が分かった。炸裂弾の破片が羊皮のジャケットと頭を貫通していて、腰まで血まみれになっていたのだ。オレはブルックスにモルヒネを打つと酸素マスクを吸わせ、それを1,000フィート(304M)に設定し、できる限りの止血を行った。

 だが戦闘は終わらない。次なる爆発が上部にあり、音からすると機関砲が今度は無線室を襲ったようで、するとオレは首に何か、暖かい濡れた感覚が滴って来るのを感じた。見上げると上部ターレットで軍曹のピルスベリーが、砲弾で足を潰され、足首から上には炸裂弾の破片を何発も食らっていた。あと12インチ(※30cm)それが低く、オレがブルックスの上にひざまずいていなければ、金属の炸裂弾はオレの頭に当たっていたろう。ピルスベリーの足先には靴を通してつま先の残骸がぶら下がっていて、そこから血が噴き出すと、オレの所に滴り落ちていたのだ。だがピルスベリーは痛みに泣き出したりすることはなく、怒り燃えると叫び、次なる襲撃に来た零戦に向かって銃座を回し、狂ったように2連装50ミリ弾を撃った。ジャップのエンジン・カバーから炎が噴き出す。パイロットはガクッと後ろにもたれると、オレはゼロが急落し、海に激突するのを追った。

側方銃座にて上部球型銃手・スタンレー・ピルスベリーと
副操縦士のチャールトン・ヒュー・カッパーネルー「アンブロークン」より

 零戦のパイロット達は、もうほとんどカミカゼ状態で突っ込んできて、それはもはや向こうもこちらも撃ち損じない程の近さだった。

 オレは救急箱を取り出すと、ピルスベリーの脚にモルヒネを打つとサルファ剤(※合成殺菌剤)を塗布し、包帯を巻く。すると次なる銃撃がこちらの機体を激しく揺らし、フィルはほぼ機体のコントロールを失いかけた。機関砲がB-24の腰に穴をあける中でも機体を飛ばし続けるため、フィルと副操縦士のカッパーネル中尉には、持てる知識と力の全てが要求された。

 ピルスベリーを襲った爆発は、フライトデッキのドアを開かなくさせ、するとさらに助けを求める悲鳴が上がった。オレは何発かミュール・キック(※ mule kick、馬のように後ろ足で跳ね上げる蹴り)をドアに入れ、それを開くと急いでキャットウォークを渡り、再び中部甲板に足を踏み入れた。自分達の最悪の状況なんてもう終わった、オレはそう思っていたのだが、しかしそれは違った。そこに広がる累々とした状況に、自分は愕然とした。ダグラス、ランバート、グラスマン、そして第三パイロットのネルソン。4人の航空兵は全て肉が引きちぎれ、内臓がはみ出し、そこは血まみれになっていた。中でもダグラスとグラスマンは致命傷を負いながらも、もはや不退転の零戦のパイロットが至近距離で転回すると右翼上部に来るのに合わせ、銃座にかじりついていた。この突入をグラスマンが捕捉し着弾させると、飛び去る瞬間にダグラスが尾翼近くを仕留めた。零戦は長い螺旋を描いて落下すると直線に転じ、「デイヴィ・ジョーンズの監獄」(※海の墓場)へと消えた。そしてありがたいことに、これが最後の零戦だった。あと一発貰っていたら、オレ達も一緒にデイヴィ・ジョーンズ行きだったろう。

 自分からすれば、その時の3機の零戦との戦いは1時間にも思えたが、現実にはおそらく10分に満たない時間だったろう。生き残るための集中が切れることのない、極めて速い展開のやりとりだった。

 生き残る・・・機内には負傷者があまりに多く、自分のことに構っているヒマはなかった。オレは通話装置を通してフィルを呼ぶと言った。

 「オレ一人じゃ手が足りない、手を貸してくれ」

 「機体は失速させられない。カップ(※カッパーネル)はこっちだ」

 「それどころじゃない」

 オレは叫んでから状況を説明した。するとフィルは手のように膝で操縦を使い、機体を安定させると言い、カッパーネルは後部に来た。カップは飛び散った血と内臓を認めると、事態を飲み込めず目を見開いたが、しかしすぐにデッキに倒れ腹が裂けた、尉官の一人の手当てを始めた。彼はミッションに入ったクルーではなかったが、自分から「見物に行く」と同行を申し出ていた。

