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第10章 ヤギ死んだらオマエ死刑

If Goat Die, You Die

 オレには想像もつかない。報復のためにバードを大森から転属させ、オレをぬか喜びさせてから、奴の新たな支配下に送り込んで再びブチ壊す。自分を幽閉してきた人間達の悪質性を考えても、奴らはそんな計画をする程にかくも陰険だったのだ。

 自分一人のためだけに、こんなことはすまいとも思う。しかし、そうとしか思えない。

 奴らはオレがバードのことを、腹の底から嫌っているのを知っていた。自分が奴らのプロパガンダ計画をブチ壊し、それで懲罰収容所行きで脅された時に、こちらはもうほぼ喜んで反応してしまっていた。渡邊とは別の場所に行けるのなら、炭鉱だろうと塩山だろうと、自分は厭わずに働いただろう。夜な夜な今まで何回、奴を絞め殺す夢を見てきたことか?オレが最も恐れることを実現させる以上の天罰があるだろうか?この計画は憎悪に溢れていながら、秀逸にすら見える。

 だがバード自身は一体、どんな立場なのだろう?これは奴の発案なのだろうか?もしくはオレをラジオ東京に協力させることに失敗したが故の直江津への左遷なのだろうか?それで絶妙な捨て駒よろしく、さらなるオレへの拷問に使われるということなのだろうか?奴は4-B収容所を仕切っていたのかもしれないが、望んだ場所は間違いなくどこか別だったハズだ。

 この陰鬱たる事の真相はともかく、今となっては自分達の切っても切れない運命と言うものは、ただの偶然以上の何かだったのだと考えている。

 

 直江津はアバ川の西側の土手より上った場所にあり、日本海から2キロ程の地点に位置していた。4-B収容所はおそらく50平方メートル程で、2つの川の合流点にあり、囲いはあったが有刺鉄線は使われず、総員5人から6人組の看守で、少ない時で50人、多ければ300人もの捕虜を監視していた。

 どこの収容所にいても、オレの頭のまず始めにあるのは脱走することだったが、大船や大森と同じく、オレはこの妄想は内に押し込めるようにした。大船で行われた「脱走を試みる者があれば、無実の捕虜も撃ち殺す」と言う威嚇は、既に全国レベルの布告となっていたのだ。自身の自由のために誰か他の人の人生を犠牲にするなど、できようはずもなく、その代わりオレは、戦争が早く終わって皆が自由の身になることを願って、できるだけ持ち堪えることにした。

 東京への襲撃は、自分達を鼓舞するという以上のもので、いかなる艱難辛苦でも耐えてやるというような、そんな力をオレ達の魂に与えてくれていたのだ。

東京俘虜収容所第4分所(直江津)再現図

塩蔵(おそらく捕虜棟は)を改造して作られた。(1980年2月6日付新潟日報より)

  現在と当時の比較写真。アバ川とは荒川のことで、関川の旧名。直江津収容所は現在の関川と保倉川の合流点にあった。イギリスの雑誌、「After the battle」紙・デイビッド・ミッチェルヒル・グリーン「最悪を極めた日本の捕虜収容所」より https://www.docdroid.net/GpJqrc6/naetosu-japon-pow-ejecucion-sgt-siffleet-after-the-battle-169-pdf

 東京の周辺では、連合軍がいつ侵攻して来てもおかしくないのを承知で、そこだけで25万人の市民が武装していた。もしこちらの軍隊が日本の国土に上陸したら、全ての捕虜は処刑される。―そんな噂も広まっていた。オレ達はもう幽閉されているというのに、どうしてそんなことをするのか?当局の考えではオレ達が一番の脅威だということで、一夜にして部隊を結成すると、内側から攻撃を仕掛けると言うのだ。事実、その可能性については既に収容所内では議論が交わされ、しかし結局の所、こちらの軍隊が侵攻を始めたらオレ達の唯一の選択肢と言ったら、散り散りになって逃げる他ないという結論になった。自分の身は自分で守らなければならないのだ。オレ達は沖縄や他の太平洋の島々でのように、日本人は最後の一人まで戦ってくるのも知っていた。飢餓に苦しむ丸腰の男達が、これにどうやって応戦しろというのか?オレ達にできることと言えば、夜の内に逃げて丘に逃げ込むというくらいしかなかったのだ。

 

