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第1章 三丁目のクソ餓鬼

 That Tough Kid Down The Street

 は生まれてこの方、いつでも「ラッキー・ルーイー」と呼ばれてきた。

 これは何も不思議なことではない。子どもの頃、私は普通以上に悪さをしでかしては、親や近所の人達に迷惑をかけてきたが、そのほとんどの場合、捕まることもなく逃げおおせていたからだ。また15歳の時には人生を方向転換し、陸上競技の選手権者となると、その数年後の1936年にはオリンピックに出場、大学では全米体育協会で二度、1マイル走の記録保持者となり、この記録はしばらくの間、破られることはなかった。第二次大戦では私の乗った爆撃機は、皮肉なことに救護任務中に太平洋上に墜落し、そのまま行方不明となった私は、周囲には死んだものと思われた。だが実際の所は、太平洋上の2000マイル(※3200キロ)を47日間に渡って救命ボートで漂流し続け、その後に日本人に救われ捕虜となると、さらに2年以上に及ぶ拷問と屈辱の日々に晒され、もはや覚えていたくない程に死の瞬間に直面していた。それから何とかアメリカに戻ると、人々は私のことを英雄と呼んだ。おかしな話だ。私にとってヒーローとは、腕や足、時には命さえも失った人々や、彼らに取り残された家族のことであって、一方で私が戦争中にしたことと言えば、ともかく生き残ったということだけに過ぎない。現実と周囲の認知はかみ合わず、ここから起こる問題を一因に、私は怒りの制御を失い酒に溺れると、すんでのところで妻を、家族を、友人を失いかけ、どん底へ落ちると比喩的にも文字通りにも天を仰ぎ、信仰と出会った。その一年後に私は日本へ戻ると、自身を幽閉した日本人看守達と対面し、その時には彼らの方が逆に刑務所にいた訳だが、私は中でも最も残酷であった看守達をも赦した。アメリカに帰ってからは、かつて自分もそうであったような、もしくはそれ以上にワルい非行少年達のためのキャンプ・プログラムを始め、また聞いてくれるなら誰にでも自分の話をした。これに対する反応には、いつも私の驚きは止むことがなく、あの時の我が使命は、そのまま今となっても変わらない。人生の良き模範となり、静かな強さと絶えることのない影響力をもって、人々にインスピレーションを与え支援をするのだ。

 私は生まれてこの方、いつでも「ラッキー・ルーイー」と呼ばれてきた。そしてこれは、何も不思議なことではない。

 

 1917年の1月26日、私はニューヨークのオーリアンで、4人兄弟の2番目の子どもとして生まれた。私の父、アンソニー・ザンペリーニはイタリアのヴェローナからの移民で、美しきガルダ湖の湖畔で育ち、若い頃にはそこでデューイ提督(※米西戦争の英雄)のために、造園をしたこともあるそうだ。父はバート・ランカスター(※映画俳優)みたいに見えなくもなかった。背があそこまで高い訳ではないが、体格がボクサーっぽく、がっちりしていたのだ。父の両親は、父が13歳の時に亡くなっていて、その後、少ししてから父はアメリカに渡り、炭鉱で働きだした。最初のうちは石炭の粉を吸いながらツルハシとシャベルを振るい、次は大きな電動の貨車で、石炭を牽引して炭鉱から運び出すのが仕事だった。父は人生を通して働き者で、いつでも仕事をしてお金を稼いでいた。だが彼はそれで満足することなく、本を一式、自分で買うと、電気工学を独学で習得した。

 アンソニー・ザンペリーニという人は、いわゆる博識な人間ではなかったが経験値のある人で、生きていくにはそれはより重要なのであって、その知恵が私たち家族を養った。

 母のルイーズは、オーストリア人とイタリア人のハーフだが、生まれはペンシルベニア州だった。キリっとしていた女性で中肉中背、エネルギッシュで話をするのがうまかった。彼女は昔の話をするのが好きだったが、それは私の兄のピートと妹のバージニアとシルビア、それと私がまだ小さかった頃の話だ。まあ、ほとんどの家の母親というのは、そういうものかもしれないが。母のお気に入りの話は、私がいつだって、とんでもない大けがをしたとか、それ以上に最悪な状況を何とか切り抜けたというもので、ただ今考えれば、別に母がそういった話が好きな訳ではなく、私の場合その回数がやたらに多かったということなのかもしれない。

 話はたいてい私が2歳でピートが4歳の時に、2人して両肺の侵される、大葉性肺炎になった時から始まる。オーリアン(ニューヨーク州の中北部)の医師は診察で、「子ども2人はこんな寒い所じゃなくて、カリフォルニアみたいな気候の暖かい場所に移さないと、死んでしまいますよ」などと言い、ウチはそんな裕福な家庭ではなかったのだが、両親はそこを熟考することはなかった。叔父のニックが既にロサンゼルスの南、サン・ペドロに住んでおり、両親は西行きの旅を決めたのだ。

 ニューヨークのグランド・セントラル・ステーションで、母はピートと私をプラットフォーム沿いに歩かせると、列車へと乗った。ところが、列車の出発から5分後、母は私がどこにもいないことに気がついた。母は車両と言う車両を探し回り、いないともう一度、車両の端から端を探した。だが、いない。もはや自制心を失ったウチの母ちゃんは、こともあろうか車掌に向かい、列車をニューヨークに引き返すよう迫った。そして母ちゃんは断固として引き下がらず、家族を待ち続ける私はプラットフォームで発見されると、イタリア語で

「きっと帰って来るって、分かってたよ。きっと帰って来るって。分かってたんだ」

 と言っていたそうだ。

 

 母の大好きな話はまだまだある。カリフォルニアに引っ越したばかりの頃は、ロングビーチに住んでいたのだが、その家で深夜に火事が起きた。父はピートと私を引っ掴むと、すっ飛んで母の待つ、庭の芝生へと出た。

「ピートはそこだけど、」

 息を切らす父に向かい、母は言った。

「ルーイーはどこ?」

「ここだよ」

 父はそう言って指さしたが、母はこれに悲鳴を上げた。

「それ枕じゃない!」

 父はすぐに燃え盛る家へと戻った。目にも肺にも煙が満ち、前を見るにも息をするにも、這って行かねばならなかった。だが私は見つからず、進むと煙にむせる声が聞こえた。父は私の部屋に這って入り、するとベッドの下から突き出る1本の手を見つけた。私を胸に抱きとめた父は、玄関のドアへと急ぐ。だが玄関のポーチを渡る際に、木材が焼け落ち父の足を焼いた。それでも父は進み続け、私達親子の命は助かった。

 だが、私の危機一髪というものは、こんなものでは終わらない。

 私が3歳の時、母は私をレドンド・ビーチにある、当時世界最大の海水プールへと連れて行った。母はプールの端の階段になっている浅い所に腰掛けると、どこかへ行かないよう私の手を握り、女友達と一緒にお喋りに興じた。ところが母が話に夢中になっている最中に、こちらは何かの拍子にプールに沈んだようだ。母がこちらを向いた時、見えたのは水面に浮かぶ泡だけで、水を吐かせるのは、なかなかに時間がかかったそうだ。

 その数カ月後、私よりちょっとだけ年上の近所の子が、私に徒競走を挑んできた。当時、ウチはT字型の交差点のある通り沿いに住んでいて、勝負はその交差点の曲がり角を走って渡り、通りの端にあるヤシの木に先にタッチした方が勝ち、というものだった。レースが始まると彼は終始こちらをリードして、私が交差点に差し掛かる頃には、ほぼ通りを渡り終えていた。が、その瞬間、彼は車に轢かれてしまった。私はそれが死ぬほどに恐ろしくて、家まで走って戻ると床下の格子を外から外し、床下に潜って隠れた。そこからは、コンクリートの上に横たわるメチャクチャになったその子の体と、すぐに来た救急車が彼をどこかに連れて行く様子がまざまざと見てとれた。自分は彼の名前も知らなかったし、今でも助かったのかどうかは分からない。それが自分のせいではないことも理解はしているが、しかし未だに挑戦を受けてしまったことに、私はずっと罪悪感を覚え、そしてあの人生初のレースに負けて本当によかったと思っている。

 母はこれらの話を、自分にしょっちゅう持ち出しては言った。

「あんたの健康を思って、わざわざカリフォルニアに引っ越して来たのに、あんたなんかもーう毎日ここで、死にそうなことばっかりして!」

 映画俳優:バート・ランカスター

 「カリフォルニア州・トーランス・グラマシー・ストリートの家族全員の写真。左から右へ、シルビア、お父さん、私、まだ赤ん坊だったバージニア、お母さん、ピート」—03年版より

