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第12章 虚しき英雄

The Hollow Hero

 

 実家には数日の間、ヴァンナイズのバーミンガム病院で1ヵ月の経過観察に行くよう命じられるまで、昔の自分の部屋を使って過ごした。病院では腸内の寄生虫と、戦争から持ち帰った他の病原菌の類を今度こそ撲滅するべく、錠剤を処方された。この投薬養法はしばしば一晩中気分が悪くなるものだったが、医師による事前通告があっただけ少しはマシで、

 「朝にはよくなるから」

 とのことだった。

 上記入院中に作られたルーイーによる宣誓書。自分の生まれと捕虜になった経緯及び、バードが10名の士官を皮革工房より呼びつけた後に、ベルトで殴った件が証言されている。ちなみにルーイーはここでバードのことを「カエルみたいな顔をした男(赤印frog-faced individual)」と宣誓している。一方、日本ではこれらを元にGHQがバード狩りを始めるので、東洋人の見分けがつかないアメリカ人により、顔がカエルに似ているだけでバードに間違われた人がいる!?いない!?

https://www.archives.gov/files/press/press-releases/2015/images/zamperini-affidavit-november-1-1945.pdf

 病院では一週目は外出も許されなかったのだが、しかしそれからは常識的な時間に戻るなら、軍服を着て外出が許された。だが自分がどこへ行こうと世間の注目はどこへでもついて来て、戦争が終わってから自分がすることは、どんなことでもニュースとなった。きょうびに、もしトム・クルーズがひと目に付く格好で通りを車で走ったら、人はキャアキャア言って手を振ったりするだろう。自分はトム・クルーズじゃあないが、まあ自分が戦後どれくらい有名だったかというとそんな感じだったのだ。注目の的として晒され、自分のプライバシーは無くなったが、しかし自分が経験してきたことの後では、栄光の時間もまんざらではなかった。とはいえ同じ病棟の人間からは、絶え間なくネタにされることとなる。

 「よお、オマエ新聞で見たぞ、カワイイ子と一緒だったじゃねえかよザンプ。女優だってか?オマエもうハリウッド入りしたのか?」

 そしてこの騒ぎに、我も彼もが参加しようとするにつれ、自分への報道と注目は過熱して行った。11月の始めに、オレはウィル・ロジャース・ジュニア中尉(※舞台・映画俳優のウィル・ロジャースの子にして、戦後の新聞経営者、政治家)やエドワード・ドックワイラー司令官と共に、パープル・ハート協会、ロサンゼルス支部より褒賞されることになった。その場に居られたのは何とも幸せなもので、というのも両親は1944年の5月に、自分の「死に至る負傷」によるパープル・ハート章を受け取っていたのだ。

(その数年後、ウィルは自分のラジオ番組に、アメリカ権利章典について話をさせるため自分を招いた。ウィルが呼んだゲストは他に、ロナルド・レーガンという名のB級映画俳優がいた。その時自分は、石油会社の要人達により州議会議員に担がれようとしていたのだが、自分はそれを断った。それをレーガンが知った時に、「あなたが政治家になるなんて、興味深いですね。自分は政治のために生まれてきたんです」と言ったのを覚えている。自分はこのセリフを不思議に思った。相手はただの俳優に過ぎないのに、何を言ってるんだ?と)

 「何とも幸せ」:パープル・ハート章とは戦傷章で、戦争で傷を負ったり戦死をした兵士に送られる。画像を見るとルーイーは中尉のまま、1944年の5月23日に死んだことになっている。死んでしまえば受勲などしても両親は悲しくありこそすれ嬉しいワケがなく、新たな褒章は自分の死を挽回することとなった

 1944年10月号モダン・スクリーンのロナルド・レーガン、後の第40代アメリカ大統領。現在ではトランプにも繋がる、富める者のための税制優遇政治を始めた大統領とも言われる。アメリカ権利章典とは、修正第二条に民兵の結成と武器を持つ権利が明記されることで有名。本編だけだとやや経緯が分からないが、下記オーラル・ヒストリーによると、ラジオの時に2人に「ユー政治家やらない?」とオファーがあった模様。ルーイーは「石油会社の連中は次の選挙で石油掘削に絡んで、政治家を買いたいだけだったのがすぐに分かった」ので、別の機会にレーガンに「自分は政治には向いてないな」と言ったのだが、レーガンは「自分は政治のために生まれてきたんだ」と応えたという。これは日本語で言う所の、「やる気がある」だろうか。とはいえまだ画像の頃の若きイケメン俳優には、愛嬌こそあれ権力者の面影は・・・もうある?―オーラル・ヒストリーより

https://digital.la84.org/digital/collection/p17103coll11/id/417/rec/63

 新聞各社は、自分の昔の陸上の記録を掘り起こすようになっていた。そこに新たな意味付けをして、選手としての未来についてアレコレと推測しだしたのだ。戦前にオレの成績を公然と期待外れと言っていた奴らですら、スポーツ・ライター達はコラム欄で再びオレの功績について書きだし、ラジオのコメンテーターや昼食会グループは、こぞって招待状を自分に送り出演を依頼してきた。これに自分は昔のコーチの、ディーン・クロムウェルと一緒にラジオに出演したり、陸上競技会の審判を仰せつかったり、サンタ・アニータ競馬場で、勝者に金杯を手渡す役目まで請け負ったりもした。

 1944年、トーランスでは陸軍の滑走路を「ザンペリーニ・メモリアル(※追悼記念)・フィールド」と改名していたが、しかし自分が死んではおらずに生きて帰って来ると、名前は単に「ザンペリーニ・フィールド」に変更された。ここでは大規模な昼食会や式典が催され、何人かのアカデミー賞女優やワシントンの大将クラスがやって来た。

 また1945年2月より、ニューヨークのある陸上競技会は年に一度、ザンペリーニ追悼記念マイルというレースを開催していたが、これも名称を変えることになった。

 自分はまた、シー・スクワッターズ・クラブというのにも入会したが、(※海にそのまま住み着いてしまった人のクラブという意味)このクラブの参加資格がシャレている。

 「国連(※ママ。連合軍の間違い)の航空兵で、海への墜落を余儀なくされ、ゴムの救命ボートを使ったかもしくは使わず、または自分の飛行機に残って生還した者」

 とのことだ。

 映画スタジオのワーナー・ブラザーズを経営していた、ジャックとハリーのワーナー兄弟は、ロサンゼルス・タイムスに「ルイスが帰還したら、オレ達は全スタジオ総出で、彼のためにパーティーを開催するつもりだ」と言っていた。彼らはこれをジョン・フォード大農場(※「怒りの葡萄」の監督、ジョン・フォードが持っていた広大な土地)で実行してくれ、オレはモーリン・オハラや、他の若くて可愛い女優とダンスを楽しむことができた。

 ワーナー所属の多くのスター達は、スタジオの近くのレイクサイド・ゴルフ・クラブの会員で、程なくするとここは自分の行きつけの場所となった。自分はゴルフなんてしなかったが、コース沿いをセレブ達と散策して周り、彼らの方でもこれを楽しんでいるようだった。ある日、自分がバーでデニス・モーガン、ジャック・カーソン、フォレスト・タッカー、そしてボブ・ホープと一緒にいると、(※全員芸能人)一人の男が更衣室から飛び出して来て、「ザンペリーニ大尉、オリバー・ハーディー(※コメディアン・監督)がお会いしたいと仰ってます。一緒に来て頂けますか」

 と言った。

 ハーディーは自分のヒーローとも言える一人だったが、シャワールームにいた。彼は真っ裸のまま出てくると、オレを抱きとめ、それから嗚咽を始めると

 「ルイス」

 と鼻をすすりながら言った。

 「キミが行方不明の間は、毎日祈っていたよ」

 ハーディーはカソリックで、ジョー・ディマジオが年間最優秀カソリック・アスリートに選ばれた翌年には、自分がその賞に選ばれていたのだ。その後、ハーディーはレイクサイド・クラブの支配人に

 「ザンペリーニが来た時はいつでも、食事や酒は、つまり彼が望むものは何でも自分につけてくれ、無制限にだ」

 と言った。自分でも理由は分からないが、しかし自分がこの太っ腹な提案の恩恵にあずかることは決してなかった。

 街に散らばるナイトクラブもまた、自分を歓迎してくれた。これにはオレも、こんな扱いがいつまで続くのか分かったもんじゃないというのも多少あって、甘えさせて貰った。大戦後の祝祭は至る所で行われていて、これにオレは大学時代の旧友、ハリー・リードと共にハリウッドのフロレンティン・ガーデン(※フィレンツェの庭という意味のナイトクラブ)や、サンセット大通りにある世界的にも有名なアール・キャロル・シアター&ナイトクラブ、さらにはその界隈にあるバーに平日休日を問わず、ほぼ毎晩出没していた。(キャロル・シアターは1938年に開業し、全長80フィート⦅※24M⦆のメインステージに載った、幅60フィート(※18M⦆の対になった2つのターンテーブルや、ホールの天井から下げられる3つのブランコ、昇降機に回転する階段、雨を降らす装置等で技術的な革新を誇った。劇場正面には、キャロルの「世界で最も美しい女の子」の一人の、ベリル・ウォーレスが、全長20フィート⦅※6M⦆のネオンで描かれ、サンセット大通りに面したウォールオブ・フェイムには、150人を越えるハリウッドで最もグラマラスなスター達の、アール・キャロルへのサインがセメントで残されている)

