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​その後の登場人物達 

1、ピート

 ルーイーの師匠でコーチで兄のピートは、ルポルタージュの「アンブロークン」においても、そのよい子ぶりに文字通り枚挙に暇がない。―「身だしなみも小ぎれいで女性を大切にし、夜は七時に就寝して、朝の二時半から新聞配達を3時間行い、しかも一緒のベッドのルーイーを起こさないよう配慮。穏やかな中にも威厳があり、ダンスの時は相手の女の子の肩ひもが外れてしまった時のために、ズボンの折り返しに安全ピンを常備し、溺れかけた少女がいれば救助、とかなりレジェンドも先行気味な感じだが、実は教会のベルを鳴らしたいたずらの「バディ」とは、誰あろうピートのことになる。(妹のシルビアが証言)また56年版ではルーイーが幼少時にピートについて行くと、「ついて来んな!」と弟にパンチをお見舞いしたとも。戦後は天職である高校の陸上やフットボールのコーチとなり、高校の陸上では30年間で、優勝しなかったのは一度だけという、ほぼ負けなしの記録を築いている。

 読者の皆さんは、どうしてピートみたいになれないの?

2、母ちゃん

 16歳で結婚してすぐの出産では、「全然遊ぶ時間もない」との声も聞こえてきそうな母ちゃんも、「アンブロークン」では周囲になかなかに負けていない。四児の母となっても、男装して子どもと一緒にハロウィーンにお出かけすると、これを近所の子に別の不良と間違われてタックルされ、ズボンを脱がされそうになったとも。画像はラジオ放送で触れたことで、本人を特定させたライフルと、ルーイーの大学時代の友人、リン・ムーディーが送ってくれた録音レコード

3、父ちゃん

「オレは自分がいつから、喧嘩腰で反抗的な人間になったのかなんて、覚えちゃあいない。そしてさらに重要な事は、それがどうしてかってのも、分かっちゃいないってことだ」

 56年版でルーイーは、自身の半生語り始めの第二章冒頭で、こんな不良節を炸裂させているが、それもそのハズ、元拳闘士の父ちゃんは、虐められるルーイーにボクシングを教えるだけでなく、「泣いて帰ってきたら鞭で叩くぞ!」と、いつの時代にも聞く亀〇式!?スパルタ教育を実施していた。これを「子ども相手の心理学の類も普及」した!?現代から見れば、どう考えても父ちゃんがそういうことをするから、子どもが暴力的になると思うのは訳者だけだろうか?画像にある感動的な家族との再会早々に、気まずい食卓のことがさっそく頭に浮かぶことと、これは関係あるとしか思えないのだが・・・

4、パン屋の少年

 ルーイーのその後の活躍について、最も意見していいと思われるこの彼について、その後の記録は残念ながら全く見つからない。「アンブロークン」には「トーランスの人たちは、ルイがそれまでやってきた悪さをぜんぶ許し」とあるけど、この中にパン屋の少年は入るのだろうか?

 調査をすべく、トーランス近辺を探し回れば、その親族の方々に、明らかに可能性を上回る程に出会える!?

5、シンシア・アップルホワイトとハリー・リード

 ハリーは映画版の続編において、アグレッシブなナンパキャラとして描かれるが、ルーイーが第3章のNCAA・全米大会で、わざわざ未来におけるシンシアとの「怪我の功名」を語っている辺りから見ると、ルーイーもハリーのナンパを、やや強引に思っていたのではないだろうか?ルーイーもニュース映画の話になり、「ああそれ、見たことあるー(現代日本人風)」と言って貰ってかなり助かったようにも読め、またビーチに侵入した瞬間にシンシアがいることに、ルーイーが気づいていなかったと思わない読者もいないだろう。一方、社交の場にデビュー後に、早速にしてモテモテのシンシアもシンシアで、別れ際にもう夢中になってしまったルーイーが、「また会ってくれるかい?」と言ったことへの返答は、兄のリックの証言によると、

 「また会いたいと思ってるかもよ」

 とのこと。

 このシンシアのモテっぷりは結婚・出産後も変わらず、56年版では知らない人からのナンパの対応に、クリスチャンとしてどうすべきかで悩む。これは03年版における、ルーイーがシンシアの一人旅を心配し、実際に片側の頬を知らない人に触られる元ネタなのだろうか?また03年版では、改宗と共に結婚生活もすぐに改善したかのようだが、56年版ではその後も苦闘が続いた様子が綴られ、実家に旅費を出して貰って、ルーイー抜きで母と娘だけで帰省した話も出て来る。この時、帰省はもちろん飛行機で行い、飛行機代は二人分しかアップルホワイト家から貰えず、空港まではクルマがないのでハリーが送迎し、ルーイーはもう帰って来ないかと思って手紙を書いた。

 一方のハリーは、ルーイーと「フラティニティー・ブラザー」だったとあるが、56年版では実は一緒に入ったフラティニティー(日本で言えば、部活というかサークル!?)は、2人でさっさと辞めている。入部すると新人は「新入りへの儀式」を受けるのだが、これは要するにただの嫌がらせで、ルーイーが五輪代表だったとしても例外なしで、先輩から熱いスープをぶっかけられる。元不良のルーイーがこれに従順であるハズもなく、スープとは別のフラティニティー・ブラザー、つまり先輩を2階の窓から突き落とし、「これは運よく手首を折っただけで、表沙汰になることはなかった」とされる。日本で言うと、有名野球選手が入部早々、威張り腐っている先輩達をブチのめすエピソードといったところだろうか?

6、エリナー・ホルム

 彼女のSSマンハッタンでの追放の経緯について、ウィキペディアには2022年現在でも、本人が別の陸上選手に明かした所として、何とブランテッジが当時既に結婚していた彼女に、「○○」と言ってきたのを断った、その腹いせに追放があったとしっかり書いてある。そうなると、彼女が「ベイビー・スターズ」にも選ばれ、当時知名度抜群だったにも関わらず、出演した映画が極めて少ないことや、かつては「議論を呼ぶアスリート」と呼ばれたことが、本書のエピソードと無縁とはなかなかに考えずらい。そしてこの「偽善者」ことブランテッジによる、とんでもないキャスティング・カウチ疑惑と一連の「功績」が2020年にネット上で炎上すると、自らが開館した美術館、「アジアン・アート・ミュージアム」へと飛び火して・・・→8、エイブリー・ブランテッジへ                                                             https://en.wikipedia.org/wiki/Eleanor_Holm

7、マーティー・グリックマン

 CBSドキュメントには、鉤十字事件の証言者のように出演するマーティー・グリックマンだが、アメリカではアナウンサーとして有名で、ベルリン・オリンピックにおいては、アメリカで3番目に100Mが早いとされたアスリートだった。その一方でヒトラーはベルリン・オリンピックにおいて、優秀な民族が下等な民族を支配できるという、優勢学の証明を運動において行おうとしていたと言われる。これはマスター・レース・セオリーと呼ばれ 、アーリア人は最も優れているが故に、ユダヤ人(系)に負けるなどとんでもない話で、しかし400Mリレーではユダヤ系がチームの半分を占めるアメリカ相手に、これが起きてしまう可能性が極めて高かった。そしてこれはアメリカ側、ブランテッジやディーン・クロムウェルらのドイツへの「忖度」と言われるが、グリックマンとサム・ストーラー(画像右)は、何と競技直前の朝に400Mリレーから降ろされてしまう。交代理由としては、ドイツ側の極秘チームに対抗するために、短距離ナンバー1と2のジェシー・オーエンスとラルフ・メトカーフ(どちらも黒人選手)に交代させるとのことだったが、しかし実際には極秘チームなど登場しなかった。

https://edition.cnn.com/2015/07/31/sport/germany-berlin-jewish-olympics-maccabi/index.html

 ドイツにおけるユダヤ人問題は、既に当時からアメリカでも知られており、アメリカではそれ故に大会参加前に、ベルリン大会をボイコットすべきかと言う、投票まで行われていた。これにブランテッジは、ボイコット派に「反アメリカ的」とレッテルを張ると、投票に介入、2. 5票差の僅差でボイコットを否決したと言われる。演説にて曰く、

 「オリンピックはアスリートの物であり、政治家の物ではない」

 って言うか、これからもIOCの会長は、ボイコット騒ぎがある度に、ずーっと同じことを言うような・・・

https://www.ushmm.org/exhibition/olympics/?content=favor_participation&lang=en

 アメリカ・ホロコースト記念館より

8、エイブリー・ブランテッジ

アンカー ブランテッジ

 ベルリン・オリンピックでアメリカを、ボイコットではなく参加へ導いたオリンピック委員は、その後1945年に国際オリンピック委員会・第5代会長へと出世。その辣腕を奮うと、1968年メキシコシティー・オリンピックでは、黒人差別に抗議すべくブラックパワー・サリュートを行った2選手をスポーツ界から追放。1972年のミュンヘン・オリンピックでは、大会中に大規模テロが起き、11人ものイスラエル選手が殺害される中、大会を続行して、ナチだろうがテロだろうが疫病だろうが!?大会を実行する姿を世界に示す。1966年には、8,000点に及ぶ自身のコレクションを「寄贈」すると、サンフランシスコにアジアン・アート・ミュージアムを設立。入り口には自身の胸像が設立者として飾られたが、ブラック・ライブス・マター運動が盛んになると、ブランテッジの過去の「功績」が大炎上し、大英博物館宜しく美術品の多くが出所不明だったことも問題化、美術館にまで「延焼」が起きる。ネット上・インスタには画像の様な合成写真まで投稿され、「偽善者」を飛び越えて、いかにナチのシンパかつ悪人だったのかが拡散。2020年7月に美術館では、胸像が入口より撤去され、館長のジェイ・シュウが設立者であるブランテッジのことを、「hateful person :憎しみを抱えた嫌な人間」と見解するに至るまで追い込まれる。―(2020年7月15日付ニューヨーク・タイムズ)リンクは画像のアーティスト、チアーグ・バクタのサイト。館長が2016年まで、ブランテッジが人種差別主義者だったと気がつかなかった、としたのはウソだと噛みついている。

https://asiansart.wordpress.com/tag/avery-brundage/ 

 一方、映画「栄光のランナー」では、ブランテッジがゲッペルスに、ヒトラーとジェシー・オーエンスの握手拒否を、会場で大きな声で抗議したり、ボイコット派を反米的とするクダリを描かなかったりと、かなりプロパガンダ色が強く、現在でも続くIOCの力が見え隠れする。もしブランテッジに現在言われていることが本当なら、彼はユダヤ人の、黒人の、アメリカ先住民の、アジア人の、アマチュア・スポーツアスリートの、女性の敵以外の何者でもなく、女性に向かって平然と○○○○と言う当時のIOC委員長が、現在とどれくらい違うのかはとても興味深い所なのだが・・・