 一方で父ちゃんは、見事に電気技師(※bench machinist電気関連の修理加工業)としての仕事を得ることに成功した。会社は「ビッグ・レッド・カー」という車両を走らせていた、エレクトリック・パシフィック・レイルロードという所だ。そして当時はまだロサンゼルス郊外の、こじんまりとした工業都市だったトーランスのグラマシー・ストリートに、家を買った。あの頃はまだ家より畑の方が多く、3フィートもの(※1M弱)の大麦が育っているような場所だった。だが家を買った、と言っても、コトはそう簡単ではない。当初、ウチは借家住まいだと思われて、隣りに住むドイツ人やイギリス人達に、引っ越し反対の請願をされてしまったのだ。彼らはラテンだのイタ公が、同じ通りに住むのをよしとしなかったのだが、しかし彼らに選択の余地はなかった。自分は未だに当時の不動産証書のコピーをとっているが、禁止条項には土地を「白人」以外には売ってはいけない、と明確に書いてあるのだ。(※ white Caucasianのみ。 つまりcolored 、有色人種は同地区に住めない)ウチは該当人種ではあるが、それでもまあとんでもない条項ではある。両親はそんな環境でも、誠実かつよく働き思いやりのある人間だったが、自身と権利は自ら守らねばならなかった。そして最終的に両親は、そのまま自分らしくあるということで、通り沿いの住民、全員の同意を得ることに成功した。これはまさに「善を以て悪に報いる」ということだろう。それから12年後、ピートと私はトーランスの「ヘラルド」という地元紙に「トーランスの新星」に選ばれ、第二次世界大戦後に両親がトーランスから引っ越そうとすると、最初は反対請願をした同じ隣人達が、今度は引っ越さないでくれ、と逆の請願をしてきた。

 そんな中、家のことは母が仕切っていた。母は厳しかったが公平で、ウチでは毎朝、学校 に行く前にお手伝いをしないといけなかった。この世にイタリア人の家庭ほどキレイな家はないのだ。また母は料理もムチャクチャに上手かった。ラザニア、ニョッキ、リゾット。そこには家族の幸せな時間があった。自分が物心つく頃には、我が家には笑いが溢れ、友人達に向かっていつでも開かれていた。夕食の後は近所に散歩に出て話すのが習慣で、それから帰ると楽器を弾いた。母はバイオリン、父はギターとマンドリン、母の弟である叔父のルイスは、そこにあった楽器なら何でもできた。父はよくその様子をじっと静かに見ていては、優しい100万ドルの笑顔でもって顔をほころばせたものだ。人なら誰でも、こういった幸せがあるべきだろう。

 だが大恐慌が始まると、両親は自分達の楽しみの類は全て家族のために犠牲にした。父はともかく家族に重要な請求分を確保すると、残りを服や食べ物に充てた。食べ物が尽きると私はカモやオオバン、野兎を撃って夕飯にした。もしくは母が自分達を干潮の海へと送り出し、当時は貧乏人の食べ物とされたアワビを採って来させた。ウチは裕福ではなかったが、しかし商店の人達は極めて丁寧で、ウチを無下に扱うようなことはなかった。というのも、当時はどの家も同じような状況下にあって、誰もが互いに協力し合い助け合っていたからだ。自分とてあの大恐慌がもう一度来るのは御免だが、しかしこんにちの我々も、再び一致団結する何かの機会が必要だろう。それは前向きな機会だ。

「4歳の兄ピートと、2歳の自分

ニューヨーク・オーリーンにて」

 (※1919年)—03年版より

 Favorite Sonsこと「トーランスの新星」を伝える

1938年9月15日付トーランスヘラルド

https://libarch.torranceca.gov/archivednewspapers/Herald/1938%20September/PDF/00000018.pdf

 私は小学校が始まるまでは、自分が友達とそんなに違うと考えたことはなかったが、学校では自意識への苦しみが始まった。みんな英語を普通に喋ったが、自分はできなかったのだ。今となっては逆にイタリア語の方が喋れないが、当時は先生が授業で何を言っているのか分からず、そのせいで何と私は、小学生で留年まで食らうハメとなった。担任の教師は、ウチの両親に電話をかけると言った。

「家でも英語で話さないといけませんね」

 ウチとて英語で話してはいた。だがそれは、誰かが英語で話さないとダメだよ、と言った時だけだったのだ。実は父ちゃんは英語の発音の多くが間違っており、かつ意味もまぜこぜといった有様で、依然としてイタリア語の方がラクだと思っていたのだ。例えるとこんな感じだ。

「掃くを持って、歩道をホウキして(※ take the sweep and broom the sidewalk)」

 しかし家族も父ちゃんの言いたいことは分かるし、父ちゃんの方も伝わっているのが分かるから、父ちゃんが責められるようなことは全くなかった。

 この点、母ちゃんは父ちゃんより優秀で、そして私は時間の経過と共に国語の授業についていけるようになり、逆にイタリア語は幾つかの罵り言葉を除き、ほとんど忘れてしまった。だが発音は周囲と同じという訳にはいかず、これは他の子にイジメられるネタとしては充分であって、自分はアメリカで生まれたにも関わらず、よそ者であるということを痛い程に思い知らされた。周囲には休み時間の度に、自分をあざけり、蹴ったり殴ったり石を投げてくる奴らに囲まれるのだ。奴らの目的はこちらが逆上し、「ブルッタ・ベスティア! (※ Brutta bestia:この汚いケダモノが!)」などと、イタリア語でやり返してくることで、こういったやり取りが続けば続くほど、体には怒りが充満した。

 こうなると自分は、人より足が細く、耳も大きくて髪が黒く固まったクセ毛の、見た目の劣る子どもだと思うのは避けられない。そこで私は髪をバックに撫でつけようと、ポマードを試し、オリーブ・オイルですら塗ったが、それがそのままの型を留めることは決してなかった。頭を固めるべく、夜な夜な頭を濡らしては撫でつけ、足の部分を切って縛ったナイロンや絹のストッキングを頭に被りもした。そうまでして頭を他の子のようにするため時間を費やしたのだから、学校でこれに触って髪形を乱す奴は、誰であろうとトラブルに見舞われた。時には誰が触ってきたのかを確認するヒマさえない。振り返ったら、即反撃あるのみ!そのせいで、一度先生を突き飛ばした。また別の時には、女の子に打撃がちゃんと当たらなかったので、

「触んじゃねえよコラァ!」

 と警告をくれてやった。

 そして結果的に、こちらは散々にやり返された。自分は奴らをぶち殺してやりたくなり、そこで父ちゃんに相談をした。すると父ちゃんは鉛のウェイトを一式、作ってくれ、さらにサンドバッグをゲットしてくると、ボクシングを教えてくれた。

「左から右へ、ルイス・バージニア、ピート。1925年にカリフォルニアの自分の家の前の芝生にて。ルイスは当時8才」—56年版より

家には水道がなかったという—「アンブロークン」より

 小さい頃のルーイーは耳が大きく、これをいつも家族の友人に「チビザル」とからかわれ、気にしていた。(画像は03年版、引用は56年版より)

 それから約、6か月後。

 「オレ」は今まで散々にやってくれた奴らを、ボコってやることで借りを返した。一度など、こっちをバカにしてくれた奴をトイレまで追いかけ、数発パンチを入れた後に、ペーパータオルを喉に詰め込んで放置してやった。幸運にもそいつは他の誰か発見して貰い、「事件」は免れることになった。そしてこれが校長に伝わると、校長はオレを家に送り、オレは父ちゃんにお仕置きを食らった。

 だが周囲を殴り回り、リベンジに忙しい時でも、本当は何とか周囲と同じように、馴染んでやっていきたかった。例えば、学校の校庭には土が盛ってある場所があって、そこに一人のデカい奴が登ると、「オレはこの山の王様だー!」とか言っていた。自分はそれを見て、この山の王様争奪戦に参加するべく、この彼に挑んだ。しかし彼はこちらを突き飛ばし寄せ付けない。ある日、母ちゃんがアップルパイを焼くと、それをいくらか弁当に持たせてくれた。そこでオレはそれをデッカイ彼にあげて、そうこうすると彼は、自分をその山に上げてくれた。

 とはいえうまくいったのはこれだけだ。学校のグループは自分を受け入れてくれなかったし、オレは独自のやり方でやっていく必要があった。すると次第にそれは、ワルさをしでかすという方法をとるようになり、自身が培う自己評価というのは、悪いことをしても捕まることなく、それで得られる快感から生まれるようになっていった。

 ワルであるという、アイデンティティー。

 タバコも吸った。歳はだいたい5歳ぐらいから吸い始めた。最初は好奇心からで、ちょっと肺に入れただけで頭がクラクラした。が、すぐに毎朝学校に歩いて向かう途中、通りを走る車をチェックするようになった。窓からポイ捨てされる吸い殻があると走って拾い、モクはマッチをゲットするまでとって置いたのだ。

 だがそんなことをしていると、いずれは地元のバイク・パトロールに捕まってしまう。自分を捕まえたお巡りさんはその後、時間があるといつも通学前に家に来るようになり、タバコを吸わないよう、学校までバイクで送ってくれるようになった。