 「もう、死んでるのか?」

 オレはカッパーネルに聞いた。

 「いや、まだだ」

 オレがネルソンの裂けた腹部を手当てしている間、カッパーネルはダグラスの足を手当てした。オレ達は他の負傷者達から服を脱がせると、彼らにモルヒネとサルファ剤を投与した。自分の仲間達がこんな状態になっているのを見るのはショックだったが、しかし自分には訓練が施されていて、自らの感情は中へと押し込めた。

 

 離陸に先立つ作戦会議では、S-2オフィサーが(※軍の情報担当。指揮官にアドバイスする権限を持つ)オレ達に、帰還できそうもない場合は潜水艦ドラム号が、ナウル島から帰還する方向の20マイル(32キロ)にいることを、海上への不時着が必要な場合に備えて覚えてように、とのことだったが、しかしオレ達は既にこの20マイル地点をかなり過ぎていて、残りは730マイル(※1,174キロ)だった。フィルとカッパーネルは苦闘の末、不安定ながらも機体の制御に成功し、プラット&ホイットニー社のエンジンも調子もいいようで、そこでオレ達は予定通りまっすぐ帰還することにした。

 これを受けて自分は機体の損傷を調べた。右の垂直尾翼は粉々で、油圧系統、無線、機首ターレットは使い物にならなかった。だがオレの目下の懸案は、それぞれ一本だけを残して砲撃で破壊された、機体右側の方向舵と昇降舵(※上下左右の舵)のワイヤーだった。ここでは少ないながら海でのセーリングの経験が生きた。爆弾倉の棚からアーミング・ワイヤー(※爆弾の安全装置を遠隔操作でオフにするワイヤー)をとると、千切れかけたワイヤーを繋ぎ合わせることができたのだ。これはお粗末な処置ではあったが、しかし応急処置にはなった。

 航空士のミッチェルは、ともかくオレ達をフナフティに戻すことだけに集中し、到着時間を確認するまでこちらの状況に気づかなかったが、その後にこちらの救急救命に貢献できなかったことを、心苦しく思ったそうだ。

 自分はこれ以上ない苦しみのさなかにある仲間達を見ていたが、あんなにも毅然とした勇気は見たことがない。誰かが痛みに叫んでいたことなど記憶にないが、それは戦闘中の轟音が原因などではない。彼らは自身の銃座にしがみつくと、血まみれの傷をそのままに受け入れていた。それはまるで

 「オレを撃てても、泣かせはせまい」

 と言っているかのようだった。オレはこの言葉が好きだったし、それこそが今までの自分の信念と言えた。こちらの反撃が零戦達に高い代償を与えたことが、彼らには何よりの慰めだったと自分は信じる。オレはそれぞれの厳粛な顔を見つめると言った。

 「お陰で3機ともジャップをやったよ。とどめまでしっかり確認した」

 すると彼らは余力を振り絞り、歯を見せて笑った。

 

 しかし例えフナフティまで飛んで帰れたとしても、どうやって着陸するかはオレには見当もつかなかった。降着用のフラップ(※空気抵抗を上げる)もホイールもブレーキも、今となっては破壊されてしまった油圧系統なくして、作動しないのだ。非常時に備え、手動クランクでフラップを動かし、ホイールも降ろすことはできたが、しかしブレーキは別問題だった。滑走路は1マイルもないのだ。こんなにも狭く短いようでは、間違いなく滑走路を突っ切って海に突っ込む。自分にはそうとしか思えなかった。瀕死の兵士が6名も搭乗している状態で、これは深刻な事態だった。

 オレは着陸用ホイールがしっかり固定してくれるよう祈りながら、手動でそれを送り出すと、フラップは最後に回すことにした。先に出してしまうとホイールがしっかりポジションに固定されているかどうか目視できないからだ。同時に爆弾倉のドアも開けた。空気抵抗が少しでもブレーキの代わりにならないかと思ったのだ。

 次に注意を機体の制止における問題へと向けた。ブレーキの代わりにパラシュートを2つ準備すると、機体中部の左右、それぞれの窓につけた。機体が地面に接するのと同時にパラシュートのリップコードを両方引いて、この即席のエア・ブレーキが作動してくれることを天に祈るのだ。またその際、機体の中央に立って左右のパラシュートを操作することで、機体の進路を変えられるように工夫も施した。これはその場の応急処置以外の何物でもなく、正気の沙汰ではなかった。

