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第15章 老兵、消え行くばかりでなし

Not Every Old Soldier Fades Away

 

 

 し、家族や友人からの愛や、新たに得た心の安らぎだけで自分が生きていけるなら、それはどれだけ素晴らしい世界やも知れない。そうは言っても、自分とて仕事をせねばならないし、それはできれば自分の家族を養うというだけではなくて、自分がかの救命ボートで誓ったように、自身が神に仕えることと両立できればなお良い。

 これには一つ、ハワイのミッション系の大学が教職に就いてみないかと打診をしてくれ、他にも東海岸の大学がコーチとして働かないかとオファーをくれた。だが自分は全国を講演して回るのに忙し過ぎ、自身に訪れたこれら多くのチャンスの恩恵に与ることもままならなかった。一度など1日に12公演をこなしたが、あれはもうほとんど選挙活動でもしているような状態だった。

 1951年、私はアメリカ北西部からフロリダまでのツアーを行った。そうするとマイアミが自分の最終目的地になるはずだったが、しかしツアーはそこからさらに、西インド諸島を抜けるコースが組まれた。(※バハマの首都)ナッソーではやって来る、何千人もの人を収容する施設がなかったので、そこにあった巨大な空き地を使った。ジャマイカでは島をぐるっと回って何度も公演をし、キューバにも行った。ここはまだカストロが実権を握る前で、ハバナの教会で2晩に渡り出演をした。最初の晩は「悪魔に追われし男:Devil at My Heels」と題した自身の戦争体験を話し、第2夜は「日本における共産主義VSキリスト教」と題し、早稲田大学での自分の体験を元に話し、これは2つとも新聞に広告が載った。その第2夜のことだが、一人の口ヒゲを生やした若い男とその友人が、全員が所属ユニット名の入っていない軍服を着て、教会の奥の席を取ると話を聞いていた。その後、自分達のホストになってくれていたロドリゲス牧師は、自分とシンシアを彼の家に歩いて連れて行った。するとその道中、教会の奥にいた口ヒゲの男の一人が、通りを挟んでロドリゲス牧師を呼び止めた。2人が話しているのを見ていると、その内容はヒートアップしていくようで、牧師がこちらに返って来ると、彼は気まずそうに笑った。

 「一体どうしたんです?」

 私が聞くと、彼は言った。

 「あれは若い革命家の一人で、フィデル・カストロっていうんです。あなたが共産主義について言ったことが気に食わないようでしてね」

 当時はまだ、(※親米派の)フルヘンシオ・バティスタ大統領が国を統治していたが、若い活動家達が教会に放火するような、そんな問題を起こしかねない情勢だったのだ。自分はこれに心配になってしまった。

 「何かあなたにトラブルでも起きませんか?」

 「いや」

 自分が聞くと、ロドリゲス牧師はニッコリと笑いながら言った。

 「心配しなくても大丈夫ですよ」

 それから7年後、カストロは実権を握り、共産主義は彼の信仰するものとなった。だが彼が耳にした福音は、自分より聞いたものであることを、私は忘れることはないだろう。

左:チェ・ゲバラと右:フィデル・カストロ

1959年

 自分の好きな活動には、刑務所への慰問や、非行に走った問題を抱えた若者の収容施設に行くことがあった。その度に思ったのだが、私はかつて自らに役立ったであろうアドバイスや支援を、まるで若い頃の自分にしているような気分になった。そして私は、特に日本での収監体験を話した時に、子ども達や囚人達と素晴らしい信頼関係を築くことができた。彼らはその状況について聞くとビックリするようで、比較で言えば彼らの刑務所での滞在は寛大と言え、自分の所にはこんな感想も聞こえてきた。

 「あなたの話を聞いてみると、自分の5年の刑期なんて、何でもないのかもしれません」

 そんなことをしていると、自分はライフライン・クリスチャン・キャンプの担当に配属されることになり、このキャンプはシアトルからサンディエゴまで、西海岸に幾つかの用地を運営していた。(※子どもに向けた福音派の活動と思われる)自分はその場所から場所へと飛んで回り、まだ8歳~12歳の子どもに向けて話をし、それから16歳~20歳の、殺人を含んだ重犯罪者が収監されている、ウィッティア(※カリフォルニア)の州の少年司法局の少年院で話をすることになった。そういう子ども達にスピーチをする時は、私は自身もかつては問題児だったのだと、彼らが今抱える課題と同じものを幾つも抱えていたのだと、そう告白することから始めた。

 これに対する反響から、私は問題を抱えた子どものためのキャンプを自身で開設しようと思うに至った。名前は「ビクトリー・ボーイズ・キャンプ」と呼ぶことにし、他に2人の元オリンピアンをカウンセラーとして雇用した。当初自分は、南カリフォルニアの山の方にあった、アローヘッド湖の近くのアンジェルス・クレスト・ハイウェイ沿いに実際に用地を持ったのだが、維持費が掛かり過ぎるのでプログラムを再編することとなり、週に約35名の子どもをシエラ・ネバダ山脈に連れて行って、本当の野外体験をさせることにした。そこで行うのは釣りやキャンプ、ロープを使った崖の垂直下降、スキーに登山など、冒険的な事なら何でもやった。マンモス山スキー場のスキーヤーであるデイブ・マッコイは、これにスキーの用具やリフトのチケットを無償で提供してくれ、また他の方々も食事や宿を提供してくれて、経費の軽減に協力してくれた。

 現地での体験は、いつでも子ども達に大きな驚きをもたらしてくれる。最初の内は、彼らは行きのバスに座って、お互いと話しているだけだ。私は彼らを、こちら側に引き寄せねばならない。そこで数時間たった時に、自分達の一行は火山帯のエリアに車を止める。すると誰ともなく、こう聞く子どもが出てくる。

 「ここで何すんの?」

 すると私が答える。

 「フォッシル・フォールズ(※化石の滝)という、水のない枯れた滝に行くんだが、だいたい1マイル(※1.6キロ)くらいのハイキングになるね」

 そして現場では私が頂上からロープを投げ、垂直降下をして見せる。デカいジャンプを3回繰り返し、それから谷底から上がって来て、こう言う。

 「今週中に、ここにいる全員がこれをやるよ」

 すると、こう返って来る。

 「ええっ!自分には無理だよー」

 「ありえないよ!」

 「絶対やんねー」

 ところがバスに帰ると、彼らはもう自分達同士で、フン、とか、ハア?みたいな感じで話をしたりはしない。絶えず話し続けては、自分にありとあらゆる質問をしてくるのだ。こうなればもうしめたもので、こちらはもう彼らを1週間の間、離したりはしない。自分がこれを行うのは、世界の誰もが、他の誰かを助ける努力をすべきだと信じるからだ。もし世界の半分が成功を収めた人だとして、彼らが残りの半分に手を差し伸べるなら、そりゃあこの世から問題など、無くなってしまうというものだ。

自分の経験から言うと、不良少年や少女と言うのは、何かを成し遂げたりすることはほぼない。彼らは高校を辞めトラブルに巻き込まれ、少年院に行く羽目となる。そこで自分のアプローチとしては、様々な事への興味と何かの達成に重きを置き、そして子ども達は何かを成功させたりすると、いやもう彼らは死ぬ程に感動するのだ。自分の場合、スポーツによって自身の人生がどれだけ変わったのかを見てきたし、自身にこれが起きたのなら、同じことは誰にでも起きうると考えるのだ。遡ること1953年に、自分のキャンプは、アウトワード・バウンドがやっているような、(※独立支援)プログラムの先駆けだった。

 56年版より、キャンプに参加する男の達とラペリングを披露するルーイー。「アウトワード・バウンド」とは冒険教育の事。「非日常的な環境でのチャレンジングな体験を通して、人々が自分に秘められた可能性に気づき、自分や他者、そして社会をよりよくしていくため、大切にしていくための力を育むことを使命としています」公式HPより—https://obs-japan.org/

 ちなみにキャプションには「トラック一杯の年齢も正確もバラバラの男の子達」とあって、バスとはなかなか印象が違うけど・・・「トラック一杯の○題児」とは書いてありません

 自分達はカウンセリングも行ったが、これは重要な部分だ。子ども達を山小屋に集めて、火を焚いた周りに座らせ、自分自身の生い立ちについて語らせたのだ。私は機を見てどこかで聖書の引用もしたが、強制したりはしなかったし、あとは彼ら自身に任せた。大概の子は話を聞いていたし、幾人かは聞こうとしなかったが、そのいずれでも大抵彼らは行動を改めたものだ。

 最近ともなれば、何かの団体でスピーチをすると、必ずと言っていい程、生え際に白い物の混じり始めた年頃の人が、自分の所に来てはこう言う。

 「自分は14歳の時に、あなたのキャンプに参加したんですけど、お陰で私も本当に変わりましてねえ」

 何とも心を動かされる瞬間だ。

 