9、ジェシー・オーエンス

 ベルリン・オリンピックの800Mで金メダルをとった黒人選手、ジョン・ウッドラフによると、「自分達が金メダルをとりだすと、これは彼の(ヒトラーの)マスター・レース・セオリーをぶっ壊すことに繋がって、だから自分自身のためにも、人種のためにも、国の為にも凄く誇りに思えて気持ちよかったよ」とあるが、つまりヒトラーの優生学、マスター・レース・セオリーでは、黒人を含む有色人種は優秀とはされなかった。

https://www.ushmm.org/exhibition/olympics/?content=aa_athletes&lang=en

 ところがジェシー・オーエンスは短距離2種目と幅跳び、及びリレーの交代劇で4つ目の金メダルを獲得すると、ジョン・ウッドラフに続いてこの優生学を、ことごとく覆してしまう。これには反発する形で、オーエンスと幅跳びで金メダルを競ったドイツ人選手、ルッツ・ロングが、黒人なんかと仲良くするなと言われたり(画像左。当時はこういった画像だけで白人側が炎上した)、黒人であるが故にホワイト・ハウスにメダリストとして招かれなかったり、見世物として馬と競争させられたり、果ては破産に至るという余りにも酷い仕打ちを受けたが、その後晴れて(並行して)ヒーローとしてその名誉を回復。「栄光のランナー・ベルリン」では伝記映画化されている。ちなみに「アンブロークン」だと、オーウェンスは選手村でルーイーに「父親のようにふるまった」そうで、ルーイーはこれにムカついて「入室禁止」を盗んだとあり、おそらくは何かを注意されたとでも想像されるが、全くもう・・・・・・

10、アート(アーサー)・リーディング鮫襲撃事件とB-24パラシュート・ブレーキ

アンカー パラシュート

 チャールズ・F・プラット・ジュニア大尉​

パラシュート・ストップに成功

殊勲飛行十字章を受勲

エベレット・アーモンド​無線士

​サメの被害で亡くなる

アート(アーサー)・リーディングの奇跡的な生還を伝える、1943年7月14日付ノックスビル・ジャーナル​

  実は書籍版の「アンブロークン」には、「悪魔に追われし男」にあるべき注釈が少いながら入っており、当然ながら「アンブロークン」だけを読んでもこの意味は分からない。例としては漂流の46日目が7月12日ではない、というのがあるが、これは「アンブロークン」の方が間違っており、後で取り下げている。そしてナウル空爆後に不時着を成功し、その際にやや唐突に!?登場する①陸上選手アート・リーディングと、②不時着に使ったパラシュート・ブレーキのアイデアについてもこの例が当てはまる。

 ①まずまるで漫画の様に誰よりも「速く」スーパーマンに駆け寄り、その後サメに食われてしまったというリーディングだが、このサメ被害は雑誌か何かの誤報のようで、ルーイーはこちらを自書に書いてしまっている可能性が高い。新聞記事によると実は亡くなったのはリーディングではなく、同乗していた無線士のエベレット・アーモンドで、二人の乗った機体はエンジンの不調を起こすとウォリス諸島近海に墜落。この時リーディングは意識を失うが、エベレット・アーモンドがこれを機外に救出、2人分の救命胴衣も膨らませ、離されないように2人を縛る。ところが海上でアーモンドはサメに足を食いつかれ、2人は共に水中へと引きずり込まれてしまい、アーモンドが足を食いちぎられるとこれで2人は浮上。「自分にはもう必要ない」とアーモンドがリーディングに救命胴衣を差し出し、そのまま海中へと消える一方、リーディングはその後18時間もの間、サメの襲撃と戦い泳ぎ続け、味方に拾われる。これによりアーモンドは褒賞され軍に記録が残るが、リーディングの記録はみつからず、誤報バージョン及び大戦中に戦死してしまったのかは不明。ローラ・ヒレンブラントが謝辞でアーモンドの資料探しについて触れていることから、アメリカでも誤報探しは難航したと思われる。ちなみにこれがあったとされる1943年7月13日は、奇しくもルーイー達が日本軍に拾われた日とほぼ同じ日付で、(しかも2人共日付変更線の西側)これもまたウソのような本当の話と言える。

 ②パラシュート・ブレーキの公式認定は、1943年12月で、 「(ルーイーの不時着の)八ヶ月後に、チャーリー・プラットが初めてB-24をパラシュートで止めた。搭乗していたベル・オブ・テキサス号はマーシャル諸島上空で撃たれ、ブレーキがなかったため、プラットは爆撃機には短すぎる滑走路に着陸しなければならなかった」 とあり、ヒレンブラントはピルスベリーに電話を入れ、ルーイーが本当に機体にパラシュートを付けたのか確認をとっている。 ちなみにチャーリー・プラット大尉は、これによりルーイーが貰えなかった殊勲飛行十字章と感状をハップアーノルド大将より貰っているが、その後に父島へのミッション中に行方不明となり、そのまま戦死にカウントされ、現在では父島の崖に衝突して戦死したと考えられている。

https://www.google.com/search?q=Charles+F.+Pratte%2C+Jr.&oq=Charles+F.+Pratte%2C+Jr.&aqs=chrome..69i57j69i60.568j0j4&sourceid=chrome&ie=UTF-8

11、フィル

​フィルが母親の家に帰った時の写真​

裏には誰かが"HOME"と書いたという。

―「アンブロークン」

 ルーイーと大船で別れた後のフィルは、まずは足尾の収容所を経由してから善通寺へと送られ、後者は本編で「赤十字へお披露目のための収容所」とされるのだが、これは大船における軍事情報提供者への釣り文句に過ぎず、実情は悲惨な所だったのは言うまでもない。ここではフッド・ギャレットも一緒だったが、「アンブロークン」によると捕虜達は敷地内の雑草を食べる程に飢え、飲料水は糞便を肥しに蒔いた水田から来ており、9割の捕虜が赤痢に感染したという。ルーイーの言う、糞便を肥しに蒔くような畑から物を食べたくないとは、こういった収容所環境からも由来すると思われ、ルーイーとて著述時に善通寺のことを知らぬ訳はなかったろうが、本編では当時の心境を描写している。その後、フィルは終戦をフレッド・ギャレットと共に、福井県の六呂師収容所で迎えるが、この静かでありながらオリンピアンに負けない強靭さの源には、地元にセシー(セシル。後の伴侶)という婚約者がいたこと、ルーイーとの強い信頼関係に加えて、ひそかに強い信仰心を持っていたことが、娘のカレンにより証言されている。戦後はボートでの会話の通り、中学校の理科の教師に就任。国語教師のセシーと家庭を築いたが、漂流体験が元で鶏肉の類を一切食べなくなった。また墜落の責任を自らに課すと、飛行機の操縦はおろか搭乗すら拒否したそうで、娘婿の突然の葬儀の時にだけ、やむなく飛行機に乗ったという。

12、アヒルのガガ、殺害事件

 ルーイー曰く「戦時中起きた、最もむごい事件」との「ガガ事件」は、ボイントンの「メエメエ黒羊」において、「Some of the guards even masturbated with it on occasion.」とだけ触れられていて(訳者は訳せませんので、翻訳はご自身でどうぞ)、死んだ訳ではなくなっている。またこれだと、some of the guards なので、こういったことをしたのはウンコ頭こと、平林正二郎(マサジロウ)だけではなかったことになる。本編での描写に関しては、ローラ・ヒレンブラントが電話でルーイーに事実確認をし、また内容については定かではないが、動物虐待があったことは元捕虜のグレン・マッコネルの証言も得ている。 こういった事例は、大船での犬の例が本編にも出て来るが、これは大船だけでなく、「Barbed-Wire Surgeon」では品川病室でも犬が叩かれるだけでなく、袋に入れられて川に投げ込まれたとある。元サーカス経験者によると、こういったことは現代のサーカス団でもあるとのことだが、(情報元秘匿願い)やはり収容所でも弱い所へシワ寄せが行ったのだろうか?