 それからもう少し大きくなると、今度は商店やホテルのロビーで、下を向いて出たり入ったりするようになった。長いモクを見つけると自分用にとって置いて、残りは紙袋に貯めたのだ。オレにはお気に入りの隠し場所があって、これは線路近くの、ユーカリ並木の通りにある長くて深い側溝だったのだが、そこで自分はモクの焦げた先っぽは切り落とし、残りは紙を外してプリンス・アルバートのタバコ缶に入れた。そして何も知らないパイプスモーカー達に、「ちょっとだけ開けて使ったタバコ缶」として5セントで(※800円)、つまりメーカー希望小売価格の半額で売って歩いた。

 噛みタバコも試してみた—しかも授業中に。これを先生はガムだと思ったらしく、

「ルイス、すぐに出しなさい!」

 と言ったが、オレはそうせず飲み込み、お陰で何度もゲロを吐くハメになった。

 1930年~40年のバイク・パトロールのお巡りさんと、プリンス・アルバートの缶

 トーランスで撮影の映画「僕らのギャング」でバイクに乗る俳優

(子どもも子役)

https://www.torranceca.gov/home/showpublisheddocument/5688/636306281337930000

 土曜日の夜はだいたい、両親が子ども達を使い古した車の後部座席に押し込むと、サン・ペドロのイタリア雑貨の店に連れて行った。それから親類の家へ行くのだ。そこの灰皿には固くて黒い葉巻があって、子ども用にはジンジャエールが用意してあったが、オレはジンジャエールなんかではなく、葉巻の匂いを嗅いでは、ワイングラスの方を空ける機会を窺っていた。

 3年生になる頃、校長先生も我慢の限界を迎えたらしい。ある日オレを膝に乗せ、校長室に掛けてあったデッカイ鞭用のベルトで、オレを思いっきりブッ叩いた。そしてその日の午後、家に帰って着替えていると、両親の目には自分の尻にある紫のミミズ腫れが留まった。

「まあ、トゥーツったら、一体どうしたの!?」

 母ちゃんは、愛情を込めて呼ぶ時に使うニックネームで自分を呼んだ。

「校長にやられたんだよ」

 オレはさもイヤな奴、という風に言った。

「何をしたんだ?」

 今度は父ちゃんが聞いた。

「タバコがバレたんだよ」

 父ちゃんはそれを聞くと、何気なくそーっとオレを膝に乗せズボンを下げると、紫に腫れあがったミミズ腫れと同じ場所を、平手でもってさらにブッ叩いた。思えば当然の報いだろうが、オレはそれでも泣かなかった。絶対に泣かなかったし、絶対にタバコもやめなかった。

 程なくして、自分は近所で「あっちのチビのクソ餓鬼 (※章名:that tough little kid down the street)」と呼ばれるようになった。オレだって、かわいいフリくらいはしただろうが、しかし他所の大人たちはこちらを見ると、こっちのエリアには入って来るな、あと自分達の子どもの近くには寄るなと言ってきた。思うに、オレの遊び方は少々ワイルド過ぎたらしい。言葉遣い?もちろん好きなだけ汚い言葉を使った。人んちのモノを壊し、周囲の子どもにもアレコレやらせた。自分の頭で考えるなんて絶対しなかったし、そんなことをすればどうなるかなんて、ただの一度も考えなかった。

 学校では女の子はいつでもチクり屋で、ともかくオレのイタズラを言いつけてばっかりいた。こっちからすれば、女なんて使えたもんじゃあない。しかもこっちを向いて欲しい時に、奴らはこっちを振り向かない。そこでこれに対する腹いせに、にんにくの粒を幾つか教室に持ち込んで、噛んでからその息を女どもに向かって、嫌がらせのためだけに、ハァーっとやってやることにした。これをやると本気でキレる女もいて、こっちを叩いたり蹴ったりしてきた。お返しに、こっちは女どもを追い掛け回しては、髪を引っ張ってやった。

禁酒法―ブリタニカ

https://www.britannica.com/event/Prohibition-United-States-history-1920-1933 

 「1920年~33年に渡り、アメリカではアルコールの製造や販売、輸送、輸出入が禁止された。背景には宗教的な理由及び、移民による蒸留酒文化の流入、穀物生産量の増大から安く粗悪なウイスキーが出回り、過剰な飲酒が家庭や社会に悪影響を及ぼしたこと等が挙げられる」

 しかし元々非課税だった酒類が課税された経緯等からも、自家醸造や飲酒を悪いことだと思わない人は多く、ベーブルースやルーイーのように、当時はこれらを飲む子どもいた

イタリアの香水:にんにくと歴史

http://greyduckgarlic.com/the-history-of-garlic.html

 「イングランドでは、にんにくの息は洗練された若い女性や、彼女達を口説きたい紳士には、あってはならないもの」とされ、「アメリカでは40年代まで受け入れられることはなく、それまでは『イタリアの香水(Italian Perfume)』などという蔑称で移民の食べ物として認識されていた」

 今でこそ、にんにくは市民権を得て上記のようなジョーク・シャツまでアマゾンで売っているが、当時はまだまだイジメのネタになっていた可能性は高い。ルーイーがもし学校でイジメられるネタを使って逆にやり返していたのなら、章名にもあるように、相当なタフ・キッドだったと言わざるを得ない。今でも民族食をネタにイジメられる世界中の二世達は、ルーイーを真似したら、学校生活もうまく行く!?

 とはいえ、傷つけていたのは多くの場合、自分自身がほとんどだ。一度、高い所から配管の上に、ドカンと落ちたことがある。お陰で太ももに穴があくと、脚の肉がカタマリでえぐれた。また別の時には、デカい竹の切れ端にジャンプしたのだが、この時は竹が裂けて自分の足に刺さり、つま先が皮膚を残してブラブラと足に垂れ下がると、危うく爪先を丸々失いかけた。その時は母ちゃんがつま先を固定している間に、隣に住む看護婦のミセス・コバーンという人が傷口を洗うと、針と糸で元のように縫い合わせてくれ、それから母ちゃんがテーピングを固く、本当に固く巻いた。するとオレの足は、奇跡的にもちゃんと治った。

 それからあれは、まだ自分が小学校の頃だったが、面白そうなので、石油採掘場のあの高い塔に登ってみることにした。鉄塔の側面には、木の梯子が釘付けしてあったのだ。しかしこれは太陽にやられ、所々ボロボロになっていて、自分が登っている最中に、この一本がスポっ、と外れた。オレはそのまま12フィート(※4M)程下に落ちると、ポンプ室の波型のトタン屋根の上に落ちてバウンドし、次は10フィートくらいの(※3M)深さの、油の溜まった廃油溜めの中に落ちた。人間と言うのは、(※比重が軽すぎて)油の中では泳げない。自分の体は汚水溜めの中で岩のような勢いで沈み、何年も前に黒い廃油の中へと消えた、掘削ドリルのパイプに足が当たると、ようやくにして止まった。オレはそれにまたがると、手で掴んだ。幸いなことに、ドリルパイプはちょうどいいぐらいに錆びていて、手が滑ることなく食いついたのだ。オレはドリルパイプ沿いに、少しずつじりじりと穴を登り、水面から、いや油面から顔を出すと、空気に向かって大きく喘いだ。

 汚水溜めを出ると、オレはネバネバの体のまま、家に向かって歩いて戻った。目が焼けるように痛く、ほぼ何も見えず、同じ通りに住む人達も、オレのことを誰だか分かっていなかったろう。昔、映画館で見た、「大アマゾンの半魚人」だとでも思ったのかもしれない。

 日本でも同年に公開された映画、"Creature from the Black Lagoon" こと、「大アマゾンの半魚人」の1シーン。半魚人は映画オリジナルの怪物で、公開は戦後の1954年だから、誰もそうは思わなかったハズなんだけど・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%8D%8A%E9%AD%9A%E4%BA%BA

 トーランスの油井やぐら群

https://www.torranceca.gov/home/showpublisheddocument/47243/636808979700770000

 とカリフォルニアの産油
https://mashable.com/2015/12/06/oil-drilling-beaches/

 カリフォルニアはこの年までには年間で、7700万バレルもの原油を産出しており、これは工業力の戦いである第二次大戦において強力過ぎる戦力となった。対する日本軍とてこれは重々承知で、この油田地帯に攻撃を仕掛けようと目論んで・・・

 そして母ちゃんですら、オレのことが分からなかった。

「・・・トゥーツ?」

 母ちゃんは言った。

「あなたなの?」

 父ちゃんはちょうど仕事から帰ったばかりだったが、大量のテレビン油(※ニスや塗料の薄め液)と刷毛でオレを洗うハメとなった。父ちゃんはこの作業を頭のてっぺんから始めたのだが、薄め液というのはこれがまた、マジで沁みる。それからバスタブにお湯を張ると次はそこに浸された。これもまた痛くて、皮膚が剥がれ落ちるかと思った程だ。

