第11章 故郷への長き旅路
The Long Road Home
山々を通り抜けて東に向かう横浜行きの列車は、およそ8時間を要した。道中オレはそのほとんどで、特に何かを感じるでもなかったが、完全に自由であるという不慣れな感覚から、胃がずっとピリピリしていた。周囲には何年にも渡る悲惨な扱いにブツブツと文句を言ったり、自分達はもっと早くに4-B収容所より解放されるべきだったとか言う人間もいたが、自分は過去ではなく、これからのことについてだけ考えようと心に決めていた。この2年以上にも及ぶ地獄が終わったことが、幸せでなくしてなんだろう。故郷に帰ることを考えるべき時が来たのだ。横浜の空にたなびく星条旗を見れば、それはきっと自分の残りの人生のスタートの合図となるのだ。
そんな自分の想いを、声に出したかのような男達もいた。
「オレは金持ちの女の子と結婚して、自分の世話をさせて余生を送るんだ!」
一人のアメリカ兵がそう叫び、オレ達が答える。
「そりゃ最高だ。でもそんなに簡単にいくかよ?」
「いくさー、うまくいく」
彼は臆することもなく答えた。
「金持ちが集まる場所で過ごすんだよ。確率の問題だからね。その内の一人くらいは独身だろ。で、心理学的に最も効果的な瞬間にだって、いつかは居合わせる。海の波止場でずーっと過ごせば漁師の娘とくっつくのとおんなじで、金持ち専用のクラブで、跡取りの令嬢を吊り上げるんだよ」
「そうかも知らんけど」
オレはここで口を突っ込んだ。
「それだとちょっと、オレにはユメ見過ぎに聞こえるけど」
自分がそう言うと、彼は肩をすくめて見せた。そして次に彼が口にした言葉の中には、オレ達全員が抱いている苦渋の思いが滲むのが分かった。
「オレはもう、これ以上の面倒が嫌なだけだよ。今までとは違って、別に世間がオレによくしてくれたっていいじゃないか」
横浜の一つ前の駅では、兵士が一人乗り込んで来て、自分達に対するこれからのガイダンスを行った。そして駅の近くの建物で、赤十字がオレ達にコーラやコーヒー、ドーナツをくれると説明があった時、オレは自分の耳がウサギのようにバツンと立つのが分かった。
「好きなだけとったらいいよ」
彼は、こちらの事情など承知だという笑顔で言った。
「看護婦と赤十字の女の子達が、もう準備して待ってるからね」
解放され、続々と列車で横浜駅に集まる捕虜達。横浜駅でトラックに乗り込み、ドック入りして病院船に乗り込む。1945年9月—「日本軍政下の連合軍捕虜研究センター」より http://www.mansell.com/pow_resources/liberation_photos.html
これには当然、誰もが直ちにその建物に行きたくなり、列車が止まると寸刻おかずに、興奮して口を開いたままの兵士達が車両から溢れ出すと、お菓子(sweets)と女の子(sweeties)に向かって殺到した。オレも群集をかき分けて進み、すると騒ぎの中から、
「誰か凄い話はないか?誰か凄い話はないか?」
と叫ぶ声が聞こえた。これに自分の捕虜仲間だったフランク・ティンカーは、オレのシャツを掴むと指をさして言った。
「おい、この男なら、スッゴイ話があるぞー!」
オレは誰かと話したい気分なんかではなかった。ともかく旨いものが欲しかったのだ。だが叫んでいた男は、通り抜けようとするオレを掴まえると話しかけてきた。
「名前は?あなたの名前を教えて」
「おい、ちょっと!列車を降りたらあそこの建物に行って、コーラでもコーヒーでもドーナツでも何でも欲しいだけ貰えることになってるんだ」
「ちゃんと貰えますから。でもお友達によれば、あなたにはなかなかに面白いお話があるそうで、まずは名前を教えて下さい」
「ルー・ザンペリーニだよ」
オレは相手に噛みつくように言った。
「分かっただろ、だからオレは食い物を・・・」
「ちょっと待って、ちょっと・・・え?」
彼はどういう訳か、オレの言葉にピタッと止まった。
「ルー・ザンペリーニだって?ありえない。もう死んでるのに」
これには逆に、こちらがピタッと止まった。
「自分のことくらい分かってる。オレは死んじゃあいない。オレがルー・ザンペリーニだ」
「何か立証できるものはないかな?証拠もなしに記事は載せられないんだ」
自分は何も立証なんてしたくなかったし、誰かの記事にもなりたくなかった。オレが欲しいのはコーラとドーナツだ。だがこの状況下で、努めて節度ある態度を心掛け、こう言った。
「じゃあちょっと、何か貰ってからにしよう。それでいいかな?」
だが彼は首を横に振るとこちらを離そうとしなかった。
「どうしたら自分をザンペリーニと証明できる?」
「財布以外は全部、日本人共に没収されちまったよ」
「それで?」
「でも中身は空にされた。残りは米ドルで8ドルが秘密の場所に隠してあるのと、USCの生涯パスだけだ」
3年連続で、「USC」とジャケットに学校の頭文字を貰ったアスリートだけが、名前の刻まれた純銀のパスを学校から貰えたのだ。自分のパスは第265番で、オレはそれを渋りながらも財布から探し出すと、彼に渡した。
「信じられない」
少し間をおいてから彼はそう言い、それから
「だけど、これで自分には充分です」
と言って自分の名を名乗った。
「ニューヨーク・タイムズのロバート・トランブルです」
「まあ、もう言ったけど、こちらはルー・ザンペリーニだよ。で、こちらは何か食べ物と飲み物が欲しいんだけどな」
これにトランブルは連れの一人に声をかけると、
「ちょっとルーイーのために何かとってきてくれ」
と頼んだ。そこでオレは待った。半分、怒りに煮えくり返りながらも待ち、その間にもトランブルはこちらに質問の嵐を浴びせかけ、こちらは自分が思い出せる限りの詳細を、思い出したくもないものも含めて引き出そうとし、何と答えようか懸命に考えた。こちらが話せば話す程に、トランブルの顔は驚愕の表情となり、そのまま「ビックリ」の能面のように、ずっと固まってしまうかとすら思われた。
そして待てども暮らせども、彼の連れが食べ物を持って帰ってくることは、決して無かった。
トランブルがインタビューを終えると、オレは飢えたまま赤十字の建物に向かった。だがすぐに食べ物に向かうことはできず、噴霧器を持った担当員から、白いサルファ剤の粉を全身にかけて貰うため列に並ばねばならなかった。(後になって、この物質には有害性が判明した。製造業者はこれをサンタ・カタリナ島と、ランチョ・バロス・ベルデスの間に海洋投棄しており、除去費用は数十億ドル(※数千億円)にも及ぶと、釣りもできなくなった)
日本でも有名なDDTの散布風景。本文では白いサルファ剤の粉だが、海洋投棄の場所から調べるとDDT散布のことになる。後年、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」で、アレはメチャクチャ体に悪かったと告発されて皆ビックリ仰天した