 ミッチェルがフナフティまで20分を伝えると、フィルは通常の降下と着陸ではポーポイズ現象(※ネズミイルカ現象。飛行機が接地後にバウンドして止まらなくなること)で激突するとの恐れを口にし、そこで通常より低高度かつ、浅い角度での着陸を決定した。しかしこれだと通常より速度が出てしまう。それでもオレは、きっとパラシュート・ブレーキが効いてくれると思った。

 それから別のパラシュート・コードを使うと、負傷した飛行士と機内の安定した場所を繋いだ。結び目を作ると衝撃で締まってしまい、ほどくのがほぼ不可能になることを考え、単に紐を回すだけにして、端をそれぞれ飛行士に持たせた。衝撃で機内で飛ばされることを防ぎ、かつ簡単に紐からも自由になれる算段だった。

 そして遂に、最後の審判の時が来た。スーパーマンの降着用ホイールがアスファルトに接地すると、機体がんでキーキーと音をたてる。すると突然グラウンド・ループ(※スピンして滑走路を外れ、周囲に衝突すること)が始まり、機体は回転しながら左に右に滑走路を外れ、さらにそこには別のB-24がやって来た。ここまで何とか死なずに来たのに、最後は飛行場のアスファルトの上で、エンジンを4つも積んだ大型爆撃機同士の正面衝突で自分達は終わるというのだろうか?

 カッパーネルはその時、ブレーキが効かないことを知ってはいても、本能的に右のペダルを踏んだ。するとそこにはかろうじて油液が、ホイールを瞬時だけでもロックさせるという、それだけにはわずかに残っていて、機内のオレ達は右90°に向かって振られた。どうやらオレの顔を危うくかすめた機関砲が、左のホイールの方へ行ってタイヤをパンクさせていたようで、グラウンド・ループはそれによって起き、自分達を滑走路から跳ね飛ばしたようだった。

 そして、スーパーマンは止まった。

 

 突然の静けさは不気味ですらあった。オレは外に飛び出すと腕を交差させて合図を送り、海兵隊は救助のためにすっ飛んできた。その中でも一人の海兵隊員は他の隊員より断然足が速く、他の人間を引き離していたのだが、彼がオレと顔と顔を突き合せた時、オレは

 「アートォ!!」

 と叫び、向こうは

 「ルーイー!!」

 と叫んだ。それはアート・リーディングで、USCのハーフマイルチャンピオンにしてパイロットだったのだ。

 「お前、一体ここで何してんだ?」

 アートはオレにそう聞いてきたが(その後、アートは可哀そうにフナフティ沖で墜落し、サメに食われてしまった)それはともかく、オレ達は負傷者の搬出が何より優先だった。海兵隊は丁重にオレの手伝いを断り、そこで自分は医者の所へと先に行った。ドクターは自身をドクター・ロバーツと名乗り、それは不思議な偶然だったが、自分がUSCで上級応急処置の授業を受けた時の先生の名前も、ドクター・ロバーツだった。

 オレはクルーと一緒にいたくて、ロバーツ先生に何か手伝いができないかと聞いた。すると先生はこれにこう言った。

 「この状況じゃ、猫の手でも大歓迎だよ」

 それから救急車が何台も来ると、7人の負傷者が緊急手術のために病院へ救急搬送された。その後ドクターによると

 「キミ達が負傷者に適切な処置を施していなければ、3人は死んでいたかもしれないよ。キミが2人を救って、副操縦士がもう1人を救ったんだ」

 とのことだった。

 その後、フィルとカッパーネルは、ランドン准将とヘイル少将によるミッション評価の行われる作戦会議に参加した。2人の将校は、標的上に最初に飛んだ自分達を襲った悲劇についても論じた。彼らはオレ達が苛烈な反撃に遭ったことを把握していたのだ。自分達は先鋒として一番機だったが、それは海兵隊でもそうであるように、最も優れたクルーは先頭を行くものだからだ。自分達が一番槍として先陣を切り、敵の高射砲の巣と零戦を破壊したからこそ島への道が開け、後続機によるリン酸塩工場への連続した爆撃が可能となったのだ。これにより日本側が工場を再稼働するには、数か月前を要することとなった。さらにはオレ達がになって戦闘可能な戦闘機を引きつけたことで、海岸線がガラ空きになると、残りの爆撃機は思いのままにターゲット上を往復することができた。自分達が聞いた所によると、後続機への対空砲火はわずかなもので、残った2機の零戦も、甚大な損害を見ると交戦をあきらめたという。