アール・キャロル・シアターの舞台と女優達

「私的にも公的にもプライベートでも、秋〇康さんや〇室哲哉さんとの出会い無くして、今の私はありえません」

​と英語で書いてある!?

https://www.findinglostangeles.com/all-content/2018/6/14/earl-carroll-theater

 これにはフィルも、時折り自分達と一緒に街に繰り出した。戦争は終わったんだし、オレ達2人は昔の話は最小限にするようにしたが、たまにそっと顔を見合わせては、クルーを2回も失い地獄を味わったというのに、それでも自分達が生き延びたことへの、信じられないという驚きと感謝をこっそり共有していた。

 1度フレッド・ギャレットと奥さんが、ハリーと自分と一緒にキャロル・シアターへ行ったことがある。フレッドの足には義足が装着されていた。フレッドは故郷へ帰ることを期待していながら、実はひどく心配もしていて、オレはそのことを思うとまず奥さんの方を見てから、フレッドの方を窺った。オレはフレッドが再びコメが唇に触れるのを忌み嫌う程に、日本人のことを心底憎んでおり、鬱病に苛まれると飼い主を失くした犬のように苦しんでいるのも知っていた。自分はといえば、日本人のことを憎んではいたが、足はもちろん二本とも揃っていて、戦争における2人の扱いはどう考えても比較にならなかった。確かなのは、憎しみとは毒のように人を蝕むもので、誰の幸せにもならないということだ。それは為すがままにさせてはならず、除去せねばならないものだろう。無論それは、そんなことができるのなら、の話だが。

 フレッドはその後、ロサンゼルス国際空港の管制塔で長い間働くことになる。彼はチラチラと向こうを窺うオレの視線を捉えると、口を大きく開けてニカッっと笑い、手のグラスを高く上げた。

 「お帰り、ザンポ」

 こう言うと、こちらには向こうが心からそう言っているのが分かった。

 

 一方のこちらはどうかって?自分は繰り返されるバードの悪夢により、その存在も明らかとなった憎しみを「制御」する、自分なりの方法を編み出していた。オレは収容所でも全く同じ、怒りに満ちた夢を見ていたが、あそこでは奴のおぞましいまでの現実の存在があって、起きていようが寝ていようが渡邊から逃れることはできなかった。

 ところが自分が解放され、帰還の高揚に包まれている時でさえ、その悪夢は止むことはなかったのだ。自分はそれが過ぎ去るよう願い続けたが、しかしそうはいかなかった時に、自分にとっての解決法とは即ち、酒だった。したたかに酔ってしまえば、自分とて赤ん坊のように眠れる。自分はそう考えたのだ。

 定番の悪夢はいつも、灰色の何もない空間にバードの目がギラギラと光ると、あのせわしい口調がこう大声で捲し立てる。

 「こっちを見ろ!なぜこちらを見ない?こっちを見ろ!」

 ヤツが腕を上げると、こちらは身をよじってもがき、あの重いベルトのバックルが、スローモーションでこちらの顔に向かって飛んでくる。自分には為す術もなく、金属のバックルはいつもこちらへ何度も何度も直撃を繰り返し、これにバードは律動的に「次!次!次!」と、オレに打撃を加える度に叫ぶ。そしてもはやこれ以上耐えられないと思うと、オレはヤツに飛び掛かり、あの太い首を掴んで、奴が死んだと分かるまで押し潰すのだ。

 また気づくと自分は、波間に揺れる救命ボートに乗っている。すると今度は歯を剥いて笑うジャップのパイロットが、97式重爆撃機で機銃掃射をかけてくるのだ。オレは銃弾でハチの巣にされると、これには信じられない程の痛みが伴った。

 別の夢ではこうだ。自分は盗みの廉で収容所で捕まってしまい、激しく殴打され、その凄まじさは自分が夢から覚めると、実際に体に痛みを感じる程で、喉からは憎しみがドロドロと、まるで悪いものを食べたかのようにせり上がって来るのが分かった。

 痛みと記憶を何とかするため、オレはバーからバーへと歩き回り、店の奢りや見知らぬ親切な人達に飲ませて貰った。オレは自分の身の上話をし、「戦争の英雄」という言葉に、自分で自分がそうだと信じられるまで溺れては浸る。

 「あなたがまだ生きているなんて、奇跡としか言いようがない」

 オレに酒を奢ってくれる、気前のいい人達はこう言ったりする。

 「奇跡だって?」

 だがオレはそう言われると鼻で笑った。

 「この世に奇跡なんてものはありませんよ。自分の体調が人よりよかったのは、いつでも食事に気を付けて運動を欠かさなかった結果なんであって、それこそが自分を生き抜かせた理由であって、それ以外の何物でもありませんよ」

 こう聞くと確かに立派なようにも聞こえるが、しかしどれだけ酒に酔って頭にモヤがかかろうとも、もはや4杯目だか5杯目の琥珀色の酒の入る、氷で汗を掻いたタンブラーグラスを握りしめ、高潔な生活を吹聴する自分という矛盾は頭から離れなかった。傍から見ればアホウな図柄にしか見えなかったろう。だがそれに対し、周囲の人は

 「楽しい時間を過ごしましょうよ、お兄さん。あなた頑張ったんですから」

 と言うばかりで、誰もオレの矛盾に気づいたり、気にしているようには見えなかった。

 

 それから自分はバーミンガム病院から退院となったが、トーランスには戻らなかった。刺激のある生活からは遠過ぎたのだ。そこで自分は一時的に友達の所に転がり込むことにした。その友達とはフロレンティン・ガーデンのオーナーで、彼の家は巨大かつ、まるで宮殿のように飾り立ててあった。そしてそこに住む特典はそれだけではなかった。彼は女の子関係のビジネスをしており、つまりミス・コンをやっていたのだ。ミス・サウス・ダコタとミス・シカゴも、全部で6つあるベッドルームの内の2つ、つまり一つ屋根の下に住んでおり、文字通りそんなアイドル達に囲まれて、自分はまるで駄菓子屋で夢中になる小さな子供だった。だがそこに住むのを許された唯一の男として、自分が節度を守って振舞わねばならないのもよく分かってはいた。

 とはいえ当然まあ、隣が気にはなる。家には客として、新しいシスコ・キッドの映画(※西部劇)で役を射止めた若い女優がやって来て、彼女はどうしてもこちらの目に入って来る。すると例の友達が言った。

 「ルイス、撮影まであと2週間しかないんだが、彼女は今まで馬に乗ったことなんてないんだ。どうやって馬に乗るのか、頼むから教えてあげてくれないか。乗れさえすれば、別にそこまでうまくなくていいからさ」

 そこでオレは喜んで彼女に乗馬を教えた。それから数日後、自分がリビングで読書をしていると、彼女が唸るような、うーんとかいうような声を喉から同時に出してきて、

 「全身が筋肉痛なの、ルーイー。ちょっとマッサージしてくれない?」

 と言ってきた。そしてこちらが断る前に、彼女は着ていたもののほとんどを脱ぐと、リビングのソファーにうつぶせになった。こうなると自分も、自らの最高のマッサージをせざるをえなくなり、だがそれ以上のことはなかった。我らが家主が早くに帰って来てしまったのだ。彼は自分達の所へ来ると、オレのよい子ぶりに満足げに頷いた。そりゃあそうだ、自分は何も悪いことなどしていないのだから。まあ、仕方ないか。

 

 こうやって表面上は、オレはまるで人生を謳歌しているように見えただろう。しかし楽しみの時は日に日に、自分が太平洋戦線から故郷へと持ち帰った、緊張と葛藤を覆い隠す隠れ蓑となっていった。救命ボートの上という、どこへも出られない状態から急拵えの牢獄、そして最終的に一連の収容所を経ることで、自分はじっと座って過ごしたり、静かな時間に耐えることがどんどんとできなくなっていたのだ。朝は起きるとすぐさまハリーに電話を入れ、次は何をするのかを話す。酒も社交のためではあったが明らかにそれよりは酒量が多く、しかしアホウな飲み方とまではいかず、自分が酒に溺れていると認める程でもなかった。

 自ら恥ずかしい思いをしたこともあまりに多い。ある晩オレはサンセット・ハウスのバーに座り、アルコールのもたらす夢見心地の気分に我を忘れていると、急に叫び声がしてこれに仰天した。とっさのことにバーの長足の椅子から跳び降りるとすぐさま気を付けの姿勢を取り、するとブルブルと震えが止まらない。周囲の全員がこちらを凝視する。本能的にとってしまった反応に、自分は恥ずかしさで思わず顔を覆った。収容所の看守からの、今すぐ従うべき気を付けの命令だと自分が思ったものは、そこにいた客が武勇伝の強調に大きな声を出しただけだった。

 また時には車の排気口からの爆発音を聞くだけで、フナフティの時のように空襲の標的になったことが甦った。あのあまりに近い爆発は、自分の鼓膜が破れなかったことは運が良かったとしか言えないものだった。さらには大森だ。400機もの爆撃機が、一機当たり16トンもの(※米トン。日本だと14.5トン)爆弾を東京を投下したのを、自分は目撃していた。