 両親とて、何度も苦心をしては、こんなオレを変えようと試みた。だが当時、子ども相手の心理学など浸透してはおらず、ましてや貧乏人のガキなどその範疇ではなく、自分はただ野放しで走るに任された。そんな両親に唯一できたのは、ともかくわが子を許容し続ける、ということだけで、自分が12歳になる頃には、オレはもはや制御の効かない、悪意と悪知恵に満ちたワルになっていた。

 (※86歳になった)今でも、あの時の悪事をいくつか覚えている。

 自分と友達は、長い針金を用意して、トイレットペーパーを公衆電話のお釣りの出口に突っ込むと、しばらくしてから戻って、鈎状にした針金でトイレットペーパーをどけて回った。そうすると、トイレットペーパーの奥にあるコインで、だいたい一週間くらいは遊ぶ金として十分に使えたのだ。

 また一度、列車の駅でレッド・カーを待っていた時、運転士に無視されて列車が止まらず、オレ達は次の列車を待たないといけないことがあった。ムカついたオレ達は、硬めの車軸用グリースを持ってくると、運転士が駅に停車する際の、ブレーキ開始点の線路上に塗りたくり列車を待った。駅では毎朝、3人の女の人がガーディナへと通勤していたのだが、彼女達がいつものようにプラットフォームに立っていると列車がやって来て、これもまたいつも通りに定位置でブレーキをかけた。ところが列車は止まらずにそのまま走り続ける。彼女達も運転士にわざと無視され、このままでは仕事に遅れてしまうと思い、金切り声を上げることとなった。

​ レッド・カー。画像は1940年代のカラー写真。日本では考えられないが!?本文から見るに、当時はいわゆる「バス停飛ばし」が電車でもあったと思われる

昔から日本人が多いことで有名なトーランス

1920年代の絵葉書

https://www.torranceca.gov/home/showpublisheddocument/47243/636808979700770000

 だが一方の運転士は一体何が起きたのか見当もつかない。彼は何とかして列車を止めると、外に出て線路の上にあがると思いっきり滑ってこけ、そこで全てを理解した。彼はシャベルで土を集めるとグリースの上にまぶしてかけなければならず、列車をバックさせるとご婦人方を乗車させ、あまつさえ彼女らの苦情の嵐にも耐えねばならなかった。

 また自分は街の周辺で、誰がワインやビールの類を自家醸造しているのかも知っていた。(※当時アメリカは禁酒法時代)あの人達は小規模な密造業者にして、自分達のお隣さんでもあったのだが、大恐慌の時代の金になるなら何でもやる人達だった。多分、自家醸造したのを半分は売って、残りは自分で飲んだんだろう。当時は土曜日の夜になると、誰もが映画に出払ってしまう。オレらはそこを狙いすまして家に押し入るとせっせと酒を盗んで回り、盗んだ酒は並木道りの人気のない所に掘ったほら穴に隠した。可哀そうなのは被害者達で、オレ達はいけずうずうしくも、犯行後にいい感じで酒に酔ったまま外に出てプラプラ歩いていたのだが、彼らは自らの危険を冒してまで、警察に被害届を出すことができなかったのだ。

 とはいえ、ハモサ・ビーチでビールなんか飲んでいれば、捕まるべくして捕まってしまう。そこで自分は逮捕の網を搔い潜る名案を思い付いた。当時、理由は忘れたが、オレは牛乳屋でアルバイトをしていた。理由なんてどうせ、どっかでしでかした悪さの弁償かなんかで働いてたんだろう。職場で牛乳瓶を一つ失敬してくると、白いペンキを流し込み、転がしてペンキを回して内側を塗った。それから上下逆さまにして新聞紙の上に置くと一晩おき、今度は日向に出して3日間、乾かした。で、それにワインかビールを入れてビーチに行けば、ライフガードにとってこっちは、牛乳を飲む清潔感のある「よい子」となるという算段だ。

 あとこれは、昔からよくある教科書通りなイタズラだが、教会のベルをガンガン鳴らして街中を叩き起こす、というのもやった。まずはどうやって教会の尖塔に登るかを調べ、登るとピアノ線をベルの周りで縛り、ピアノ線の反対側の先を尖塔沿いの壁に垂らす。ピアノ線はそのまま通りを渡らせて、オレはそこにある胡椒の木に登った。夜の9時半か10時には、商店はどこも軒を畳み、通りはほぼ真っ暗になる。オレはそれを待って、相棒とピアノ線を引いた。

 ディング・ドング!ディング・ドング!

 胡椒の木からは、一瞬にして至る所で家に灯りがつくのが見え、人がどんどんと外に出てきた。一人の女の人に至っては、胡椒の木の下まで来ると、

「オー、マンマ・ミーアー!なんてこと!これは奇跡だわ!」

 とか言っていた。ま、すぐ上にオレがいるのを見なかったのは確かに奇跡ではあったが。それから消防車と警察が来る頃には、オレはさっさと現場から姿を消した。

 他に大好きだった悪さは、マイズナー・パイ・ショップという店からパイを盗むことだった。当時は土曜日の晩に、レストランが売れ残ったコブラーパイを人に配っていて、それで友達とオレが一度、

「オマケに貰えるような、形の崩れちゃったパイなんかないかな?」

 と店で働いている男に言った所、そいつがオレの眼の前で、店の網戸のドアをガツーンと閉めやがったのだ。そこでパイを盗みに入っていた訳だが、ところがこれを真似した別のワル共がいて、しかもそいつらは捕まると、今までの犯行は全部、自分達がやったと自慢げに言いふらした。これにオレとしては、本当の犯人は未だ逃走中だと警察に教えてやりたかったので、自分らの一味はさらにパイを盗みに入った。その次の日のトーランスの地元紙の見出しはこうだ。

「マイズナー、またもや襲撃される」

 幾つかの事件については、未だこの歳でも恥ずかしく思うことがある。

 8歳の時、オレは牛のいる酪農場で働いていた。その時、一匹の雄牛が怒ってこっちに突進して来ると、オレはフェンスの向こうにダイブして逃げねばならず、お陰で引っ掻き傷はできるわ痣はできるわで散々だった。その後、オレはデイジー社製のBBガン(※鉛の丸い弾丸をガスで飛ばしたいわゆるガス銃。プラスチック弾ではない)で、その牛の長くてブラブラしたタマに、タマを浴びせてやった。その結果?牛はメチャクチャに怒った、とだけ言っておこう。

 このBBガンは、新聞配達の順路で犬に噛まれた時も、再び利用されることとなり、すると犬は二度とこっちに歯向かってこなくなった。

 学校では、オレは女の子に向かってスピット・ワッドをしまくっているので有名だった。ただこんなことをすれば、教室の壁に向かって立たされるのは避けられない。ところが一度、オレがやってもいないこの吹き矢で、ある女教師はオレを壁に立たせた。オレは放課後に、この教師の車のタイヤの空気を抜いてやった。あと、クラスメートにロジャーというのがいて、一度、口喧嘩をした後に、奴は後ろからこちらを殴ってきやがった。そこでこっちは放課後に待ち伏せして、ボコボコに殴ってやった。するとその後ウチにロジャーとその父親が、お前んとこのガキが、かわいそうにもウチのの鼻を折った、と怒鳴り込んできた。その態度はかなり強引かつ、しつこいものだったので、叔父さんのバートはその父親を、玄関先のポーチからぶん投げてから、その鼻も折ってしまった

スピッドワッド

紙を巻いてストローを作り、唾で丸めた紙を弾にして行う吹き矢

​イタズラの定番!?

フェイス・ザ・ウォール

アメリカで言う、廊下に立たされる!?