 またキリスト教に興味ある人というのは、時に私も驚くような人であったりする。

 ロサンゼルスには、ミッキー・コーエンという、スポーツ選手好きだったギャングスターがいた。彼のために以前、盗聴士として働いていたジム・ヴァウスは、自分と同じ時に改宗を受けたのだが、今や「電気セキュリティ・コンサルタント」として普通に仕事をしていて、コーエンが私に会いたがっていると言ってきた。おそらくジムはうまく下地を作っておいてくれたのだろう、なぜなら自分とコーエンはスポーツや戦争、自分の改宗体験について楽しく会話することができたからだ。コーエンはこの詳細、全てを知りたがった。そしてその後、コーエンはこちらに何度も電話をかけきて、シンシアと自分はウィルシェアのブラウンダービーで、(※当時のチェーンレストラン)昼食を一緒にすることまであった。すると彼は自分の新しいガールフレンドを紹介したいと言ってきて、自分はコーエンの行きつけの紳士用品店でこのカップルと会った。彼は元ボクサーのヤクザ者であって、ともなれば一体どんな女がこの男を虜にしたのだろうと自分は思った。彼女は体格の大きいふくよかなブロンドで、気さくで優しい感じもあったが、少々馬鹿正直なようにも見えた。コーエンはシンシアと会ったので、コーエンとしても私に可愛いガールフレンドがいるのを見せたかったのだろう。また単に文化人の類と一緒にいたいだけだったのも、その時すぐに分かった。自分の世界とは別の側の社会に、簡単に行けることが重要だったのだ。

 ある晩、それはかなり遅い時間だったが、コーエンは電話をかけてきて、自分に家まで来るように言ってきた。私はそこへ車で一人で向かった。公道からコーエンの家の前の道に入ると、投光器が自動で点灯し、入り口では若い衆がドアを開ける。中に入るとパーティーでもしていたかのように、半分食べかけの七面鳥やハムの塊がダイニングルームにあり、ジム・ヴァウスもいた。ミッキーは私に食事を勧めると、その後に自分のクローゼットについて案内を始めた。だがそこはクローゼット言うより、普通の部屋と同じ長さの廊下に見え、片側だけでも百着はあろうかというスーツと、さらにコートと靴が所狭しと並んでいた。

 「体に合うのがあったら、どれでも持って行ったらいい」

 ミッキーがそう言うと、太っていたヴァウスは上等な外套を一着手に取った。だが自分には体に合うものはなく、いずれにせよ彼の服を受け取るつもりなどなかった自分には、むしろ都合がよかった。

 それからコーエンは自分に、緊急脱出口を見せてくれた。もしそこに手入れがあったり、他のギャング達からタマをとるべく襲撃があったら、この滑り台状のシュートを使うのだ。後ろではドアが自動でロックされるようになっており、コーエンは地下へと逃げおおせる手はずとなる。

 そうしてしばらくの歓談の後、自分は

 「そろそろ行きます。明日のお昼にミーティングがあるんです」

 と言い、自らその場を後にすると家へと帰った。

 その2週間後、自分はあるアメフトの試合のため、ロサンゼルス・コロシアムにいたのだが、ここで元USC全米オールスターにして、当時警察署長で後に市会議員になった、ジョン・フェラロを見た。すると彼はこちらに向かって

 「おい、ザンペリーニ!土曜の夜にミッキー・コーエンの家なんかで何してたんだよ?」

 と叫んできた。警察はミッキー・コーエンを張っていたのだろう。これに自分が言えたのは、

 「そんなのもう知ってるだろう!」

 で、その実あそこにいたのは、ミッキーへの説教のためだったのだが。

 1958年3月27日に「連邦警察官を襲った」廉で起訴されたミッキー・コーエンと、1962年に婚約者のクレッタと。婚約者が上記の人物かは不明。実はビリー・グラハムは、1949年11月12日付のサンマテオのタイムズでコーエンを名指しし、「彼はきっと期間内にウチのテントに来るよ。来なきゃこっちから向こうの家に行くまでだし、怖くなんてない。この手に聖書があれば、悪魔とて恐ろしくない」と、現役のギャング相手にかなり挑発めいた「メンション」をしている。対するミッキー・コーエンは、「宗教なら間に合ってるけど、まあ来るんなら話はするよ」と新聞に返答。どうやら2人はジム・ヴァウスとルーイーを間に入れてジャブを打ち合っていたようだ

 1954年には、人生でも最も驚いたことが一つある。エルマー・ピーターソンというスポーツキャスターの事務所が、自分にインタビューをしたいと言ってきたのだが、私は既に彼と何回か番組をやっていたので、これは何の気なしに受けた。

 スタジオには迎えの人間が一人、自分の家まで来た。そして自分達はピーターソンの所へ向かったのだが、しかし入り口のドアには鍵が掛かっており、閉まったままだった。ドライバーが言うには、

 「どうやら、ピーターソンさんがここに来るまでは、待つよりなさそうですね」

 とのことで、そこで自分達は、エル・キャピタン・シアターの巨大な防音ドアの陰で外に立って待った。しかししばらくもするとずっと待ってもいられなくなったので、

 「本当にこの時間であってるの?」

 と自分は聞いてみた。

 「ええ、そうですよ。ピーターソンさんも、もう来るはずなんで」

 すると突然、目の前の巨大なドアが両側にスライドして開いた。そこからはまばゆい光が自分の顔に射してきて、目が眩んだ私は思わず後ろにたじろいだ。それから、

 「ルーイー・ザンペリーニ!」

 と言う声が聞こえて、それは2回か3回ほど繰り返された。ドライバーは自分を前の明るい場所に向かって進むように促し、そして目が周りの明るさに慣れると、ビックリしてそこに黙ったまま立ちすくんでしまった。そこにはテレビ司会者、ラルフ・エドワーズがいて、自分を呼んでいたのだ。自分は戦時中に墜落をしてもそれをうまいこと対処したし、ほぼ毎日のように収容所で殴られても、それでも柳に風と切り抜けた。しかしあの時はあまりに仰天してしまい、動くことすらままならなかったのだ。

 「ルーイー・ザンペリーニ」

 エドワーズがもう一度言う。

 「ディス・イズ・ユア・ライフ!」

 ドライバーが自分を前に向かって押し出すと、私はディス・イズ・ユア・ライフのセットまで歩き、ソファに座ったが、頭は呆然としたまま、首を横に振っていた。あの時は番組も最も人気を博していた頃で、自分もよく見ていて、友達から何度もオマエの話も是非ともあの番組で紹介されるべきだと言われていた。それだけあって、こちらも毎度のやり口は全部分かっており、自分が選ばれたとしても、今まさに騙されたようなことは絶対に起きないと思っていたのだ。

 するとカーテンの向こうから声がしたかと思うと、そこにいるのが誰だか分かるかと聞かれた。その内の一人は、かつてのオリンピックチームを共にしたジェシー・オーエンスで、もう一人はコーチのディーン・クロムウェル。それと我がパイロット、ラッセル・フィリップスと自分の家族だった。彼らは自分に、立派な金の腕時計とベル・ハウエルのムービー・フィルムカメラ、さらには千ドルの現金と(※百万円ちょっと)、54年製のマーキュリーのステーション・ワゴンをプレゼントしてくれた。自分は貰った現金は、ビクトリー・ボーイズ・キャンプのプログラムに使った。

 56年版より、CBS ドキュメントにも出てきたTV番組「ディス・イズ・ユア・ライフ」の収録の場面。「左からMCのラルフ・エドワーズが、ルーイーとその青少年プログラムのための、新車の鍵を渡している。MCより右へ、立っているのが、父親のアンソニー・ザンペリーニ、母親ルイーセア・ドッシ・ザンペリーニ、ラッセル・フィリップス、引退した陸上コーチ・ディーン・クロムウェル、妹のシルビア・フラマー、兄ピート・ザンペリーニ、元トラック選手にして、その名を歴史に残したジェシー・オーエンス。座っているのが左からルイス、息子のリューク、娘のシッシー、妻のシンシア」

 1955年、出版社のダットンが自分に自伝を書くよう依頼してきた。自分はこれに従い、その翌年には出版がされ、これを「Devil at My Heels:悪魔に追われし男」と題することにした。だが時間の経過と共に、私は自らの体験をさらに思い出すことになり、そして何より重要だったのは、自分の収監にまつわる数々の謎への決定的な答えと詳細、また戦時中に自身の命運を決した要素が明らかになっていくと、自身の著作はほとんど自らの物語について何も語っていないのではないかと考え始めるようになったことだ。この思いは長いこと行方不明だった、自分の第二次大戦の日記を発見した後でさらに強くなる。つまりいつかは自らの本を書き直す機会を得ると内容を書き加え、偉大なる戦争の世代の歴史について、新たな知見を加えたいと思ったのだ。