 「もう一杯、いかがです?」

 バーテンダーがオレに促す。

 「お代は結構ですよ」

 「ああ、そうだな・・・ありがとう」

 オレはボソボソと答え、落ち着くまで結局3杯も必要とした。

 家では起きている時間が日に日に遅くなっていった。寝るのが恐ろしく、飲めば酔いつぶれて自らを麻痺させ、夢見ることなくそのままでいられると信じ、さらに酒量を増やしたが、しかし例えそうしたとしても悪夢は決して止むことなく、オレを固く捉えて放すことなどなかった。

 またきっかけさえあれば好んで喧嘩も買い、少しでも挑発を受ければトラブルになった。決まってこんなことを言う奴がいるのだ。

 「戦時捕虜?そりゃあ戦わずに済むなら都合がいいじゃねえか。前線に行かないでラクしてタダ飯かい、え?」

 こんなことを言う奴らは床に殴り倒してやった。いつでもオレは神経が逆立っていたのだ。

 何か対処しなかったのかって?対処なんて、そんな衝動が鈍るまで飲むことでしかない。

 オレはもう一度、あの「帰郷」とかいうパンフレットを読み直すべきだったろう。あれは自分の症状を完璧に言い表していた。頭の中では戦争の記憶がずっと駆け回っていたのだ。自分は集中できず、一晩中寝返りを打っては苦しみ、それでも休まらない心の高ぶりを持て余した。これにはパンフレットで、特に恐怖を扱った部分が自分には該当していたろう。自分の例では人生で何をすべきかという恐れ、また自らが落伍してしまうことへの恐れがあり、さらには再び競技には戻れないこと、過去の陸上記録や勲章、新聞紙面での扱いがあろうとも、自分はただ生きていること以外に何も英雄的なことなどしていない、ただの男に過ぎないことを、メディアの注目が覚めて気づかれてしまうのが怖かった。

 「しかし彼は、別の人間となって帰って来た!」「いつでも任務に赴けば、緊張(※it)はそこにあった・・・的の概略を説明された時・・・未確認機にその機首を向けられた時・・・対空砲火の弾幕の中を飛んだ時・・・そこら中に爆弾が落ちてきた時・・・緊張は張りつめていくばかり

 前述、Coming Home より。1945年から既にしてPTSDの症例について的確に把握していることに驚かされるが、アメリカは現在でも志願者及び若い経済困窮者を軍に取込み、海外派兵することで大量のPTSDを生み出し、人を殺人兵器にして殺人に加担させていると批判されている。兵士達は軍役に就いている間は、地元のウォールマートに「今、国の為に戦っている英雄達」として写真が張り出されたりするのだが、これを「御国の為に」とあえて一時代前に同化翻訳したくなるのは、訳者だけだろうか?

https://books.google.co.jp/books?id=_Ff0IJIX3lkC&pg=PP2&lpg=PP2&dq=coming+home+aaf+manual+35-155-1&source=bl&ots=gg0qiwDFdx&sig=ACfU3U1KlsiKPGS8OSrNW_ry094QBG1KYw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjY75jKurzzAhXN7WEKHccYDnwQ6AF6BAgLEAM#v=onepage&q=coming%20home%20aaf%20manual%2035-155-1&f=false

 1946年2月、マディソン・スクエア・ガーデンは、ザンペリーニ・マイルと名称変更されたレースのスターター役として、自分を招待した。まあ実際の所は主催者側がこれを要求しており、レースでは世界最高峰の7名の走者が走る予定だった。ところが運悪く、バーバンク空港を出る飛行機は全て満席で、自分はニューヨークに時間内に到着できないのではないかという事態に陥った。(ロサンゼルス空港は当時、国際空港ですらなかった)トランス・ワールド航空ではキャンセル待ちのリストがあり、しかし自分がそこを通過する見込みはありそうにもなかった。自分には幾らか「てこ入れ」が必要な状態で、そこでロサンゼルス・タイムズのスポーツ編集部の、ポール・ジマーマンに電話を入れた。彼にトランス・ワールド航空の広報担当に電話をして貰い、自分のスポーツと戦争体験の概略を伝え、ニューヨークに行かねばならないので都合をつけてくれるよう、頼もうと思ったのだ。

 だがジマーマンは休暇中だった。

 人間というのは必死になると、かなりなことでもやってしまう。そこで自分はトランス・ワールド航空の受付デスクのそばに電話ブースを見つけると、トランス・ワールド空港に向かって電話をかけ、ポール・ジマーマンを名乗ると広報課に繋いでくれるよう頼んだ。そして広報係が、と言っても彼のオフィスは自分が立っている所の真向かいだったのだが、電話を取ると言った。

 「ルー・ザンペリーニ、聞いたことあるでしょ?47日間救命ボートの、オリンピック云々の」

 これに広報マンは

 「ああ、ええ、ええ」

 と答えたので、オレは

 「で、その彼がザンペリーニ・マイルでスターター役をするために、ニューヨークに飛ぶんだが、彼が行ってしまう前に話がしたいんだ。彼が来たら、こちらに電話するように言ってくれないか」

 と言った。

 電話の最中、こちらからは広報マンが自分の言ったことを、全てメモにとっているのが見えた。それから10分後、自分は航空会社のカウンターに歩いて行くと、こちらの名を受付の女性に告げた。

 「ええ、少々お待ち頂けますか」

 彼女はそう言うと広報マンを呼び、彼がオフィスより出てくると、自分にジマーマンから電話があり、伝言を残したことを伝えた。

 「そうですか、じゃあ電話を入れますね」

 自分は間髪を入れずにそう答えた。

 「でもザンペリーニ・マイルがあるから、明日の晩までにはニューヨークに行かないといけなくてね」

 これにカウンターの彼女は首を横に振った。

 「申し訳ありませんが、フライトは満席なんです」

 すると広報マンが言った。

 「ちょっと待って頂けませんか?」

 それから彼は通路を急いで駆けて行き、3分後に帰って来ると言った。

 「ミスター・ヒューズがお会いしたいとのことです」

 これはつまり、ハワード・ヒューズのことだった。彼は飛行技術のことで尊敬する存在だったが、当時はトランス・ワールド航空を所有していること以外はよく知らず、しかし行ってみると彼のオフィスはかなり簡素で、人柄も気さくな人間だった。

 ハワード・ヒューズの生涯は、父親よりドリルビットの特許を引き継ぐとこれで巨万の富を築き、「世界で最も経済的に成功した個人」として有名。後年にはレオナルド・ディカプリオ主演で、「アビエイター」として映画化もされた。ハンサム・ハリーことジェームズ・ササキは、大船では映画スターのようないで立ちで、「撫でつけた髪を真ん中でハワード・ヒューズのように分けていた」と、捕虜達の伝聞に記される。(アンブロークンより)

 「太平洋戦線でのお話は読みましたよ」

 彼がそう言うと、自分達は大戦時の飛行経験について話し合った。それから彼が付け加えた。

 「ニューヨークに行かないといけないとのことですね」

 「ええ、そうなんですが、受付のお嬢さんによるとフライトが満席だそうで」

 すると彼が、

 「自分もそのフライトに乗る予定なんですが、よろしければその席に乗って頂いて構いませんよ。自分は後から行きます。自分で飛びますんで」

 と言ったのだが、これは彼の言った言葉そのままだ。                                                                                  

 トランス・ワールドは、エンジンを4機備えた、ロッキード・コンスタレーションという機体を使っていた。この空の旅は丸一日かかるもので、一度セント・ルイスで給油のための着陸があった。自分の席はフランク・シナトラ(※人気歌手)と、彼の2人のボディーガードが一緒だった。自分はシナトラについてもよく知らなかったのだが、大森では(※賄い担当だった)デューバが

 「アメリカでも最高の歌手だよ。ボビー・ソクサーズ(※大ファン)の女の子達が、キャアキャア言っちゃって大変なんだから」

 と自分に教えてくれていた。

 当時フライト・アテンダントは、それぞれ乗客を名前で離陸の後に確認していた。その照合作業で自分達の番が来た時、シナトラはアテンダントの方を意味ありげに見てから、

 「ラス・コロンボ」

 と言った。

 左より、幼少期からして既にイケメン、歌手にしてバイオリニスト、作曲家にして俳優のラス・コロンボと、若き日のフランク・シナトラ、及びボビー・ソックスを履いてポーズを決める女の子達、つまりボビー・ソクサーズ。トップアイドルであるシナトラが、耳の鼓膜の穴を理由に、本来行けるハズの兵役を免れたのは当時誰もが知る話で、これは戦地で苦しんだ帰還兵達には、当然ながら噴飯ものの話だった。一方戦時中の捕虜からしてみれば、シナトラは自分達の知らない間に世間に広まった大流行、かつ女の子にも大人気な存在なのであって、「Prisoner of the Japanese」には、古参捕虜が「そんなにスゲー歌ならどんな歌なんだ」と新入りの捕虜にシナトラの歌を歌わせるエピソードが登場する。シナトラに怒っているのは "some" なんて人数じゃあない!?