右:横浜に到着する兵士達に、「ご挨拶」をする従軍看護師。この瞬間、数年ぶりに西側の若い女性を見た捕虜は多い。
―「皆さんおかえりなさい」この声の主を、自分は口をポカンと開けて凝視していた。(中略)彼女が口を開くと、男達は口が開いたままになったり、どもってしまったりした」「3年半もの収容所生活の末、自分はこの偉大なるアメリカ人ブロンド女性によって解放されていたのだ!」―「Prisoner of Japanese」より
また思わず日本語を使ってしまい、女の子に「は?」という顔をさせてしまった捕虜も。画像は日本軍政下の連合軍捕虜研究センターより
http://www.mansell.com/pow_resources/camplists/osaka/rokuroshi/rokuphoto.htm
「1945年3月フランスで、ドーナツとコーヒーのストックがどんどんなくなる中、アメリカ赤十字の女の子、グレイス・スミスが『どこから来たの?』という、決して避けられない質問に答えるひと時」―赤十字より
https://www.redcross.org/content/dam/redcross/National/history-wwii.pdf
そして、シラミ取りだか何だかを終える頃には、全ての食い物はなくなっていた。オレはアメリカの味ならともかく何でも欲するあまり、床の上に何かかけらでもないかと漁って周る程だった。
その次の日、沖縄への飛行機を横浜飛行場で待っている間、オレは補給官将校の窓口のそばに、予備の配給が机に積んであるのに気がついた。オレはそれを、手に取れるだけ手にとる。充分な食料が得られるなんて、こんな素敵なことはなかったが、必要以上に得られるのは、もはや純粋な幸福以外の何物でもなかった。
「ちょっと、ちょっと、中尉殿、落ち着いて」
これには一人の軍曹がこう言ってきた。彼は明らかにこの手の振る舞いには慣れていた。
「食べ物のことは心配しないで。これから行く所では、好きなだけ食べられますから」
だがオレはこれに対し、こう言い返してやった。
「ここに着いた時だってオレは同じことを言われたぞ。同じ轍を踏んでたまるかっての」
自分は戦利品をシャツの下に押し込むと、それがクリスマスの靴下みたいにパンパンになるまで続けた。そうしながら自分が7歳の時に、母さんのクッキーをシャツの下に押し込んだことを思い出す。あれは母さんに、もう瓶からクッキーをとってはいけません、と言われた後でのことだった。(それから母さんに見つかって、自分は怒られた)だが人は2年間もの間ずっと空腹であり続けると、誰も他人を信用できなくなる。とはいえあの軍曹は正しかった。その夜、オレが沖縄に到着すると、赤十字は2台の移動式ワゴンを予め用意していて、そこには横浜と同じ、コーヒーとコーラとドーナツがあり、ボランティアの女の子達も待っていた。目の前にはフワフワの菓子パンにジャム・ドーナツ、ブラウン・ダンカーズ・クッキーが並ぶ。オレはそれを一つずつ掴み上げると、心ゆくまでその全てを味わった。
ドーナツを貰って満面の笑みを浮かべる兵士。
「アメリカ赤十字の配食隊により、コカコーラやドーナツが、白いツナギに軍隊帽を粋にかぶった、息を呑むほど可愛いアメリカ人の女の子達により、自分達に手渡しで配られた」—「Prisoner of the Japanese」
ルーイーの笑顔も、こんな感じ!?
1945年頃、アメリカ軍侵攻後の沖縄で、赤十字のドーナツ・ドリーがアメリカ人一般兵にコカコーラを用意する様子。第二次大戦ではアメリカ赤十字が、志願した女性達に士気高揚のため、ドーナツやタバコを兵士達へ配らせたが、彼女達はドーナツ・ドリーズと呼ばれた。場所によってはクラブ・モビールという、キッチン・カーを作り、音楽まで流して出動。アメリカでは、第一次大戦に救世軍のドーナツ・ガールによるドーナツの配布を記念して、国のドーナツ・デーを制定、今でもドーナツ店が無料でドーナツを配っている
https://www.messynessychic.com/2017/09/26/the-forgotten-doughnut-heroines-of-wartime/
「Prisoner of the Japanese」より。9月5日に直江津を解放され、横浜を経由して7日に飛行機で沖縄に到着したルーイーとトム・ウェイド。多くの捕虜は体重を2週間で平均25ポンド(11.33キロ)増やしたとあるが、それでも異様に痩せているのが遠目にも分かる。拡大画像を見ると、右手には墜落時にグリーンホーネットの残骸に引っ掛かった、USCのリングが「アンブロークンより」。トム・ウェイドの左のセオ・リーも、後ほど意外な所で登場!?
沖縄は、太平洋戦線での大規模な最終決戦の一つが行われた場所で、日本本土より350マイル(※560キロ)しか離れていない。10万もの兵を擁する防衛軍は一年もの歳月をかけ、60マイル(※96キロ)に及ぶ洞窟やトンネル、地下要塞を掘り進め、これを攻撃すべく我がアメリカ軍は、16万8千の兵士を沖縄沿岸に派遣した。この戦闘での勝利の代償は甚大なものとなり、こちらは32隻もの軍船を失うと、死者は1万人以上に及んだ。1,400機もの神風特攻隊は(カミカゼというのは、日本語で「神聖なる風」という意味で、1281年に侵攻してきたモンゴルの船団を破壊した台風より名付けられた)26隻もの軍船を沈め、3千人ものアメリカ軍の命を奪った。戦闘は51日間にも及び、1945年4月1日から6月21日まで続いた。
だが今や沖縄は、帰還する兵士や戦時捕虜、また日本へ向かう占領軍の中継地点となっていた。仮設の宿泊所では、オレ達は簡易ベッド付きの大きなテントに案内され、そこで寝るように言われた。次の日の朝は、早朝より医療処置の列に並んだ。元いた自由な社会へ再び戻るためのこの手の過程は何だか変な感じもしたが、しかし医者に通わされる患者のように、オレはこれらに従った。3種類の注射(shots)を腕に打たれ、それから建物の端にある部屋に行くよう、当番兵に言われる。実は列に並んでいる最中に気づいていたのだが、その部屋のドアはずっと閉まっていて、表札には大文字で「最後の一発(※LAST SHOT)」と書いてあった。自分の番が来るとドアを開け、ためらいつつも内へと踏み込む。するとそこには一人の大佐が机に掛けていて、机はウィスキーの入ったショット・グラスでいっぱいになっていた。これにはこちらも満面の笑みがこぼれる。
「お帰りなさい、兵士殿」
大佐がそう言うと、オレはためらうことなくショット・グラスを空け、ウィスキーは文字通り、体の五臓六腑へと染み渡った。
それから食堂で朝食券の列に並んだ。そこにはクリップボードの名簿で名前を照合している担当員がいたのだが、ところが彼女は何とオレに朝食の配給を許さなかった。