 それでも出版のすぐ後には、私の所にはユニバーサル・ピクチャーズから電話があり、トニー・カーティスが私の役を演じたいので、本の映画化権を買って欲しいと言われていると言ってきた。その頃はちょうど自分の家を売ろうとしていた時で、ヒルズエリアに新しい家を買うのに現金が必要だったので、自分はその案を受け入れた。契約書はユニバーサル側が作成し、自分はそれを読んだのだが、しかしその時自分の口から出たのは、これでは充分とは言えないな、という言葉だった。するとユニバーサル側が言った。

 「これが普通のハリウッドでの契約ですよ。出せるのはそれで目一杯です」

 彼らはその気になれば、こちらの要望なら何にでも応えられるのは私も知っていたし、向こうは自分がもっと払えと言っていると思ったのだろう。だが、そうではない。

 「いや、確かに新しい家を買うのにお金を必要としてはいますが、問題はそこじゃあないんです。自分の改宗や、それが自分の人生へ与えた影響を矮小化させないという確約ほどに、お金は重要ではないんです。必要なのは信仰への保護なんです」

 自分はそう言うと、彼らが制作し、ロック・ハドソンがディーン・ヘス大佐を演じた映画、「大空の凱歌(Battle Hymn) 1957年」の話をした。第二次大戦でエース・パイロットだった実際のヘスは帰郷すると牧師になり、その後再び朝鮮戦争で徴兵されるのだが、彼が牧師であったことは周囲は誰も知らなかった。自分はヘスとも知り合いで、彼は自分にこう言っていたのだ。

 「もしキミの人生がいつか映画化されるなら、自分の信仰を保護するための別の契約を結ばないとダメだよ。自分はもう残りの人生を、映画とは無縁に生きてはいけないんだ。それは決して楽しいもんなんかじゃないってことで、同じことがキミに起きて欲しくないんだ」

 自分としては多くを望んでいた訳ではない。ほんの一瞬でいいから、イザヤ書第9章6節のように、イエス・キリストが神と救世主、その両方として登場する瞬間が欲しかっただけだ。そこでプロデューサーはこちらに、もう2つ契約書の草案を書いてくれたのだが、シンシアと自分はそのどちらも受け入れることはできず、これはこちらが納得できるものが提案されるまで続き、それから自分が契約にサインをすると、脚本も発注へと漕ぎつけた。トニー・カーティスは映画「スパルタカス」のためヨーロッパへ行き、それから別の映画のため南アメリカへも行き、そして彼が帰ると脚本も出来上がったのだが、しかし自分はそれが気に入らず、ユニバーサルもこれは同じで、彼らは計画を保留にしてしまった。

 ディーン・ヘスと愛機。ヘスはルーイーと同年に生まれたパイロットで、第二次大戦後、聖職に就いた後に再召喚され日本に駐留した。朝鮮戦争で転属となると、前線の孤児のための慈善団体と関係し、自身の基地に孤児を受け入れたと言われる。またこれがいっぱいになると、ソウルに移送。さらに北側が進軍を始めると、済州島に子どもを空輸したとされるが、これは「Kiddy Car Airlift:ちびっ子空輸車」と呼ばれた。56年に自伝を発表、翌年に映画化がなされたが、これが「大空の凱歌」になる

https://en.wikipedia.org/wiki/Dean_Hess#cite_note-autogenerated2-2

 チマ・チョゴリを着るアンナ・カシュフィ。映画では主人公が自らを、牧師であることに充分適格と思えず、軍の召還に応じる。現地では結婚している身で、孤児を育てる架空の美しい韓国人女性、エン・スーン・ヤンと知り合うのだが、これを演じるのはなぜかインド系イギリス人女優、アンナ・カシュフィになる。(デリーで知り合った、韓国人とインド人から生まれた済州島育ちの設定)主人公は敵機の撃墜で殺人を心に病んだりするのだが、これには地元の古老が「選択肢が二つの悪しかない場合、より悪の少ない方を受け入れるしかない。救出のためには、時に破壊と破滅で新たな生を創造しなければいけない。これは私のタワゴトではない、本にある」と、思いっきり破壊の容認を口にするのだが、それってどんな本?同じくルーイーの56年版を元にした幻の映画企画も、朝鮮・ベトナム戦争へのプロパガンダが不可避だったのは想像に難くない。以下あらすじ

https://eiga.com/movie/59198/

 日本からの帰国というもの、自分の信仰心は強く、人生は満ち足り、新聞や雑誌も時折り自分のことを記事で回顧しては、こちらに敬意を表してくれた。自分はいつでも極めて活動的で、退屈することなく新たな挑戦を求め、現れた課題には立ち向かって行った。

 一方で自分の日常生活とそこでの毎日はちょっと別種のもので、それは誰もが経験する子育てや学校、休暇や仕事に近かったろう。自分達には素晴らしい贈り物、リュークという息子も授かり、シンシアと自分はシッシーとリュークが幸せ一杯かつ、好奇心旺盛で聡明に育つように努めた。家族は良きクリスチャンとしての生活を続け、私も講演を続けた。だがこの頃になると、私の出演は席が埋まってはいても、生活を支える十分な収入を生まなくなっていた。幸いなことに、神は生活の糧を得る他の多くの機会を下すった。自分は不動産業界へと進み、教会の青少年プログラムのディレクターとしても働き、また企業のための教誨師として勤め、ハリウッド第一長老会教会(※First Presbyterian Church)で、退職後の人々のためのプログラムを組んだりした。

 シンシアもまた自らを開花させると、決して独立精神を失うことはなかった。彼女はまず画家となると、自身の個展では絵を全て売った。それから作家となると3編の小説を書き、好評を博した。また世界を旅して周ると、費用のためなら何でもやって、必要額に達するまで配送トラックを運転するようなこともした。それからこの旅行から帰って来ると新たな職を見つけ、さらにその次の旅へと出た。正直な所を言えば、自分も昔は彼女が一人で旅に出るのは心配だったので、一度、彼女が家に帰って来た際に聞いてみたことがある。

 「旅の途中に、何か酷いことはなかった?」

 「ツアーに参加してたら、ある男がこっちに歩いて来て、左側の頬っぺたを触ってきたのよ」

 「じゃあ良きクリスチャンとして、反対側の頬も出さないといけなかったね」

 「まさか。石投げてやったわよ」

 「ま、それも聖書に書いてはあるけど」

 50年代~60年代と思われる家族写真と、シンシア・アップルホワイト著「夏の夢とクレイグ・ライト・ガス社(Summer Dreams and the Kleig Light Gas Company)」。家族は長男も名前が「ルイス・シルビー・ザンぺリーニ・ジュニア」だから、お姉さんはお母さんと、弟はお父さんと全く同じ姓名。小説は思春期を迎える16歳の女の子が、ハリウッドへ行く物語。1982年出版で、中古もまだ買えます

 自分はその後、選手として走ることはなかったが、体を鍛えることに重きを置いた。今でもコンディションは最高なものに保っている。スケボーは数年前に万が一を思ってもう止めたが、私は飛行機を操縦し、スキーはダブル・ダイアモンド・トレイルを滑り、(※山スキーのレベル。傾斜率40%以上のダイアモンドクラスに加え、ルートが狭かったり崖や吹き溜まりを滑る超難易度)マウンテンバイクではオフロードを走り、山登りだってしている。

 人は今にして尚、あんな試練の数々を生き抜いた後にどうやったらそんなことができるんですか?と自分に聞いてくる。もっともな質問だが、それに対する自分の答えは、ちゃんと食べて運動をするということで、確かにこの2つは必要かつ重要だが、しかし本当に大切なことは、態度が全てということだろうか。戦争と漂流、収容所に酒浸りの生活、それらは自分の人生から10年は奪って行ったろう。私は単にその10年を取り戻そうと心に決めただけなのだ。

 その例がある。1957年に私はオリンピックのスキージャンプ選手、キース・ワガナンと、ワイオミング州のウインドリバー・エリアにある、北米大陸最大の氷原である標高14,000フィート(※4267M)のギャネット氷河に登り、その過程でほぼ死にかけた。

 自分達の目算では、登攀には丸一日かかると踏んでいたのだが、嵐によりその開始が正午にまでずれ込んだのだ。そこで急いで登攀をすることになり、安全装置の類も多くは持って行けず、ロープとアイゼン、ピッケルの内、どれを一番よく使うか決めねばならなくなった。自分達が選んだのはピッケルで、身に着けていたのは軍服に軍用ブーツだった。

 それから運悪く雷を伴った嵐に遭い、凍え死ぬかと思われたのだが、しかし8時間にも及ぶ登攀の後に、頂上に達すると雲が晴れ、壮観たる氷原の様子と、さらに70マイル先(※112キロ)にはティトン山脈が見え、それはまるで自分達に天界を思わせるほどだった。その眺望の美しさたるや、格闘と酷寒の苦しみなど遥かに勝って感じられたのだが、しかしここに一つだけ問題があった。日没が始まっていたのだ。急いで下山をせねばならず、自分達はブーツや下半身を使いグリセーディングで降りるしかなかった。自分達はこれを30分で終え、この様子を下山しながら動画に収めた。ところが一番下まで降りると、そこで残して行ったラバと装備には行きつけたものの、その頃には辺りは暗くなり、しかも悪いことに雲が出て来ていた。自分達はマッチを擦り、お互いとラバをロープで繋ぐと、シンシアの所へ戻る道を探ってまわった。その途中に小川に落ちたり、岩盤の上で滑ったりとそれはもう酷いものだったが、やがては遠くに大きな炎が見えた。シンシアが焚火を起こして待っていてくれたのだ。彼女は自分達の姿を見るとこちらに走り寄り、その目には涙が溢れていた。後から聞いた所によると、自分達はもう死んでしまったと思ったそうだ。