 そんなことばかりしているうちに、自分は喧嘩腰で反抗的な人間としてすっかり出来上がってしまった。確かにウチは貧乏だったし、それは辛い時もあった。でもだからと言って、「オレには不良になる以外、道などなかった」という訳ではなかったハズだ。誰も自分を何も言えない程にブッ叩いたり、完全に無視したりはしなかったし、父ちゃんだって家族の食費で酒を飲んだりはしなかった。それに母ちゃんだって、不必要にガミガミ言ったり、だらしなくて整理もできないという訳ではなかったから、家庭環境のせいにはできない。自分は家族のことが大好きだったし、父ちゃんがオレを叩く時は、悪いことをしたから当然だってのも分かってたし、自分を躾ける父ちゃんを尊敬だってしていた。自分はただ、自分のしたいようにしていただけなのだ。ことわざで言う所の「他とは違って、丸い穴になじめない四角い杭」って奴で、自分は社会に馴染めないだけなのであって、自身が恵まれていることも分かってはいなかった。これは他の子にも同じことが起きるのを長いこと見てきたが、何の不自由も問題もなしに育ってきた子が、ある年齢になると、いきなりポンっと問題を起こしたりもするのだ。

 

 教会に関しては昔はカソリックに行っていて、靴なんか履かずに裸足で行ったりしていた。(※当時は農場等の仕事が当たり前で、普段は汚い恰好でも日曜は正装した)教会は家から8ブロック先で、一度、途中で寄り道したりしたので、遅れて到着したことがある。着いてみると教会は人でいっぱいで、自分は端っこに空いていた席に座った。すると驚いたことに、司祭は説教を途中で止め、祭壇から降りるとオレの真ん前まで来て、オレの耳をひっ掴むとねじって言った。

「家に帰って、なぜ遅れたのかを、お母さんに書いて貰って来なさい」

 オレはこれに怒りに震えた。司祭をブン殴ってやりたかった。だがその代わりに、憤然としながら外へ出た。

 家に着くと母ちゃんに言った。

「あんなとこもう二度と行かん。行くぐらいなら死んだ方がマシだわ」

 それからというもの、オレはその司祭を徹底的に避けた。とはいえそこは小さな街のこと、そこいらで会ってしまうのは避けられない。相手が道の向こうからやって来るのを見ると、オレは別の通りに迂回した。奴がこっちにデカい声でガアガア喚き散らすなど、2度とゴメンだった。日曜日はそんな教会の代わりに、仲間と別のバプテスト教会(※プロテスタント)に行くことにした。父ちゃんと母ちゃんにしてみれば、教会ならそれでいいだろうということで、10セント硬貨(※150円)も持たせてくれた。それは寄付のプレートに載せるためのものだったが、オレはそんなことには使わず貯めておいて、レドンド・ビーチの埠頭にあったジェット・コースターに乗った。一方でウチの両親は、教会に行っていなかった。2人はそこまで熱心ではなかったし、しかもかなりの金欠で人に寄付するなんて余裕はなかったから、司祭が家に来て寄付を求めたりしても、彼があきらめて帰るまで居留守を使って鳴りを潜めていた。

 1913年~1923年までレドンド・ビーチにあった木製コースターの、ライトニングレーサー。左:絵葉書 右:下記動画より

https://amusementparkives.com/2017/12/06/lightning-racer-1913-1923/

https://www.youtube.com/watch?v=OvH1O7vi1hc

動画は6:19から

 こうなるともう、オレは自然と年上の不良ともつるむようになり、一線を越えるようになっていく。向こうもこっちの噂を知っていて、あらゆる種類の悪さにオレを加えたがり、こちらも荒れた内面の表現方法を習得して、自分のグループを結成するまで相手のさせるままにした。ジョーン、ビリー、オレ、それに女の子ですらが一人、社会から捨てられた人間として一つの想いを共有した。自分達に眉をひそめる奴になら、誰にでも目にモノを見せてやるのだ。そしてひとたびこの「家族」を守るということになると、オレの復讐への想いは、激しく燃え上がった。

 自分達は系統だって動いていた訳ではないが、一つだけ明確なことがあった。指示は「司令塔」と呼ばれる、オレが出すということだ。何をするかはオレが考えた。盗みは一種のスポーツで、こんなに興奮することはなかった。他人を出し抜いてやるのはたまらなかったし、色々ぶっ壊してやったし、追いかけられるのも最高にドキドキした。—まあ、これは捕まらなければの話だが。チョコレート・バーからカー用品に至るまで、オレ達は何でも盗んだ。そして悪さのネタが尽きてやることがなくなると、街をブラブラしては他の不良を見つけ、挑発してはBBガンを撃ち合ったり、殴り合いをした。捕まれば怒りに打ち震え、知恵を絞って恨みを晴らすまで、そのことしか考えられなかった。

 デイジー社製BBガン:後年の日本では、マルゼン社が80年代に作ったプラスチック弾を、バネで飛ばしてもBBガンと呼ばれたが、デイジーのそれはガスを充填して鉛やスチール製の丸い弾丸を撃った、いわゆるガス銃。可愛いイラストとは裏腹に、至近距離で食らえばシャレにならないのは言うに及ばず、時には人の手の指の骨まで貫通した(レントゲンはWikiより)。日本でも昔は不良が持っていたのみならず、さる「アルピニスト」が自伝で子どもの時分に、これで野良猫の脳天や友達の腿を撃ち抜いた記録が残る

 体も例のサンドバックとウェイトで鍛えていたから、もはや喧嘩の際の攻撃はもちろん、身を守ることに二の足を踏むこともなかった。一度ダウンした相手を攻撃したりはしなかったが、しかし向かってくるなら無論叩きのめしてやった。

 また腹いせのためなら、どれだけ時間がかかろうとも待った。相手に非があろうとなかろうと、そんなことは問題ではない。その時もオレは、隣町のロミータから来たある男を数週間に渡って待ち続けていた。以前に奴のパンの配送車からパイを盗んだのを、奴が警察にチクったお陰で、オレは弁償をさせられていたのだ。毎日それを思い出すたびにオレには怒りがこみ上げ、報復の瞬間を何度も思い描いていた。そしてある晩、奴がトーランスの映画館から連れの男と一緒に、歩いて出てくるのをこちらは見つけた。暗い通りを行く奴らを尾け、相手を呼び止める。

 2人はこちらより年上で体もデカかったが、向こうがオレを見てバカにして笑うのを見て、頭に血が上った。まずは連れの方から殴り倒すとそいつは逃げだし、それから警察の犬野郎へと向かう。何度も何度も殴っては殴り、ダランと転がり道の側溝にハマってしまうまで止めなかった。そして、そのまま放置した。

 家に帰ると部屋に行き、服を脱ぎ捨てると、小刻みに震えながらベッドに潜り込んだ。それからきっと悪夢を見ていたのだろう、ハッとして目が覚めると、体が恐怖で硬直していた。毛布が床に落ちており、部屋には明かりがついている。そしてなぜか母ちゃんがそこに立ち、すすり泣きをしていた。

「あなた・・・ケガしてるじゃない・・・」

 手を挙げると、そこには血がべっとりとついていた。シーツや服にもついている。一瞬、心臓が止まったかと思ったが、しかしそれは自分のものではないことに気がついた。

「大丈夫だよ・・・ちょっと喧嘩になっただけで・・・」

 母ちゃんが自分の部屋に戻ると、オレは手を洗った。しかし自分は一晩中震えながら、パン屋のトラックの彼を一体どれほど酷く殴打してしまったのか、ずっと考えていた。今まで喧嘩をする時に、相手が本当に死ぬなんてことは一度も考えたことがなかった。

 次の朝、自分は嫌がる体も無理矢理に、恐る恐る現場に戻ってみた。するとそこに被害者はいなかった。そしてそれから2日間もの間、自分は心配で堪らなかったのだが、その後になって例の車を運転している彼を見かけた。彼の顔は腫れあがり、包帯でグルグル巻きになっていた。その瞬間、自分は大きな歓声を上げたかった。それは彼が生きていたからではない。もちろんそうではなく、奴にヤキを入れてやった!そう思えたからだ。

 

 オレは日に日に、不規則に過敏になっては苛立つ、その度合いを増して行った。一瞬、喧嘩腰になったかと思えば、それから急に明るく楽観的になったりする。長い間そんな自分に振り回されてきた両親は、ある晩の夕飯時に、遂にその一言を口にした。

「どうしてあなたは、どうしてお兄ちゃんにみたいに、いい子になれないの?」

 これは自分の心に文字通り突き刺さった。しかし感情的になる代わりに、むっつりと不機嫌に押し黙った。

「どうせオレなんかより、ピートの方が大切なんだろ」

 この一言に両親はショックを受けたらしく、一瞬何も言わなくなり、それから母ちゃんは涙を堪えながら言った。

「ルーイー、これだけは言わせて。もし神様が、私に子どもの一人を捧げろなんて言っても、私は絶対にこの子、なんて選んだりはしない。例え神様相手でもよ」

「じゃあさ・・・」

 オレは口籠りながら言った。

「なんでオレにばっか当たるんだよ」

「じゃあ一体、どうしろって言うのよ!」

 母ちゃんは言い返した。

「あなたなんて、私がゴミを捨てておいてってお願いしても、ちょっと待ってなんて言ったかと思えば、いっつもどこかに消えるじゃない!」

 オレは母ちゃんがこの手の実例を、ずらずらと他にも挙げるのを覚悟したが、しかし母ちゃんはそうはせず、代わりにテーブルから跳んで出ると、泣きながらベッドルームに走って行った。これは堪えた。傷ついた母さんを見るのは何より堪えた。だが自分がその時にしたのは、嫌な顔をして乱暴に椅子を引き、不機嫌に席を立つことだけだった。