 また日本人に殺されなくとも、先細る一方の食料の供給は餓死の危険性を示しており、また凄惨な冬も避けられず、これらは同時に自分達を襲うことが考えられた。実は既にオレが直江津に到着する前の冬に、(300人の捕虜の内)81名にも及ぶオーストラリア兵達が、肺炎や飢餓、強制労働や残虐な処置により死んでいたのだ。さらにオレがそこにいる間にも、収容所の仲間達の3人に1人が生き延びることなく死んでいった。

 オレ達がすることと言えば強制労働だけで、これには士官も参加させられた。毎日捕虜の一群は、それぞれ近くの製鋼工場や列車の車両基地、港に向かって行進して行く。オレ達は皆、靴を持っていたにも関わらず、そのほとんどは仕事場までの2マイル(※3.2キロ)を、つまり3月の雪と氷の上を、足にボロ布で巻いた素足の状態で歩いた。なぜならバードがこんなルールを作ったからだ。―靴を汚した者は誰であろうと殴打を受け、コレを舐めて綺麗にしなければならない。

 渡邊は全ての捕虜に、熱が103度(※39.44°)以下なら仕事に行くよう要求し、104度以上なら居残りが許された。捕虜達は働くか死ぬかの選択をさせされ、場合によっては、そのどちらを選んだにせよ死亡した。そしてそれは全く予測がつかなかった。何の病気の兆候も見せない捕虜でさえ、労働隊から帰ると眠りにつき、そのまま二度と目覚めなかったりしたのだ。自分が仲間の足を蹴って、

 「おい、メシに行くぞ」

 と言っても、彼はピクリともしないのだ。そうなると自分達は、かわいそうな彼をソリに乗せ村の火葬場まで引っ張って行かねばならず、遺灰は小さな木の箱に入れられると、ネズミの待つ収容所本館の一階の小さな倉庫へと行った。そして他の小さな木の箱と一緒に積み上げられ、ネズミが薄い木を通してそれをかじってしまうと、遺灰は冷たいセメントの床に、そのまま散らばるに任された。

 

 1945年の4月、バードは全ての捕虜士官達に閲兵場に並ぶように命じた。奴は背中に手を回して立つと空を見上げ、そわそわとするこちらには、まるで関心もないかのようだった。それからようやくオレ達の上級士官である、潜水艦グレナディアー号のフィッツジェラルド司令官の所までゆっくりと近づいてくると言った。

 「ルーズベルトさん、彼は死んだ。死んだんだ!」

 オレ達はこのバードの発表に、何とか驚きマジメに悲しむフリをして、既に6時間前に製鋼工場の作業員からそのニュースは聞いてました、何て野暮なことは言わず、奴のご満悦な時間をそのままにしてやった。

 上坂冬子「貝になりたかった男」より、直江津収容所(東京俘虜収容所第四分所)の閲兵場。1944年のクリスマスの写真なので、ルーイー及びバードはまだ来ていない。赤丸の人物が、後述される河野広明上等兵。同書には裸足で工場を往復する話が出て来る。理由は民間人に捕虜が革靴を持っていることを見せたくなかったされるが、逆に裏がとれるとも言える。同収容所では実に5人に1人が亡くなったが、その内60名のオーストラリア兵と、1名のアメリカ人はPOW研究会で身元が特定され、オーストラリア兵は今も全員、横浜の英連邦墓地に眠っている 。        http://www.powresearch.jp/jp/pdf_j/powlist/tokyo/tokyo_4b_naoetsu_j.pdf

 天候も温暖になってくると、バードはこちらの士官数人に一人の年老いた民間人の看守をつけ、収容所から6マイルほど先の畑(※9.6キロ)に出した。ここは砂の多い土地で、ジャガイモを植えたのだが、こちらも収穫物が自分達の口に入らないのは分かっていた。オレ達は毎日、肥しを積んだ重いリヤカーを交代で引いては畑を往復し、その帰り道には、道路脇の置き去りだったり、捨てられている大根を拾って集めた。

 ある晩、バードは収容所のゲートで全員を検査にかけ、このくず食材を発見した。これに奴は激怒し、次の日オレ達を一般兵の分隊と一緒に送り出すと、直江津の防波堤の端に投錨している船から石炭の荷下ろしに使った。この仕事は不衛生で汚れるばかりでなく、危険なものだった。というのも、直江津にはマトモな港湾設備がなかったのだ。うねりが寄せると石炭船は波頭を受け上下に揺れ、この船に乗るためにはまず産業用のはしけ舟に乗って近づいてから、船に張られた網状のロープにジャンプして掴まり、それを登る必要があった。一人の男は網に掴まり損ない、冷たい鋼の船体と打ち寄せるはしけの間に挟まれ、まるでブドウのように潰れてしまった。