 それから2日後に、自分達は再び同じ氷河に登った。だが今回はスキーを持って行ったので、帰りの時間はわずか数分しか掛からなかった。これには登山口の所で、レンジャーの人が言った。

 「今までギャレット氷河からスキーで滑り降りた人なんて、聞いたことありませんよ。あなた方2人がおそらく史上初のはずです」

 ベル・ハウエル社製動画用フィルムカメラと、ザンペリーニ家のホームフィルム。ディス・イズ・ユア・ライフで貰ったカメラを、山に持って行ったのかは分からないが、1957年当時はゴープロはおろかVTR自体がなく、月面にでも光学フィルムを持って行った時代の、さらにそのまた昔。ルーイーの一年後の1955年に同じく番組に出演した被爆者、谷本清氏が同社の16mmカメラを貰っているので、ルーイーが貰った物も同様の種類である可能性は高い。だとするとルーイーは、富士山より高い標高4千越えの山に、ロクに装備も持たないで登頂しておきながら、冷たく重たい16mmフィルムカメラは持って行ったことになる

グリセーデイング

 後述スコー・バレーはカリフォルニアの高級スキーリゾート。ビクトリー・ボーイズ・キャンプHPより。右がグリセーディング

https://www.zamperini.org/our-history

 自分は後にこれらのサバイバル・テクニックを、ある夏のスコー・バレーで生かすことになる。そこでは2週間に渡り、ビクトリー・ボーイズ・キャンプのプログラムのため、自分は食事と宿に加え、その他の設備が無償で提供されていた。

 北側斜面は未だに氷の板が地表を覆う中、ある朝私は子ども達にピッケルの使い方を教えていた。それは登攀のみならず、氷原の上でスリップしたり、足元が滑った際にはサバイバルにおける武器となるのだ。するとこの講義のさなかに、必死に助けを求める男性の声が聞こえた。見れば声の主は山の上の方で、空をバックに手を振って叫んでいた。

 「自分の彼女が崖から落ちたんです」

 これに私は、子ども達をアシスタントに預けるとピッケルを掴み、山頂へと向かった。

 パニックになったその若い彼が状況を説明しつつ、自分達は彼のガールフレンドの滑落現場に向かい、彼女は地表より突き出た岩の上にいるのが見えた。

 「そこから動くな!」

 私はそう叫んだ。

 「深呼吸をしてリラックスして。今、迎えに行くから」

 それから、自分の下降に伴って落ちるであろう石から、自身の頭を守るようにも彼女に伝えた。

 ここで本当に必要なのは登山用ロープなのだが、自分の手にあったのは持ってきたピッケルだけだ。それでも自分は岩に向かって這い降り、彼女の腕を掴むと狭く突き出た岩棚に降ろし、安全な所まで岩棚沿いに誘導した。彼女はこちらに心より感謝をしていて、その間、自分のアシスタントは子ども達をこの様子が見える所へ連れて行き、救出劇を見たことは子ども達に大きなインパクトを与えた。これはまさに、自分が常に目指してきたことで、大切にしたいと思っていることだ。

 こういった冒険譚は他に幾らでもある。個人的に達成した目標や苦しい逆境、魂を揺さぶられるような瞬間に感情における葛藤、そして何よりも、人の為に尽くすが故に得られる終わることなき恩恵など、語ろうと思えばまだまだ続くが、煎じ詰めればこの話は、自分が40歳を迎える辺りを終わりとする。今や私は86歳で、その過程は別の本にでも譲ろう。ここではただ自分は、立派ないち社会人としての地位を得られていたら、嬉しいとだけ言おうか。私は元オリンピアン・軍人として活動的であり続け、家族を心から大切にし、人生とはそういうものだろうし、そうあるべきだ。おそらく自分は一人の人間としては、充分に刺激に満ちた人生を送ったろう。嵐のない凪いだ海というのも、それはそれで悪くないものだ。だがそれは1997年も始めの、ある日のことだった・・・

 

 ハリウッド・ヒルズにある私の自宅であの電話が鳴った時、それに出たのはシンシアだった。相手はCBSスポーツのオリンピックの特集担当の、エミー賞も獲ったシニア・プロデューサーで、ドレガン・ミハイロビッチという男だった。彼がどうした理由でか、自分に話があるというのだ。

 だがここは、ドレガンにその弁を譲ろう。

ドレガン・ミハイロビッチ

シニア・プロデューサー:全てを統括するエギュゼキュティブ・プロデューサーの下で、

特集コーナーの一つを任される

 ―『自分は歴代のオリンピックについて追っていて、歴史に名を残す偉大なオリンピアン達の逸話を集めた、デビット・ワレチンスキーの本は読んでいたんだけど、でもルーイーのことは聞いたことがなかったんだ。あれは全くの偶然にして本当に運がよかったし、まさに神か何かの介在では何て思ってしまうね。あの時、自分はある取材のために、たまたまニュース・ライブラリーに行っていたんだけど、内容は1945年(※結成)の強豪で知られた、陸軍アメフトチームの50周年記念で、調べ物があったんだ。自分は当時のニューヨーク・タイムズをマイクロフィルムでチェックしたくて、そこで例えば陸軍と海軍が試合をした日に、マッカーサーがどこそこだかに上陸していたかどうか、なんてことを見つけようとしてた。

 そこで紙面を送っていると、自分の目の端に「オリンピック」の文字が飛び込んできて、それでおやっ?と思ったんだ。だって1945年はオリンピック・イヤーじゃないし、そもそも大会は1936年以降、開催されていない訳だからね。ニューヨーク・タイムズの9月10日の一面には、「ザンペリーニ・オリンピック1マイル走者、壮大なる試練を生き延びる」とあって、一体これは誰だ?って思ったんだ。(※第11章前述のトランブルの記事のこと。何らかの原因で日付が1日違う) その記事を読み始めて分かったのは、記者がルーイーにインタビューしたのは、彼が解放されてすぐ数日後だったってことで、そこには自分のプロダクション・アシスタントも一緒にいたんだけど、もう2人してビックリだったよ。でも自分達は同時に、この人達はもう誰も生きちゃあいないだろうし、だったらどうやって番組に出来るんだ、とも思ったんだ。

 それで正直言うと認めたくないんだけど、この件は6ヵ月くらい放って置いたんだ。だってルーイーがまだ生きていて、何らかの形でその話を語ってくれるなんて、あまりにも現実的ではない。でも最終的には、まあちょっとやってみるだけはやってみようかと思ったんだ。彼が亡くなっているなら、それだけでも確かめよう、ってね。やれるだけやったと分かれば、気分的にもラクになるかと思ったんだ。

 調べてみると、ルーイーの1979年の住所はハリウッドだというのが分かって、それで電話してみたんだ。そうしたら電話口にはシンシアが出てきた。自分はちょっと前に、ある未亡人に電話をしたばかりで、その時の電話で彼女の旦那さんが亡くなっていたのを知って、彼女はこの時とても取り乱してしまってね。だからこの時も、既に心配ではあったんだ。でもあえて自己紹介した後に、

 「ルイス・ザンペリーニさんとお話しできますか?」

 と聞いたんだ。そしたら彼女が

 「それは、あのう」

 って言うから、心中これはマズいな、またかよって思ったら、

 「今はちょっと出てるんです」

 って言うから、思わず

 「え?それ本当ですか?あのルーイー・ザンペリーニですよ、戦争の英雄にして、戦時捕虜になった、オリンピック陸上選手の」

 と言ってしまって。すると彼女が、

 「ええ、そうですよ。その彼は今、教会に行ってるんですけど、お話なら喜んでしますよ」

 って言ってくれて、それが話の始まりだったね。それからもう一度こちらから電話して、ルーイーと話せたから、自分は数週間後にカリフォルニアに行く予定だということを伝えて、その時に腰を落ち着けてゆっくりお話をお聞かせ願えないですか?と聞いてみたんだ』―

 

 「あなたのお話」だって?私はもう既にしてほぼ50年もの間、神が私に望むように生きてきた。教会にスポーツに、家族を養うことに、ずっと邁進してきた。1984年のロサンゼルス・オリンピックと、1996年のアトランタ大会では、大会前の聖火ランナーの栄誉に預かり、新聞各社は時折りその昔を偲び、自分の記事を書いてくれた。