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/10509208.2019.1590176

 1946年3月2日の、ザンペリーニ特別招待杯のスタート役を務めるルーイー。軍人の軍服は女子高生の制服みたいなもの―(小林丸)とのこと。正式な除隊はこれより少し後だが、わざわざ軍服なのは、「英雄」コスプレに見える!?見えない!?

 彼女とてシナトラのことは誰だか知っていたが、しかし決められた手順は手順であって、彼女にはシナトラを特別扱いするつもりはなかった。

 「お客様」

 彼女は辛抱強く言った。

 「本当のお名前が必要なんです」

 「だから、ラス・コロンボ」

 なんという態度だ。いい年こいた大人の癖に、エア・ホステスに「ええ、じゃあいいですよ、私あなたのことは知ってますから」などと言わせようとするなどふざけたもんだ。オレはその鼻ヅラを殴ってやろうかと思い、実際そうしてもよかったのだが、しかしその代わりに彼女が機長の所へ行った。そして機長は悠然とこちらに歩いて来ると、シナトラに言った。

 「お客様、もう一回邪魔したらセント・ルイスで降ろしますよ」

 これにシナトラは顔を赤くして、アテンダントに「フランク・シナトラ」と言い、彼女はその名前を書きとめると、もはやシナトラの方を見向きもしなかった。

 一方でシナトラの連れの2人は気さくな男達で、フライトの間にこちらに話しかけてきた。自分は軍服を着ていて、彼らもこちらのことを詳しくは知らなかったが、自分の戦争体験について聞きたがった。

 「戦争中に2回も飛行機で墜落したのに、生き延びたってぇ?」

 「そうだね。自分が飛行機に乗ると、毎回何かしら起きるみたいでね」

 これはもちろん冗談だったのだが、しかし彼らは2人とも興奮してしまい、

 「おい、フランク、フランク!」

 とシナトラを呼んだ。シナトラはこちらを向くと

 「オレも入隊しようとしたけど、耳の鼓膜に穴があってね」

 と言い、そこでオレも言った。

 「自分もですよ」

 自分がまだ子どもの頃、レドンド・ビーチの海水プールで、20フィート(※6メートル)もある飛び込み台から誰かがオレを突き落として、こちらは横向きになったまま水面に落ちたのだ。これで自分の耳は1~2ヵ月もの間、腫れあがり、お陰でずっと(※水が入らないように)耳栓をつけていなければならなかった。徴兵検査の際、陸軍が自分の耳のことに例え気づいたとしても気にも留めなかっただろうし、自分もわざわざそのことを言うつもりもなかった。

 シナトラはこれに、こちらが痛い所を突いてくると思ったのか、それ以上何も言ってこなくなった。

 ところが飛行機がセント・ルイスを出た後、今度は自分がさっきのフライト・アテンダントと、ひと悶着するハメになった。理由を知らないが、コンスタレーション機の第3エンジンはオイル漏れを起こすことがあり、これに引火が起きたのだ。そしてこの時もオレが窓の外を見ると、そこには漏れ出すオイルがあった。これには思わず声が出た。

 「うわー」

 シナトラが言った。

 「どうしたんだ?」

 「機体からオイル漏れが起きている。しかもこれはコンスタレーションだ」

 「一体そりゃあどういう意味だ?」

 「つまり、コンスタレーションは第3エンジンに、問題を起こしてきたということだ」

 彼らはこれにフライト・アテンダントを呼び、彼女は他の乗客の不安を煽るな、とオレを叱り飛ばした。だが、そんなことはどうでもいい。

 「お嬢さん、今すぐ機長を呼びなさい」

 「お客様、他の方にご迷惑です」

 「機長を呼んできなさい、でなければ私がそうしよう」

 これに機長は、今度はオレの所へ来ることになった。そして自分が問題の箇所を指摘すると、彼はコックピットに飛んで戻り、機首を返すとセント・ルイスに帰った。その夜はトランス・ワールド航空が乗客のためにホテルをとってくれ、次の日オレは別のフライトを使い、シナトラ一行は電車を使った。

 

 陸軍航空隊は、帰還した戦時捕虜全員に、2週間の保養休暇(※R&R、レスト&リラクゼーション)を有給で出した。自分としては、ハリウッドでのナイトライフや楽しいひと時に不満などありはしなかったが、景色も変われば悪夢も振り払えるのではと思った。対象者は行先を、リストにある4つの承認リゾート地の中から選ぶことができ、その中にはハワイもあった。しかし自分はハワイから帰ったばかりで、他にはマイアミ・ビーチがあり、そこへはまだ一度も行ったことがなかった。行先には自分の他に、誰か一人ゲストを連れて行ってもいいとのことで、とはいえ家族なんて一緒に行った所でこちらの行動の幅を削るだけだろうし、自分には決まった彼女もいない。ともなれば連れとして理想なのは、面白いことが大好きな我が相棒、ハリー・リードだった。

 オレ達はマイアミにある、ゴージャスなエンバシー・ホテルにチェック・インすると、部屋には任務より解放された兵士達への、長いオプショナル・ツアー・リストがあった。例えばそこでは、(※酒造メーカーの)ロン・リコ・ラムが、毎日パーティーを開いていたりした。彼らの本社に行くと、そこは豪華な施設とバーになっていて、高価な冷製カクテルや発泡性のドリンクが次から次に貰えて、その中には傘が差してあったりもするのだ。もしくはボートで沖釣りに行ったりツアーに参加したり、動物園に行ったり空軍のパーティーやダンスに参加したりできた。

 「おいおい、まずはどれから行くよ?」

 オレはハリーに聞いた。

 「そりゃあまずは、プライベート・クラブからチェックだろー」

 奴はそう言いながらウインクをした。

 「もちろんだ!」

 オレはそう言うと、ツアー・リストをビリビリに破いた。レスト&リラクゼーション?違うね。遊ぶんなら、ぶっ倒れるまで行かないといけない。

 実は行きの飛行機内で、エア・ホステスの子が自分達に、ベルナール・マクファデンがオーナーの、マクファデン・ドービル・クラブのことを教えてくれていたのだ。ベルナール・マクファデンというのは、自分の時代のチャールズ・アトラスとでも言おうか、有名な筋肉オタクで、「フィジカル・カルチャー」という雑誌を始めてから財を成し、さらには「トゥルー・ストーリー」「トゥルー・ロマンス」という雑誌も立ち上げることになる。タイム誌とニューズウイーク誌にも取り上げられた彼は、マスコミのカメラが目に入ると、パンツ一丁になって筋肉を見せつけようとしたり、時には頭で立った逆立ち状態でインタビューを受けたりもしていた。

どうやってジョーの体は

ダサいもやしからセクシーバディになったのか

​私なら1日たった15分で、

キミも生まれ変わらせる

 チャールズ・アトラス:1892年のイタリア生まれ。自身を「scrawny weakling」つまり、もやしから世界で最も有名なボディービルダーへと鍛え上げ、1940年代には既にこんな広告を打っていた。

http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/hinjaku1.htm

広告の​翻訳はリンクへ。公式サイトは今でも稼動中です

 マクファデン・ドービル・ホテル、プライベート・ビーチ&カバナ・クラブ。プライベート・ビーチを囲っていたが、幅約500フィート、152Mなので、言うまでもなく全力で泳ぐ場所ではない。右の写真の左部分の個室が、更衣室となるカバナ。プライベート・クラブとは会員だけが入ることができる施設、団体で、同じ興味や社会階層の交流の場とされた。日本語にすれば会員制クラブだが、別に○○の○○ファンが使っていた、お金で人を紹介する会員制デートクラブの事ではない

 ベルナール・マクファデン:1868年アメリカ生まれ。どうみても裸の方が目立つが実は出版人。「トゥルー・ストーリー(本当にあった○○な話)」等の雑誌を出版し、築いた財力で上記のホテルを建設した。また偉大なる父を持つ悩みだろうか、彼の息子も1952年に同じようにパンツ一丁でマスコミに登場し、「親父に負けるか!」と太平洋でスカイダイブをすることを宣言したりしている

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 井出〇っきょや、ヒロ〇100%がTVやネットだけの産物だと思ったら大間違い!?