 2人の将軍は、酷い損傷を負いながらもスーパーマンを墜落させることなく奇跡的に帰還させたことを、フィリップスとカッパーネルの功績と認め、4月21日、ホノルル・アドバタイザー紙の従軍記者、チャールズ・アーノットにその旨を伝えた。ヘイル少将はそれから病院へ行くと、負傷したクルー達の胸に、シュロの葉の勲章をつけた。

 それからオレ達のB-24は基地で展示に出され、大きく注目された。海兵隊員も航空兵も機体の周りに群がると、機関砲と銃弾でハチの巣になった穴の数を数えて回った。ヘイル少将は、我々は最悪な被弾数ながらも何とか基地に戻り切ったB-24を得たと評し、その内訳は4発の機関砲による穴、2つの重高射砲の着弾、500個もの炸裂弾による穴、150発もの7.7ミリ・マシンガンの穴に及んだ。機首ターレットと上部ターレットは使い物にならず、尾翼の右側は吹っ飛んでいた。オレ達は文字通り、片翼と神頼みで帰還していたのだ。(※ 章名 on a wing and a prayer 機体は片翼と祈りの翼で飛んでいた)

「自分が爆弾をナウルの標的に投下した後に、自分達のB-24 から撮影。この後すぐに零戦がこちらを追ってきた」 

 「ナウル襲撃から帰着を果たすやいなや、すぐさま機関砲による穴の一つを検査」共に03年版より

 オレはヘイル少将の所に、ミッションの詳細についても報告に行った。フィリップスとカッパーネルの航空技術とその勇気について話し、銃手達が銃撃を続けたが故に治療が遅れたことを話した。彼らは表彰に値するとオレは言ったが、しかし少将は話を聞いているようには見えず、オレは話すのを止めると病院へ戻った。 すると丁度アーノット記者がスーパーマンの損傷を調べてから帰った所で、オレを見つけると、負傷した仲間への救護任務に直面していた時、どんな気分だったかと聞いてきた。オレは

 「人生で最も辛いレースだった」

 と答えた。インタビューではアーノットと海兵隊の、こちらもパイロットの少佐に、敵と交戦中の一発一発に渡る様子を説明し、少佐は

 「爆撃機の調査と、病院で見た所からすると、パープルハート章(※名誉戦傷章)だけでなく、キミ達クルーは殊勲飛行十字章もほぼ間違いないと言える」

 と言った。飛行機乗りなら誰でも知っているが、十字章とは「飛行における勇敢で特筆すべき戦果」を象徴する。しかしオレは

 「お役に立てたことで、自分は充分報われましたよ」

 とだけ言い、するとちょうどその時ロバーツ先生が部屋に入って来た。

 「ザンペリーニ少尉、あなたのクルーのブルックス無線士がたった今、亡くなりました」

 悲しみが込み上げる。精神的に、肉体的に、そして今度は感情的に擦り切れると、オレはもうボロボロで、幕舎に戻るとそのまま寝入ってしまった。 その晩、オレは自分のベッドに潜り込んだが、ナウル爆撃ミッションの際にこちらのパイロットの一人がパニックを起こし、無線封止を破っていたことなど、知る由もなかった。彼はその時、指揮官に指示を仰いでいた。

 「我々はガダルカナルに機首を返すべきでしょうか?」

 この動きは、オレ達が本当の帰着地へ向け、急転回する前にすべき動きだ。

 「もしくは、直接フナフティに帰還すべきでしょうか?」

 それはだいたい朝の1時だったろうが、自分は飛行機の音を頭上に感じて目が覚めた。きっと本土から誰か応援でも来たんだろう、そう思ったがしかし、これは応援などではなかった。日本軍はこのパイロットの無線を傍受してこちらの位置を割り出していたのだ。基地では何の警報も鳴らず、海兵隊は明らかに警戒を怠っており、レーダーで機影を拾ってもいなかった。彼らもオレみたいに飛行機を友軍と思っていたのだろう。