 03年版より―「警察のエスコートを受け聖火と共に走る。1984年のロサンゼルス・オリンピックにて」

歴代の聖火と共に―ロサンゼルス・タイムズより

 また私は自らの戦争体験に新たな真実を掘り起こしてもきたが、自分がジェームズ・ササキを出獄させる手助けを、なぜ全くできなかったのかもこの内の一つだ。

 遡ること数年前、ザンペリーニ・フィールドで催されたエア・ショーで、自分がパイロット達に挨拶していると、一人の若い警察官が自分の所にやって来てこう言った。

 「ザンペリーニさんですよね、あなたの本を持ってるんですけど、サインをして頂けませんか?」

 ところが自分が本を開くと、そこには既に「アーニー・アッシュトンへ」とサインがしてあった。それは自分と同じ時に高校に行った男の名で、後に警察官になっていた。若い彼によるとアーニーは亡くなっており、彼はこの本を手に入れると読んでみたそうだった。自分はその本にもう一度サインをし、すると彼が言った。

 「そういえば、アーニーは別の所に何か書いていましたよ」

 そこで自分が本をめくってみると、果たして自分がササキについて触れた箇所には書き込みがあり、ページ下に書かれたその内容は、以下の通りだ。

 「ジミー・ササキはトーランス大通りから外れた、南カリフォルニア・エジソン社の変電所近くに強力な無線送信機を持っていて、これは日本政府と絶え間ない無線交信を続けていた。彼はFBIとCIAによる手入れの前に、船でアメリカを去った」

 ササキはスパイだったのだ。

 そうであれば彼が大船で、ロングビーチやサンペドロへの愛着を、度々自慢げに語っていたのにも納得がいく。彼はそこへ行っては送信機の所へ行き、港湾内の船の動きを電送で報告していたのだ。

 ジェームズ・クンイチ・ササキ。偶然見つけた一枚で詳細不明。戦後は日米同盟に駆り出されたのだろうか?

 本書56年版

 ドレガンの電話があった時、私はこれを自らの記録を完成させる好機であると捉えた。自分達が面会すると彼はメモを取り、程なくこれが自らの予期した以上に大きな発見であったことを知った。そこから彼は簡単な概略を組むと、次の冬季五輪の間に私についての特集を放映するべく企画を立てた。この案はCBSで通ることになり、10分の放送時間が割り当てられた。

 ドレガンは調査の一環として、―ドレガンは調査が大好きだったのだが―日本に飛ぶと、現地調査を開始した。ウォッジェ環礁に行って撮影を行い、今や名前を上越と変えた直江津へも行くと、1995年10月に4-B収容所の地が、平和記念公園へと生まれ変わり、現地で非業の死を遂げた連合国側の捕虜達の為に、記念碑が立っていることを知った。自分が収容所にいた頃に、学校にいた子ども達は大人になっており、資金を捻出すると互いに提供し合い、用地取得のために尽力してこの公園を建設していたのだ。彼らは、自分の子や孫の代に至るまで、そこで何が起きたのかを風化させたくないと考えたのだ。

 ドレガンはまた自分に、日本へ行って再び聖火ランナーを務めることを求めた。今回は収容所の近くの長野という場所で行われる、1998年の冬季大会で1キロを走るのだ。自分としてはこれに、かつての収容所すぐ横を走る形を提案したのだが、しかし今となっては収容所は存在せず、収容所から数マイルだけ離れた市街地を走り抜けると、ドレガンはその後に、私が平和公園の記念碑を訪れる様子を撮影した。

 番組が形になるに従い、ドレガンと私は、自分が生涯で溜め込んできた、本当に多くの物に目を通す作業に何日も費やした。自分は慢性的に物を溜め込む癖があったのだが、そこには手紙、文書の類、雑誌、新聞、動画フィルム、写真、切り抜き類のアレコレの中からは、遂に第二次大戦時の自分の日記も出てきた。ドレガンはそんな作業も厭わずに行っては言った。

 「全てに確証をとりたいんです」

 「全部確認しないと」

 例えば自分がドレガンに、バードに長い材木を持ち上げさせられた時のことを言うと、こう聞いてきた。

 「誰か他に、それ見てましたか?」

 そう言われても、その場に居たほとんどの人間は死んでいた。だがドレガンはイングランドにいたトム・ウェイドに連絡をとると、ウェイドは自らの書籍「プリズナー・オブ・ザ・ジャパニーズ:日本の虜囚として」をドレガンに寄越してきた。そこで彼は偶然にも、全く同じ話を書いていたのだ。

 また自分はドレガンにこうも言った。

 「自分の人生とは全て、神への奉仕に尽きる。もし真実を伝えたいと言うなら、そこには私の改宗体験もないと真実とは言えないよ」

 すると彼はこれに即座に答えた。

 「それなくしてこの話は成立しませんよ。赦しこそが、この番組の基礎になるテーマなんですから」

 これを聞いて自分は心の底から安心をした。

 「あと自分の改宗の話に加えて、ビリー・グラハムの写真も出して欲しいんだ。ビリー・グラハムの名前を聞いたら、人が思い浮かべるのはただ一つ、福音のことだからね」

 「ええ、そうするようお約束致します」

 ドレガンはそう言うと、全ての約束を守ってくれた。

 自分の保管してきた資料と、ドレガンの検証から得られた確証により、CBSはドレガンにさらなる5分の放送枠を与え、それからさらにもう5分が加えられた。何という幸運だろう。今まで幾多の試練を経てきた後に、これ以上に素晴らしい機会などありえない。自分はそう思った。

 

 だが、これは間違っていた。

 ある日、教会の自分のオフィスで手紙類の返事を書いていると電話が鳴った。掛けてきたのは東京にいるドレガンで、彼はさらなるエピソードの検証と撮影のため、現地にいたのだ。

 「今、ちょっと座ってますか?」

 ドレガンはこんなことを聞いてきた。

 「ああ、座ってるよ」

 「じゃあその椅子に、しっかりつかまって下さい」

 そこで自分は椅子の端をつかんだ。

 「つかまったけど、どうしたかな?」

 「こちらはバードを発見しました」

 ドレガンは言った。

 「しかも、まだ生きてます」

 自分は文字通り言葉を失った。そして、それからようやく口にできたのは、

 「え!?」

 と、ひとことだけだった。

 「ええ、我々は彼を見つけたんです。もう定年を迎えていて、生命保険を売って裕福になっています。こちらとしてはインタビューを試みるつもりです」

 「そんな、本当に?」

 「彼に会ってみたいですか?」

 「是非もないよ」

 

 電話を切った後に、頭の中ではあの4-Bキャンプでの、最後の一週間が甦った。自分達が終戦を知る、その2日前にバードはあそこを去った。そしてそれ以来、誰も彼の姿を見ていない。彼の母ですら取り調べを受けた際、家族にも彼からの音信は無いと言っている。そうして彼女は、我が子のためにやしろ(※原文shrine・おそらく墓か神棚、位牌 )まで建て、自分達もてっきり渡邊は死んだものとばかり思っていた。

 ドレガンはなんとか彼の足跡を突き止めると、バードの家に電話を掛け、彼の妻にインタビューをしたいと言ったのだ。彼女によるとバードは病気とのことで、この数日後にドレガンは再び同じことを試みた。すると今回、彼女より返って来た返答は、

 「今、旅行中です」

 とのことだった。

 ドレガンとこの特集を担当したCBS歴戦のレポーター、ボブ・サイモン及びクルーの一行は、これに家を張り込み監視を続けることにした。彼らは渡邊が長い散歩をする習慣があることを突き止め、そこで通り越しにカメラを1台セットすると、事態に備えてもう一台を、クルーの帽子に隠しカメラとして用意した。そしてバードが家より出て来ると、クルーは彼に向かって行き、通訳を通して彼が渡邊本人であるかを聞いた。

 「ええ、私が渡邊睦裕ですよ」

 彼はそう言うと、幾つかの確認事項の後インタビューに応じることに同意した。

 「あなたが大森の担当だった時の、トム・ヘンリング・ウェイドを覚えていますか?」

 サイモンがこう聞くと渡邊は言った。

 「いえ、覚えていませんね。捕虜は沢山いましたから」

 自分からすれば、どうして覚えていないのか理解できない。ウェイドは日本語が話せたし、いつも自分達への通訳をしていたからだ。

 「ワドって人は覚えてないな」

 「では、ルイス・ザンペリーニはどうでしょう?」

 「ああ、ザンペリーニか、オリンピアンの。彼ならよく覚えてますよ。いい捕虜だった」

 「彼に会ってみたいと思いませんか?」

 驚いたことにこの質問に、バードはイエスと答えた。

 クルーはまた、長らく謎となっていた、戦後の渡邊の居場所についても解明した。渡邊によると長野の高地の奥にある山小屋に隠れていたそうで、そこは現在、大きなスキー場エリアになっているが、当時はまだ手つかずだったそうだ。彼はそこに全面恩赦まで、7~8年もの間、潜伏していたのだ。だがそんなに長い間、仕事はともかく最低でも物資の援助なくして、どうやって生き延びたというのか?自分には理解できない。この話は自分にとって、彼の両親はこの居場所を知っていたのではないかという疑念を大きくしただけだった。それにそもそも、どうやって山小屋を手に入れたと言うのだろう?カネなら家族が持っていたろうし、おそらく家族の所有する物だったのだろう。それに7年もの間、自分が死んだと両親に思わせたままにするなど、誰がするだろう?