13、ジェームズ・勲一・佐々木

 実はCBSにも登場した、マッカーサーご指名の最重要指名手配犯40名(1945年9月12日付ニューヨーク・タイムズより)において、ジェームズ・佐々木は19位で指名されており、23位のバードより優先順位が高かった。ちなみに歴史は繰り返すと言うが、この6位指名の方の孫は2021年に、「反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の(※オリンピック)開催に強く反対している」と1936年のブランテッジと全く同じことを、85年後に言っている。

 「アンブロークン」によると、ジェームズ・ササキのスパイ行為は、イチ警察官が私的に自分の本に書き込みをしたというレベルに留まらず、J・エドガー・フーバーFBI長官と、シャーマン・マイルズ准将が手紙で言及しており、つまりアメリカ側も早くからそのスパイ行為に感づいていた訳で、これはアメリカへの国家反逆罪であって、彼も東西冷戦及び日米の講和なくしては早々に出獄は望めない一人だったとも言える。「アンブロークン」の引用元は、ボイントンの伝記であるブルース・ガンブル著「ブラック・シープ・ワン」となるが、これによると彼は1898年に日本に生まれ育ち、中等教育を終えると1915年に17歳で両親の住んでいたオークランドに移り、(当時は日本でも中等教育制度。下記、捕虜交換船、帰国予定者リストだとおそらく1903年生まれの12歳前後)再び年下のアメリカ人同級生達に交じってグラマー・スクール(アンブロークンでは小学校に通うと言う恥ずかしい体験)とハイ・スクールに通い、USCでは政治科学を専攻したという。その後は海軍に雇われワシントンの日本大使館で働き、戦争勃発後に伴い捕虜交換船で日本へ帰国したとある。このことはアメリカの新聞でも確認でき、ここから日本の公文書を手繰ると以下のデータがヒットする。

アジア歴史センター

 レファレンス・コードB03822100-00300

 1944年に海軍編修官に就任した際の任用理由書。初叙高等官6等だから「提督に値する地位(将官)」はかなり言い過ぎ!?

アジア歴史センター

 レファレンス・コードB05014041200

 第一次日米交換船での引き上げ予定者名簿。1942年4月の作成で、出発の3か月前。ササキの優先順位も高かったのだろうか?

 上記書類の昭和二年、1927年にUSCの国際科を卒業は、USCの卒業証明と一致する。となると、ササキがルーイーとキャンパスで出会ったのは、ササキがUSCを卒業して既に10年以上が経っていたことになり、また大学側の記録—https://www.studentclearinghouse.org/ からすると、イエールやハーバード、プリンストンは虚偽とされる。上記文書にある、「ガーデナの日本人会の幹事に就職」「米国事情調査及び、俘虜尋問等に従事」とは、やはりスパイ活動の事なのだろうか? 交換船に関しては、ウエスト・ヴァージニア州、ホワイト・サルファー・スプリングス収容所の外交官の所に、副領事、一等書記官らと一緒に事務員として名前が載っており、新聞の記述と一致。奥さんと二人の娘の名前も分かるが、時代だろうか全員日本名が付けられている。ちなみに捕虜交換船においては、乗船した日本人3名による「日米交換船」という本も出ており、それによると日本に帰りたくなかった人もなかなかにいたそうで、帰国を拒否した人や、アメリカで収容所に入らなくても済んだ人がいたことも記される。一方、南アフリカで交換を終え新しく乗り込んだ浅間丸内では、シンガポールで乗り込んできた軍人が毎日のように一方的に演説を始め、船の雰囲気が重苦しくなったこと、またYWCAの活動をやったりした年配の女性が「アメリカには良心的徴兵拒否というのがありますけど、日本でこのことを話していいですか」と聞いて、これに端を発した喧嘩が発生、「軍人の怒りをあおったKを阿部行蔵(※牧師)がなぐった」 という記述もある。

 ボイントンの宣誓書送付を伝える1947年3月17日付ハリウッド・シチズン・ニュース(左)と、判決を伝える1948年5月1日付スポケーン・デイリー・クロニクル(右)

 戦後の裁判では、ウィリアム・H・ウォーカーを殴打するよう命令した廉で(その後に死亡)、起訴された。ところがこれには何と英雄ボイントンが、東京に向けて宣誓供述を送付し、「彼はアメリカ人の心を持っている」「自分達は収容所でよく話をした。戦争勃発の際、彼が自らの意に反して日本に戻ったのを自分は知っている。難しい立場にいながら、自分達全員をできうる限りに助けてくれた」と証言。1948年に18年の重労働刑が言い渡され、ルーイーが巣鴨に来たのはその後ということになる。また巣鴨では、飛田時雄の「C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン」にも頻繁に登場し、ここでもやはり通訳に駆り出されると、その後の飛田時雄所属の「カートン・ディテール」、つまり漫画労務班のマネージャー(責任者)になったとある。自分のことは民間人と言っていたようで、正式の退官は46年の4月ではあるが、身元は隠しておきたかったのだろうか?戦後の足取りは杳として知れないが、断片的にアップされている写真から見るに、必然的に日米同盟に駆り出されたとも想像される。訳者は二度目の?「グラマー・スクール」がどんな感じだったのか、非常に気になるのだが・・・スパイは自伝なんて、残さない!?

14、パピー・ボイントン

 アメリカは日米開戦の前から、中国大陸で通称空飛ぶ虎軍団こと、フライング・タイガースを極秘で展開して中国を支援していたが、ボイントンはこの任務に極秘ゆえ軍の本籍は除隊の扱いで参加する。動機としては海兵隊本部に毎月どれだけ返しているのか、手紙での報告義務がある程の借金もあったし、月に675ドル(約133万円)、日本機撃墜1機につき500ドル(約110万円)のボーナスがあった、とも。(命懸けのミッションに対し、ここには当然ハードボイルドの要素が入る)その後、任務を終えて帰郷。地元のガソリン・スタンドで働くが、戦争の本格化に伴い太平洋戦線に参加する。そこでは各隊で余り物になってしまった人間を集め、第214海兵戦闘飛行隊、通称・ブラック・シープ(持て余し者軍団の意味)を結成、隊長となる。部隊名は好きに考えてよい、とのことで、誰でも知っているメエメエ黒羊の歌をとると、これがそのまま著作名にもなった。 そして大船で対面するルーイーとボイントン両ヒーローだが、ボイントンによるとルーイーは、紙とペンの所持が危険な中、捕虜達に母ちゃんのレシピを紙に書いて配布。(「アンブロークン」にある、捕虜仲間から貰ったノートと何とかして手に入れた鉛筆で?)これは捕虜達に「国に帰ったらこれを料理するんだ」と大人気で、ボイントンもレシピについて、 「レシピを見れば母ちゃんが料理の達人だったのは疑いない・・・でも最後にとっとかなきゃいけないのに、トマトをジャガイモと一緒に入れたり、はたまた料理の最初にバターを入れるなんて、料理なんてホントはしたことないのが、オレには分かった。ま、本人は天に誓ってちゃんと料理した、何て言うんだろうが」 となかなかに毒を吐いている。しかし誰もが飢餓に苦しむ中で、むしろ料理ができないにも関わらず、救命ボートで「エア料理」をしたり、危険を冒してまで収容所でレシピを配る方が、純粋に心のエナジーを高める行為とは言えないだろうか? また著作では、大船のキッチンで働いていた民間人の「Obasan:オバサン」が自分によくしてくれたことも念頭に、 「大船で捕虜に行われたことが故に、自分はややもすると日本人を憎むよう期待されてると思う。(中略)でもここアメリカでも、野球のバット片手にほぼどこの街でもイチ区画でも、心の底では大船の看守達と同じだけ原始的で、残酷でバカな野郎どもがいるよ」(※バット:8章注釈参照。捕虜達が大船で殴打された「ビンボー棒」のことと思われる。ボイントン曰く「あんなのスポルディングってブランド名が入ってないだけで、野球のバットだよ」とのこと) と書き、ロシア人だからフランス人だから、イギリス人だから日本人だから、で一緒クタにするのはナンセンスだとし、大船で自分も「どうせ日本人なんて全員一緒」だと思ってたら、看守にですら親切な人間がいたことを書き、これが間違いだったとしている。 加納勇吉の手記にはボイントンと一緒に食事をして歓談した話があり、自分の無実を証明できる4番目の人間として、特殊捕虜のトップで登場、当時交換した連絡先として軍と個人の住所も書いており、一方でボイントンも戦後の調書で、大森で特殊部屋に閉じ込められ捕虜医師の診察もロクに受けられなかった特殊捕虜を、加納通訳兵が助けてくれた詳細について述べている(13番目のミッションより)。ところが当のボイントンは著書でも調書でもその両方で、加納・Kano の所をKono・河野と思いっきり書いており、有難迷惑かつ、とんでもない人違いを誘発させた張本人である可能性は非常に高い。日本語は「オバサン」としか話さなかったから、練習が足りなかった!?

15、加納勇吉

 繰り返しになるが自身の私記で見ると、加納勇吉は1946年に巣鴨より明らかに解放されており、しかも56年版においても、巣鴨訪問前に横浜で自由の身となってルーイーと再会しており、本書03年版の記述における巣鴨プリズン内での2人の再会は明らかに事実ではなく、またクリスチャンだったとの記載も、本人を含む他の書籍には見られない。トム・ウェイドによると、1946年に日本へ戻ったニュージーランド人、ジェームズ・バートラムが解放に尽力したとあるが、上記画像のスタンレー・マニーア他、加納勇吉への保護活動、再訪を行った元捕虜は多く、本人によれば終戦時に住所を残して行った捕虜は70名以上に及んだとあり、本書前書きでマケイン元上院議員が「稀に見る高潔さ」とも評した行為の数々は、資料を当たるだけでも自ずと圧倒されるものがある。

 ではこの「高潔さ」と「卑劣さ」が共に、つまりバードと現場で一緒だった場合どう作用するのかというのは、人の興味を引くようで、「アンブロークン」でも「だがバードの"お気に入り"のルイには、カノウも何もできなかった」と書いてあるが、実はこの二人は大森の現場を、少なくとも正式な任期では共有していない。「13番目のミッション」及び自身の手記によると、1944年の8月11日にまず事務方として捕虜棟の隣りに住み込みで就任。捕虜と接するようになったのは、1945年の1月20日より、バードの後任である小栗曹長の補佐を始める時からとある。本人の記録には、

 ―渡辺軍曹に関する質問。

殴打を目撃せるは、ストックウェルが殴られたのを見た事一回だけ。庶務勤務中は日中はキャンプコンパウドに居なかったから目撃はしなかったが、朝夕俘虜から渡辺軍曹に無暗に處罰されたり、殴られたりした事は屡々(※しばしば)聞いた。(自分は俘虜舎の隣に住んでいたから)個々の例は記憶せず、明らかに記憶しているのは、