 別に、自分はピートに嫉妬していた訳ではない。母ちゃんはピートの方が大切なんだろうなんて思ったりしたのも、別にピートが悪い訳ではない。自分はピートを尊敬していたし、我がヒーローでもあった。ピートは自分の友達とどこかへ行く時は、オレを連れて行ってくれなかったが、それでもオレはついて行った。それで何度かは、オマエは帰れなんて強く念を押さないといけなくなったりもして、その時は酷いと思ったが怒ったりはしなかった。子どもの頃の2歳下の弟ってのは、10歳くらい下に見えるもんだ。でもそれ以外は兄弟は仲が良かったし、やがては一心同体とでも言うようになった。部屋も一緒で、ゲームなんかもしてよく一緒に遊んだ。外の草の上でしょっちゅう一緒に寝たりして、暑くて寝苦しい夜なんかは特にそうした。

 ピートがよその子どもに酷い目に遭わされているようなら、オレは拳を振るうのも厭わなかった。自分が13歳の時、地元のピートより1フィート(※30CM)はデカいだろういじめっ子が、自分達の家の半ブロック先でピートを壁に追い込んでいた。奴はピートを小突いては脅し、喧嘩させようとしていて、ピートはそれにずっと堪えていた。オレは学校から家に帰る途中、その騒ぎに気がついた。そしてもう一度ピートが小突かれた瞬間、オレはすぐさまその場へ入り、相手の口にめがけてパンチをお見舞いすると大急ぎで逃げ出した。奴は家のすぐ前まで追いかけて来たが、オレは間一髪、家に逃げ込んだ。

 だが今は、そういう話の問題ではない。オレはピートと比べられることだけは我慢ならなかった。その結果、自分はさらに自分の殻に閉じ籠るようになった。家では他の家族との接触を避け、自分の寝具類は庭に移した。もし誰かが玄関に来ると、ガレージに逃げて来客が帰るまで待ち、食事でさえ家族とは一緒に摂らないようにした。自分の中ではオレは一人で生きていることになっていて、これをやっていると結構情けない気分にもなったが、それはそれで悪くはないのもウソではなかった。

 

 一方で嫌だったのは、警察に捕まって遥かロサンゼルスにある、少年院送りの危険を冒すことだった。ある日、また何かの悪さで捕まると、トーランスの警察署長だったコリアーさんという人が(※ Chief Collier of the Torrance Police)、オレを地元の刑務所に囚人と会わせるために連れて行った。コリアーさんは囚人2人が一つの監房を使っている前で、わざと留まるとオレに聞いてきた。

「土曜日はいつもどこに行くんだ?」

「ビーチに行くね」

 オレがそう言うと、コリアーさんは監房の方へ向かい、肩をすくめながら反論した。

「ここへ入ったらな、ビーチになんか行けないぞ、ルーイー。オレ達はオマエの両親を心から尊敬してるんだ。でなきゃ今頃、オマエなんか少年院だぞ。言っておくがオマエが懲りないなら、最終的に来るのはここだからな」

 向こうがこちらをビビらせたいのは分かったが、それでもこれはジワジワと効いてきた。自分にとって自由は何よりも大事だったからだ。すると急に、オレはもっともっとうまいことやって、もう二度と捕まらないようにしなければならない、そう肌で悟った。数日後、この日もオレはムカつく権威への、舐めんなという想いをさらに表明すべく、木の後ろから飛び出すと、手に持った腐ったトマトを警察官の顔面にぶつけてやった。が、それだけすると、相手の視界が回復する前にさっさと逃げた。ヒット&アウェイ!これが自分の新しい戦術になったのだ。ターゲットには颯爽と去って行く、こちらの影しか見えない。

左:白い帽子がコールダー署長で、その左が後任のストロフィー署長

右:真ん中がコールダー署長

http://blogs.dailybreeze.com/history/2019/02/16/chief-stroh-leads-torrance-police-department-into-the-modern-era/

 父さんはいつもオレの手を必要としていたが、そんな時はいつも逃げたくて仕方なかった。一度、当時の相棒だった、ブロンドで四角い頭のジョニーと貨物列車に飛び乗って、サンディエゴまで行ったことがある。その晩は橋の下の河原で寝た。次の朝起きると、川の足首くらいの深さの所を、1匹の雄牛が行ったり来たりしていた。子どもってのは、大人とは考えることが違う。オレ達は自分達で、ロデオがしたくなったのだ。まずはジョニーが牛に飛び乗り、あっさり振り落とされた。次にオレが飛び乗ると、雄牛は背中を曲げ跳ね上がって走り、オレは近くにあった切り株の上に振り落とされた。ちなみに切り株というのは、キレイにスパンと切らない限り、端には必ず尖った皮が残る。そしてこの時、これはオレの膝頭を危うく切り落とすかと思われる程に切った。オレはハンカチを2つ使って固く巻き、患部全体を固定した。

 自分達は家に帰るべくヒッチハイクを試みた。が、誰も止まろうともしない。ところが運よく近くにはガソリン・スタンドがあり、ジョニーはそこで一人の男に、有無を言わさず詰め寄った。

「ちょっと本当に困ったことになったんだ。自分の連れが膝頭をメチャクチャに切っちまって、トーランスに住んでるんだけど、帰ろうとしてる」

 彼はオレ達をロングビーチまで乗せてくれ、そこから家に電話をすると、父さんがオレらを迎えに来た。母さんは、こんな時でも無限の忍耐力を持って、例の隣りの看護婦の人と、オキシドールやヨードチンキ、殺菌オイルを傷口に塗ると、包帯を巻いてくれた。

 ところが懲りないオレは、傷が治るとすぐさま、またしても新たな旅に出た。一度、ジョニーとオレは北に向かう箱形の貨車(※ボックスカー)に乗り、そこで寝たのだが、この貨車にいたのはオレ達だけでなく、反対側には2人のホーボーが寝ていた。

 こっそりと!?ボックスカーに乗るホーボー。ホーボーとは大恐慌時代等に仕事を求め、アメリカ中を無賃乗車やヒッチハイク、季節労働で回った人達。その生活スタイルはアメリカ全体に影響を与え、ヒッピー・カルチャーや路上文学を生み、ジャック・ロンドンやスタインベック、エリック・ホッファにジャック・ケルアックといった作家達も輩出した。日本のサラリーマン文化には理解など皆無だろうが、路上に生きる人にも立派な人はいる?いない?

https://www.spokesman.com/picture-stories/2011/aug/21/hobos/

ロデオ:暴れる馬や牛にどれだけ乗っていられるかを競う、競技というか、むしろ度胸試し!?

 そしてタチの悪いことに、奴らは夜明けの直前にこちらを襲ってきた。車輪が線路の上で絶えずガタゴトとデカい音をたてていたせいで、オレは文字通り浮浪者共が財布に手をかけるまでその動きに気づかなかったのだ。これに自分はすぐさま跳ね起きると「ジョーン!」と叫び、ジョンも飛び起きると奴らに襲い掛かった。向こうは当然こちらより年上で、手加減などする様子など全くなかったが、しかしオレ達はこの手の喧嘩なら負けなかった。奴らを散々にのしてやると、だいたい時速30マイル(※50キロ)ぐらいで走っている列車の上から2人とも投げ捨ててやった。体には間違いなく、生涯忘れられない痣ができただろう。ま、こっちの知ったこっちゃあないが。

 また別の旅で、オレとジョニーは南に向かう列車に乗って、車両と車両の間にしゃがんで過ごした。今回も貨車には先客がいて、夜になるとこの浮浪者がボックスカーに寝転んで、線路の上に腕をブラブラさせるのをオレ達は見ていた。オレもそれを真似してみたのだが、しかし体勢を探っていると列車は曲がり道に差し掛かり、激しく傾いた。オレは何とか貨車のブレーキ・アームに掴まったが、いびきをかいていた浮浪者には何の警告もなかった。男は貨車から振り落とされると線路に落ち、さらに車輪に轢かれ、体が真っ二つになったのだ。その様子をしっかりと見てしまった自分は、その晩一睡もできなかった。

 

 一方ピートは地元の高校で陸上チームに入ると、1マイル走(※1・6キロ走)のスター選手になっていて、オレにも何かと陸上をするように仕向けてきた。だがこっちからすれば、部活なんてもんは子どもの遊びにしか過ぎない。それでも学校でバスケの試合がある時だけは顔を出した。なぜなら信じられないことに、ウチのグラマシー・ストリートの家の鍵で、学校の体育館の鍵が開いたのだ。試合には入場料が必要だったのだが、オレと仲間達はそのちょっとした金額すら払わず、誰かがこれをチクって鍵が交換されるまで、好きに中に入っていた。

 そしてこれは大きな問題となった。校長、両親、警察署の署長。彼らの許容量はもう限界だったのだ。学校の罰則規定では、生徒達は減点方式を採っていて、学年の最初には全員が100点持っている内、20点を失うと呼び出しを食らう。オレの場合100点など、とうの昔に全部なくなっていて、さらにおそらくマイナス15点はいっていたろう。あまりに酷いのでこのマイナス点は、来年の9年生(※日本の中学3年)に持ち越されることとなり、部活やその他の学校行事は、やりたくとも参加できないとのことだった。とまあオサンカタはオレに「バッソク・キテイ」だか何だかについて説明するのだが、聞いていてこっちは思わず、彼らの面前で笑いそうになってしまった。で?だったら、何だっつーの?