 この対決ともとれるインタビューのさなか、渡邊の息子と孫が家から出てくると、事態の成り行きに気づくに至った。彼らがその内容を聞き入ると、ボブ・サイモンが言った。

 「ではもし、(ザンペリーニが)そんなにいい捕虜だったと言うなら、どうしてムチャクチャに暴行を加えたりしたんですか?」

 渡邊は英語をほとんど理解しなかったが、しかしこれには見当がついた。

 「え?ザンペリーニはそんなこと言ったの?」

 「ザンペリーニと他の戦時捕虜達は、看守の中でも、特にあなたが一番冷酷であったと言っているんです。これをどう説明します?」

 サイモンがこう尋ねると、渡邊は言った。

 (※以下該当部のみCBSからの発言を引用)「ビート、キッキング、ちゅうのは、白人社会においては、非情な・・・非情な仕打ちだと・・・ただ、殴ったりビートする程度のものは、収容所では時にやむを得ない場合もあった訳です。ミリタリー・オーダーでやったと言うんじゃなくて、やはり私自身の気持ちから見て・・・自分は捕虜達をあくまでも日本の敵として扱ったまでで、自分はザンペリーニさんは有名な人だったんだし、だったんだし、彼が、渡邊に殴られたと言うならば、キャンプ内でそういう事実があったことは考えられます、もしあの時の自分の個人的な心情を考えるなら」

 「あなたが大森にいた時、トム・ヘンリング・ウェイドによると・・・」

 サイモンはさらに続けると、ベルトのバックルの件や、数々の暴行、ウェイドとフランク・ティンカーの証言について持ち出した。

 バードはこれらを何一つ、否定などしなかった。

 一方で渡邊の家族は、このやり取りに仰天していた。彼らはバードが戦時中に収容所の看守であったことを知らなかったし、自身が耳にした内容と、老人が言葉を選んでは苦闘する様にショックを受けていた。バードの息子と孫はおそらく普通に優しい人だったのだろう。彼らの衝撃は想像に難くない。

 「もうやめて下さい!」

 彼らはこう叫ぶと、息子が後を継いだ。

 「父と会うのはこれが最後。ここから出て、もう二度と来ないで下さい」

 私はこれについて、彼らを責めることはできない。息子というのは、いかにその父が正しかろうが悪かろうが、その支援に周るというものだ。それにおそらくバードとて、後でインタビューなど受けなければよかったと後悔したに違いない。その結果、家族に対して自身の過去が明るみに出たからだ。彼は人から、全看守の中でも最悪の看守として非難され、身柄の引き渡しには懸賞金が懸かり、あのマッカーサー元帥すらがその行方を追い、A級戦犯として上位40名の指名手配犯の内、23位に位置付けられたのだ。つまりそれは、死刑囚を意味した。これは受け止める方が難しいと言って余りある。(※A級、ママ。前章参照)

 これにドレガンはカメラを止めると、それでも渡邊に私と会ってみたいと思うかと尋ねた。そしてここでも彼は、この問いにイエスと答えた。

 本編の記述と異なるが、アンブロークンによるとインタビューは東京のホテルで行われた。この時において、トム・ウェイド及び、武器での殴打への言及は、少なくとも番組オンエアや「アンブロークン」には見られず、本編におけるこの突撃インタビューの記述は、95年のメール・オン・サンデーと、CBSドキュメントの引用と思われる。つまり上記の記載は引用元が不明なのだが、しかしバードの主張はCBSと文芸春秋、メール・オン・サンデーで矛盾しており、メール・オン・サンデーでの「武器は使っていない」「トム・ウェイドを覚えていない」はウソである可能性が高く、ルーイーはこの事を言っているとも思われる。

 「Prisoner of the Japanese」によると、ウェイドは捕虜棟代表として、バードから捕虜棟での些細な「違反」、つまり服がちゃんと畳まれていない、「気を付け」や敬礼がなっていない等の全責任を取らされ、タコ殴りに殴られていた(竹刀の柄の側で36回等)。直江津異動に際し、バードはこういった殴られ役士官を、わざわざご指名で直江津に呼んでおり、この5名の内にはウェイドも入ると、バードは自分からウェイドに言っており、しかも「13番目のミッション」によると、この5名の指名の内、マーティンデールに関してはメーヤ中佐と小栗軍曹、つまり敵味方であるはずの日米合同チームがこれを妨害、ウェイドが身代わりになったともある

 「アンブロークン」での全文引用は、→「影の主役の告白」へ

 ドレガンはその後、再びバードと私の面会を試みたのだが、しかしバードの息子はこれを頑なに拒んだ。

 「ザンペリーニさんは父にお辞儀をして、赦しを乞うよう望むんでしょうね」

 これを聞いた時、私は言った。

 「そんな、自分は彼に赦しを乞うように言うつもりなんてありませんよ。だってもう自分は、彼を赦したんですから」

 ドレガンはこの答えを持って再び電話を掛け、しかし渡邊の息子はドレガンとの話すことを拒み、ドレガンは私にこう言った。

 「我々としてはお二人に面会して頂きたいんですが、しかし彼をもう一度捕まえるために我々にできるのは、家の近くに隠れて、散歩に出てきた所を直撃するくらいですね」

 「いやいや、そんなことできないよ。そんなのは自分のすることじゃないし、こそこそ隠れたりなんてしないよ」

 これにはドレガンも同意した。

 「その通りです。そんなことをしたら、あなたの印象も悪くなるし、番組にとってもよくない」

 自分としても当然、もしバードが散歩に出ている時にたまたま自分もそこにいたら、何をしたり言ったりするだろうかと考えたことがある。

 「渡邊さんですか?どうも、ルイス・ザンペリーニです」

 私は思うに、そこに口論のようなことは起きない。自分達はそこで、ただ立ち話でもするだけだ。お昼ご飯でもご一緒にどうでしょう?と自分は言い、そこで家族について、子どもや孫たち、奥さんについて聞く。皆さんはどうなさっているんですか?と。そしてそれだけだ。もし彼が戦争について持ち出すなら、こちらからは、そもそも戦争があったことが不幸だった、と言う。そうでなければ、戦争について話すつもりもないし、彼の犯した罪を非難することもない。何かを赦した人間とは、決して相手の面前で過去を持ち出したりはしない。誰かを赦すということは、まるで何もなかったかのようなもので、真の赦しとは、完全かつ全てを許すものなのだ。

 ドレガンがバードを見つけた際、CBSは彼に40分のオンエア枠とほぼ無制限の予算を与え、ドレガンはこれに総力を尽くした。海のド真ん中でヘリコプターから救命ボートを落とし、望遠レンズで捉えてから、白い波頭と見分けがつかなくなるまでヘリを引いたりしたりした。

 彼はまた、番組の内容を放送まで明らかにしない方針も決めていて、CBS側もドレガンがいかに大きな仕事を成し遂げたのかを理解すると、放映時間を大会最終日の、閉会式の前へと再度調整した。

 ドレガンが最後に撮影したのは、私が聖火を持って走るその瞬間だ。これに自分はまず、自分を聖火ランナーにしてくれた上越市の市長と平和記念公園に貢献された方々と会い、後者の人達は自分とバードの再会が実現するよう、尽力し続けるとも言ってくれた。

 上越市長は自分に

 「2年半の捕虜体験の中から、何かいいこともありましたか?」

 と聞いてきた。

 「ええ。お陰で自分は53年にも及ぶ、結婚生活の土台を築くことができましたよ」

 自分がこう冗談で返すと、彼は爆笑してくれた。代わりに再誕(※改宗)に関して、詳細を語ることもできたのだが、彼には通じなかったかもしれない。聖書は言う。神を愛する人々のためには、神は全てを働かせ善として下さる、と。(※ローマ人への手紙8:28)バードなくして私は決して改宗などせず、我が人生も変わることなどなかった。だが彼への激しい苦痛の想いは私を破壊へと駆り立て、そして自分を取り巻く世界が全て、完全に壊れた時、そこではあの救命ボートと同じことが起きた。今一度言おう、そこではよもや頼るべき場所など、見上げる天以外に何も無いのだ。