①マーティンデールが点呼の時、ある理由(忘却)で渡辺軍曹に殴られたと自分に話した事。

②十月か十一月のある午後、ブキャノンが窓硝子を拭いてい る際を通りかかって、「リーダース・ダイジェスト」の事について簡単な会話を交した。その時遠方を渡辺軍曹が通りかかったので、両人とも敬礼した。渡辺軍曹はそのまま通りすぎたが、後でブキャノンは呼びつけられて加納と何を話して いたかと聞かれ、ありのままを話したところ、渡辺軍曹は非常に怒って、彼をノックダウンしたという事を後でブキヤノンから聞いた。自分も渡辺軍曹に非常に叱られて(彼の室へ呼びつけられて)「お前は本所の庶務に勤務している身だ。このキャンプの事は俺がやっているのだから口をだすな」とい う意味の事をいわれて、危うく殴られるところであった。

 自分は、以来自分が俘虜とうっかり談笑すると、俘虜にとんだ迷惑を及ぼす事があるから、気をつけねばならぬと思った。―

 とされ、現場にいれば誰もが知る、ワインスタインやデイビット・ジェイムズの殴打すら知らないともあるので、事務方の時には現場とは距離があったこと、またバードも英語が堪能な加納勇吉を警戒していたことが分かる。ともなればルーイーとの接点も、実は2ヶ月もなかったことになり、一方で加納勇吉の恩恵を最も大きく受けたのは、主にルーイーが直江津に移送された後の4月に第1棟に入れられた、ボイントンを筆頭にした特殊捕虜達で(13番目のミッション)、ボイントンと加納勇吉が著作で互いに触れ合っていることは極めて自然と言える。ただし事務方の時に既に捕虜を助けていた可能性はもちろん完全には否定できず、またその存在だけで、つまり仲間が助けて貰ったと聞くだけで、ルーイーを含む捕虜達が精神的に大きく勇気づけられたのは間違いなく、ルーイーの記述が虚実の間で揺れ動くのも、精神的に極めて大きく助けられたことを、他人にも本人にも分かりやすく、物理的な体験に置き換えて語っている可能性は非常に高い。そうなるとやはり、本人による捕虜援助の記録の注目度は俄然に高くなるが、しかし1978年8月5日付朝日新聞にもあるように、「自身が行った行為は妻にも話さなかった」そうで、手記は巣鴨での日記形式にほぼ終始する。

 ではなぜ自身が捕虜を助けた詳細を、私記に残さなかったのか?この謎を解くヒントは、ボイントンの著書及び調書にあると訳者は考えている。 ボイントンは大森とは別に大船収容時のエピソードとして、英語を話し孤児院で女兄弟と一緒に牧師に育てられ、イギリス人の法律事務所で働いたことのある大学生について匿名で触れているが、(日本語版では詳細が割愛。生い立ちやその他の記述からすると、これは加納通訳兵の事ではない)この人物から、加納通訳兵の立場も類推できる。この大学生は捕虜に親切で、捕虜を殴らなかったことで逆に日本人達から殴られ、その様子を見ていたボイントンは、彼とこっそり英語で話して共感をすると名前まで交換し、書籍においてこう述べる。 「日本の上層部は気づかなかったろうが、現場ではクリスチャンという日本側の第五列(反乱要因・最近プーチンも使いました)がなかなかに飽和していた」「それ以来、彼はこちらがずっと待ち望んでいた、最高の軍事情報源となった」「1945年4月、大船収容所から移送になる直前の、最後に彼と会った時に、彼は自分に9月迄にはこちらの軍隊(※連合軍)が、本土へ来るだろうと言った」 ここではボイントンも日本側の理解が得られないことを懸念し、この大学生の名前は出していないが、クリスチャンでその生活環境から英語を話し、それ故に通訳もさせられ捕虜を殴れなかったような、そんな境遇の人間には同じことが各地で起こっていたことが記録に残る。「Barbed-Wire Surgeon」では、品川でワインスタインが「熱と下痢で再び寝込」むと、「アリガワ」という年老いた通訳兵が、「本物の白い小麦のパンと魔法瓶に入れた砂糖の入った牛乳」を持ってきてくれ、ワインスタインは「目が飛び出すかと」思ったという。また実際に大森で、現場就任後の加納通訳兵が親米派だと告発を受け問題となった、というボイントンの調書も存在する。戦時においては戦線の進行状況を捕虜に教えるのは元より、こっそり食べ物やタバコをあげたり2人だけで英語で話すことは立派な裏切り行為であって、アメリカ人捕虜を助けていたと認めることは、敵方に与していたと認めることになり、これがアメリカ側にしか記録が残らない理由と思われる。

 現代から見れば、つまり戦争の理屈をさし置けば、窮地の人を助ける行為はアメリカで言う「英雄的な行為」以外の何物でもなく、映画版「アンブロークン」にジェームズ・ササキはおろか、加納通訳兵も出てこないことを、残念に思うのは訳者だけだろうか?さらなる「私記」はどこかに眠っていないのだろうか?

現場被らず

16、フランク・ティンカー VS 渡邊シズカ

 フランク・ティンカーは戦後の1951年に、朝鮮戦争に諜報部員として参加、来日して元大船収容所を撮影すると、バードの居場所を求めてその母親を訪問している。「13番目のミッション」によると、家族は警察の監視下にあり、警察は母のシズカが不倫をしていることまで感知。ティンカーが居場所を聞くと、母親は「Shrine」、つまり仏壇か神棚、遺影の類を見せ、「連絡はないが、もう自殺したと信じている」と発言。ティンカーは以前に、バードは火山に身を投げて死んだと聞いていたので、「この母親の真摯な姿勢を、彼は信じ」、そしてこれがルーイーにも伝わると、バード死亡説の根拠の一つとなった。つまりバードの母親にして、美人資産家令嬢と言われた渡邊シズカは諜報部員を通し、アメリカの大部分を見事に演技で騙したことになり、「不倫」というのも、なかなか巧妙な警察へのエサの可能性すらある。

 一方ティンカー本人は大森収容所で行われた、クリスマス慰問観劇会「シンデレラ」への出演から、「ジュリアード音楽院に行っていた」と触れられることが多い。この観劇会は、心の支えを必要とした捕虜のみならず、看守にも大好評で、バードですらその後はしばらく機嫌がよかったと記録には残る。収容所における音楽の力については、日本だけではなくナチスの強制収容所においても、「人を癒す力のある歌を歌う囚人は、ナチスの収容所でもほんの少しだけ多くの食事を割り当てて貰えた」—ビクトール・フランクル—「夜と霧」と言われ、その影響力を知ることができる。つまりティンカーは捕虜にも看守にも、「あの歌の王子様」なのであって、極限状態の人間に音楽と演劇が強い浄化作用を与えたのは間違いない。また音楽以外にも、デレック・クラークや飛田時雄は、彼らが収容された「プリズン」で絵を描くことにより、収容所全体に貢献をし、同時に貴重な史料を残している

17、トム・ウェイド

 大森から直江津、横浜、厚木から沖縄をルーイーと共にしたトム・ウェイドだが、それ故に本編に対する面白過ぎる捕捉には事欠かない。 ①大森ではタイピストとして働いていた、ユキコさんという女性の前を通る度に笑顔を交換し、好感触と見るや、同じことをしていたパイロット、ロバート・テュースケン(クリスマス演劇でシンデレラ役を演じた、イケメン女形!?)を出し抜く形で!?花を渡して何と「キスしてもいいですか?」と長いこと温めていた日本語を発動。相手は逃げてしまったが、八藤雄一の著作には経理部で働いていた女性の写真が6名分あり、そこにユキコさんがいるかもしれないと思うとかなり面白い。マーティンデールから八藤雄一の手紙には、労働隊が外に出る度に、バードと八藤雄一が一緒に映っている写真にいる女性に手を振っていた、という記述もある。②アメリカ人ではないからだろうか、メーヤ中佐を悪く書いている。中佐は日本側とロクに折衝をしないとし(大船など、折衝の記録も残る)、しかもバード管理下に置いては、捕虜棟代表がただの殴られ役と見るや、トム・ウェイド等の若手士官をこれに起用、1945年の頭にバードがいなくなった瞬間、一般兵達と仲が良過ぎるのを理由に捕虜棟代表から降ろし、これに対する抗議にも耳を貸さなかった。あまつさえウェイドの場合、マーティンデールの代理でバードのいる直江津に送られる訳だから、当然と言えば当然? ③直江津では終戦後に、終戦後に工場の未払い賃金を貰ったようで、これで横浜に行く前にセオ・リーと一緒に、(11章画像に写真のある捕虜)タクシーを使って高田で着物と刀を買ったり、銭湯に行っている(現金に関しては、自書だけでなく「貝になった男」で上坂冬子がオーストラリアに訪問した際にも確認される)。そしてここは何とまだ混浴だったようで、「象牙の様で滑らかな女性の肌が未だに存在するなんて、知れてよかった」としている(直江津の工場で風呂に入れたので、ここで入り方は知っていた)。 ④「Prisoner of the Japanese」の第32章は「The Long Way Home」で、本編第11章も「The Long Road Home」と、ほぼ同じ章名、かつ内容も帰還途上のエピソードと同じなのだが、2人の食事への扱いが決定的に異なるのが面白い。沖縄に行くとルーイーは、捕虜リストに名前がないという理由で食事を与えられず、赤十字の女の子相手に、21世紀に持ち越すほど憤慨しているが、一方ウェイドと他のイギリス人達はアメリカ側に、何とお腹が空いてたら2回列に並んで食べていいよと許可され、実際その通りにしている。ウェイドは言うまでもなく、横浜でもコーヒーとドーナツを、「白い制服と口紅を差したアメリカ人の女の子」から振舞われており、これは自書に言う「運が生死をも左右した収容所」のいい例!?