「ごめんなさいね、でもこの食事は、戦時捕虜のかた用なんです」
「いやでも、オレは戦時捕虜だよ」
「あなたは戦時捕虜として登録されていません」
オレは思わず自分の耳を疑った。そんなことを公的に言われたのは初めてだったからだ。
「いやそうかもしれないけど、それでもオレは捕虜だよ。2年以上も捕虜になってたんだ、誰かに聞いてみろよ」
「残念ですけど、リストにはあなたの名前が載っていないんです」
酷い話にも程がある。オレはタダ飯を食いに来ていると思われているようだ。だが生憎こちとら、よく見れば食事を必要としているのは一目瞭然で、医者だって予約がなくとも、
「でも先生、診て下さい、自分はもう死にそうなんです!」
とでも言えば、
「もちろんです、中に入りなさい」
となるのが筋だろう。だからオレはもう一度繰り返した。
「オレはこんなにも痩せていて空腹なんだ。オレは戦時捕虜なんだ」
だが彼女は折れなかった。
「残念ですけど身分証もないし、あなたの名前は名簿にありません」
言い合っていても仕方がないので、オレは赤十字の幕舎に向かいながら、その途中にこれまでの経緯を推測してみた。大船収容所は極秘の尋問施設で、日本側は自分を戦時捕虜として登録していなかった。そして自分が大森に移送になっても記録は修正されることなく、そのままになっていたようだ。いやしかし例えそうだとしても、ラジオ放送によって自分が生きていたという証明の後で、誰かしらは自分を戦時捕虜のリストに入れるのではないか?影響力のある誰かがこれを聞いて、ニュースにもならないと言う程に自分は無名ではないだろう。だがどうやら、そうはならなかった。自分の名前は既にリストに載っていると思われたのだ。となると、次なる問題もあった。正式な身分証がなければ、自分は新しい服一式も支給されないのだ。
赤十字看護助手の募集広告と、1941年にワシントンDCでトレーニングを終えた、赤十字第一団の看護助手 —「第二次世界大戦とアメリカ赤十字社」より https://www.redcross.org/content/dam/redcross/National/history-wwii.pdf
アメリカ赤十字社は、第二次大戦において、上記画像などで大量の無給ボランティアを募集し、全11部門に及ぶ第二次大戦特別ボランティア隊を編成、「ピークである1945年には、750万人の無給のボランティアと、3万9,000人もの有給スタッフが」国内外、つまりアメリカ国内とヨーロッパ戦線、太平洋戦線及びその他に派遣された。任務には画像の看護隊の看護助手の他に、ドーナツを等を配った配食隊、「canteen corps」等があり、「兵士達を最後に見送り、最初に出迎える存在となった」とある。ルーイーが21世紀に持ち越す程の意地悪!?をしたのはこの配食隊の女性と思われ、また兵士達にとって看護婦と上記看護助手の境界は・・・ま、曖昧ですよね
だが運よく、赤十字の女の子は話の分かる子だった。
「ご自由にどうぞ」
彼女はそう言うと菓子類を指さし、オレはスニッカーズを幾つか掴んだ。
「どうして他の皆と一緒じゃないの?」
自分がガツガツ食っていると、彼女は聞いてきた。
「オレは戦時捕虜なのに登録がないから、他の奴らと一緒に食堂に入れて貰えないんだとさ」
自分が彼女に自分の境遇について話していると、一人の尉官が入ってきた。
「でもこの人なら、あなたの力になれるんじゃない」
彼女がそう言うので、自分は彼にも話をした。
「自分は大将付きの副官であります」
彼はそう言うと自分を上司の所に連れて行き、その上司もオレの話を聞こうとした。だがそうこうするうちに時間もお昼時となっており、こちらは自分の話をあまりに何度も何度も繰り返していたので、見かねた大将は食事をしながら話をしないかと言ってくれた。
それから話が終わった後、大将はこちらに聞いてきた。
「ところで、家には急いで帰るつもりかね?」
「いえ、実はそこまででもないんです」
自分は本音を言った。
「もし居られるなら、もう少しゆっくりしたいんです。体重を増やさないと、母にこんな姿を見せたくないんです」
すると大将は受話器を取ると、イーライ・リップマン医師に電話をかけた。彼は沖縄での医療を担当しており、日本側の掘った地下塹壕の一端で病院を運営していた。リップマン先生はオレの世話役を引き受けると、服と食事の支給を手配してくれた。
その晩、横になって寝ていると、そこを台風が直撃した。幕舎の中は安全だったが、しかし赤痢の症状はまだ完全には収まっておらず、トイレには行かねばならなかった。幸いなことに、誰かがロープを幕舎のポールに縛り、これを屋外トイレの近くの柱まで張っておいてくれており、自分はこれに掴まり手繰って進むと、風雨の中を抜けそこでしゃがんだ。ところが胃腸の中身をカラにした瞬間、大きな爆風を感じたかと思うと、嵐が屋外トイレを宙に持ち上げ、そのまま丘を越えると反対側にまで吹き飛ばした。これに自分が幕舎に戻るには、泥だらけの道を地面に這って進むのがやっとの有様だった。
次の日、破壊の惨状には誰もが自分の目を疑った。船は転覆し、飛行機は腹を上にしてひっくり返り、別の機体の上に乗っかっていたのだ。オレ達は食事をするスペースにも事欠く有様で、やっと食事にありついたと思えば、皿の上には屋根から漏れた雨水が落ちて来た。
左:日本人なら知っている!?この台風は「遅れてきた神風」こと、最大瞬間風速75.5m/sを記録した枕崎台風のこと。何もそんな時に屋外トイレで下痢をしなくともと思うと、ややもして笑ってしまうが、「13番目のミッション」によれば捕虜達は劣悪な衛生環境で「Benjo Boogie(便所踊り)」と呼ばれた急性腸炎を始め、「ヒロ○○の呪い」こと食あたり等、消化器官に深刻な不調を患っていた。マーティンデールは夜に14回もトイレに起き、行くのが馬鹿らしくなったとある
右:病院船、USSベネボレンスへ移送の準備のできた捕虜2人。一人は衛生兵で、もう一人はその患者。体重と食べ物のやり取りは冗談ではなく、文字通り餓死寸前の捕虜が多く存在し、中にはもっとショッキングな画像も存在する。アメリカ公文書館より
それから天気が回復した後、リップマン医師は言った。
「ルーイー、キミの所属隊がここにいるのが分かったぞ。第11爆撃団はここにいる」
先生は自分を車に乗せると、第11爆撃団の司令部に連れて行った。原隊の奴らに会えるなんて何よりも嬉しくて仕方がなく、これは向こうも同じだったようで、彼らは自分のためにパーティーを開いてくれた。
だが、ここには少しだけ問題があった。酒が足りなかったのだ。するとリップマン先生は、
「酒なら心配はいらないぞ」