 それはさておき、しかしオレ達がプライベート・クラブに入るためには、壁を登って侵入しないといけなかった。だが運がいいことに、ラウンジにはオレ達の機内にいたフライト・アテンダントの子がいて、オレ達は3人でテーブルに座ると、まるでそこにいて当然なような素振りで周囲を窺った。自分はそこでバーの端に座っている派手目な感じの子に目を付けた。それからオレ達のエア・ホステスの友達がデートのために席を離れると、ハリーが言った。

 「おい見ろよ、カワイイ子ばっかじゃねえか」

 「うん、しかもあれならいけそうだぞ」

 オレは後ろに悠然ともたれながら言った。

 「人生こうでないと。独身、責任ナシで、誰を選ぼうと自由。ここにヨメと一緒に来るなんて考えられるか?」

 こんな質問、ハリーには愚問でしかない。さらに自分は続ける。

 「オレ一回、言ったよな、残りの人生は独身で通すってさ。今となりゃ、なおさらそうだね。色んな子と付き合ってこそ・・・」

 ところがそこで自分の顔が振り向くのと同時に、この演説はそのまま終わりを迎えた。ハリーがこちらの凝視の先を追う。

 「おい、あの子見たか、ハリー?」

 オレはそっと言った。

 「どれだよ?」

 「あの背が高くて長い金髪の、天使みたいな顔した。さっきまでそこにいたけど、今はもう行っちまった」

 「見てはないな」

 ハリーは肩をすくめながら、部屋を見渡し別の子を窺った。だが自分は今さっき、伸びた背筋で正面を見据え、凛とした様子でさっと通り過ぎて行った女の子のことしか、考えることができなくなっていた。だが彼女はもういない。彼女は自分達のように、あからさまな視線で女の子にガンガン行くような人間のいる、そんなバーで飲み歩くタイプではないのだ。自分はそう思うことで、自らを慰めた。

 それからハリーはもう一度、気儘な独身こそ最高の人生だなんて話をしようとしたが、自分はもうそんな話に興味を失っていた。

 

 次の日、オレ達はビーチ用の服を着ると、再びマクファデン・ドービルの壁を登った。するとハリーは早速2人の「フリー」の女の子が、砂の上に敷いたタオルにうつぶせになっているのを発見し、自分達の毛布をそのできる限り近くに広げた。オレは「お隣さん」を見ないようにしていたが、しかしハリーがこの衝動に抗えるワケがない。程なくこちらには、ハリーがオレのアスリート・キャリアについてベラベラ喋るのが聞こえ、これに対して女の子の一人が、あの時はまだ11歳でしかなかったけど、NCAAの1マイル走でオレが勝った時のニュース・フォルムを見たのを覚えている、と言うのが聞こえた。

 「だって、陸上選手が机の上に座って、大きな包帯を自分の足に4つもつけてるのよ。忘れないわ」

 これにオレは会話に入るため体を起こしたのだが、そこで思わず衝撃を受けた。自分は前日に見た、あの綺麗な女の子を見つめていたのだ。

 自分と彼女の視線が合うと彼女はにっこりと笑い、オレは全身がもう固まってしまったかと思った。自分にとって誰かに話しかけることは、別に何てことではない。でもよく女の子に聞いて貰えて気持ちを掴むような、ある意味下らない会話がそこまで得意だった試しはないし、ましてや自分が気持ちを掴まれ魅了されている相手に、そんなことができる訳がなかった。だが、今回は何かが背中を押した。オレ達は挨拶をすると名を名乗り合い、彼女はシンシア・アップルホワイトと言うそうだった。オレはなんとか雰囲気が和むよう四苦八苦しては、シドロモドロになっていると、彼女は自分からこう言ってくれた。

 「どこから来たの?」

 その問いに答える前に、オレの頭の中で駆け巡った思いはこうだ。自分は痩せた女の子が好みで、それに彼女は痩せている。彼女は綺麗でしかも知的に見え、性格もよさそうだ。いつの日か自分が巡り合うと、いつも思い描いていた通りの女の子じゃないか。絶対にこれこそ自分のタイプだ!

 それから口をついて出て来た言葉がこれだ。

 「ああ、トーランスなんだけど、今はハリウッドに住んでるんだ」

 「私も一度、ロサンゼルスに住んでたのよ」

 シンシアはそれに明るくハキハキと答えた。

 「キャセイ・サークルのすぐ近くよ」(※有名な映画館)

 彼女はそれから、小さな女の子としてそこでどんな暮らしをしていたのか、またニューヨークやセント・ルイス、最終的に移ったフロリダでの生活についても話してくれた。シンシアは19歳で、裕福な家庭の一人娘として、社交の場に出たばかりだった(ミス・ドービルの一人にも選出されていた)。幾つかの女子上流校に行き、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ(※演劇学校。アメリカの有名芸能人の輩出数知れず)にすら行っていた。詰まる所、2人の人生はこれ以上ない程に正反対のもので、しかし自分のことを彼女に話すのは、想像以上に簡単にすることができた。自分はそのままずっと話していたく、彼女のそばにいたいと思い、その晩一緒に出かけないかと誘った。

 「ごめんなさい、もう約束があるの」

 「明日は?」

 「明日も」

 シンシアの人気っぷりに、オレはふと一瞬その勢いを失った。しかしこちらの落胆ぶりを見ると、彼女は午後なら空いているわ、と伝えてくれた。そこでオレ達は沖釣りに行く予定を立てた。

 「ところでザンペリーニ大尉殿」

 話が決まると彼女は言った。

 「もうここに来る時は、こっそり侵入なんてしなくていいわよ。受付に行って、私の家族のゲストですって言って、ウチのカバナ(※更衣室)、使ってくれていいから」

 シンシア・アップルホワイト、ルーイーと初めて会った日の翌日の一枚。「アンブロークン」によると、ルーイーはシンシアと初めて会った時に、「絶対にこの子と結婚するんだ!と思った」と、後で妹のシルビアに言っている。また前述オーラル・ヒストリーによると、シンシアと一緒にナンパされたのは、後のニューヨーク州知事にして外交官、銀行家のウィリアム・アヴェレル・ハリマンの姪、とのこと

 そんなシンシアだったが、軍のボートが沖釣りで荒波に揺られると、気分が悪くなって顔も蒼白となってしまい、釣果もそれだけだった。オレは彼女に埋め合わせをするため、明日の午後も会ってくれるかと聞くと、彼女はそれにいいわと答えてくれた。それから自分達があいにくながらロン・リコ・ラムのパーティーへ行くことになると、自分は必要以上に飲んでしまい、これをシンシアに謝ると、別の日のデートで映画に行くことにした。

 ほどなくして、自分は猛烈な恋に落ちた。まるで映画のように、夕暮れの輝きが海をオレンジやピンクに染めるビーチの上で、また淡く光る月が空にかかる下、自分はそれをそのまま彼女に伝えた。自分にとって感情なんてものはいつでも苦手で、感傷的な瞬間なんてガラでもなかったが、自分は彼女に手を回し、何度かキスをすると言った。

 「シンシア、愛してる」

 自分は他の女の子に、愛してるなんて言ったことは今まで一度もなかったし、その言葉はほんの少し前まで口の中で滞っていたが、しかしひとたび口より発せられると、不思議だが素晴らしいものに感じられた。自分はそれを言う時、彼女に同じように言って貰うのをまるで懇願するかのように聞こえないように、またそう宣言することが、彼女の様な生まれながらにウソ偽りのない人間にとって一体何を意味するのかを、こちらが分かっていないと思われないようにも努めた。自分はシンシアと出会ってまだ1週間しか経っていなかったが、それでも彼女が運命の女性であることはよく分かっていた。

 彼女がこの告白に何と答えたのか、自分は正確には覚えていない。しかし信じ難いことに、返答は自分と全く同じ内容で、しかも誤解の余地のない物だった。その夜、シンシアは別のボーイフレンド2人に電話を入れるとデートの約束をキャンセルし、それからの晩を自分と自由に過ごせるようにした。それから数日間は、自分達はビーチを散策したり映画に行って、―とはいえ2人とも映画なんてほぼ見ていなかったが、―過ごした。そして、お互いが恋に落ちているという実感が、自分達を圧倒するに任せた。

 ハリーがロサンゼルスに帰ると、自分とシンシアは最後の一晩を2人だけで過ごした。オレ達は夏の夜空に浮かぶ月のビーチに座り、自分はできるだけ何気ない感じで言った。

 「ねえシンシア、オレ達いつかは、結婚するんだよ」

 彼女はこれに何かをためらう様子で、すると急にこちらはどうしていいのか分からなくなってしまった。これではいっとき仲良くなった相手と、ずっと一緒にいられると勘違いする、そこらの浮かれた飛行機乗りのようだ。

 「あ・・・それはあんまり・・・いい考えではなかったかな・・・」

 オレは口ごもりながら言った。

 「違うわ!そうじゃないの。それはいい考えだと思うわ。でも、いつするつもりなの?」

 「いつ、だって?」

 自分は何かに突かれたような不安を覚え、一瞬まだ引き返せるうちに撤回した方がいいような気もした。だが改めて彼女を見た時に、自らには決して揺るがぬ気持ちがあることに気がついた。

 「すぐにだよ」

 オレは言った。

 「できるだけ、すぐにだよ」

 「このことは、パパとママにはひどく受け入れがたい話よ、ルーイー。物事にはしかるべき有りようがあるとか、家柄のことだって・・・」

 「きっと、キミに考え直すよう言ってくるだろうね」

 「多分そうね」

 シンシアは、落ち着いた口調で言った。

 「でもそうはいかないわ。私だって、自分の意志があるもの、ルーイー。それに、あなたは私がずっと求めてきた相手なの。他の男の子なんて、まるで子どもよ」

 自分には彼女がそれを本気で言っているのがよく分かった。そして心の中では、自分の孕んだ危うい足元が、彼女には決して気づかれないように祈った。

 

 次の日シンシアは、自分の母親をオレに会わせるため、エンバシー・ホテルに連れて来た。自分達はホテル正面入り口の、ポーチのひさしの下に座ると、それはもうほぼアップルホワイト夫人による「尋問」状態となった。それからシンシアはオレを空港で見送ってくれた。自分には6週間ほど国中を巡る講演の予定があり、その後ロサンゼルスに帰ることになっていたのだ。自分達は、自分が落ち着いた後に、シンシアがこちらを訪ねる予定を立てた。