 翌朝の8時くらいに市長は、

 「今こそ聖火ランナーとして、上越市へようこそ」

 と言うと、自身の聖火で私の聖火に火を灯した。その日は寒く、私は赤や白、それと青の鮮やかなランニング・スーツとして、長袖のジャケットと長ズボンをはいた。

右:1998年1月26日付のパシフィック版・スターズ&ストライプスこと、星条旗新聞、海洋版より。

当時の宮越馨市長より、聖火を受ける

 高く掲げた、国の境を越える協調とスポーツマンシップの象徴と共に走りながら、自分は4-B収容所と戦争、また当時と今の人生のコントラストについてずっと考えていた。あの時、自分はほぼ毎日のように殴られ、周囲では至る所に人の死が満ちていた。今、自分が走る沿道には何千もの人々が集まり、彼らのほとんどは戦争世代の子や孫たちで、大きな声で声援を送ってくれている。あの時、自分は日本を憎み、復讐を望んだ。だが今、自分はバードが何の懲罰も受けていないことを思うが、悔しさなどの感情は一切持っていない。自分はそれを赦し、それ以上に赦しが自身にどれだけの恩恵を齎したのか理解しているのだ。思えば自身を赦し人を赦すことは、私の人生のテーマだった。

 人は私をラッキー・ルーイーと呼んだが、それはまさに真実だった。

 この日本への旅で私が受けた歓待と親愛の情は、驚く程のものだった。王様のような待遇を受けるというのは、いつでも衝撃を受けたものだが、しかし今回は今までとは違った。今になってようやくにして、私は自身の「名声」や世間からの評価と、共存できるようになったのだろう。悪いことをすること以外で認められたい、そもそもそれこそが、自分を一人の陸上選手にさせたものだった。自分を応援してくれる人達が自分を成功させ、私はそれをずっと承知していた。どうせアイツらはこっちの名前すら知らないだろう、どうせ自分にはコースを全部走ったりなんてできない、そう思っている時に、自分のクラスメートはこちらに声援を送ってくれ、自分が走った数多くの最終ストレートの中でも、最初のそれに拍車をかけ、ゴールへと導いてくれたのだ。

 私はいつでも、レースを最後まで走ってきた。

 オリンピックの精神とは、まるで風の様なものだ。こちらに吹いてきても、向こうに行ってもその存在は見えないが、その声を聞いたり存在の力を感じることはでき、それがもたらす結果を楽しむことができる。そしてそれは記憶となり、我々の輝かしい日々を反響し続ける。

 長野では、私は何の記録も打ち立てなかった。

 ここまで来れば、もうその必要もない。

 

 私が生き抜いてきた事の後では、自分を挫くような事はほぼ不可能だということは、容易に理解できるだろう。それでも2001年の4月10日、自分の乗ったハワイよりマニラへの飛行機が、航路の通りに途中で給油のためクワジェリンに着陸した時、自分の背筋には悪寒が走り、感情のコントロールには悪戦苦闘をすることになった。

 自分ははるか昔に日本人達を赦したというのに、何かでクワジェリンの名が触れられるだけで、未だに自分の家族を皆殺しにした、そんな人間の名を聞くようだったのだ。あの地獄の巣窟に戻ると思うだけで、あれから58年もたったというのに、とても耐えられたものではなかった。かの島がもはや、自分の記憶にあるクワジェリンなどではないというのは問題ではなく、簡単に言えばその場所はつまり、自分がまるでドブネズミのように扱われ、人生で最も悲惨な時間を過ごした場所だということだ。

 それはともかく現在のクワジェリンは、何かの普通の旅行においては旅程表に載ることはない。赤道から緯度をほんの少し北に行った場所に位置し、グアムの約1,500マイル(※2,400キロ)東のそこは、7平方マイル(※11.2キロ平方)に及ぶ米軍基地となっており、対ミサイル防衛システムの一環として、「スター・ウォーズ」とも呼ばれる迎撃弾発射用地の本拠地となっている。巨大な皿の形をしたアンテナが幾つもあって、方々の空への探知に余念がなく、地域全体への立ち入りは厳しく制限されている。既に島に住んでいる人や働いている人など、セキュリティチェックを受けた一握りの乗客以外は、飛行機から降りることもできない。

 だがこれは、自分には適用されなかった。私がこの地をあれだけおぞましく思おうとも、自分は自らの意志でここへ来たのだ。

 遡ること数ヶ月、自分の教会に通っている一人の女性が、彼女の姉妹がクワジェリンで働いているのだと私に言ってきた。そしてそのクワジェリンの方の彼女がロサンゼルスを訪れた際、私がクワジェリンで幽閉されたことを知り、「CBS 48時間」(※ママ)で放映されたこちらの映像を見たそうなのだ。そしてクワジェリンの地元紙と自分の電話番号を、ロサンゼルスの方の彼女に残して行った。私がそこへ電話を掛けると、彼女は島でCBSのビデオ・テープを皆に見せたそうで、これには全員が強い興味を示したそうだ。島を指揮する大佐は、私を退役軍人の日の式典でスピーチをしないかと、島へ招待してくれた。自分としては行きたくなどなかったが、しかしシンシアは行くべきだと言い、同行してくれるとも言ってくれた。いつものことだが、彼女の言うことは理にかなっている。

 自分達は当初、2000年の11月に島へ行くよう計画した。しかし不幸にして、シンシアの患っていたガンは彼女を圧倒し始めていた。私が旅程をキャンセルすると、それから数ヶ月の後、シンシアはこの世を去った。これにはシンシアを愛した誰もが、つまり本当に多くの人達が告別式に来てくれた。それはこれ以上にない嘉日で、シンシアへの惜しみない賛辞が、演壇からも歓談の場からも送られた。自分がシンシアを失った事への喪失感は計り知れないものがあるが、しかし私はいつの日か、再び彼女と会えることを信じている。

 目の前では、空港の地上クルーが巨大なタラップを機体のドアまで転がして、パイロットはインターコム越しに言った。

 「ザンペリーニさんが機体を降りる最後の一人です」

 シンシアの代わりにはシッシーが自分と同行していて、彼女はにっこりと笑うと言った。

 「お父さん、なにかご挨拶があるみたいよ」

 私は機体の外へと出ると、タラップの一番上に立った。その日は最高の島日和で、穏やかな貿易風は星条旗をはためかせ、遠くには家やビルが立ち並ぶ様子が見えた。そこにいた人が自分のバッグを持ってくれると、パイプバンドが滑走路で行進を始めた。指揮官とその副官が気を付けの態勢で立ち、それはまるで自分が王室の人間かのようだった。すると突然、気恥ずかしい思いが込み上げてきた。そう思うと益々その思いがもたげてくる。私は手を前に組むと思った。自分はもう84歳だ。もうずっと以前に、日本人が自分にしたことを赦し、クワジェリンでの行いのみならず、戦時中の全てにおいて赦しを行った。つまり自分はこの場所に二度と戻って来たくなかっただけであって、しかし今、自分はそこにいる。これは自分には、遅すぎたのではないだろうか?自分は本当に過去を振り払い、クワジェリンを異なる観点から見られるようになるのだろうか?―と。

 目の前の手すりと、自分の年齢を無視すると、私はテキパキとタラップを降りた。自分は前に進まねばならない。

 アスファルトの上を元気な足取りで歩き出すと、指揮に当たっている大佐は敬礼と握手でこれを迎え、それから自分とシッシーをある部屋までエスコートすると、クワジェリンに関する本を1冊プレゼントしてくれた。

 「これは自分達からの贈り物です」

 彼がそう言うと自分はお礼を言い、バッグに手を入れて、フランス製のシャンパンを一本取りだした。実は行きの機内の400名の乗客で、ちょっとしたコンテストがあったのだ。

 「現在私達は、ある対空速度で航行中で、向かい風はこれくらい、では現在までの飛行時間は一体、どれくらいでしょう?」

 これは自分にはお安い御用だった。紙に2時間28分と書き、それから30分後に、機内ではアナウンスがあった。

 「フランスのシャンパンは、41-Eのお席のお客様に当選となりました」

 自分はそれをしっかり聞いていなかったのだが、シッシーが言った。

 「お父さん、シャンパンが当たったわよ!」

 フライト・アテンダントはこちらに、白い布ナプキンで包んだボトルを持ってきてくれ、自分はこれをバッグに入れておいたのだが、今までそのことを忘れていたのだ。

 「どうぞ」

 私は大佐に言った。

 「行きの飛行機で当てたんですけど、これはこちらからの贈り物です」

 

 ホスト達はそれから数時間、私達を旅の疲れもあるだろうと、2人にしてくれた。あてがわれた部屋には、桜材の家具が光沢を放っていて、大きなテレビも置いてあった。ヒルトン・ホテルなどよりいい部屋を貰ったようだ。私はとても寝心地の良いベッドに横になると、かつて自分の入ったクワジェリンの監房について考え続けた。今となり自分は、至福にして最高の時間を過ごしている。足りないのはただ一つ、シンシアの存在だけだった。