と言い、自分の貯蔵庫から5ガロン(※19L)もの酒を出して来ると、蒸留水とコーラ・シロップを混ぜて「バーボン」を作ってくれた。パーティーは楽しいもので、また誰もが自分は死んだと思っていたから、軍隊的なそれではあっても、胸には込み上げるものがあった。またその後、看護婦の人達が、オレのために別のお祝いをしたいと言ってくれた。あの時は美人の看護婦さんとジープでのドライブさえした。まあオレはあくまで「良い子」ではあったが。事実、そう遠くない最近になってから、自分はその彼女から、あの夜のことを覚えているかという手紙を貰った。何とも最高の想い出だ。
また仲間達は、車でオレを島中に連れ回すと、色々な軍事施設を見せてくれた。その施設の一つである人が言った。
「USCの出身でしたよね?ここにはボビー・ピープルズがいますよ」
ピープルズはUSCにいたやり投げのチャンピオンにして、アメフトの選手だった。ピープルズはオレと顔を合わせると言った。
「実はだな、ダッチ・ウィルコックスがここにいるんだ」
ウィルコックスは、USCにいた審判の一人だった。
「よし、一緒に行ってウィルコックスを見つけよう。ルーイーを見たらたまげるぞ」
ボビーがそう言うので、そこで自分は
「じゃあ、まずは先に行ってから、実は1マイルを4分06で走る奴に会ったんだが、彼がUSCに行きたがってるんだ、って言ってくれよ」
と言った。というのもそんな奴をスカウトするのが、ダッチの仕事だったからだ。
それからピープルズが部屋に入って行くと、ウィルコックスの声が聞こえた。
「じゃあ通してくれ!」
オレが部屋に入ると、ダッチは椅子の後ろにもたれていて、こちらの顔を見た瞬間、そのまま後ろにひっくり返った。天国にいると思っていた相手がこっちに歩いて来て、ヨウ!なんて言うんだからムリもない。それから俳優のタイロン・パワーがやって来て、オレ達は全員で昼食をとった。
また自分は、昔飛行中隊が一緒だった、ピアース少佐にも出くわした。彼はミネアポリス・スター・ジャーナルから切り抜いた、オレのお悔やみ欄を見せてくれた。記事は誇張されたものではあったが、しかしそんな風にして覚えていて貰えるなんて、何とも嬉しいものだった。
そんなこんなでオレは沖縄に残り、体重を回復させ、戦時捕虜達は飛行機で入っては出ていった。そんなある日、大将が電話をかけてきて、占領軍がアメリカ本土から沖縄に到着していて、早く本土に行きたいと士気も旺盛なのだが、その前に彼らに話をして貰えないか?と言ってきた。大将によると占領軍の男達は、戦時における日本側の振る舞いに憤慨しているとのことで、それ故に占領軍は日本で破壊行為に及んだり女性に暴行を加えかねないと、大将が心配する程だったのだ。大将としては自分から彼らに、全ての日本人が酷い人間ではないと伝えることで、過剰反応に及ばないようにしたいとのことだった。
「もしキミが、彼らの怒りを軽減する手助けをして貰えるなら・・・」
そう言う大将に自分は、
「軽減だけでなく、真実を伝えることができます」
と言い、スピーチを引き受けた。すると程なくして、オレは巨大な渓谷に用意された舞台に立つと、今までに見たこともない人数の聴衆を前にすることとなった。
「日本人兵士や看守達の中には、自分達に親切でこちらを助けてくれたり、命を救ってくれた人もいました」
オレはそう、男達に向かって語った。
「その内の一人は、クワジェリンで自分の命を救いました」
沖縄滞在もおよそ半分を過ぎた頃、USCが自分を故郷に呼び寄せ、アメフトの試合のハーフタイムに、スピーチをさせようとしたこともあった。その時こちらまだ痩せていて、ぶっちゃけて言うと沖縄で人から注目を受けているのも、なかなかに楽しく思っていた。リップマン先生はこれに
「どう?帰ってみるかい?」
と聞いて来た。
「いえ、実はそれ程でもないんです」
自分はそう答えたが、しかしだからと言って自分が家族と会いたくない、ということではなかった。母さんは、まだオレが海外へ出る前に送ったウイング章を持っていてくれているのだろうか?父さんの、あの100万ドルの笑顔はどうなっただろう?少しは陰りもあるのだろうか?妹たちは、バージニアとシルビアは未だにシャイなんだろうか?ピートは?海軍に行ったそうで、無傷だとは思うが、しかし体の状態が戻ったら競技に戻りたい、なんて自分が考えていると知ったら、ひっくり返ったりしやしないだろうか?
「それなら簡単だよ」
リップマン先生は言った。
「キミはまだ旅行には健康的に適さない、と言っておくから」
これにはオレも助かった。だが後になってから母さんが新聞で、自分が旅行に「適さない」を読み、どれだけ酷いショックを受けてしまったのかを知ると、何とも嫌な気分になった。状況から鑑みれば、体調など可能な限りではよかったのだ。ただ自分は、看護婦の皆とのパーティーや、リップマン先生お手製のバーボンを楽しむことで、長いこと否定されていたこのキャッキャッとした楽しみの追及が、どんな風に他の誰かに影響するやも知れないなんて、考えてもみなかっただけなのだ。
一方で自分は、自らを取り残して行った世界に追いつこうともしていた。自分の尊厳を破壊しようとする敵による容赦のない試みの下に、失ってしまった自信と自己評価を、一歩一歩ながら少しずつ取り戻し始めていたのだ。いや実際の所、自分はそれを失ってなどいなかった。ただ外に向かって表現する訳にいかなかったのだ。例え自分が直ちに相手に報復するような、世界で誰よりも攻撃的で強硬な人間だったとしても、1日に24時間、規則を破れば自らに殴打を加えたり、命すら奪いかねない当局の管理下に置かれると、人は従順に振舞わざるを得ない。収容所で自分達は捕虜同士では普通に接していたが、日本人達が近くにいる時だけは、軟弱な腑抜けを「演じて」いた。そんな言葉が適しているか分からないが、演じて合わせるか、もしくは演じないだけの犠牲を払うかのどちらかだったのだ。容量がいい奴なら、その演技を生き残るためだけの最小限に留める。自分とていきなり目の前で撃たれるような奴を見た訳ではないが、日本には国内と占領地で91もの収容所があった。(※第9章脚注参照、終戦時で国内81カ所、占領地では何と150カ所を超える―POW研究会より)自身がその手の惨事を目撃しなかったからと言って、日本人が虐殺を行わなかったという訳ではない。それにオレは、クワジェリンの自分の監房の壁にあった名前のことが絶対に忘れられなかった。
軍は戦時捕虜の社会順応を支援する目的で、赤い小さなパンフレットを配布していた。これは「アメリカ陸軍航空軍・帰還兵への配布目的」で、ハップ・アーノルド大将の命令により、陸軍航空軍司令部から発行されたものだった。「帰郷」と題されたこの冊子は、シンプルなイラストかつ、誰にでも伝わる、優しい言葉で書かれていた。それはこんな風に始まる。
—「(※調子はどう?)順調?よくない?色々ごっちゃになっている?もしくは、それすらよく分からない?