 この間、シンシアがくれた多くの手紙の中の一つで、彼女は自分に、思った通り母親が結婚を思い直すよう言ってきたと伝えている。

 「あなたは自分より格下の人間と結婚しようとしているのよ」

 アップルホワイト夫人はそう言ったそうだ。キャロライナの歴史に名を連ねて来た、代々栄誉ある家族の一員として、彼女の母親は社会階級に極めて敏感だった。オレはイタリア人なのだ。アップルホワイト夫人はハッキリ言ったそうだが、アメリカの上流階級にイタリア人などいるものではなく、イタリア人なんて屋台を押してる行商人か、そこらの安食堂のオーナーなのであって、ほらオレなんてマフィアの一員やも知れないのに、とのことだった。これには親子間で激しいバトルが展開され、加えてシンシアを彼女の友達のように、北東部の学校送りにするという脅しが何度も出た。帰還兵達が大挙してマイアミに来てビーチや街路をほっつき歩いては、結婚する気もないのに都合のいい時だけそう言ったと思えば、彼女の両親が保護に走るのも当然のことで、それにこんなことは今に始まったことではない。だがしかし、当の本人達は本気だった。

 ロサンゼルスに帰ると、自分は一時的にハリー・リードとその母親の所に転がり込むことにして、自らの日常を再開した。戦後において、自分はアスリートとしては誰からも本気で期待されてはいなかった。人はオレが戦争で過酷な体験をし、全てはもう終わりだと言うのだ。オレはそれに大口を叩くとそんなことはないと言い、これにより毎朝5時半に起きては近くのアロヨで(※雨期や大雨の後にだけ水が流れる、乾いた川床)ロードワークに励むことになった。何度も何度も小さな渓谷を往復していると、肉体はそれがまだ現役であることを証明し、重いテニス・シューズで1マイルを、何とか4分18秒で走るレベルとなり、これは大会ならおよそ4分13秒前後で走れるものと思われた。それでもワールド・クラスで戦うにはさらに追い込む必要があり、オレはロードワークの量を2倍にした。

 夜にはいつものようにハリーと一緒に飲んで騒ぐ代わりに、ハリーを一人で送り出した。ハリーは時々、外出のお膳立てをして一緒に来いと言ったが、こちらにその気はなかった。

 ある朝ハリーの母さんが、藪から棒にこんなことを言った。

 「ルーイー、何だってまた、毎日おんなじ車がウチの前に止まっては、中におんなじ男の人がいるのよ?」

 そんなことが起きているなら、こちらも事情を知りたい所だ。これは後で判明したのだが、実はシンシアの父親がこちらが何かやらかしている所を捕まえて、2人の仲を裂こうと画策していたのだ。彼は私立探偵を雇うと、自分が他の女の子と交際しているかを調査させていた。(この張り込みについてシンシアに言うと、彼女があまりに笑ったので、自分も怒る気にはならなかった。「ウチのお父さんなら、私のことだって監視しかねないわ」だそうだ)

 シンシアと自分が、お互い離れ離れになっているのももはや限界になってくると、彼女は両親に、オレと会うためロサンゼルスに行くつもりだと言った。当然ながら彼女の両親はこれを許さず、彼女に渡航費を渡すのを拒んだ。そしてシンシアが、そんなことなら仕事を見つけて自分で渡航費を稼ぐと、両親をそう脅すに至って初めて、アップルホワイト夫妻はようやく自分の娘の決断が、もはや揺るぎのないことを理解した。

 「これはあなたが望んでいることだって、あなた、それでいいのね?」

 母は娘に尋ねた。

 「私達はただ、あなたに幸せになって貰いたいだけなのよ。飛行機のチケットなら買ってあげるから、向こうのお宅に1週間いてみて、彼の家族がどんななのか見てきなさい。ね、家族にきっとマトモじゃない人もいるかもしれないのよ」

 一方、アップルホワイト氏の方はそう簡単に説得されるような人間ではなかった。実際、彼はこの計画に激怒でもって反応したが、しかし時、既に遅かった。シンシアが自分と出会ったのは1946年の3月で、彼女は5月にはオレに会うため西へ向かい、自分はこれを空港で迎えた。自分達の婚約のニュースは既に新聞の紙面を賑わせていて、自分達は結婚の日取りは8月と決めていたのだが、ロサンゼルス・タイムスはシンシアが飛行機を降りる時の写真と、自分達が陸上のトラックにいる写真を掲載すると、こんな説明書きをつけた。

 「フライングしちゃう?」

 1946年5月17日(左)及び、21日付ロサンゼルスタイムズ、到着ロビーではなく、タラップ迄行ってシンシアを出迎えるルーイーと、結婚許可証を貰った時のアツアツ写真。右紙面には「遅くとも秋には結婚の予定」とある。ちなみに1950年代の飛行機代は、東海岸から西の往復でシカゴ~フェニックスだと、今の34万円以上、同じく1941年のロサンゼルス~ボストンで51万7千円以上なので、1946年のマイアミ~ロサンゼルス間は34万円より安いことはないと思われる。今も昔もお嬢様は、グレイハウンド(長距離バス)なんて乗りません

https://www.travelandleisure.com/airlines-airports/history-of-flight-costs

 それにしてもなぜ、人はわざわざオレ達のことを気にするのだろう?まあ人はそういうもんだが。オープン・カーでシンシアと自分がどこへ行こうとも、そこら中で人が立ち止まっては、こちらをじーっと見てきた。当時、ウィルシャーとウエスタン大通りの交差点は、街でも一番人通りの多い所だったが、そこの「止まれ」の標識で止まると、四方にいる人達全員が、こちらに手を振ってこう叫んだ。

 「幸せなご結婚をー!」

 だがシンシアのこの旅行は、いつでもカメラのフラッシュと楽しい時間に囲まれていた訳ではない。彼女がウチの家族のちっぽけな家を見た時、それは彼女にとっては小屋に過ぎず、さらにはイタリア訛り丸出しのウチの父さんと会った時には、不安に包まれるのが横から見ていてありありと分かった。疑問や疑念、オレは努めてそんなことは気にしないようにしたが、しかし気を揉んでしまうとこれが止まらず、取り乱してしまうと、

 「そんなら何もかも、なかったことにした方がいいのかもしれないな」

 と言い出す有様だった。だがそんなことは2人の内どちらも望んではおらず、話し合いをすると自分達の中では、共に歩む気持ちがほぼ決まっていることに気づかされた。

 自分達はそこで、もう結婚式を先延ばしにしないことに決めた。自分はおよそ1万ドルの未払い給与を貯めていたし、(※1,400万円以上。不明とされ、捕虜だった期間の給与)また支払われた生命保険の中から、ほぼ1,600ドルは返さなくていいことになっており、(※220万円以上)すぐには資金面で心配するようなこともなかった。自分達は血液検査を終えると、結婚許可証を貰い、他の幾つかの手続きはスルーしてしまうことにし、そして1946年5月25日、シンシアが子どもの時分に行っていた、聖公会の教会で結婚式を挙げた。

 披露宴は友達の家で行い、その後オレ達はチャタム・ホテルへと向かった。自分達なら通りの向かいにある、世界的にも有名なアンバサダー・ホテルに行くと誰もが思ったろう。オレはシャンパンのボトルをパーティー会場から失敬して来ていた。

 「まずはお母さんにも電話をするわ」

 オレがシャンパンのコルクを飛ばすのと、シンシアがそう言うのは、ほぼ同時だった。そしてシンシアの両親はこの知らせに逆上してしまうと、シンシアは電話口に泣きながら、1時間以上も話し続けることとなった。オレはその場にいてもうウンザリしてしまい、

 「明日の朝にかけ直すって言えよ」

 と言ったのだがその甲斐なく、代わりにシャンパンを一人で丸々飲んでしまい、酔いつぶれることはなかったのだが、しかし酔ったままベッドで寝た。全くもって、最悪の初夜だった。

 

 式を挙げる前に、俳優のビクター・マクラグレンと、プロボクサーのジム・ジェフリーズは、オレにアドバイスをくれていた。彼らによると、自分の奥さんが本当に自分を愛しているのかどうかを知る絶対に間違いのない方法とは、新婚旅行で数週間の間、人里離れた大自然に2人っきりで過ごす、というものだった。

 「まあお互いののことを、本当によく分かるようになるわな」

 マクラグレンは言った。

 「その後でもキミのことが好きなら、一生、好きなままさ」

 そこで自分はシンシアに、ハワイへ行きたいか、もしくはレッド・ブラフ(※町の名前)から40マイル(※64キロ)行った、イール川の近くの友達の小屋に行きたいかを聞いてみた。するとシンシアは、海についてはもうお腹いっぱいよ、と言うので、そこで必需品を買うためにレノに立ち寄ると、オレ達はそのまま(※カリフォルニアの北に広がる)丘陵地帯へと向かった。