 が、こちらもマジでヤバいと思うことがあった。精神病のレッテルを張られてしまうことだ。今ともなれば、とても信じられた話ではないのだが、当時は精神に障害があるとされた子ども達は、去勢手術をされる可能性があったのだ。これは精神病が遺伝すると考えられたからだ。だが幸いにも、皆、オレは「うざい」だけで、頭がおかしいとは思っていなかった。

 神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」より、1936年12月13日読売報知新聞

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10066553&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 優生学と断種:当時世界では、「劣った」人間に子ども作らせず、「優れた」人間、人種だけを後世に残すことで「優れた世界」ができると考えられていた。つまり人間(人種)には優劣があり、優秀な個体のみが生き延びることは社会の改善になるとされ、日本ではハンセン氏病患者への断種が有名だが、一方「アンブロークン」ではアメリカのケースが記述される。

 —「欠陥人間」を除去すれば、人類はよりよいものになるというのが(※優生学の)うたい文句だった。知的障碍者、精神障碍者、犯罪者のほか、婚外で子供をつくった女性、親がいない子、身体障碍者、貧困者、ホームレス、てんかん患者、自慰をする者、視覚障碍者、聴覚障碍者、アルコール依存症の者、性器が一定の大きさを超えた少女がその対象だ」—

 これには実際にトーランスで近所の子が、「知的障害」とされ、断種の寸前までいったとある。幸いこのケースは周囲の募金や両親の法的措置、またピートと妹の家庭教師により、その子が学校でオールAをとって事なきを得たという。ルーイーはこれに心底震えあがり、お手伝いをしたりしてよい子になろうとしたが、母親には「どうせピートがやったんでしょう」と、信じて貰えなかったという

 少年時代のルイス・ザンペリーニは、トーランスのエルプラド橋を走る、太平洋電気鉄道でよく「お出かけ」していましたが、現在、トーランスの玄関口となっているこの建造物は、ルイ・ザンペリーニの少年時代から残る、唯一の物です—「トーランスの竜巻ドットコム」より

http://thetorrancetornado.com/

 しかしあの時は気づいていなかったのだが、警察が家に来ることにもうウンザリしつつ、自分の行く末をずっと心配してくれていた我が兄は、自分を不良から脱するべく、あるプランを思いついていた。そしてピートと母さんは校長の所へと足を運ぶと、減点について考え直して貰うよう、校長に頼み込んだ。

「自分達はルーイーの興味を、スポーツに向けようとしてるんです。何かやることを与えれば、街をうろつくのも止めると思うんです」

 ピートが言うと、校長は言った。

「それはそうだろう」

「でも・・・せっかくルーイーに陸上をさせようとしても、減点があってはできません」

 校長は眉を顰めたが、しかしピートはここでさらに押した。

「もしこれがいい機会になって、悪いこと以外でも人から注意を引けて、認めて貰えると分かれば、それが意味を持つと思うんです」

 校長はこれに折れた。そして自分が15歳で迎えた1932年の2月。カリフォルニアでは学年の中頃に生まれた子も、ほぼ一年を丸々遅れるということがないよう、冬に始まる少人数のクラスがあったので、1月生まれのオレも、晴れて9年生を「綺麗な通信簿」で迎えることができたのだ。とはいえ、学校へ行って陸上をやろう!なんてつもりは、誰かにやらされでもしない限り、さらさらなかったのは言うまでもない。

 

 新学期も始まって数週間後、学校ではクラス対抗の陸上大会があった。これにウチのクラスは、本気で勝ちたいようだった。ところがクラスには女ばかりで男が4人しかおらず、オレはこの内の一人だったのだが、残りの3人はデブかビョーキと、まあ頼りにならないのしかおらず、こうなると残りはオレしかいない。女どもはピーチクパーチクと凄い勢いで理屈を並べ、こちらの反論は覆され続け、そして当日の金曜日、やったこともないことへの不安と同時にバカバカしさを感じつつも、オレはもう女どもに何も言わせないためだけに、大会会場に足を踏み入れた。走る気といったら、半分くらいだったろうか。

 自分の出番は660ヤード走(※600M)で、アナウンスが流れるまで自分は、観客席用の雛壇の後ろに隠れていた。そして他の走者と一緒に並んで待った。スターター・ピストルが鳴るとオレは走り出したが、その脚は裸足で、腕はぱたぱたと上下させて走った。トラックの外ではそれを見て、ヘッドコーチがゲラゲラと爆笑していた。彼はそれからようやく息をつくと、隣に立つ地元の印刷工にしてボーイスカウトのリーダー、かつ陸上の臨時アシスタント・コーチ、ボブ・レウェレンに

「あの子じゃあ絶対に選手にはなれないなあ、あれじゃあ無理だ」

 と言ってからピートの方を向き

「誰だアレは?」

 と聞いた。

「あれはウチの弟です」

 ピートがそう答えると、レウェレンが言った。

「まあ適格な体格では、全然ないのでしょう。胸も貧弱だし足も細いし、フォームもなってない。でも、ガッツがあるな。陸上ではそれが重要だよ。陸上部には申し込んでるのかな?」

 ピートがそれに答える。

「いいえ・・・それどころか、今日ここに来るよう、お願いするだけでも大変で・・・あれじゃあもう、てこを使ってでも2度と走らないでしょうね。でも走れば、いい線行くと思うんです」

 結局オレは、ビリッケツだった。痛みが激しく耐えられたものではなかったが、それは何も精神的なものではない。酒にタバコに明け暮れ体を浪費して、惨めな体でもってこんなに情けないのなら、誰かにナイフで刺して貰った方がマシだった。オレはそのままヨロヨロとトラックを出ると観客席の後ろに隠れ、もう2度と走るかと思った。絶対に、だ。

 それから1週間後、ウチのチームはライバルであるナーボン高校と、シーズン最初の学校対抗・陸上競技会があった。するとピートはオレにこう言ってきた。

「ナーボン対トーランス。これは重要な大会なんだ。お前も出ないといけないよ」

「そんなことすんなら、死んだ方がマシだよ」

 オレはそう言ったが、ピートは引かない。

「でも、出ないといけないよ」

 オレ達は言い合いとなり、しかしピートの言うことにも一理あった。トーランスには660ヤードを走る人間が誰もいなかったからだ。一方ナーボンには3人もいた。オレは嫌々ながらも選手登録をすると競技の列に並び、スターター・ピストルと共に飛び出した。レースはゴールテープの100ヤード(※91M)手前の地点までは、ナーボンの2人が先行していた。残りの一人はその後ろに大きく離され、オレはそのさらに後ろを走っていた。自分としては別に、その彼に勝つかどうかは知ったことではなく、ただピートのためにやっていただけだ。するとウチの学校の生徒が、大声を上げているのが聞こえた。

「ルーイー!頑張ってー!」

 それまで自分はトーランスで、仲間や校長以外が自分の名前を知っているなんて思ってもみなかった。すると突然、自分はアドレナリンが身体中に漲るのを感じ、3番目のナーボンの選手を、1フィート(※30CM)程離してゴールしていた。

 その晩、ピートが言った。

「お前なら選手になれるかもしれないよ」

 ピートはオレに漲ったものも承知していて、ゴール前のスプリントの素質があるのも見出していた。

「そうかもしれないけど、体も痛いし・・・」

 オレはそれに泣き言で応えた。

「そんなもん、トレーニングすればすぐに消える。体が走るようになるんだから」

「ホントかよ・・・」

 するとピートは、オレの目を正面から見据えた。

「このままずっと、負け犬人生でいいのか?え?人に認められる人間になりたくはないのか?選手になれるんだぞ」

 心の中では知っていた。自分はいつでも負け犬だったのだ。十代にしての、負け犬人生。オレは将来、炊き出しの列に並ぶ自分を想像し、またトーランスにあったコロンビア社の製鋼工場の近くの歩道で見た情景を思っていた。そこでは清掃員達が、もの凄く暑い日に途轍もなく重そうな鋼を引きずっていて、汚れて不潔なまま汗を流していた。オレはそれを見て、頼むから将来、絶対にあんな風にはなりたくないと思った。だが真実はオレの胸に刺さった。自分が就ける仕事とはせいぜい、そこらにある最悪の仕事でしかないのだ。

 その晩、オレは決断せねばならなかった。トラックでの苦行なんてさっさとやめて、不良人生をこのまま続けるか?もしくは腹を決めて、勝つということはさておいても、陸上から得られる称賛ということくらいは、やってみるに値すると認めるか?実を言うと3位で貰った、あのささやかで小さな注目だけで自分にはかなり嬉しいものがあったのだ。