でも、それで大丈夫。これは、あなたより先に帰還した何千もの人達が感じてきたこと、全くそのままのことなのです。ある人はそのことについて、相談したいと思っていましたし、ある人は自分の感じたことなど、考えたくもないと思っていたのです。もしあなたも今まさにそういう風に思っているなら、それはそれで全く何の問題もありません。それならこの先は読まなくとも結構です。この冊子をあなたの機内用バッグか、後でとり出せる他の場所に入れておいておくことをお勧めします。これは、あなたの役に立つかも知れません。」—
それからストーリーは、ジョン・ブラウンという平均的な兵士の話をなぞり、帰郷、恐怖、自分が変わってしまった、また何か自分が以前とは違って扱われているという奇妙な違和感が綴られ、さらにどうやって生活をしていき、周囲と付き合うのかのコツが提示してあった。そしてそこにあるアドバイスの結論は、このように集約する。
—「どれだけの援助をジョン・ブラウンが得ても、結局の所、それは彼次第なのです。彼の見つけた、本当の、根本的な解決法とは、一個人、彼自身の中にあるのです。しかしそこで大きな助けとなるのは、心の内側で一体何が、どうして起きているのかを理解することなのです。」—
オレは冊子を貰うとすぐに読み、状況を鑑みて自分は今の所大丈夫だろうと判断した。そしてそのパンフレットをもう一度、ありはしないだろうが参照するような時に備え、しまっておいた。
帰還兵達に配布された冊子、Coming Home:帰郷
「調子はどう?―順調?よくない?色々ごっちゃになっている?もしくは、それすらよく分からない?」
本文にはないが、一番上に How does it feel? (調子はどう?)がある
オレは沖縄に居られる限りにいたのだが、しかしやがては故郷へ向かう旅路を再開せねばならなかった。次なる目的地はグアムで、ところがオレは間違った飛行機へと乗せられると、フィリピンの首都であるマニラへと向かう羽目になった。それにオレはそもそも、この飛行機に乗りたいなどとは全く思わなかった。というのも使うのはB-24で、ベニヤ板のデッキには40名もの元戦時捕虜がいたからだ。だが故郷へ向かうにはそれしかなく、自分は搭乗することにした。飛行中、パイロットはマニラが雨により使用不能なので、代わりにルソン島北部にあるラワグの、2つの山の間に位置する戦闘機用の小さな滑走路に着陸するよう連絡を受けた。オレ達はそこへ海側から入ると、峯の間の滑走路を走り、そこで機体を一晩止めた。
次の日、飛行機は機首を返され、自分達は海に向かって速度に乗って滑走路を走った。すると突然、自分は重大な問題が起きていることに気がついた。機体がもう離陸していなければならないのに、宙に浮いていないのだ。向かい風がある状態で、積荷を満載した大型機には滑走路が短すぎるのだ。オレは爆弾倉の窓に飛んで行くと、外を覗いた。そこには目前に迫る海面と、滑走路が海水で溢れないよう、ブルドーザーが砂を掘り起こして小さな堤防にしたのだろう、盛り上がった土の山があった。
「なんてこった、ここまであれだけ沢山のヒドイ目に遭って来たのに、ここで自分は死ぬのか?」
そんな思いが頭に浮かぶ。するとB-24は、滑走路の端でその盛り上がったコブに当たると中空に向かって跳ね、超低空のギリギリに落ち着いたが、これはちゃんと閉まらない爆弾倉から、海の白波が入って自分達がびしょ濡れになる程のド低空だった。だが幸運なことに、機体はそれより高度を下げることはなかった。
これはこの前の話だが、自分の話が全国ネットのテレビに出た後、一本の電話を貰った。そこではまず、声の主がこう言った。
「あなたが、ルイス・ザンペリーニさんですか?」
「そうだが」
自分がこう答えると、相手はこう聞いて来た。
「沖縄からマニラに、どうやって着いたのか覚えてますか?」
「あれはだな、B-24で、だが自分達は、実際はまずマニラには行かなかったんだ」
そう言ってから自分は相手にこの話をし、そしてどうしてこんなことを知りたいのかを訪ねると、相手は言った。
「自分があの時のパイロットだったんです。あの時はもーうこれは墜ちたと思って。大きい方もほぼ漏らしてましたよ。飛行機は本当に海面、スレッスレの所にいましたからね」
あれからずっと月日が経っても、自分達が2人共未だに生きている側の世界にいる。そう知ることができたのは、嬉しいものだ。
だがマニラではあいにくなことに、沖縄で出くわしたのと同じ状況で、いや、さらにそれ以下のこともあった。沖縄では珍しい貴重なウィスキーのボトルをプレゼントに貰っていたのだが、誰かがこれをマニラのオレのテントから盗み、そしてまたしても自分は、食事と服を支給して貰えなかったのだ。そこで自分は沖縄でやったことを、もう一度繰り返すこととなった。赤十字のテントに行って自分の状況を話したのだ。そこにいた女の子はオレを太平洋ロイター通信の大物、ジョー・レイトゥンに引き合わせた。(太平洋戦線の赤十字の女の子達は戦線のシステムを熟知しており、その操作方法も心得ていたのがよく分かった)
「エラい災難に遭っていてね」
オレはジョーに言った。
「メチャクチャ腹が減ってるのに、食事券も貰えないんだ」
自分がジョーに話をすると、彼は憤慨した様子で即座に司令部に自分を連れて行くと、そこにいた大佐に話をつけキッチリと調整をしてくれた。一介の従軍記者にしては彼はかなり顔が利いたのだ。さらにはオレを、自分が持っているNBCのラジオ番組に出してくれたりもした。
日本軍がマニラを明け渡した時、彼らは十万もの死体と、爆弾で荒廃し不毛となった都市の骨組みだけを残して行った。そこは全く魅力のある場所などではなく、退屈でしかなかった。沖縄では少なくとも戦時捕虜達が去った後は、そこに元捕虜はオレ一人だけで、一人だけ特別の扱いで世話もして貰えた。だがマニラでは自分は特別な存在でも何でもなく、自分が止むことのない雨の中を、ただとぼとぼと歩けば、その世界は泥と陰鬱さで塗り固められていた。
自分はさっさとマニラを出ていきたかったのだが、しかしフライトを待たねばならなかった。ジョー・レイトゥンはこの状況を打破するため、出発申請の用紙を用意させようとしてくれたが、本部にいた担当官はこれにこう答えた。
「何かのご冗談で?彼の前には81名もの佐官様がアメリカ本土への飛行機を待ってますよ」(※尉官のルーイーはその後)
ともあれジョーは申込用紙を手に取ると、オレはこれに記入をし、それから数日間待ったが呼び出しはかからなかった。そこでジョーとオレは本部に行くと、ジョーが机の上に積み上げられた申込用紙の束を見つけ、その山をめくると一番下に自分の申し込みがあった。ジョーはそれを一番上に持ってくると、そこにいた事務方の士官に向かって言った。
「彼は次の便で行くぞ」
するとその士官は何も言い返してこなかった。ロイター通信は、しようと思えば人のキャリアを破壊することもできたのだ。(その後ジョーは何年かに渡り、ハリウッドでジャーナリストとして活躍すると、リンドン・ジョンソン大統領の副報道官として働いた)
お陰で自分は簡単にマニラを出発することができたが、通常、名簿の繰り上げにはウィスキーを一瓶か、その次に貴重とされた葉巻一箱が必要とされた。ATC、つまり航空輸送司令部は、これでもって裏取り引きをしていたのだ。彼らの仕事は一般兵のための貨物運送で、これに加えて飛行機のパーツを運んだ。さらには酒と葉巻をありとあらゆる所に持って行き、大金を吹っ掛けてもこれが売れたのだ。人里も遥か遠くに離れた環礁地帯に配属された戦地の兵士にとって、カネなど何の意味もなさない。酒のボトル1本で100ドル?(※16万円以上)よし買った!葉巻1本で25ドル?(※4万円以上)それもくれ!という具合だ。しかもそれらの品々は、オレのように順番をすっ飛ばして帰りたい人間からタダで入手するのだ。
またATCは、上官達のための品々も運んだ。自分は幾人かのアル中の将校にも出くわしている。太平洋戦線の大将達にあんなにまで酒が行かなければ、大戦は2年は早くに終えられたのではないかという人間がいるくらいだ。