 爆発は島の反対側から、サリー・ボンバー(※九七式重爆撃機)かベティー・ボンバー(※一式陸上攻撃機)のどちらか、もしくはその両方で行われ、こちらの構造物に向けパターン爆撃を仕掛けて来た。(※絨毯爆撃の一種)

  ナウル爆撃ミッションの飛行ルート。捕虜が捕まった際に、まず拷問で聞かれたのは基地の位置だった。これを無線で言ってしまうと・・・

左:サリー・ボンバーこと九七式重爆撃機と、右:ベティー・ボンバーこと一式陸上攻撃機

 アメリカ側からすれば、これらの機体は見たまんまアメリカ機のジェネリック(後発類似品。つまりパクリ)で、こんな女性名がついた。通説では「ベティー」はアメリカ情報部軍曹の彼女の看護師からとったとされ、英語では船や飛行機をSheと呼ぶ。日本なら絶対に敵機に「サユリ」なんて名前はつけない?

 この攻撃は90分にも渡り、相当な被害をもたらした。自分の幕舎にいた航空兵は、全員が誰に命令されるでもなく瞬時にシェルターを求めて走り出し、雨が降っていようと、オレ達が着ていたのはパンツ一丁だろうと、無論そんなことは問題ではなかった。オレ達は地元民の小屋の下に掘られた防空壕に転がり込むと、その中でイワシの群れのように固まり、心臓は火事の時の早鐘のようにガンガンと鳴り続けた。後から誰かが来るとオレの上に落ちてくる。するとまさにその時、迫撃弾がオレ達の幕舎と従軍記者の幕舎に当たると、ドカーンとこの世の終わりの如く吹っ飛ばした。後で見たのだが、記者の一人は、無茶苦茶になったタイプライターの上にかがみこんで、まるで大事な友達を亡くしたかのように嘆いていた。

 だが損害はこれに止まらない。第一波の爆撃で、破砕弾が軍用トラックを1台粉々にすると、第371爆撃隊の3人をズタズタに引き裂いた。第二波では、教会に爆弾が直撃した。幸運なことに中にいた人間は2分前に脱出していて、地元民達にも竪穴に逃げるように言っていた。だが十分に深い場所に行けなかった彼らの内、3人が死んだ。第三波でさらに兵士がやられ、第四波では、満タンの燃料と爆弾が搭載された2機のB-24に爆弾が直撃した。爆撃の後、オレ達はエンジンと降着用ホイールが400ヤードも(※365M)先に吹っ飛ばされているのを見つけた。

 この日本軍の襲撃は小さなフナフティの島を大破させ、アメリカ軍に大いにダメージを与えてくれた。いくつかの飛行機は損壊して使い物にならず、職員エリアも更地同然となり、急ごしらえの病院は死者と死にゆく人間でいっぱいになった。オレは野戦病院に再びドクター・ロバーツを訪ねると、彼を手伝うこととなった。

 翌日、基地は厳戒態勢とられ、日本軍の再来に備えた。が、奴らは来なかった。最終的に司令官は、チームに欠員の出たクルーと、機体を失ったが戦闘に参加できる者をカントン島に飛行機で後退させ、機体やクルーに損傷のない隊は、日本軍への報復のためタラワに飛んだ。

 フナフティ撤退の次の日、オレ達はカントンからパルミラ環礁へと向かった。そこはハワイの800マイル南、ヤシの木とサンゴからなる美しい小さな島で、海軍と海兵隊の基地だった。今まで自分達がくぐり抜けて来たものからすると、南国の美しさは想像を絶するほどで、およそ別世界とすら思えた。(後年になって、元ロサンゼルス地方検事のヴィンセント・ビオリオッシが、そこで起きた殺人事件を元に「And the Sea Shall Tell・そして海だけが知っている」を書くことになる)パルミラでは何人かのUSC時代の仲間にも出くわし、また将校クラブで時間を過ごしたりした。そこにはとてもいい感じの映画館もあり、エロール・フリンの「壮烈第七騎兵隊:They Died with Their Boots On(※靴を履いたまま死んだ男達。ルーイーはエキストラ出演していた)」を見たのだが、その際はビールを何杯か飲んで熱いシャワーを浴び、ベッドへと行けば自分が生きていて、しかも靴をベッドの下に置いて横になれることが、何より幸せだった。