 オレは酒もタバコも止めなかったが、しかし嫌々ながらも陸上を続けた。ピートはそんなこちらに、放課後の練習をするよう仕向けてきた。オレが走ると後ろから軽い鞭を持ってついてきて、後ろからピシピシとケツを叩いて追い立てるのだ。これにはマジでウンザリして、実際やめてくれとも言ったがこの方法には効果があり、自分のランニングは向上すると、次のレースでは2位をとることができ、3位がもう一度あり、遂にはなんと1位になった!これには自分でも信じられなかった。そして次の試合も、さらにその次の試合も1位になると街の決勝戦まで行き、結果は5位だったがウチの学校ではこれが最高位だった。これにより賞品として、セーターにピンで留める青銅のボタンを貰ったのだが、自分にとってこれは、金のボタンも同じだった。

 

 学期が終わると、両親はオレに家の仕事を手伝わせようとしたが、これには鬱憤が延々と溜まるばかりだった。こうなるとまた、家出の虫がうずき出す。

 ジョニーとオレは再びにして、北カリフォルニア行きのボックスカーに飛び乗った。夏の夜の気持ちいい風を、自分は今でもよく覚えている。列車がサン・ホアキン・バレーを通る間、貨車の高い所にある狭い足場に寝そべって、オレはずっと空に輝く星を眺めていた。

 2人の持ち合わせは数ドルしかなかったから、食料は道行く果樹園で色々と失敬して行った。だがそれだけではとても充分とは言えず、サンフランシスコに着く頃には2人ともかなりの空腹で、気分も惨めなものになっており、するとおまけに天気まで崩れてきた。北部の方では夏の雨がとても冷える。オレは近くに溜まっていたホーボー達の所から、豆の缶詰を一つかっぱらうと一目散に逃げた。そしてそれを雨でずぶ濡れになりながら、冷たいまま2人で食べた。

 するとその「ディナー」の最中、オレは一両の旅客車が、南に向かって出て行くのを見かけた。窓越しには中の人達が見え、そこはあったかそうで、楽しい空気に満ちていた。食堂車が近くをゆっくりと通り過ぎると、乗客達は全員が食事のためにドレスアップしていて、真っ白いテーブルクロスの敷かれたテーブルで、クリスタルのグラスで飲み物を飲んでは蓋つきのディナー皿で食事をして、見るからに満ち足りている。それに引き換え、オレなんか食堂車に乗ったことすらない。って言うかそもそも、貨物に無賃乗車ばっかりで、旅客車両に乗ったことがない。オレは思わずジョニーの方を向いて言った。

「なんかオレ達さ、間抜けだよな」

 ジョニーは豆を最後の数粒まで食べようと、缶の底をトントンと叩いていた。

「あいつらを見ろよ。あの人達は何ていうかさ、列車にちゃんと乗ってるっていうか、人生はやっぱああじゃないと。オレだっていつか、あんな風に旅客列車に乗るぞ。いつかオレだってあんな人生を生きるんだ」

 ジョニーはそれを聞いても、もっと豆があったらなーとか言っていて、オレもそれ以上は言わなかった。ジョニーに弱気になったとは思われたくなかったのだ。しかし内心では、例え何があっても自分を変えてやろうと思っていた。汚れたまま空腹で、寒さに震え旅客列車を外から覗くなんて、もうまっぴらだったのだ。そしてオレはジョニーに言った。

「帰ろうぜ」

 それから苦闘の末、オレらは南行きの列車を見つけると、鍵のかかっていないボックスカーに乗り込み、鉄道保安員の奴らに見つからないよう隅に隠れた。そこには実際、一人の保安員が見回りに来たのだが、簡単な見回りをするだけで、こっちを見つけることはなく、終えるとバタンとドアを閉め、鍵をかけると封をして行ってしまった。

 その翌朝オレたちは貨車の中で、燃えるような暑さで目が覚めた。列車は動いてはおらず、外に出ようとするとドアには外鍵が掛かっていた。天井には跳ね上げ式のドアがあったが、どうやって開けていいのか見当もつかない。すると壊れたスチールの梯子の格子が1本目に入った。よく貨車の横に上に登るためについているような、あれが隅にあったのだ。ジョニーがオレを肩車すると、オレはその梯子のバーの端を使い、跳ね上げドアをひん曲げようと悪戦苦闘する。これには数時間もかかり、しかしそこまでしても、ドアは部分的にしか開けることができない。オレは頭を突っ込んで無理に通らねばならず、お陰で自分のデカイ耳を切ってしまい、胸には引っ掻き傷ができた。だがともかくは外へ出ると、屋根から貨車の横に降り立ち、外から鍵を開けジョニーを外へ出した。

 そして分かったのだが、列車は本線から外れた引き込み線に入ると、トゥーレアリの近くにまで来ており、オレ達は水を飲むためだけに、2マイル(※3・2キロ)程離れた小さな町まで歩かねばならなかった。そこには小さなレストランもあって、当時はTボーンステーキが、だいたい35セント(※600円弱。ステーキでなければもう少し安い)くらいで食べられた。オレ達はポケットの中身を搔き集めると、もう夢中で食事にありついて、それから貨物駅の所まで戻ると、南行きの新たな貨物に飛び乗った。

 その後、列車には保安員が一人乗っていると気づいた時、それはもう既に手遅れだった。貨車には波型の、幅20インチ(※50CM)×長さ30フィート(※9M)くらいの配水管がピラミッド状に積まれており、オレ達はその一番上の配管に潜り込んでいた。保安員がそこらを探っている間は、自分は音も立てず、じっとして耳をそばだてて待っており、こちらとしてはわざわざこんな高い所まで見ないと思っていた訳だが、ところが彼は徹底していた。38口径リボルバーの銃床を、波型の金属に向かって走らせると、配管の中では耳をつんざく程にうるさく、それから彼はこちらの眼の前に銃を突きつけると、今すぐ列車から飛び降りるように言ってきた。列車はその時、時速30マイル(※50キロ弱)くらいで走っていたが、迷いを捨てるとオレ達は地面へ飛び、着地するとそのままゴロゴロと転がった。

有蓋車こと、ボックスカーと、平台型貨車こと、フラットベッド

 それから線路沿いに、3マイル(※5キロ)くらい歩いた所に、小さな引き込み線があった。そこでは屋根のない平台の貨車の上に、トロッコが3つ重なったのが汽車に引かれて出ていく所だった。そこの下の所には、例によってホーボーが3人寄りかかって乗っていた。そんな所にいればすぐに見つかるというのに、何とまあバカな奴らだろうとオレは思い、ジョニーとオレは一番上のトロッコへと登った。それから1時間もすると、オレ達は2人とも催してきて、その場で「散水」することにした。ところが金属の床は小さな穴のあいた床になっており、するとほぼ同時に下から、「おいコラてめえらふざけんな」という叫び声が聞こえて来た。

 それから汽車はトンネルに入ったのだが、その時になっても、「散水」を食らった下のホーボー達は、まだぶつぶつと文句を言っていた。トンネルの天井は低く、自分たちの頭上、2フィート(※60CM)位までに迫って来て、オレ達は身を屈めることになった。するとその瞬間、自分達の体は巨大な蒸気の雲で覆われた。蒸気機関のエンジンから後方に流れるそれは火傷する程に熱く、ジョニーとオレはジャケットを頭の上に張り出しこれを防いだ。そしてその時、どうして3人のホーボー達が下の「部屋」にいるのかが分かった。トンネルを抜けると自分達は互いを見て、2人共ミディアム・レアに焼けちまったと言い合って、それから下の方へ行こうと試みたのだが、しかし汽車はその前に別のドンネルに入り、そこでのさらなる「蒸し風呂」が終わった後に、自分らはダッシュで2番目のトロッコへ降りた。

 ロサンゼルスの貨物ターミナルに着くと、パシフィック・エレクトリックの発着場まで歩いて行き、トーランス行きのビッグ・レッド・カーに飛び乗った。ここまで来るとジョニーもまた、家から逃げても結果なんてロクなもんじゃあない、という結論に達したようだ。自分らが見て来た世界というのは、決して家族のようにオレらを愛してくれたりはしなかったのだ。

 家族はそんな自分を、心からの笑顔かつ諸手を挙げて暖かく迎え入れてくれた。こんな、オレみたいな子どもに対して、だ。そしてもう、オレは文句を言わなくなった。これからはどんな仕事でも手伝うつもりなのを、ちゃんと父ちゃんにも伝えた。最初の仕事は家の塗り直しだったのを覚えている。

 その夜、ベッドで自分はピートの方を向いて言った。

「兄さんの勝ちだよ。選手になるために、オレは全力を尽くす」

 今思えばあれが、我が人生初のまともな決断だったろう。

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