自分はマニラをハワイに向け、できたばかりの輸送機、C-54・スカイマスターで飛び立った。これはマクドネル・ダグラス社が、1946年に商用機として投入することになる、DC-4の軍用バージョンだった。(※4章に登場したアホウドリDC-3の後継機。エンジンが2機から4機へ)
乗組員達はこちらのことを知っていて、コックピットの中にも入れてくれた。そしてこの時、ロバート・トランブルの自分についての記事がニューヨーク・タイムズの一面を飾り、これが転載されるとホノルル・アドバタイザーからデトロイト・フリー・プレス、カトリック・ダイジェスト(※これだけ信者向け月刊誌。他は一般向け日刊紙)、さらには我が地元紙、トーランス・ヘラルドに至るまで掲載されていたことを自分は知った。その後自分についての報道は、タイム誌やニューズウイーク誌(※共に週刊誌)、その他の数え切れない出版物を飾ることになる。走者としてスポットライトを浴びていた頃、それは楽しい物だったが、今や自分はニューヨーク・タイムズに載っても、どうでもいいようなことにも思えた。トランブルはいい仕事をしてくれたが、しかしこちらからすれば横浜で、トランブルが自分から何よりも大事なものを奪ったことを忘れる訳にはいかなかったのだ。それはつまり、コーラとドーナツだ。この優先順位がバカな話に聞こえるのも分かる。しかし戦時捕虜にとって、これは何の不思議もないことなのだ。
自分は機体が給油で小さな島に着陸するまで、乗組員達に我がエピソードを幾つか話してやった。それから自分達が足を延ばそうと外に出た時、パイロットが言った。
「この島なんですけど、どう思います?」
「まあ、何にもない所だね」
こらちがこう返すと彼は、
「今はそうかも知れませんがね」
と言った。
「ここはあなたが43日間、過ごした所ですよ。クワジェリンです」
「あの森は一体、どこに消えたんだ?」
「海軍の砲撃で真っさらになったんです。木は一本しか残っていません」
彼はそう言うとその場所まで連れて行ってくれ、そこではもうそれ以上することはなかった。
画像は左右共に、米軍によるクワジェリン攻撃後の写真。「上陸前の事前砲撃は量的にも効果においても前代未聞の規模で行われ、突撃部隊の進路上にある特定の目標や地域には、1秒に2発の頻度で砲弾が命中した時間もあり」(中略、そして)「島全体はまるで2万フィート上空(※上空6,096M)に持ち上げてから、真っ逆さまに落とされたかのようだった」
この砲撃後の上陸戦により、日本側は決定的な敗勢に追い込まれるも降伏勧告を拒否。米軍側は火炎放射器と銃器で掃討戦を実施し、最終的には4千人以上が玉砕、環礁全体では8千人近くが戦死した
第二次世界大戦・マルチメディア・データベースより― https://worldwar2database.com/gallery/wwii1010
「アンブロークン」によると、爆撃後に日本側の文書が回収され、そこにはルーイーとフィルの漂流供述が載っていたと言う
1945年9月6日横浜発9日付ニューヨーク・タイムズ、ロバート・トランブルの記事、1面と4面。解放直後の即席インタビュー記事にも関わらず、詳細に渡る内容は本書ともほぼ合致し、またここにしかない情報もある。
一方でハワイは、もはや天国状態だった。まず最初にオレは、長いこと延び延びになっていた昇進を果たし、晴れて大尉となった。それから伝説的な「ウォーターマン」である、デューク・カハナモクを友達が紹介してくれた。(※サーファーにしてオリンピアン・芸能人)彼は自分をアウトリガー・カヌー・クラブに招待してくれると、自身の手で外に連れ出してくれさえした。終戦はハワイを歓喜と解放に包んでいて、軍服を着たオレ達の姿を見ると、市民は誰もが向こうから進んで一杯奢ってくれた。ハワイは酒と女の子と活気で溢れ、自分は過去も未来も忘れると、飲んでは踊りたらふく食べ、生きていることを誰かに感謝することを忘れると、神に感謝するのも忘れた。体には依然として熱帯特有の病気の軽い症状があり、別にこれが特別な処置を必要としていた訳でもなかったのだが、病院に「入院」を課せられている時に、こういったことをできたのは、何より都合が良かった。自分はここでも、急いで故郷に帰ろうとは思わなかった。
同じ病院には、クワジェリンで片足切断の憂き目に遭った捕虜、フレッド・ギャレットがいた。達はオレ一緒にそこらをブラブラしては、肉体鍛錬のためにワイキキ・ビーチでレスリングに興じた。一本足の男とレスリングをしているんだから、周りから見れば自分は頭のおかしい奴に見えただろう。しかしフレッドは体もデカくて強く、周囲には障碍などモノともしない所を見せたかったのだ。
だがあまりにも羽目を外していれば当然ツケも回る。自分はあの時、いわゆる帰郷途上の「英雄」というような、ちょっとしたセレブ状態で、これはアーノルド大将のオフィスの誰かが、オレが怠けては飲んだくれて毎晩パーティー三昧なのを発見するに至った。これに自分の家族や友達、マスコミにアーノルドは質問攻めに晒され、赤字で記された命令を下した。
「何を使ってでも、さっさとここへ帰ってこい」
つまり、舟を漕いででも帰って来い、ということだ。
この命令を受けてオレはすぐさま出発した。胸中、自分はこの数年間続いた地獄の埋め合わせをしようとしただけなのに、何か悪いことでもしたのかなと思いつつではあったが。
1945年10月2日、自分はサンフランシスコへの直行便に乗るとレターマン陸軍病院へ行き、そこで新たに健康診断を受けると、体には未だに南洋性の感染が少しあるとのことで、緩やかな観察処分を1週間受けることになった。その間、自分とフレッド・ギャレットは同室で、自分達はできる限りに街の様子を見て周るようにした。
左:帰国途上の1945年9月27日に、マニラでジョー・レイトゥン(画像右)のラジオに出演
右2つ:1945年10月2日、本土に帰国を果たした2人。フレッド・ギャレットは、ニカッと笑う笑顔が大森でもトレードマークだったという―「13番目のミッションより」
「死亡者リストより生還」―自分について書いたそんなロバート・トランブルの記事により、本土で自分はマスコミの群れから絶えず追われるようになっていた。これによりこちらは、アーノルド大将が自分の南の島のバカンスを止めさせるに至った事情をすぐさま理解し、同時に軍が今一度こちらの名声と冒険譚をPR活動に利用できるということに気がついた。このスポットライトは極めてまばゆいもので、電話線はインタビューのお願いと応援の電話でパンクすると、多くの団体や組織は自分を夕食会の講演に呼ぼうとした。つまりなんとも面倒な事になっていたのだ。だが注目を浴びるなら、もちろんそれを嫌がるよりも楽しんだ方がいい。自分はすぐにそう心に決めた。別にこういったことも初めてではないし、そこへ戻ってみると、なかなかに悪くない気もしたのだ。
事態をコントロールするため、記者達とは病院のロビーで会うことにした。彼らは概して丁寧で、インタビューもそこまで徹底したものではなかったが、しかし時には許容量を超えることもあった。一回のインタビューが10分か15分なら問題ないが、話の一部始終を話すとなると、そりゃあまあひと月でもお付き合いするおつもりですか?ということになる。そんな記者達にはトランブルの記事を読んでくれと言うことにした。
そんな中、自分の栄誉を祝し、サンフランシスコ記者クラブで晩餐会が開かれた。それは今後訪れる人生の幕開けにして、かつてのアスリートの栄光の日々を、懐かしくも思い起こさせるものだった。いや、実をいうなら今回の方が素晴らしい。そこには畏怖の念すら含む尊敬があり、自分の苦難を忘れさせてやりたいという熱意が相まっていた。レースに向けた厳しいトレーニングは実を結んだが、これと同じくして今自分に向けられている注目は、自らの努力によって「獲得」された物だ、―自分はほどなくしてこれをなかなかに否定できなくなっていった。設えられた上座に座ると、心地よい興奮に満ちた、熱気や紅潮を感じる。それは人から受ける賞賛からも、今さっき飲んだ酒からも来ていたろう。フレッドは自分達が杯を空ければすぐさま次を注ぎ、こちらは目を充血させてはどんどんと気を大きくしていった。そして最後にスピーチを求められた時、オレは自分の過去について触れるだけではなく、未来についての公約まで立てて見せた。