18、デレック・クラーク

 本編には出てこないが、ルイス・ブッシュやトム・ウェイドと同じくシンガポール戦線で捕虜となり、大森に移送された英国人捕虜。絵が上手く、「No Cook’s Tour」(代理店任せの旅行なんかじゃねえぞ)という戦争体験記を残し、これが日本の右翼系出版社のハート出版から、「英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人」という翻訳として出ている。この本の訳者のブログでは、アンブロークンは「反日映画」、また書籍版は捏造が多いとする主張が繰り返されているが、それはさておき、「代理店任せの旅行なんかじゃねえぞ」の内容はとても面白い。自身がおねしょをしたり、日本人少年兵にエッチな絵を描くよう頼まれたエピソード、さらにシンガポールの収容所内の闇市や、日本の民間人労働監督官との盗みを通した「バトル」に至り、総じて捕虜の記録は士官側が多い中、一般兵の貴重な記録が綴られ、特に終わり方は特別な物になっている

19、スタンレー・カーティス・ピルスベリーとフレッド・ギャレット

 スーパーマンのクルーだったピルスベリーとダグラスは、負傷故に墜落をルーイー達と共にしなかったが、入院中のサモアでルーイー達の行方不明を聞いたという。その後ピルスベリーは歩けるようになると、銃手として別の隊に配属されるが、新入りとして冷遇され、戦闘中には金属片を目に受けてしまう。これらで画像のパープルハート章他、勲章を幾つも貰ったが、しかし戦後は足をずっと引きずって歩いたという。ローラ・ヒレンブラントの電話インタビューには、泣きながら以下のように言ったとある。 「本当に、本当に、ひどい体験でした。・・・思い出すと甦ってくる。それが戦争なんです」

 一方フレッド・ギャレットは、フィルも収容された六呂師収容所で解放後に、日本側より支給された服を捨てる写真が、「日本軍政下の連合軍捕虜研究センター」のサイトに残っている。

http://www.mansell.com/pow_resources/camplists/osaka/rokuroshi/rokuphoto.htm

 収容所ではその人懐こい笑顔が多くを魅了したと、本書のみならず「13番目のミッション」にも「Prisoner of the Japanese」にも記される一方で、「アンブロークン」によると、ギャレットは ―(※墜落で)折れた足首を日本兵に順番に蹴られ」「しばられ脊椎麻酔を打たれて、日本軍の衛生兵が自分の脚をのこぎりで切り落とすのを見せられた。(中略)そうすれば二度と飛行機を操縦できないからだと。ギャレットは錯乱気味になり、監房にまた戻された」 またクワジェリンで壁に刻まれた名前10名のうち、日本側は9名については処刑されたと言ったが、10番目、つまりルーイーについては誰も教えてくれず、「10番目の男」の生存の可能性が自身の希望になった、とある。 戦後は戦争体験から米を食べなくなり、クラブでウエイターにご飯をサーブされただけで激怒、迷い犬のように鬱病に苛まれたと本編にもあるが、ルーイーすら直視に耐えない、笑顔の裏に隠れた憎しみこそが、ルーイーに憎悪と一体どうやって付き合うのかを考えさせた、その契機となったと考えるのは、不自然なことだろうか?

20、食らえバード!満島収容所グレービー・トレイン事件

(アルフレッド・ワイスタイン)

満島収容所のクリスマス写真

赤丸のワインスタインの右が久保所長

名倉有一「長野県・満島収容所 : 捕虜生活と解放の記録」より満島収容所外観

 バードが「直江津からいなくなった」のは、長野にあった満島収容所で規律監督を兼任したことによる。(別名平岡といい、長野にあった東京の分所。第3分所~第2派遣所~12分所と正式名称も2度変わった―名倉有一「長野県・満島収容所 : 捕虜生活と解放の記録」より)これに前後して、満島へは東京から所長の酒葉大佐が栗山通訳と共に臨検に訪れると、「渡辺は自分の命令の実行者であり、捕虜が命令に従わないようようであれば、渡辺が即座に体罰を加えるであろう」(連合軍捕虜の墓碑銘)とし、今までと方針を転換して、労働の増加と苦情は受け付けない旨を宣言した。これにより収容所ではジワジワと死者が増加。(ここから「Barbed-Wire Surgeon」より)救える命が失われるのを見て、医者であるワインスタインは同僚のイギリス人医師と共に、本気でバードの薬殺を共謀する。ところが何とこの共謀の次の日に、バードは医務室で劇物が捕虜医師の手が届く範囲にあることを問題視、大騒ぎをして薬棚を施錠。数日に渡ってワインスタイン達は盗聴を恐れて震えていたが、その後、騒ぎは沈静化する。そこで2名の医師は赤痢菌を培養すべく、細菌性アメーバ赤痢患者2名の、血の混じった下痢便とブドウ糖、食塩水、さらにダメ押しでハエだらけの収容所の中から、特に太って「ジューシーな」ハエ3匹を混ぜ、培養器がないため小さな茶色い瓶に入れ、数日間肌身離さず人肌で温めこれを培養。「見つかったら打ち首だよ」と言われても、目を輝かせて加担した炊事係のジョージ・ピールは、この「グレービー・ソース」こと培養液で、週5日に渡ってバードの米を「味付け:favored」した。ところが混入犯達が固唾を呑む一方、バードはこれに全く無反応で、ワインスタインは新たなグレービー・ソースを作るべく、赤痢患者の便を半ダース分、つまり6名分に増量。これをジョージが再び「味付け業務:flavoring business」すると、今度は二日後に連絡将校がワインスタインに急信に訪れる。これに「自身に歓喜の波が広がるのを感じ」「私の愛する人がどうかしましたか?(What’s the matter with my darling ?)」とワインスタインがすっとぼけて往診すると、バードは子どもの様に泣きながら、一晩中下痢をしていたと訴え、その後10日に渡って40.5度もの高熱を繰り返した。この間、収容所では天に向かってバードの死が祈られ、再び笑い声が聞こえるようになり、捕虜達は緊張が解けると、ヒステリックかつ子どものようになり、日本人達ですらリラックスしたと言う。往診ではワインスタインが「担当医」としてスルファジアジンの代わりに、重炭酸ナトリウムとアスピリンを処方。バードはこれを疑い、まずは相手に飲ませてから服用し、一方でジョージは「味付け」を継続。バードは最初の1週間で15ポンド(約7キロ)も痩せたという。しかし「アンブロークン」に言わせれば「不死身」の男の殺害までには至らず、バードは回復すると直江津に戻り、再び暴力に勤しんだという。

 実はこの、バードに下痢便を食わしてやるというアイデアは、大森でも行われたという風分が「13番目のミッション」にはある。それによると、バードの直江津への異動に伴い、離任式が収容所の前の畑で行われ、

「渡邊は最後の別れの挨拶として、甘いお茶と餅(クッキー)を耕作隊の士官達に振舞った。自分は(※マーティンデール)もう耕作隊ではなかったが、収容所の前の畑でこの式典に招待された。これは士官達にはなかなかに面倒な瞬間で、バードが居なくなると言う歓喜の思いを、別れを惜しむようなフリで押し殺さねばならなかった。(中略)渡邊はこの茶会で別れの土産として餅を渡され、何も知らずにこれを食べたが、餅にはそれぞれ、収容所で最も酷い赤痢患者の便から作られた培養液が混入されていた。しかし渡邊は何の症状も出すことはなく異動して行き、この『お土産』は思った通りの効果を上げなかった。 この数か月後に、バードが派遣された収容所でバードを不能とさせようと、同様の試みが行われたという噂が広まった。培養液のサンプルは、毎晩渡邊に供されたコップのミルクに混入されると、捕虜の当番(toban)はかなりのリスクを負ってこの混入計画の準備を行った。渡邊は激しく体調を害すると、捕虜達への圧力は大幅に和らげられた」—

 とあり、「捕虜の当番」とは、炊事係のジョージとも一致し、どうやら満島の成功例!?が大森に入ってきたことが伺われ、第三者の記録ともとれる。しかし大森での混入はワインスタイン側には記載がなく、マーティンデールも実際に見た訳ではない。また「アイツのメシにガラスの粉でもいれてやれよ」という放言が大森であったことも、「Prisoner of the Japanese」には記され、ボコってやる、殺してやるの類のことは度々言われていたので、大森での混入が本当にあったのかは定かではない。

 また加納勇吉も「我が獄中の記」で、バードとワインスタインについて触れている。巣鴨で尋問を受けた際、

—「ワインシュタインの話は、殴られた事を本人から聞いた事はないが、後で渡辺軍曹が目を悪くしてワインシュタインの手当てを受けた時、多分メーアー(※メーヤ中佐)だと思うが、あんなにひどくなぐられたのにも不拘ず(かかわらず)、よく手当をしてやっているという話を聞いた事がある」—

 と供述したと記録。医者とそれを殴る患者の歪んだ関係は、既に大森から始まっていたことが推察される。

 ワインスタインは戦後に解放されるとフィリピンへ急行し、地下で抗日レジスタンスをしていた、当時の恋人であるオーストリア人女性を探すと、奇跡的に再会。帰国後の入院中に「Barbed-Wire Surgeon」を執筆すると、英雄として故国に錦を飾り、アトランタへ移住する。ところが当時、ジョージア州ではジム・クロウ法が幅を利かせ、白人至上主義者であるKKKも活動しており、地権者達は退役軍人達の住居に法外な値段を請求。ワインスタインはこの事態に憤慨すると、合衆国住宅都市開発省・FHAより巨額の資金提供を受け、140世帯が入居できる共同住宅を建設し、(→詳細はコラム4へ)1950年代から、自身の医院にアフリカ系アメリカ人を積極登用する等、有色人種への奉仕を実施した。またPTSDへの対策の一つとしては、戦後の日本を調査し、1962年には夫婦で来日。親切だった日本人看守を見つけると、この家族を援助したという。

左よりロニー、アル(フレッド)、エルサ、マック

 アイヴァン・アレン・ジュニア市長より表彰される。このアトランタ市長は、公共施設での白人と有色人種の分離を撤廃し、2010年にはアイヴァン・アレン・ジュニア賞ができるが、これの対象者は、「自ら立ち上がることで、自身のキャリア、仕事、時に命のリスクですら冒してまで、道徳的な改革を起こした人物」とのこと

アンカー 頑固

  結婚後には子どもを望んだが、思うようには行かず、2人の養子を迎えると、運命のいたずらで長女を授かり、3人の子どもはそれぞれキンドル版の「Barbed-Wire Surgeon」にあとがきを残し、上記の貴重な記録を残している。その長女(右画像真ん中の赤ちゃん)によると、「このような死後の記述は、人を神聖化してしまう危険を常に孕むが、父は聖人とは程遠い人物で、頑固で情熱的、しかも他人への要求も強く、機転が利かず悪態をついては、大きな声で怒りを爆発させた」としている。 残念ながら1964年に50代で亡くなっており、訳者は肉声を発見できなかったが、CBSドキュメントに出ていたら、一体どんな話をしていたのだろうか?