 こちらのためにスケジュールを組んでくれたのは、儀典長のプレストンという人で、自分も彼の提案には、どれも思う存分に楽しむことができた。ゴルフをしませんか?には、それはいい!と答え、朝の5時半に起きられますか?には、もちろん!と言った。自分達はとても楽しい時間を過ごし、また色々なことがあった。彼らは爆撃がある前の古い地図を見つけ、バラバラだった断片は繋ぎ合わされると巨大なラミネーターにかけられた。そこでプレストンは私に、かつての監獄がどこらへんにあったのか分かりますか?と聞いてきた。自分が呼び起こした記憶は、ボートを降りて目隠しをされ、トラックに乗り右の方へ行ったということだ。それに従い43日間、自らが過ごしただろうと思われる所を地図で指し示し、プレストンは私をその場所へと連れて行った。だが当然にして当時と同じものなど何もなく、道は綺麗に舗装され、木々や家並み、そこへ住む家族など、当時の名残は全く無かった。

 しかしそれは私とて全く同じことだった。自分は歓迎をされ、敬意を示され敬愛もされ、食事も振舞われているのだ。

 労務者のほとんどはクワジェリンに住んでいたが、飛行機で30分ほど離れた、同じ環礁地帯のもう一つのロイ・ナムル島で働く人も多かった。そこには旧日本軍の掩体壕が全て残っており、芝生も手入れがされると、そのエリアを見学するのには2時間ほどを要した。その中には一つ、砲弾から無傷で窓に鉄格子が入っているものがある。今でも地元の人達は、そこでちょうどアメリア・イアハートが失踪した頃の前後に、背が高く痩せたブロンドの女性が、作業着を着てその鉄格子の向こうに立っているのを見た、とハッキリ証言している。当時を知る人達はアメリア・イアハートのことなど聞いたことも無いと言うが、そこには彼女の風貌と合致する女性がいたのだ。

 私が到着した時の喜びは全く想定外の物だったが、しかし出発する際の別れの名残惜しさもまた、想定外の物だった。私は島の人々と、何とも別れがたいものを感じていた。彼らは丁重にして素晴らしい人達で、自分達をこれ以上にない程もてなしてくれた。毎晩異なる家族が自分達を夕食に呼んでくれ、グラスに入れたワインで乾杯をしては、心のこもった料理が振舞われ、参加するゲスト達は皆、魅力的な人ばかりだった。

 クワジェリンはまさにユートピアと言って過言ではなかった。誰もが自転車に乗り、急ぐようなことはなく、そして私はロサンゼルスに帰って来た時、またクワジェリンに戻ろうか?とずっと自問をしていた。高速に乗り、家に帰るべくラッシュ・アワーの波と格闘をするとすぐ、その答えは自分の頭の中に出ていた。

 それから3日後、自分はプレストンから電話を貰った。

 「島の皆は、あなたとお嬢さんのこと大好きなんですよ」

 自分達が島を離れる直前に、彼は大佐の所に行ってこう言ったそうだ。

 「この仕事をずっと14年間もやっていて、色々な人がここに来る度、自分は彼らの出発日が待ちきれずにいましたけど、でも自分としては、ルーイーとシッシーならずっとここに居て貰いたいもんだと思ってますよ」

 

 自分は島に帰る日が来るとは決して思ってはいなかったが、しかしこの次の日、オアフ島のヒッカム空軍基地に配属されている一人の男から、こんな電話を貰った。

 「こちらはティム・マイルズと申します」

 彼はこう名乗った。

 「私は軍の身元照合の担当になっていて、スタッフには人類学者のチームもいるんです。自分達はマキン島へ行って15名の海兵隊員の遺体を発掘していて、それをDNA鑑定したんです。それで今、クワジェリンに行こうと思っているんです」

 「私はつい4日前にクワジェリンから帰って来たばっかりなんですよ」

 「何ですって!?」

 マイルズはクワジェリンの地元民から証言を得ていたようで、それによるとこうだ。

 「そうです、9名の海兵隊員はここに眠っていました。ここで処刑されたんです。その内の一人がここで殺されて埋められたのを、私は見たんです」

 マイルズはこれに、こう質問を続けた。

 「でもどうして彼らが、海兵隊員だって分かったんです?」

 「だって彼らは全員白人でしたから」

 地元の彼はこう答え、マイルズはこれに、名前を私の独房の壁に刻んだ、かの男達の遺体を探そうと思い立ったのだ。

 また政府・ワシントンから、なかなかに感じの悪い電話も貰った。

 「あの9名の海兵隊員が島にいたと、どうして知ってるんですか?」

 「それはあなたにね、私の書いた元の報告書を参照することになるね」

 「名前は鉛筆で書いてあったんですか?もしくは刻んであったとか?」

 「先の尖った物で、刻んであったね」

 「一体彼らには、何があったんですか?」

 これに私は相手に、1943年に地元民が自分に言ったことを伝えた。2人の看守によって、

 「あの人達は全員、首を刎ねられたんです、サムライ・スタイルで」―と。

 「彼らの名前は覚えていますか?」

 「彼らの名前なら毎日見ていて、しっかりと覚えたんだが、でもその後、もうその名前も思い出す必要が無くなって、今となってはそれが、苗字だったのか名前だったのかも思い出せないんだ。苗字だったとは思うが、でも彼らのことを思い返すような必要もその後ずっとなくて、それから自分が求められたのは、どうして海兵隊員がそこにいたのかを説明するだけだった。でも思うんだが、そちらには24名の海兵隊の不明者リストがあって、マキン島で15名を発掘したなら、残りを差し引けば名前も判明しないかな?」

 「ええ、でも他に数人の行方不明者がいるんです。2人が救命ボート一艇に乗っていて、別の島からの飛行機が、これにマキン島で機銃掃射をかけているんです。それで一人は銃弾を受けて亡くなっていて、もう一人は海に落ちてサメにやられているんです。だから特定には至りませんね」

 ティム・マイルズは地元の住民の供述書から、海兵隊員達を発見できる場所の見当がなかなかの精度でついたと考え、現地に発掘隊を派遣したく、それに合わせてこちらにも現地に来て欲しいと言ってきた。

 2002年の初旬、私は発掘のためにクワジェリンへ、ナショナル・ジオグラフィックの一隊と同行した。そしてそこで1週間を過ごしたが、しかし出てきたのは多岐に渡る弾薬や、軍関係の遺物、それと日本人とマーシャル諸島の人間の骨だけで、それ以上のものが出る前に、自分は帰らねばならなくなった。海兵隊員達は見つからなかったのだ。

 それから現在に至るまで、いかなるアメリカ人の遺体も発見には至っていない。もしそんなことがあるなら、自分の中にその場に居たいと思う気持ちもなくはないが、しかしそれ以上に、反対の思いの方が大きい。自分は多くの苦難を生き抜いてきたが、だが紙一重で自らも永眠の地となりえた集団墓地を目の当たりにするというのは、とてもではないが自分には遠慮すべきことだと信じる。

 私はマッカーサー元帥、その人に会ったことはない。彼は、

 「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」

 と言ったことで知られる人だ。しかしお言葉ながら、私はこの言葉に決して同意などできない。消えゆく(※fade away)とは何事か?人はその今際の際まで、人生を価値あるものにするべきだ。自分が若い人達に伝えたいのは、目標を持って努力をせずして、人は人生において何も成しえないということだ。そしてそれには自身に犠牲を払う用意があるのかと、自身の奥深い所を見つめて問う必要がある。人が思い描く夢というのはいつでも実現する訳ではないが、しかし試してみなければ、その結果など分かりはしない。またそれがどちらにせよ、人はその過程において必ず多くの価値ある発見をするだろう。なぜなら人は必ず問題にぶち当たるからだ。問題、それを私は挑戦と呼ぶ。自分にとっての人生初の大きな挑戦とは、子どもの頃に放蕩を尽くした10代から、ひたむきなアスリートへと自身を変えたことだ。もう一つは、自らの乗る飛行機が墜落した後に、47日間もの間生き続け、その後は収容所でも生き抜いたことだ。いかなる難問にも対処する最善の方法とは、それらに対し用意を持ってあたることだ。アスリートなら誰もが勝ちたいと願う。しかし救命ボートや戦争においては、人は勝たねばならない。運よく、また賢明に、自分は用意を持ってあたることができ、そして勝利を得た。

 私は人に良い影響を与えようと試みるべく、自身のよい体験も悪い体験も、その双方を自らの糧として人生を生きてきた。私は自身を英雄だなどと思ったことはなく、生き抜けたことに、心から感謝をしている人間と言う方が近い。だからこそ聖書に言う、

 「多くを与えられた人からは、多くを求められる」(※ルカによる福音書12:48)

 というのは、自分が人と接する時の核となっている。神は私に、本当に寛大であって下さった。当初は私も自分に、人に分け与えられるようなものが何かあるのかも分からなかったが、しかし自身の影響や、人が時にどれだけ感謝をしてくれるのかを目の当たりにした時、これを続ける以外に自分が何ができようかと、そう思うに至った。

 「あなたのしてくれたことが、実を結んでいるんです」

 そう言ってくれるのを聞く以上に嬉しい言葉など、ありはしない。

 

 神は私に、実に多くを与えて下すった。だからきっと、私からも多くを望んでいらっしゃるのだろう。

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