 

 その後、一体どんな理由かは知らないが、ヘイル少将はハワイの司令部に対し、オレ達のミッションについての報告を、被害は極めて軽微だったと提出した。これは到底、真実などではなく、オレは黙っていられなかった。攻撃時にこちらの爆撃機の半数は被弾をし、中でもオレ達のスーパーマンは最悪だった。それから爆撃隊は全員がフナフティに帰還したとはいえ、日本軍の報復によりその地で多くの機体を失った。その証拠に今でもあの時の写真が何枚か手元にあるし、それはいかに被害が壊滅的かを示している。格納庫の中から出られずに、爆発しては深さ約30フィート(※9M)、幅約80フィート(※24M)程の穴を幾つも残したB-24が多くある一方、再生可能な機体は数機しか残らなかったのだ。

 左:ルーイー所蔵、フナフティ爆撃の翌日。まだ飛行機が燃えている。「アンブロークン」によると、ある無線士によれば、日本軍はおよそ14機で襲来したとの証言もある

 右: 1943年11月17日の日本軍によるフナフティ空襲の後の、B-24の残骸

https://b-24.weebly.com/before--after1.html

 当然ヘイルはオレ達スーパーマンのクルーを、殊勲飛行十字章になど、決して推薦しなかった。自分はこの不作為は自分とヘイル少将の間にあったコミュニケーション不足に起因すると解釈しているが、この問題は自分がハワイに着いてからすぐに始まっていたように思う。出撃がある度にマスコミは司令官にインタビューをとり、自分がミッションに参加していれば、著名なオリンピアンとしてここからコメントを取った。2人の話は時に正確にかみ合わず、多くの場合オレの見解はヘイル少将のそれに代わって紙面に登場したのだ。これが彼には気に食わなかったのだとオレは確信しているが、しかし マスコミの態度は正しいものだ。前線の兵士の話を聞かずして、記事で真実を語ることなどできないからだ。コリン・パウエル陸軍大将(※国務長官になる前の軍職)は言っている。

 「戦闘において、真相を知りたいなら、前線に向かえ」

 と。無論、それが全体像となる訳ではない。一機の飛行機や一歩兵が、全てを見通すことなどはできない。現場の兵士達は、自分達の職務と生き延びることでもはや無我夢中で、普通は他の誰かがしていることなど、構っているどころではないからだ。しかしそこにこそ、任務報告の意義がある。兵士が一人一人、自分の話をし、そこから司令官は部下と共に、断片で全体像を組んでいくのだ。

 自分に言わせれば、ヘイル少将がこの断片でナウル襲撃の全体像を組んだ時、全ての事実を提示することは無かったし、オレにとっても他の人間にとっても、殊勲飛行十字章以上のことをしてくれたスーパーマンの乗組員が、評価されることはなかった。第二次世界大戦の歴史において、情報の矛盾や食い違いの類が、他の歴史全般と同じだけに満ちていることは、間違いないだろう。ウィルとアリエル・デュラント夫妻が書いた通り、(※夫婦共著でThe History of Civilizationという本を1935~1975年に渡って書きあげ、ピュリッツァー賞を受賞した歴史家かつノンフィクション・ライター)

 「ほとんどの歴史と言うのは推測の域を出ず、そうでなければ偏見とバイアスに満ちている」

 のだ。だがそうだとしても、オレはヘイル少将の証言を読んだ時、吐き気を催し怒りを抑えることができなかった。そこにあるのはこうだ。

 「被弾した機体が1機あった」

 オレのクルーはこれに対し言った。

 「奴にクソ食らえって言っとけよ。勲章なんか何も欲しくもないわ。見境なく一部の人間にはバラまいておきながら、本当に値する時には認めやしない。そんなもん茶番でしかないだろう。考えてもみろよ、勲章に値すべきなのに、授与されなかった奴らは山ほどいる。しかもそんな人間はとっくに死んでるんだぞ」

 これはまさにその通りだった。結局の所、勲章1つなど、クソの役にも立たないということだ。オレ達は皆、自分たちが何をしたのか知っているのだから。

 

 死や危険とそこらじゅうで隣り合わせているが故に、オレは少しでも気を紛らわすよう試みた。こんな時には、昔ながらの鉄板の方法がある。仲間に嫌がらせをしたり、こちらへ嫌がらせをしてきた相手にやり返してやることだ。