22、渡邊睦裕

 本書では直江津収容所での玉音放送に言及がなく、また終戦前後のバードの動きも明確ではないが、「アンブロークン」のルーイー、ティンカー、ウェイド、ワインスタインの記述と証言を総合すると、以下の通りとなる。

 ①連合軍の上陸に先立つ直江津の士官捕虜を満島へ移送、殺害予定の前段階として、1945年6月に直江津から満島へ異動(ウェイド)

 ②ここで終戦日までを過ごし(ワインスタイン)

 ③その後こっそり直江津へ戻り(ルーイー)

 ④直江津を出て行った(ティンカー)

 その後の指名手配期間は7年に及び、実家は警察の監視下に置かれ、その行方は巣鴨でも重要事項とされると、加納勇吉や飛田時雄が自らの著書で、「どこにいるのか知っているか?」と尋問されたと書き、ウェイドが帰国途上のマニラで、供述書にマツヒロ・ワタナベ(ママ)と書くと、取調尋問官が「またワタナベかよ!そいつの名前は、もう6回は絞首刑にするくらい聞かされたぞ」と言い、ウェイドはこれに「まあまあ座って落ち着いて、これからもっと聞かされますから。自分達は専門家なんです」と言ったという。結果的にはルーイーの物も含めて、捕虜虐待の宣誓供述は全部で250にも及び、そこから起訴は84件へと絞られ、内容もできるだけ簡素に行も詰めて記されたのだが、それでもそれぞれの起訴状は、2.4Mの長さにも及び、それらは実際の虐待の一部でしかなかったという。バードのその後をまとめると、彼は誰もが自殺や朝鮮戦争参加説を唱える中、実際は長野の山中での潜伏や、太田三郎という偽名を使って「鼻緒やアイス・キャンデー」の行商、農家や万座温泉での住み込み等で、1951年のワシントン講和条約に伴う戦犯恩赦まで逃げ切り、恩赦後は奇しくもルーイーが本編第一版を出した1956年に、文芸春秋にてその手記を発表。その後は東京の保険会社に勤務すると、代理店を起こして財を成し(連合軍捕虜の墓碑銘)、住居に都内の高級マンションを買うと、さらにオーストラリアのゴールドコーストに別荘を買うまでに至り、(メール・オン・サンデーでは老人ホーム入居権)アメリカも何度か訪問したという。1989年にウェイドが知った所によると、徳川義知の養子の義宣(よしのぶ)が、大森の捕虜医師だったロイド・ゴードにその生存を認め、1992年にはフジテレビが「大森のクリスマス」で、その存在について匿名で言及(生存については言及せず)。これが影響したかは不明だが、1995年にはイギリスのメディアに対し沈黙を破り、77歳でメール・オン・サンデーのインタビューに応じた。こちらでは「ジュネーブ条約については何も知らなかった」「もし自分が戦時中にまっとうな教育を受けていたなら、自分はきっともう少し親切な、もっと友好的な人間であったろうと思う」とする一方、56年の文芸春秋では「当時捕虜はジュネーブ条約に因って我が軍に保護収容されていた」と明確に書いている(新聞はイギリス国内でのみ発表)。そして98年には日本で放映しないことを条件にCBSドキュメントに出演、その後のメディア出演はなく、2003年に亡くなっている。

universal pictures

 彼が加藤哲太郎のその後(→コラム6へ)や、直江津と満島の死刑の実例、ルイス・ブッシュの出版を知らないハズはないだろうが、ルーイーを始めとする元POW、ウェイドやマーティンデール、ワインスタインの出版、及びそこで自分がどのように書かれていたのかは、知っていたのだろうか?訳者は元日本の営業経験者として、彼がどんな働きぶりだったのか、また経営者ぶりだったのかを、是非とも彼に雇われた元保険外交員達に聞いてみたいと思うのだが・・・戦時において、赤十字経由の捕虜への手紙を足止めしたり、本人の目の前で破ったり焚火にくべたりするような人間も、戦後自身の会社ではいい経営者になった!?

23、八藤雄一

ルーイーとは長野五輪の際に再会

 実は「心の友」ことロバート・マーティンデールから八藤雄一へ送られた手紙は、実はネット上で公開されている

https://jfn.josuikai.net/circle/eigo/letters.htm

 内容からは「13番目のミッション」への裏付け作業が見られ、八藤雄一が日本側窓口として機能したことが、ひいては「アンブロークン」にも貢献したことがよく分かり、これらが自身の著書へのモチベーションになったとも推察される。では2人は当時から仲が良かったのか?と言うとそうではなく、戦時中はマーティンデールの側が警戒し、2人は一切口をきかなかったという。

 自身の著書によると、八藤雄一は事務方ながら1944年のクリスマスのために、演劇の準備のみならず肉の買い出しにも奮闘。捕虜に食べさせると分かると売ってくれないので、自転車の後部フェンダーに書いてあった「東京俘虜収容所」の字をペンキで消し、6キロの肉の買い出しを行った。600人の捕虜には一人10グラム、小指の先程度ながら、カレーに入れて配布し、このことがマーティンデールに送られてきた「13番目のミッション」に、「夜の食事は炒めた御飯とシチューのようなスープが出た。スープには野菜も幾らか加えられていて、豚の脂の塊で味がついていた。運のいい幾人かは、よそわれた中に小さな豚のかけらを見つけた」と言及してあるのを読み、「後年私はこれを読んで思わず一人で泣いた」という。

1952年8月10日付ニュー・ヘブン・レジスター

留学中にコネチカットの地元紙の日曜版に掲載

Universal Pictures・アンブロークンより。似てるけど!?MIYABIが演じるのはバードです。八藤雄一ではありません

 またバードの指名手配、終りの年である1952年には、ルイス・ブッシュに書いて貰った推薦状でもって、かつての敵国のアイビーリーグであるエール大学で、フルブライト留学生になっている。戦後50年の1995年には、ブリティッシュ・エアラインの懸賞作文に、「トム・ウェイドが大森収監時に、けっこううまいと言っていた豆腐を、一緒に酒を酌み交わして食べたい」と書き、一等でこれに当選。会食は同年の5月に、敵味方に分かれていた当時の関係を超え、ロンドン三越の日本食レストランで実現に至ると、上記の「日米英大森戦友会」の写真を現地の新聞に残している。外交的見地からはこれを露払いと見るべきか、この同年同月には、平成天皇が訪英を実施。また本書に出て来る捕虜以外とも文通、訪問を繰り返し、後年に及ぶ関係修復・構築には計り知れないものがあると言っても過言ではないと思われる

24、収容所の「シェフ・トウジョウ」こと、東条英機

1944年2月11日付朝日新聞

ルーズベルトとイギリス外相イーデンが日本の捕虜虐待を捏造と報道

 本書にはブラックユーモアのネタと怒りの矛先として二カ所にしか出てこない日本軍の親玉だが、実はルーイーが大船で塩漬けにされている間に、大森収容所をアポなしで視察しており、この様子はブッシュ、ウェイド、マーティンデール、八藤雄一により記録が残る。ウェイドによると、ルーズベルトとイギリスの外務大臣が日本の捕虜の取り扱いについて非難したことが、日本の新聞にも掲載され、これがおそらく影響したとあるが、新聞検索をかけると画像の記事が、内容もドンピシャリで出て来る。以下、著書より

「私は立ち止まると凝視した。この小さな人物と、彼の決定から生まれた幾十億と言う行為が、とても結びつかなかったのだ—侵略、戦闘、殺人、拷問、強姦、船を沈め、罪なき人々への虐殺、それらの冷酷さ。だが自分が凝視する彼は、ただの人にしか見えない(後略)」

 また八藤雄一によると視察は2回目、日付はブッダの誕生日こと1944年4月8日で、東条英機は収容所のメンバーに、「よって貴官らはゆめゆめ捕虜達に乱暴をしてはならんぞ」と訓示を述べたという。この時、八藤雄一は東条英機と目が合って、「あ、首相はこれを言いに来たのだな」と直感したという。「当時、首相は日本軍が外地で又内地で捕虜に暴行を加えていることを国際赤十字、外務大臣や中立国からの報道できいて頭を痛めていたものと思う」(ああ大森俘虜収容所より)その後、東条英機は終戦後に自決に失敗し、巣鴨に行く前に収監されたのは、何とこの大森収容所。ベッドはロバート・マーティンデールが使っていた所を割り当てられたという。戦後に歴史家になった当のマーティンデールに言わせると、「彼の軍隊が進出した場所ではどこでも、特に中国においてあそこまでの残忍な虐殺が行われたが、この指導者の性格について相反する見解を提示できる故に、八藤によるもう一つの証言はより大きな重要性を持つ」とのこと。ちなみに差し出がましいが訳者の就労体験から言うと、極めて暴力的な部長を自ら要職に据えておきながら、たまに現場に来て、部長とは180度反対の態度を見せる経営者は、今でも沢山いるような・・・