 自分達はそこで泳いだり、魚を捕まえたり乗馬を楽しみ、シンシアは並べた缶に22口径を外さない程の射撃の腕前となった。一度などガラガラヘビを踏みそうになり、そこでピストルを引き抜いて蛇のドタマに打ち込んだ程だ。自分達はそんな一瞬一瞬がたまらなく楽しくて、シンシアは大自然での不便な暮らしのまま、あと一年でも過ごしてよかったのかもしれない。しかし自分は日増しに何か落ち着かない物も大きくしていたし、都会での生活も恋しくなっていた。走り続けていたかったし、活気のある場所にもいたかった。また夜の悪夢も続いていて、これは明らかに結婚が全てを解決するというような話ではなかった。シンシアはハリー・リードから、こちらの戦時捕虜体験の多くを聞いてはいたが、しかし克明な詳細までには至っていなかった。自分も悪夢については話したことはなく、またシンシアも求婚中にこちらが体験した苦渋について、時折尋ねることはあったも決して強いるようなことはなく、話したくなれば話すと思っていたようだ。だが自分としては、全てを話したくなどはなかった。

 結婚を伝える地元紙と新婚旅行中のシンシア。ちなみにアンブロークンによれば、①シンシアの兄は探偵の件を否定②父親はルーイーを気に入っていたし、結婚そのものには反対していない③アップルホワイト家側は、独自に結婚式の準備に取り掛かっていた④ルーイーが自らの出自を相当に気にしていたのは間違いない、とのこと。ちなみにチャタム・ホテルにしたのは、友人による初夜を邪魔するイタズラを避けるためだったと言う

 ところが深刻な住宅不足のせいで、自分達には住む場所が見つからず、ハリーとその母親の所へ間借りすることとなり、それは理想とは程遠いものとなってしまった。状況は自分をさらに過敏にさせるばかりで、時に自分はシンシアに八つ当たりすることもあった。さらに悪いことは重なるもので、シンシアの父親は自分達が結婚した時に気管支喘息で入院していたのだが、自分達が一緒になったという知らせを聞くと、深刻な再発をしてしまったとのことだった。フロリダ側とは義理の母のみがこちらと話してくれる状態で、あの結婚式の日は人生でも最悪の日曜日だったと、彼女は言葉を濁すこともなく言い放ち、またコメントを求めて辺りをうろつく防ぎようもない記者達には、ただただ門扉を閉めて無視を決め込んだそうだった。

 自分達はそれからやっと友達づてに一軒の安アパートを、とは言っても部屋一つに毛が生えたようなものだったが、バーモント・アベニューとハリウッド大通りの近くの、エッジモンド・マナーという所に見つけた。だがそこは結婚生活を始めるには、最良な場所とは言い難い場所で、いるだけであまりに気が滅入り、自分は暇さえあれば外出して友達と会い、飲んではパーティーに明け暮れた。その年の8月に、自分は公的にも陸軍航空隊から除隊が認められていたのだが、ハリウッドの大物や大物志望達は、依然として自分を自宅や大戦終結の祝賀会に招待し続けたのだ。自分は出掛けて行くと、酒やそこにいる人達と一緒にいられることが有難く、しかしこのもてなしに自らが決して応えることができない悔しさも承知で、徐々にかつてのネガティブな思考・行動パターンに逆行していった。

 シンシアもパーティーには行った。しかし彼女は飲まなかったし、バーからバーへ飲み歩くようなことにはしっかりと一線を引いた。彼女は自分のライフスタイルと、ある意味では完璧にフィットしたと言える。自分達は一緒にUSCのアメフトの試合へ行き、シンシアは自分の大学時代の友達とも会った。2人はそれなりにうまくいっていたし、互いを深く愛してもいた。だが多くの場合、自分の友達にとっての楽しい時間とは彼女にとってのそれではなく、結果的に彼女は外出にウンザリすると、どんどんと自分の殻の中に閉じ籠って行った。そして程なくして迎えたある晩のこと、彼女はオレに、外出するなら一人で行っていいわよ、と言った。もしどうしてもそうしたいなら、と。

 シンシアは家にいたり、自分の友達と映画に行く方が彼女のためでもあっただろう。ある晩、オレはニコデルズというレストランで、オリンピック時代の仲間達とビールを数杯飲んだ。その後、自分は別の仲間と会うためにそこを出たのだが、ビール2杯にしてはかなりフラフラしていた。そしてそれから、その仲間の所から出た記憶はなく、しかしどうやら車に乗ると、どこに向かうのかも分からぬ程に泥酔したまま、ハリウッド・ヒルズを徘徊した。数時間後、自分は車を止めると車外に出て、そこの木の下で立ちションをし、近くにある自分のアパートだと思っていた所まで歩いた。が、それは自分のアパートなどではなく、結局朝の4時まで新調したばかりの靴のかかとをすり減らし、何マイルもぐるぐると歩き回った末、ようやく帰るべき道に遭遇することができた。翌朝、自分は車が盗まれたと届け出て、警察はその2日後、車を何マイルも離れた所に見つけた。

 オレは誰かが自分のビールに何かを混入させたのではないかと疑い、その後2度とニコデルズに行くことはなかった。しかし真実は、自分がアルコールによる意識障害が出始めていたということで、発作が起きると数時間もの間、自分が何をしたのか思い出せなくなっていたのだ。他にもこんなことがあった。自分はある晩、バーで一人の友達と、別の若いカップルと座っていたのだが、突然電気が消えたかと思うと、次の瞬間には誰かが自分を支え、車の中に入れていた。

 「一体、どうしたんだ?」

 オレは不安になって尋ねた。

 「何が起きたんだ?」

 すると自分の友人が、

 「ちょっとしたお仕置きをされたんだよ」

 と言った。

 「女友達と一緒に通りがかった人がいて、オマエがその女の人の、触っちゃあいけない場所に触って、連れの彼がオマエをお気に召さず、正しいボディタッチを一発くれたんだよ」

 自分の喧嘩グセも悪くなっていった。ニューポート・ビーチにあった一軒のバーに仲間達といると、偶然のはずみで体を押されることがあった。相手は自分より50ポンド(※22kg)はありそうな男だったが、オレはこれを気にも留めなかった。頭に血が上るとその男を砂の上まで連れ出し、男の周囲をファイティング・ポーズでグルグルと周り、相手が息切れしてから攻撃を仕掛けた。そして彼が倒れるまで殴り続け、ダメ押しでその顔を砂の中に突っ込んだ。突如として自分は、パン屋の運転手を血まみれになるまで殴っては、死んでしまったかも分からないのに道端に放置した、あのガキに戻っていた。

 自分には支えが必要なのだと分かり、シンシアは自身が抱える恐れや怒りは一端脇へ置くと、オレを落ち着かせて幾分でも自尊心を回復するよう努めてくれた。しかし唯一自分の救いとなったのは、世間からまた幾らか評価を得ることで、しかもその効能は一時的なものでしかなかった。 あれはトーランス市がザンペリーニ・フィールドの命名式をしてくれた時のことだ。妻と家族と一緒にそこへ座り、市長や軍のお偉方がこちらに思いつくだけの賛辞を惜しむことなく送っている中、オレはしかしふと思った。彼らがもし自分の人生の高い所も低い所もその真実を知り、その合間合間に顔を出す悪魔共の存在を知ったら、果たしてどう反応するのだろうか?―と。

1946年ザンペリーニ・フィールド命名式

http://thetorrancetornado.com/

56年版より、ハリー・リードとザンペリーニ夫妻

「新婚当初の気儘な日々の、ハリーのボートにて」

とキャプションにはあるが・・・

 そしてハリーのヨットでささやかなディナー・パーティーがあった時、自分は完全に自制を失った。シンシアはステーキを、火力の弱い小さな携帯ガスコンロで調理することになり、彼女がこれに手こずっているのを自分達は散々にからかった。そしてディナーが出揃った時に、オレはさらにもう一度冗談でシンシアを悪く言い、これがシンシアの限界を超えた。シンシアはオレ達を𠮟りつけると、ボートを離れ車へ向かった。オレはそれを追うと、

 「舟に戻れよ、オマエのせいでパーティーが台無しだろうが」

 と命令口調で言った。

 「戻らないわよ。私をあなたのご両親の所へ連れて行くか、もしくは家へ帰るバスのチケット代を出して」

 そう言うと彼女は車に乗り込んだ。自分は激怒してそれを追い、車に乗ると命令を繰り返し、しかし彼女はこれを無視した。そして無意識に自分は彼女を引っ掴むと・・・ここでは彼女を離した時に、シンシアは息を詰まらせ咳き込んでいたとだけ言おう。これに自分は衝撃のあまり、ボートと酒瓶の元へと逃げ帰り、シンシアはオレの両親の家へと行った。

 その夜、一人でベッドに寝ていると、悪夢は尋常でない凶悪さでやって来た。自分の指がバードの喉仏を掴んでそのまま握り潰すまさにその瞬間、オレはギョッとして目覚めると、叫びながら体を起こした。もしシンシアがそこにいれば自分を落ち着かせてくれたろうが、無論彼女はいない。汗が体から流れては落ちると、自分は寸刻前に車の中で一体何が起きたのかを思い出し、ゾッとして固まった。自分はバードへ借りを返すことも日本での報復も叶わず、ならば相手など誰でもいいと言うのだろうか?もし悪夢のさなかに、自分が何かの拍子にシンシアの首に手を掛けたとしたら、一体何が起きるというのだろう?もはや眠りへと戻ることなどできはしなかった。ベッドで体を起こすと窓から外の街灯を凝視して、そのまま夜明けを迎えると、外へと走りに出た。そしてロードワーク中にはまるで、自分に起きたことの全てから逃げようとするかのように、ひたすら自らを追い込んだ。