 カフクでオレ達は、両端にそれぞれ部屋の付いた兵舎に住んでいた。その部屋の一つは、使っていたクルーが帰還しなかったので、開いた部屋をオレは使っていた。部屋には3段分の棚のついた冷蔵庫がついていて、そこでオレは一つはフィルに、もう一つはカッパーネルにも使わせていた。オレはビールの配給がある度に、それを自分の棚に入れていたのだが、これがかなりの頻度でどこかに消えたのだ。しかも1本も残らず全てが、だ。最初の内はまあ、面白いというか、冗談の内に感じられなくもなかったが、しかしビールの配給は少ししかなかったし、すぐにその冗談も面白さが失われ、オレはこれに「御礼」してやることにした。

 ある朝、オレ達は飛行機のコンパスの誤差修正をするため、自分達の機体に集まることになっていた。これは実際に離陸して、幅広い機種方位へ向かって舵を切り、航空士と一緒に精度を見る作業で、爆撃手は別に参加しなくてもよかったのだが、しかしオレはフィルとカッパーネルが来る前に、現場へと向かった。そして地上整備員達が機体の準備をする間、口いっぱいにガムを噛みながら、まるで飛行前点検の最中かのようにしてその周辺を歩き回ると、そのまま機首へと進み、目当てにしていた2つの小さな穴を見つけた。それはコックピットのホースに繋がった水抜きの穴で、ホースの先はパイロットのリリーフ・チューブに繋がる。リリーフ・チューブとはパイロットと副操縦士が飛んでいる間に使う「小のためのアダプター」で、2人が催すと、「小」がホースを下り、低い気圧がそれを吸い出す仕組みなのだ。

大戦時のリリーフ・チューブと近年の物。 宇宙船の「小」アダプターも、ここから派生https://www.americanairmuseum.com/media/10468 https://en.wikipedia.org/wiki/Space_toilet

 そしてこの穴2つに、オレはガムを突っ込んだ。

 クルーが任務に向け揃うと、オレも他の全員と一緒に機体に乗り込んだ。それから爆弾倉の持ち場につくと、自分達は機体を離陸のため、滑走路の端まで走らせた。手順の上では、爆弾倉のハッチはパイロットがアクセル・ペダルを踏みこむ直前に閉めることになっている。オレはこの、爆弾倉が閉まる直前に舗装路へと飛び降りると、滑走路をダッシュで走り抜けた。それは大型機の内部でのことで、誰も自分がいなくなったことに気づかなかった。フィルはオレが機内にいると思い込んだまま離陸をし、オレは代わりにホノルルに向かった。

 という訳で、残念ながら実際にこの目で、機内の騒ぎの佳境を見ることはできなかったのだが、後で機関士が詳細を逐一教えてくれた。フィルが催してきた時、フィルはいつものようにこの漏斗型のアダプターを使った。ところがいつもなら中がカラになる所をこの日はそうならず、漏斗はフチまで「小」で一杯になってしまい、フィルは中身がこぼれないように、片手で漏斗のバランスをとるハメになった。そして何が起きたかの分からず機関士を呼び、呼ばれた機関士は「余剰分」を隣りの副操縦士の漏斗に注ぐように言った。これにカッパーネルは異を唱えることはなく、しかしその前に自分のを終わらせてからにして欲しいと言った。だがこれも当然カラにはならず、副操縦士の漏斗までが「小」で一杯になり、機内では誰もが事態を呑み込めず、空気が固まった。この2つ同時の不具合は、一体何を意味するのか?と。

 とはいえ、「小」をこぼす訳にいかない2人は、片手にアダプターを持ってバランスをとりながら、同時に機体も操作するハメに陥り、機体がちょっとした乱気流に当たると、これが2人には「武士の情け」となった。

 着陸した時のフィルとカッパーネルは、ずぶ濡れだった。機関士が機体の下に行くとガムを発見したのでそれをすくい出し、クルー達は滑走路周辺にオレを探したが、その時オレは既に消えていた。