25、飛田時雄

 右より飛田時雄、八藤雄一、吉岡松之助。(玉音放送直後にマーティンデールに「戦争は終わった。もうお互敵も味方もない。只、仲よくしよう」と言って日本酒を出した民間人。マーティンデール側の記録は以下の通り。

 「彼は過去にこちらを助けてくれていたので、自分はこの誘いを受けた。3年ぶりに飲んだ酒は、たったふた口で頭がクラクラした。自分がボトル一本やっつけるのに、お手伝いできたかは覚えていないが、服がしこたまご馳走になったのは覚えている」

  飛田時雄は本編には登場しないが、一時期大森の事務方を務めると、戦後は逆にC級戦犯として(事務方として働いた大森収容所ではなく、品川病室での虐待認定)大森収容所に収容される立場となり、その後、巣鴨へ移送された。そしてこの巣鴨での体験を記した「C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン」を著書に残し、これが処刑された東条英機やA級戦犯に直に接した、日本側最後の記録となることで有名になっている。またここにはバードが捕虜を暴行するのを直に目撃する記述もあり、日本側ではこれが最も生々しい。

―「顔面をひきつらせた渡辺軍曹が振り上げる革のスリッパが、捕虜の頬を激しく打つ。そのたびに、何かを無理やり引き裂くときに発するにぶい音が窓ガラスを揺すった。私は、あたかも自分が殴られているようで、顔をしかめ、窓をのぞいたことを後悔した。 渡辺軍曹の常軌を逸した制裁のあらし、憎悪と悲しみに満ちた捕虜たちの表情。私はいやな光景を見てしまい、ひどく憂鬱な気分になった。所内には、庶務課や経理課のほか所長室にも、陸軍捕虜管理部編集の『捕虜取扱規則集』が置いてあった。そこには、収容所の職員であるならば必ず知っておかねばならない〈捕虜の虐待はジュネーブ条約に反する行為であること〉が明記してあった。だから、私は渡辺軍曹の行為には強い違和感を抱かずにはおれなかった。」―

 飛田時雄はこの後、品川へ異動となり、大森の記述はここまでだが、戦後には逆に大森に収容されることになる。そしてかつての高官達が南京虫に刺されると、元陸軍中将にして、バターン死の行進の責任者、本間雅晴に「そもそもどうしてオマエが戦時中に害虫を退治しておかなかったんだ!」と、戦争が終わっても逆ギレ&オマエという一般兵扱いを受け、のみならず巣鴨に移った後も元高官達への掃除係を命じられ、その挙句に掃除をしても感謝もされず、自決に失敗して一人で入浴できない東条英機への、入浴介助をするハメとなる。これに当初は反発を覚えるが、東条英機の部屋の清掃と入浴介助を繰り返すと、お礼を言われたりすることで、憎しみも消えて最後には尊敬にまで至ったという。

 巣鴨では得意なスケッチを多く残し、また1992年には「平和島のクリスマス」に出演し、貴重な肉声を残している

26、ルイス・ブッシュ

秩父宮とブッシュ夫妻

アナウンサーとなったNHKにて

1958年

 ルイス・ブッシュは戦前は1932年より8年間日本に暮らし、旧制弘前・山形高校で英語を教えていた。しかしヨーロッパで大戦勃発後に教え子たちに見送られて帰国、日本が参戦するとこれと香港戦線で戦い、夫婦共に日本軍の捕虜となると2人は離れ離れとなり、香港・台湾を経由して大森に収容された。大森にはプロパガンダ利用に使えそうな捕虜が集められており、ウェイドによればブッシュは夫婦でプロパガンダに狙われたという。またブッシュは日本の皇族とも親交があり(昭和天皇の弟、秩父宮と知り合い)、明らかに地位の高い日本人が彼をしょっちゅう訪ねたり、また紙とペンの所持が許されていたことからも、捕虜からあれは捕虜ではないのではないかと疑われたほどで(13番目のミッション)、逆に家が大富豪ながら士官にもなれなかった、バードのコンプレックスと嫉妬を受け、目の敵とされた。特に日本赤十字の代表、徳川義知とブッシュが話をするのがバードは気に食わず、「今度あいつと(徳川義知)口をきいたらひどい目にあわせるからな」と言って、挨拶をするだけでも殴打。外部の人間に待遇改善を直訴しないように脅すも、ブッシュはこれに全く応じることなく、複数回に渡り徳川義知やフジサワ教授へ直訴を強行。PWIR・戦後尋問報告にこれがれっきと残っている。しかしこれには当然ながら、バードからの激しい制裁が待っており、それでも「いつまでもここ(※大森)にいてどこまでも頑張り通したかった」と決して屈さない姿勢は、ルーイーと全く変わらなかった。

アンカー 映画化

 ベストセラーとなった「おかわいそうに」は出版翌年の1957年に三船敏郎も出演する映画化計画も持ち上がったが、しかし日本側メインキャストの三船が演じるのは、バード(渡邊睦裕)でもドブネズミ(加藤哲太郎)でもなく、ケダモノこと、おそらくは栗山迪夫のことで、バードも加藤哲太郎もいないことになっている可能性は非常に強く、映画製作自体も記事にあるよう、頓挫したと思われる

 TBSラジオたまむすびで町山智浩に言及される、激しい暴行の後、自室に呼んでビールやお菓子をくれ、泣きながら謝罪するというのは、「おかわいそうに」で描かれ、こういった記録に残るのはここぐらいなので、相手はルーイーではなくルイス・ブッシュのことと思われる。その際に夜に寝ると吐血するまでに至るも、徳川義知の計らいで大森から横浜収容所分室(東京第3分所・横浜球場収容所とは別の分室)へ移送される。その後に来たルーイーは(ブッシュの横浜移送は1944年7月20日で、ルーイーの大森到着は9月30日とされる)本編にあるように、「横浜は憲兵隊の仕切る酷い場所だ」と日本側に吹き込まれているが、実際はその逆で、以前に大森にいた「ハイデルベルグ・ヘンリー」こと元善光寺僧侶、林純勝大尉が所長(9章に写真)のそこは日本一とも言われ、捕虜への待遇がよかったと言われる。

http://www.powresearch.jp/jp/pdf_j/research/tk03_stadium_j.pdf

 これは捕虜間で情報が交換されるのを、看守達が恐れていた証拠としか思われず、極めて興味深い。しかも「おかわいそうに」では、

―「自分達は皆、彼(※林大尉)の担当する横浜の収容所に移送されたかったので、ある日、『ミスター・ブラウン』が横浜のレンガ工場の収容所に行きたい士官を一人募集すると発表した際、全員が応募用紙を書いた。 『なぜオマエらは横浜へ行きたがるんだ?』『ミスター・ブラウン』は自分達に喚き散らした。『オレの待遇に満足できないのか?』 彼の言う、移送応募に対するこの無礼な態度により、私は1カ月の間、捕虜兵士の衣類4着を毎日洗い、同時に自分の郵便業務の後に1カ月間、『便所掃除(benjo soji )』を命じられた」(英語版より。日本語版はやや異なる)―

 というジェラシーの記録まである。 ブッシュはそのまま戦争終結まで桜木町近くの分室で過ごすと(どこなのかは不明。捕虜が2人しかいないことから、おそらく分所ですらない分室)、戦後は加納勇吉の巣鴨解放のため証言を行い、また八藤雄一がフルブライト留学の際には推薦状を書き、両者の手記には、それがとても嬉しかったと書いてある。その後はNHK国際放送局に勤務、国内向け英語放送のアナウンサーとなる。 八藤雄一によると、ルイス・ブッシュは大森で奥さんに会いたいと八藤雄一他、日本側に頼んでおり、日本側はこういった態度を極端に軽蔑したとある。しかしこれを軟弱としておきながら、いざ戦後になると態度を変え、ウソを重ねて自らの罪を軽くすることしか考えなかった人間と、夜に寝ると吐血する程に蹴られようが殴られようが、便所の穴に何度も入れられようが、毅然と赤十字やラジオ東京に報告を入れる人間、本当に強いのはどちらの人間だろうか?

27、セオドア・ミルヌ・リーと石塚正一 、上越市平和記念公園の建設

 1978年2月6日付新潟日報。セオ・リーことセオドア・ミルヌ・リー中尉と直江津高校の数年に渡る文通を伝えている。本編にも出て来る「料理担当のホンマさん」が当時、大八車を(リアカーすらなかった)使って捕虜達と一緒に食料を集めたエピソードも記される。右の広告には上坂冬子が泊まって取材もした「いかや旅館」の字も

2005年11月14日付朝日新聞。元米軍捕虜、石塚正一、上越日豪協会会長は、毎年の靖国神社の参拝は欠かさないが、A級戦犯の合祀は反対を訴える。全文はメディア集へ

 上坂冬子の「貝になった男」(1989年)では、1978年に直江津高校に手紙と本を送ってくれ、新聞記事にもなった元捕虜を、著者がオーストラリアに尋ねるのだが、実はこの、上坂冬子とお灸を巡り険悪な雰囲気の中にやり取りをした「T・M・リー中尉」とは、何とトム・ウェイドと一緒に解放後の高田に繰り出し、銭湯にも一緒に行ったセオドア・ミルヌ・リーのことで、これは日本軍政下の連合軍捕虜研究センターの名簿で確認できる。

http://www.mansell.com/pow_resources/camplists/tokyo/tokyo_4_naoetsu/tok-04B-roster.html