 

 オレはシンシアと仲直りすると、再び競技に専念することを決めた。これが自分を快方に向かわせるだろうと考えたのだ。新しいランニング・シューズを買うと、自分はロサンゼルス・シティー・カレッジでトレーニングを開始し、シンシアはこれに同行してタイムを計ってくれた。

 自分にとってそれは、自身を肯定するためのものだった。人生の中にポッカリと開いた穴を埋めるべく、再びレースに勝ちたかった。ところが自分は、自らを奮い立たせられる限りの前向きな姿勢でトレーニングに臨みながら、それに対して強い反感を覚えていた。なぜ自分は、走らねばならないのだろうか?人はなぜ、オレに再挑戦を求める?自分が以前に勝ち得たものでは不足だとでも言うのか?「偉大なるザンペリーニ」のスピーチへ、多額の講演料を払ってくれたクラブや団体相手に、これから3大会連続でオリンピックにカムバックしてみせる、などと自分は言ってしまったが、そうでなければ結果は違っていたのかもしれない。事実、走るように強いてきた人間など誰もおらず、強いているのは本人以外の誰でもなかった。自分は依然として、自らの本当のアイデンティティーは、このスポーツと共にあると信じていたのだ。

 ある朝、自分は短いスプリントを何本かこなして体を温めると、シンシアの所まで流した。シンシアはそんなこちらに、新しい靴も似合って「素敵なフォームよ」と言い、オレはこれに噛みついて返した。

 「感想はいらないから、時間だけ計ってくれ」

 シンシアの顔はみるみる歪むと、そのまま泣き出してしまった。しかしそれを見ても自分は何とも思いもしなかった。オレは彼女にカネをやり住む場所を与え、楽しい時間を提供し、すぐに有名選手へと返り咲くのだ。彼女はこれ以上に何を望むと言うのか?結局の所この数か月間は、自分にとってラクな時間などではなく、夜な夜なの悪夢に酒を飲んでは意識障害まで患った。加えてトレーニングの開始に伴い、酒だってやめたのだ。シンシアにはオレが努力しているのが分からないのだろうか?

 「オレが言ったように、ストップ・ウォッチをセットして、自分がこの地点を過ぎる度に、毎回タイムを大きな声で読み上げるんだ。分かるか?大きくだ。デカい声で言わないと聞こえないぞ」

 オレはスタート・ポジションに体を落とすと、よし、当たって砕けろ、と念じた。それから長く伸びた直線コースを見上げる。自分には可能なことを証明する時が来たのだ。そしてシンシアの方を見つめ、彼女が「スタート!」と叫んだ瞬間、オレは前方に向かって弾け飛んだ。体が何をすべきか自然に思い出すのと共に、自分の頭の中は束の間、真っ白で、平穏が訪れる。最初のコーナーを曲がると、長い道のりに備えて落ち着いた。自分は6週間もの間、重いテニス・シューズでグリフィス・パークを走っては登り、ジェット・バスに入っては脚にマッサージを受けた。この準備期間はしっかり効いているようで、靴は軽く、ひんやりした秋の風を爽快に感じた。素敵なフォーム?その通りだろう。オレはさらなる好タイムに向け、数インチ先に向かって伸びる。ところが1周目を終えシンシアを過ぎた時、シンシアの叫び声はオレにこう聞こえてきた。

 「ロクジュウ、ハチ!」

 ロクジュウハチだ?シンシアは明らかにストップ・ウォッチの見方を間違えている。自分は最初の4分の1は、いつもそれより速いタイムで終えているからだ。オレは絶え間なく秒針を刻むストップ・ウォッチをイメージしながら、2周目でさらに追い込みをかけた。すると突然、胸をグッと引かれる感じがあり、両脚の後ろが締め付けられた。体が悲鳴を上げたのだ。これに自分は少しだけ緩めると、勢いで体が走るに任せたが、しかし集中力は既に崩壊していた。頭の中には突如として、直江津で100ポンドの石炭を背負ったオレを足場板から突き落とした、あの看守のことが頭によぎる。

 「2分17秒!」

 シンシアがタイムを大きな声で読み上げる。

 最初の1周よりさらに1秒遅い。シンシアは絶対に間違っている。オレはパニックに陥った。もはや走ることもできないなら、自分は一体どうなるのだろう?自身が持っていたもの全てがもはや失われていたら?頭の中ではもうペースを作ることもフォームのことも抜け落ちると、オレは大学時代の土壇場でそうしたように、ただただ全力で走り始めた。

 するとすぐさま、鋭い痛みがふくらはぎと足首を走り抜けた。これくらいが何だ、オレはそう思いながら自身を前へと駆り立てた。どうせしっかりしたストレッチが必要なだけだろう。いずれにせよ後で分かる。オレは痛みを無視すると次の1周を走り、それから全力で最後の一週を周った。シンシアが知らせるタイムすら耳には入らず、頭の中にあったのはどれだけ痛みが酷かろうと、自分は走り続けなければならないということだけだった。

 だが、そんなバカなことは、すべきではなかった。脚が締め付けられるとズキズキとした痛みを覚え、オレはこの苦痛に思わず目を閉じた。そして最後のコーナーを周りながら、自身の選手としての探求はもはや絶望的なことを悟った。自分にはスパートをする力も、跳躍をする力ももう何もないのだ。

 オレはゴール・ラインを越えると芝生の上に崩れ落ち、これにシンシアは自分の所に飛んで来た。

 「タイムは4分28秒よ」

 シンシアは快活な調子で言った。

 「凄いじゃない」

 だが言葉とは裏腹に、彼女の目には目の前の真実がありありと映っていた。

 オレは寝返りを打つと体を起こした。

 痛んだ足首、挫いた膝、治癒することのなかった肉離れ。今自分ができることは、夢をあきらめることでしかない。陸上は自分の人生の全てだった。そして今、それが潰えたのだ。日本人共のさらなる勝利が、もう一点加点という訳だ。オレは組んだ腕に頭を落とした。

 「いいんだよ、シンシア。車まで戻るのを手伝ってくれれば、それでいい」

 オレは体重110ポンド(※49キロ)にしかならない一人の女性の肩にもたれると、スタジアムを後にした。ランナーとしてのその最後の瞬間には、スタンドからの歓声が響くこともなく、何事かと思った子ども達がただ数人、その様子を見ているだけだった。

 

 パニックの後には屈辱の時間が待っていた。自分はスピーチやラジオ放送、新聞記事で、自分のアスリートとしての新たなキャリアは始まったばかりだと偉そうに何度も言っており、この数はもはや撤回したり、なかったことにするのは不可能な量だったのだ。他人の失敗を笑うことにはいつも準備万端な、パーティーに忙しい自分の友人達に、これは格好のネタになってしまうのだろうか?もしくはそれ以上に耐えられないのは、こちらを本気で憐れんで、大丈夫か?みたいな質問を浴びせ、陳腐な慰めを御託にくれることだ。そんな結末を知るなど気が乗る訳もなく、オレは自分の失敗を認めねばならないようなパーティーや催しを避けた。

 それから自分の鬱状態がようやく解消されると、恐ろしいまでの怒りがそれに取って代わった。悪夢に苛まれ、頭痛に悩まされ、緻密に培ってきたキャリアが自分から奪い取られたのだ。日本人共は、一体どれだけ自分から奪えば気が済むというのか?

 「神よ」

 オレはシンシアのいないある日の午後、アパートの外を窓から眺め、声に出して言った。

 「奴らに一体これ以上、何を自分にさせるというのです?あなたはこれ以上に、何を自分にしようというのです?」

 自分はそれに対する答えを待ち、しかし待っても何も返ってなど来なかった。返って来るハズがない。思えば神が自分の脳裏によぎったのは実に一年ぶり以上のことで、それも再びにして心から絶望を思う瞬間だけだった。かつて自分は救命ボートの上と捕虜収容所で全く同じことをしたが、あれは神が自分を生かしてくれたら、自分の人生を捧げると誓った時だった。そういえば自分はあの時の誓いを守っただろうか?いや、守ってなどいない。しかも今回は、誓うどころか怒り散らしては文句を言い、人のせいにしている。だが自らは決して責めず、神をも責めている。彼はこれをおそらく、聞いているのか聞いていないのか?自分は時にその視線を感じることがあるが、しかし例え神が自分を本当に見守っていたとしても、今回は自分を見放したと責めることはできないだろう。

 自分がこれに選んだ解決策は、感傷に浸り、思い悩み、憤慨しては酒に溺れることだった。そしてあれこれと逡巡した自己憐憫の思いからは、奇妙で新たな決意が生まれた。自分は多くのことを達成してきたが、今ではもう残されたゴールは一つしかないのだ。それは自分が稼げる限りのカネを作ったら、その一部で日本に戻り、バードを見つけ出すというものだった。奴には、下されるべき報復の鉄槌を食らわせてやるのだ。

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