 フィルは余程怒らない限りオレをザンプと呼んでいたが、この時ばかりは

 「ザンペリーニはどこへ行ったぁ!」

 と何度も叫んでいたそうだ。そして「奴はまだ遠くまで行っていまい」と思っていたようだが、オレは数日間ホノルルに滞在して、雲隠れを決め込んだ。

 それからオレが戻った時、奴らはまだ怒っていた。オレはガミガミ言われるのを「ああ、そう?」みたいな感じで流していた。

 「ピリピリするなってぇ。これは結局、一種の教訓というか、体を使った物理の法則の実験なんだって。液体は常にしてその水平位を求めるっていう。オレのビールみたいにさ」

 そう言うと奴らはこっちを向いて、は?という感じで意味が通じていなかったが、それから顔が半分笑った。こちらの埋め合わせとしては、ビールを何杯か奢ることで、これにより2人が機嫌を直すと、それからオレのビールの配給は、2度と消えることがなくなった。

 

 リベンジと言えば、もちろんオレはフナフティへの絨毯爆撃を忘れた訳ではなかった。そしてそのチャンスはタラワへの出撃の時に訪れた。オレ達は南太平洋・カントン島から飛び、極秘でマーシャル諸島をカバーする、2機での写真偵察と爆撃ミッションについたのだ。飛行隊の司令官の頭の中には特に2つの標的があり、タラワが最初のミッションでのそれで、マキンが2つ目だった。ところがタラワは千切れ雲に覆われていて、これが撮影と爆撃を邪魔していた。オレ達は上空を旋回すると、雲の切れ目ができるのを待った。だがこれを繰り返していると、機関士が燃料の残量が危険なレベルにまで下がっていると報告し、しかもオレ達は先導機の機体を見失っていた。カッパーネルはこれに

 「絶対あの大佐の野郎は、オレ達に何も言わずに帰ってるぞ」

 と言い、すると無線から険しい声がして、

 「オイ、聞こえてるぞカッパーネル。自機の爆弾を一斉投下してから帰還するように」

 と大佐が応答してきた。これに対しオレは500ポンドの爆弾、6発全てを落とす準備をしたのだが、するとタラワの端に、「重要」敵軍構造物を発見するに至った。それは沖合すぐの所に建てられた、6棟の高床式・茅葺トイレで、南洋のアウトリーフに建つそれは、何ともフォトジェニックだった。これは木っ端微塵に壊滅させねばならない、と他のクルーもオレもノリノリで、こちらも熟練爆撃手の名に恥じぬよう、沈着にプロの業を見せてやった。ノルデン製の照準器の覗くと十字線で狙い定め、爆弾を放出する。結果は記憶に残るほどのド真ん中のストライクで、汚物が見事なまでに飛び散った。

 オレ達はこの「勝利」の興奮に酔いしきると、一直線にカントンへ向かって帰還を始めた。ところがこの途上で機関士から悪い知らせがあった。帰着できるか危ういというのだ。現在地としてはハウランド島という、アメリア・イアハートが目的地としながら辿り着けなかった島の近くで、ここで選択肢が2つあった。

 プランAは、ハウランド島沖で夜の海上に不時着するというもので、プランBは幾つかの重設備を捨てて、クルーが前方へ寄ってエンジンの出力を弱め、帰着へ賭けてみるというものだった。だがB-24の機体は全く以って脆いもので、海上への不時着ともなると凪の時ですら無様なこと極まりなく、しかも不時着時に誰かが負傷したり死んでしまい流血すれば、それが海でサメを呼ぶと思われた。

 そこでオレ達はプランBを選び、洋上のほんの小さな点でしかないカントンを、我らが航空士が無事に発見してくれることを信じることにした。そしてそれを雲の合間に発見し、エンジンをプスプス言わせながら最後の燃料を使って着陸に成功した時、クルー全員が安堵の笑顔で、オレ達を帰還させてくれたミッチェルにお祝いを述べた。

 その夜、カントンの海兵隊のP-39のパイロット達はオレ達に、ビールを「将校クラブ」でってくれた。そこは移動型の兵舎、クォンセット・ハットで、海から採ってきたサンゴで覆われていた。正面のドアには落書きがしてあり、中に入るとドアだけではなく、トイレの個室という個室全てにも同じ落書きがしてあったが、それは当時、太平洋戦線中で伝説となった人物のサイン、「キルロイ参上」だった。

 執拗かつ常軌を逸した命の危険と直面しても尚、運よく生き永らえたキルロイ。それは正に、自分達のことだったのだ。

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