「海に墜落する前は、まだまだこの足で走れるって言ってましたが、それは今でも変わってないんです。自分は競技に復帰します。事実、次回の1948年のオリンピックだけでなく、次なる3大会は視野に入れてるんです!」
我ながら生意気な公約もあったもんだ。しかもマニラでジョー・レイトゥンのラジオに出た時に言ったことと、これは思いっきり矛盾する。あの時は、(※直江津で)足場板から押されて、100ポンド(45キロ)の石炭を担いだまま落ちて怪我したことを念頭に、こう言った。
「日本人のお陰で、もう競技人生は終わりですね」
一方でフレッドは、自分達が故郷の土を生きて再び踏めた喜びを、上手いこと言ってのけた。奴は千鳥足の一本で立つと、テーブルに両手をついて体を支え、ニカッっと人のいい笑顔を浮かべて言った。
「まっ、アメリカに帰って肥えた人間にもう一回、囲まれるなんて、なんて幸せだろうって思いますよ」
この言葉は自分に自らの肉体に目を向けさせた。今や160ポンド(※72.57キロ)にもなった自分の体は、筋肉に引き締まってなどおらず、スポンジのようにフニャっとしていたのだ。
それから数日後、自分は一本の電話を受け取った。電話なんてもう百度目かというほどに受けてきたが、低く間延びしたこの声の持ち主は、自分に向かってこんなことを言ってきた。
「だからオレは言ってたんだよ。オマエは頑固過ぎて死にゃあしねえって」
自分はそれに、永遠に続くかと思える程の沈黙をとってから言った。
「ピート!一体、どこにいるんだ?」
「そこから40マイル(※64キロ)しか離れてないよ、トゥーツ。すぐにそこに行く」
「外出許可を貰ってるのか?」
「いや、実は無届なんだ。車を捕まえたらすぐにそっちに行くぞ」
後でピートが説明したところによると、海軍の友達がピートの宿舎に駆け込んでくると、
「ピート、これを見ろ。オマエの弟が帰ってるぞ」
と言ったそうで、ピートはこれに矢も楯もたまらず、サンディエゴを許可もなしに離れると、サンフランシスコまで海軍の飛行機で飛んで来たというのだ。そんなリスクを冒してまでと思うと、こちらの胸には熱くこみ上げるものがあり、そしてこれが大きな問題にならずに済むと、本当に安心もした。
それから1時間もしないうちに、オレ達は人目も憚らず固い抱擁を交わした。
「オレには、オマエが無事でいるのは分かってたんだ」
ピートは何度も何度も繰り返した。
「皆、オレのことが気が触れたと思いやがって、でもオレは母さんに言ったんだ。もしルーイーが陸地まで辿り着ければ、アイツは大丈夫だって。歯ブラシとボーイスカウトのナイフがあれば、自分で自分の用は足せるって」
自分はそれを満面の笑みで聞きながら、そのままピートが話すに任せた。
「もしオマエが帰って来なかったら、どうするつもりだったか分かるか?父さんとオレはカネを貯めてボートを買って、オマエを見つけるまで、島から島を周るつもりだったんだぞ。どこぞのそこいらで生きてるって、分かってたんだぞ!」
それに何と答えたのか、自分は覚えていない。対処するには、あまりにも多くの感情が溢れて来てしまっていた。
それからピートは、オレを腕の距離まで持っていくと、
「ちょっとよく見せてくれ」
と言ってから、こちらの全身を見渡した。
「おいちょっと、シュークリームばっか食べてたんじゃないのか?」
そう冗談を言ったが、それはまんざら冗談でもないようだった。
「分かってるよー、食事も制限しないといけないのは。でもちょっと待ってくれよ、この2年間していたことって言ったら、たらふく食べるのを夢見ることだけだったんだから」
そう言ってから、今度はオレがピートの方をよく見てみた。すると自分の笑いが、少しだけ失われて行くのが分かった。自分と同じだけフサフサしていた頭は、今となっては薄くまばらになり、その色は茶色より灰色と言った方がよかった。顔には疲労の痕が浮かび、体はやつれて見え、そこには重圧が見てとれた。
「何かあったのか?年寄りにでもなっちまったのか?」
「全くオマエは、年長者を立てるってことを知らないんだな」
ピートはそう言うと、オレの腕の方へ軽くパンチを繰り出しながら、話題を変えてきた。その後に分かったのだが、ピートの変わりようはオレの身の上を心配するあまりに、これが大きく影響していたのだ。それがピートという男だ。指導者にして相談相手、コーチにして庇護者。それだけ近い関係性が、自分達兄弟だった。
ピートが到着した翌日、自分達が病院の面会室で会話をしていると、マスコミがそこへ突入して来て、ピートを捕まえるとその痩せた体格から、2年間もの間、飢餓に晒された男だと誤解して、戦時捕虜のルー・ザンペリーニとしてインタビューをしようとした。オレ達はそれにあれこれと早口に言っては、その誤解を解いた。
結局ピートは5日間の間、近くのモーテルに居てくれた。自分達は父さんと母さんの話をし、妹達の話をし、陸上競技の話もしたし、ピートのサンディエゴでの海軍の仕事についても話した。自分が監禁されていた時の話や、紙面に出てきた話が話題に上ることはまれで、それは別にこちらが話したくなかったからではなく、2人共家族のことの方が重要だったと感じただけの話だ。文字通り、家族・ファーストだ。
そうこうしているとアーノルド大将は、とはいえ自分も会ったことは無かったのだが、特別機としてB-25をサンフランシスコに派遣してくれ、ピートと自分がロング・ビーチまで飛んで行けるよう取り計らってくれた。そして自分達は一緒に家族の元へと帰った。
それは全く異なる瞬間なのだが、飛行機から踏み出し家族が出迎えてくれた時、自分はオリンピックから帰って来た時のことを考えずにはいられなかった。即座に母親の元に駆け寄ると、その胸に飛び込む。母は我が子が死んでなどいないという信念を決して失うことなく、そしてもはや我を忘れていた。きっと母親ってものは、誰しもそういうものなのだろう。多くの息子や夫が、決して帰って来なかったにも関わらず、だ。それから自分は父親や妹達とも抱擁を交わした。全員が喜びのあまり涙を流し、そしてピートが両親の決して望みを捨てないという強い気持ち、その源だったことも理解できた。そこにはトーランスの警察署長、ストロフィーさんまでいて、遠くでパトカーのサイレンを鳴らしていた。だが家に帰る車中では、喜びに溢れた会話よりぎこちない沈黙が流れた。何か面白い、才能に溢れるチームメートの話や、旨い食事、ナチの旗を盗んだ話など、自分には何もできはしなかった。自分が今回勝ち得たものと言えば、生きて帰って来たということだけだったのだ。
再会の第一声は「カラ・マンマ・ミーア」
(お母さん愛してる)とイタリア語で言ったという
グラマシー通りへと道を折れると、車は忘れもしない2028番の、あの木でできた白い家の前で止まった。自分はバードの首を絞める悪夢を見ていない時は、何度もこんな夢を見ていた。―青と白のチェック模様のリノリウムのキッチンで、母さんがヒールを鳴らしている間に、リビングのソファーでくつろいでいたり、また母さんの料理の準備を眺めている夢だ。
すると突然、体に緊張を覚えると身震いが起き、全てが現実ではないような感覚に襲われた。家には入りたいのだが、それが恐ろしいのだ。現実が自分の夢と一致しなかったらどうしたらいいのだろう?家は自分が出たあの時と変わらずにあるのだろうか?だがその実、家は暖炉以外はほとんど変わっていないのが分かった。
「あれは地震があって、メチャクチャになっちゃったのよ」
母さんが説明してくれたのだが、自分の部屋のベッドはベッドメイクをしたばかりで、自分のことを待っていてくれた。
それからすぐに電話がどんどんと鳴りだすと、家は友人や役所の人達、それとカメラマンで一杯になった。自分が振り返る度にフラッシュバルブが光っては、まぶしさに目が眩み、周囲の声が海のさざ波のように波打って体の感覚がマヒし、頭が方向感覚を失う。
どうしたんだルーイー?お前は今、帰って来たんだ。母さんだってそこにいる。でも母さんは泣いている。泣かないで母さん。自分ならここにいて大丈夫なんだ。母さんが受け取った戦死証明なんて、ただの紙切れにすぎないんだ。心配しないで・・・でもどうして自分は、何も感じないんだ?