 上坂冬子がこの時、「銭湯は混浴でしたか?女性の肌は陶器のように白かったです?」とでも聞けば、険悪な雰囲気も多少は和んだのかも知れないが、しかし残念ながら「Prisoner of the Japanese」は1994年の出版で、当時はまだ出ていない。同書では、高田のくだりで2人はどうやら工場等の給料を貰って、これでタクシーをハイヤーして着物と刀を買い、銭湯に行ったとあるのだが、しかし給与が支払われたことや、通貨があっても使えたことはなかなかに信じがたく、食料を交換したのではないかとも思えるのだが、実は「貝になった男」では、上坂冬子がオーストラリアに行くと、セオ・リーと一緒にいた元捕虜の方に、当時の百数十円もの日本円を見せて貰っており、これで意外な裏がとれるとも言える

 そして実はこの1978年の手紙と本の寄贈は、結果的に直江津収容所跡地を平和記念公園にした遠因の一つとなっている(※上越日豪協会へ確認)。寄贈によりセオ・リーと直江津の文通が始まり、1982年にはセオ・リー夫妻が直江津を訪問。またアメリカ軍の元捕虜だった石塚正一が、自身の受けた扱いと自分の地元が与えた扱いの違いに驚愕すると、収容所跡地を平和記念公園とする運動を展開。上越日豪協会の前身を立ち上げると時に反対のみならず、私邸への電話での脅迫すら受けたが、1995年に公園の建設を実現させた。

https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/kyousei/heiwa-shisetsu.html

 この際、日本側は処刑された8名の元看守の追悼プレートを、60名のオーストラリア兵の記念碑の台座に入れることを提案したが、オーストラリア側の「並べて欲しくない」という強い反発・怒りを受け、少し離れた所に元看守達の碑を建てることになった。(デビット・ミッチェルヒル・グリーン「日本最悪の捕虜収容所」及び2005年8月15日付朝日新聞より)また石塚正一はルーイーが来日の際は歓迎会を実施し、ルーイーがやや足を引きずるのを見て、個人的に謝罪せずにいられなかったという。ところがこれが波紋を呼び、「謝罪は国と国がするべきもので、個人が謝る筋合いのものではない」「処刑された8人が死を持って償っている」という批判が出たと言う。(2005年8月17日朝日新聞) ルーイーはそんな平和記念公園の、少し離れた所で平和の祭典、長野五輪の聖火リレーを建設の3年後に行ったことになる。

https://www.docdroid.net/GpJqrc6/naetosu-japon-pow-ejecucion-sgt-siffleet-after-the-battle-169-pdf

28,ラジオ・トウキョウにいた!?謎の日本人

 USC時代の友人、リン・ムーディーから送って貰ったラジオ放送の録音レコードを、聞きたくない!と自宅で破壊するルーイー「アンブロークン・パス・トゥ・レデンプション」より—Universal Pictures

ルーイーとはルーム・メイトで競技仲間!?

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 実は文芸春秋の1956年4月号には、戦時中に24時間英語のラジオを傍受していた、帰国二世の手記が載っている。英語を話すだけで日本では憲兵に裏切り者扱いを受けたと言う

 実は本編にも書籍、映画どちらの「アンブロークン」にも出てこないのだが、「13番目のミッション」には、ルーイーとかつてUSCでルーム・メイトかつ、ロス近郊のビーチで共にトレーニングに励んだという元日本人留学生が、ラジオ・トウキョウの放送室で、収録をしようとするルーイーとバッタリ会い、「ルー、一体全体、ここで何やってんだ?」と言ったというエピソードが記されている。もしそんな日本人がいるのなら、どんな人だったのか俄然興味が湧くが、残念ながら彼の名前やそれ以上のヒントは記されず、マーティンデールも大船には行っていないことから、伝聞の過程でジェームズ・ササキと混同された可能性も否定はできない。しかし「アンブロークン」では、ルーイーはそもそも放送への参加についてマーティンデールに相談しており、このメーヤ中佐の実質副官にして大森の記録をルポルタージュ・ベースで残した歴史家の記述は詳細に渡っており、簡単に人違いとは言えないものがある。

 

 彼(ルーイー)はメッセージに本人しか知り得ない情報を入れると、これを司令官のメーヤと自分に見せた。メーヤはこれに幾つかの変更点を提案すると、キャンプ・クラークにタイプさせ、日本側に提出した。ルーは日本側に伴われ、東京のラジオ局に行った。彼が到着すると、ルーは相当な量のプロパガンダの入った原稿を渡された。ルーはこれを拒否すると、自分が書いた原稿でなければ、放送は行わないと彼らに伝えた。当局は最終的にこの条件を吞む程に、ザンペリーニが手中にあることを誇示したかったのだ。彼はスタジオへと連れられた。すると驚いたことに、彼はそこにいた一人の人物を凝視することとなった。「ルー、一体全体、ここで何やってんだ?」それは南カリフォルニア大学時代の、古い日本人の友人だったのだ。2人はルームメートで、かつてはロサンゼルスのビーチで共に走っては、互いにペースを作っていたという。戦争というものは、こんな偶然すら起こすのだ」—13番目のミッション

 ルーイーも軍人であれば、ラジオ・トウキョウから帰って来てまず真っ先にメーヤと(同室のマーティンデール)に、放送について報告したことは当然の義務と考えられ、また実際のラジオ放送でも、「また日本に来て以来、昔からの知り合いに偶然にも何人か 会うことができました」と意味深なことも言っている。仮にだが「クラスメートではなくルームメイト」「大船収容所ではなくラジオ・トウキョウでバッタリ」の2点が事実なら、このことが03年版にも56年版にも全く出てこないのは極めて不自然で、これはルーイーには触れたくないササキとは別の日本人がいると考えられる。もしそうならこの日本人の存在は、ルーイーが帰国後に自身のラジオ放送の録音を破壊させたことと(アンブロークンより。映画版2にも登場)、ひと月前に行われた10月の予告放送とも無関係ではないのかもしれない。レコード破壊の話は、本編には新旧どちらの版にも書かれていない一方、家族により証言されており、ルーイーにとっては自伝で触れたくない何かがあるのが分かる。ちなみに56年版の表記では、バードがラジオ・トウキョウに同行、訪問も一度きりで、日本側もプロパガンダ原稿が盗まれているのを気づいている。56年版でも謎の日本人の有無へのヒントは貰えないが、03年版と表記が異なる点は想像力がかき立てられる。

 一方で日本側の記録を見てみると、「ブンカ・キャンプ」を指揮した池田徳眞という人物も著書を残している。ちなみにこの人物は戦国武将池田輝政の子孫で、トム・ウェイドも尋問しており、ウェイドの著書にも「池田侯爵」として登場している。残念ながら池田徳眞からルーイーへの記述はないが、そこには当時、日本には外交官の河相達夫によって開かれ、帰国二世に日本の教育をする「敝之館」という学校があり、ここからは24時間を3交代で外国のラジオを傍受する人間がリクルートされ(アイバ戸栗ダキノ及び、上記広田郁郎もこのメンバー)、時に全傍受員50名の内40名以上を、こういった外国からの帰国者が占めたとある。この中にルーイーとルームメイトだった日本人がいても何ら不思議ではなく、またウェイドの記述にも、「最初の池田侯爵はオックスフォードで、(※尋問団全4名の内)他の幾人かはカリフォルニアの大学で教育を受けており」とあり、森野正義というカリフォルニア大出身の人間も池田徳眞の記録に登場するが、残念ながら、「南」つまりUSCではなく特定には至らない。だが別件としてルイス・ブッシュについて、池田徳眞が部下の恒石重嗣に「最近のイギリスを知らないイギリス人など不要です」と言って、「ブンカ・キャンプ」に呼ばなかったことは記録される。

29、デビット・レンシンとヘレン・アイトリア

 「ゴーストライター」などと言うなかれ、本著には03年版、56年版ともに共著者がいる。前者は1950年、ちょうどルーイーが日本に再来日した年にニューヨークで生まれた作家で、こういった著名人にフォーカスを当てた著述スタイルで、他に15冊の書籍を発表。中には5冊にも上るニューヨーク・タイムズのベストセラーがある。(本人のHP参照)

http://www.tellmeeverything.com/

 後者は現代では詳細不明かつ、03年版の巻末の謝辞ではルーイーもその名を触れていないが、文体のベースは56年版から踏襲された部分も多く、本書の基礎を作ったと言っても過言でない。2バージョンの違いは、鉤十字ブン捕り事件や、エリナー事件、マックのチョコレート事件や戦争時の詳細の記述等が、03年版にはあるのに56年版にはない一方、数ある事件の程度の違いに関しては、56年版の方が強烈なことが多く、①父ちゃんとピートの暴力的な側面、小学校の同級生を毒殺しようと蟻を乾燥させたエピソードや、14歳で乗用車を乗り回したという記述等が03年版にはない②子どもの時分に閉じ込められた、列車の貨車での時間が、03年版が数時間でジョニーと喧嘩をすることもないのに対し、56年版では「半狂乱になってドアを叩いても口笛を吹いても意味はなく」「砂漠で太陽が天板を照り付けると、それはオーブンのようで、食料も水もない中パニックになると声が枯れるまで叫び」と絶望的な状況を何と丸3日間以上に渡って続け、4日目にようやく脱出すると、肩を脱臼しそうになりながら次の列車に掴まり、それから豆の缶を盗むと1マイルに渡って走って逃げ、苦労して火を起こして缶を開けると、出発する旅客車両を見つめて、自らの惨めさを痛感するシーンを迎える。③大森で「納屋送り」になった捕虜の中に、03年版ではルーイーが入っていないかのようだが、56年版では本人も一握りの米を盗んで捕まり、加納通訳兵に毛布を持ってきて貰ったのを思い出すシーンがある等、ここも表現がマイルドになっており、これらは精神的に受け入れるにはあまりにも辛い記憶が、時間の経過と共に変容し、形を変えて受け入れられていく経緯ともとれる。しかしネット右翼や人を「論破」できると思っている人間が、こういった部分を一点突破主義(記述の違い、矛盾を一つ見つけて、それ故に全ての論説をウソ、もしくは信用ならないとするやり方)の標的にするのは言うまでもない

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