耳の中で声がする。
「キッチンの中を見て、ルーイー」
別の声もする。
「写真はどうだい、ルーイー?」
待ち受ける笑顔を浮かべた面々が、絶えずこちらを囲んでいるのを朧気ながら意識すると、自分はその間を夢遊病のように歩いた。キッチンではディナーのニョッキやラビオリ、ステーキにリゾット、さらにはソソレやビスコッティの菓子類が、昔からある緑と白のローパー社のコンロで料理されていた。それらは全てあの救命ボートの上で、フィルとマックに幾度となく話して聞かせたそれだった。すると今度は、過去に幾度とあった苦い食事の記憶も甦ってきた。父さんお手製の白くてデカい机の上で、自分は皿の上に頭を突き出し、不機嫌な沈黙を続けている。そのテーブルは今、ありとあらゆる種類の高そうな酒瓶で埋め尽くされている。酒、これなら大丈夫だ。
母さんがその内の一本を取り上げるとこちらに見せた。
「通りのお向かいの方が、あなたが行方不明と宣言された、あの日に持ってきて下すったのよ。お酒なんて飲まないけど、あなたが帰ったらこのボトルで一緒に飲むんだって」
酒瓶の多くには寄贈主の名前が一緒に張ってあり、それは自分は死んでなどいないという信念の表れだった。
「戦死の証明が来た後ですら」
母さんが涙にむせぶ。
「このボトルは送られ続けてきたんだから」
自分がそこから目を逸らすと、もう一つのキッチンカウンターには、妹のシルビアが焼いたクッキーがあった。それは文字になっており、「おかえりルーイー」と書いてあった。
リビングではさらなるシャッターにフラッシュ、声に包まれる。それからようやくその場を逃げ出すと、自分は当てもなく家の中を歩き出し、勝手口からガレージに出た。すると驚いたことに、そこには自分の1939年製プリムスのオープン・カーがあった。幸いにもそれは両親に売られずに済んだようで、丁寧に塗られたワックスの上を手でなぞり、ボンネットを触っていると、自制で閉じていた心が、堰を切って溢れ出してきた。オレは涙を流しながら家の中に駆け戻った。それを見ると誰もがその場で一つに抱き合い、感情を共にしてくれた。
食事の時は、オレは母が用意してくれたもの、全てを食べるには緊張し過ぎていたが、リゾットだけは夢中になって最後の一粒まで食べた。それから自分達はコーヒーを飲んだのだが、すると皆がお互いの顔を見て、「え?今?」という風に何か言いたげな雰囲気となり、これに母が頷いた。皆はリビングを出て行くと、少しして豪華に包装された包みを手にいっぱいにして戻って来た。そこにも札が付けられていて、見ると「1943年クリスマス」「1944年クリスマス」「1945年1月26日(自分の誕生日)」と日付があり、さらには「例えどこにいようとも、あなたの誕生日を想って」というようなことが書いてあった。目の前には自分の家族が決して希望を失わず、自分が生きていることを信じてあきらめなかった紛れもない証拠があって、これは深く自分の心に響いた。彼らの愛情を改めて確認できたというだけでなく、過去には家族間の不和もあったにも関わらず、救命ボートや収容所で自分を生かしてきた不屈の精神が、一体どこから生まれてきたのかが、そこには現れていた。それこそ自分が往々にして無視してきた家族だなんて、昔には一度なぞ、ピートを自分より大事にしていたと自分が責めた母だなんて、そう思うと自分は恥ずかしさで胸がいっぱいになった。
左からシルビア、アンソニー、ルーイー、ルイーズ、ピート、バージニア
家族も友人も、自分に捕虜収容所のことや戦争体験について話すよう促すことはなかったが、ただ一つ、見るからに満足げに嬉しい結果を教えてくれたのは生命保険のことだ。自分の保険金の払い戻しは毎月、約一年にも及んで小切手として家に届いていて、家族はそれを銀行に貯めて手つかずなままにしておいてくれたのだ。これも、自分が帰ってくると信じていた印に他ならない。
自分としても、戦争について話したくはなかった。人が刑務所から帰って来たとして、誰もすぐに「よう、ムショはどうだったよ?」なんて聞かないのと一緒だ。普通ならきっと、彼を食事にでも連れ出して他の話題を振るだろう。帰って来てどんな感じか?釣りやハンティングについて、ランニングへの復帰、どんな仕事をやってみたいか?という感じではないだろうか?そうでなければ、それは癌に侵された人にわざわざそのことを言うようなものだ。それにもう全ては既にトランブルに話してあることで、両親もそれは読んでいたし、全国の新聞という新聞は同じ内容を掲載していた。
両親はインタビューも受けた。その中の一紙は、父が
「ジャップの野郎共も、うちの子は打ち負かすことなんてできなかったんです。うちのはなかなかしぶといもんでしょう?」
と言ったことを引用し、母は涙ながらに、別の視点から気持ちを述べた。
「今から、9月9日は(※ニューヨーク・タイムズ、トランブルの記事の発行日)、自分にとっては母の日です。だってうちの子が帰って来てるって、それで家にいてくれるって、本当に分かった日なんですから」
これは2つとも核心をついていて、正に自分の思いを要約している。まあ、ちょっと足りないとすれば、それは自分が新聞記者達に向かって話した、こうして帰って来られたことへの感想が、最後の仕上げとなるだろう。
「まるでクリスマスみたいですけど、それよりもっといい感じです」
ルーイーと決してあきらめなかったお母さん。手にはシルビアの焼いたクッキーが。
ボイントンも「英雄」として帰国時に熱烈な歓迎を受けた