 荷下ろしは一隻につき、2日から3日かかった。巨大な網でオレ達は船倉に降りると、真っ黒な塵を吸いながらその網を生コークスで満たした。見張りには憲兵、つまり軍警察の人間が常に立ち、まるで奴隷のようにオレ達をこき使った。

 「もっと早く働け!もっとだ!!」

 オレはいつも手早く働いたが、他の捕虜達はこれが気に食わず、

 「ザンペリーニ、ゆっくりやれよ、ゆっくりだって」

 と言い、オレも少しずつそれに合わせた。

 次に、はしけを川の上流に持ってくると、石炭を編み籠に移し背負って坂を登り、そこに待つ貨車に運んだ。籠はしばしば100ポンド(※45キロ)にもなり、貨車にめがけて石炭を落とすには、人が一人、通るのがやっとの大きさの短い木の板の上を渡らねばならなかった。ある日、看守の一人が貨車側から渡って来ると、オレを横に突き飛ばし、オレは5フィート(1.5M)程の高さから、背中に満載した石炭ごと地面に落ちた。これで自分の膝と足首の靭帯は裂けてしまい、それ以後仕事ができなくなってしまった。不運にも日本の収容所の決まりでは、働くことで一人分の食事が得られるということになっており、働かなければその半分しか貰えなかった。そうすることで、いかに働く気がなかろうとも捕虜達に仕事をさせていたのだ。

東京俘虜収容所第五分所、新潟収容所での石炭荷役の様子。POW研究会HPより

http://www.powresearch.jp/jp/pdf_j/research/tk05_tk15_niigata_j.pdf

左:同じく新潟収容所の石炭荷役。貨車を手で押したとある

右:場所が不明だが、亜鉛の溶鉱炉での作業。直江津にも溶鉱炉があった

​ドナルド・ノックス「死の行進」より

 栄養のバランスなんてものは、もはや冗談にしかならず、飢餓は当たり前に蔓延していた。日本には本土だけで91カ所の収容所があり、これに加えてマレーシア、シンガポール、そして極東全域に収容所があった。食料は市民の全体に対して供給が足りておらず、つまり捕虜達への割り当てはほぼ無いも同然だったのだ。そして捕虜達が飢えて死のうが、これは日本側の知ったことではなかった。

 農場の動物たちでさえ、オレ達よりはマシな物を食っていただろう。一日に3回毎日変わることなく、オレ達は赤くてまずい穀物を出された。これは朝鮮キビ(※原文 Korean millet)ではないかと思うのだが、乾燥させたシダと海藻が添えられて出てきた。穀物は苦く悪くなったような味がし、小石や金属ワイヤー片の混入などしょっちゅうで、これでオレは歯が欠けては口内からは出血して皮が剥けた。海藻は海で採集されるとそのまま茹でられ、煮汁はベトベトとした鼻水のような濃度になった。こうなるとオレ達の食事は収容所における教科書通りのブラック・ユーモアに、これ以上にない程ピッタリで、捕虜達はこんな風に言った。

 「よし、メシができたら呼んでくれよ。今夜のシェフ東条(※英機)の逸品は何だろうね?」

左:仙台第6分所、花輪収容所の一日の配給と、右:直江津収容所キッチン棟 http://www.mansell.com/pow_resources/liberation_photos.html

https://www.docdroid.net/GpJqrc6/naetosu-japon-pow-ejecucion-sgt-siffleet-after-the-battle-169-pdf

 デイビッド・ミッチェルヒル・グリーン「最悪を極めた日本の捕虜収容所」より—「直江津収容所のキッチン棟は木造で床は土間だった。食事は5月迄6名の捕虜により用意され、1945年にこの数は13名に増員された。小麦と米、大豆または雑穀(※cane)を混ぜたものが、クリケットボールほどの大きさに押し固められ、これが主な主食として出された。肉が出せる時には主に馬か犬の肉が出され、少量の魚はおおよそ1週間に二度ほど、通常はスープか煮込みの状態で出された。この煮込みには季節により野菜が加わり、捕虜達はそれぞれ日に500グラムの食事を得られたのだが、しかし弱ってしまい働けない者には、米が3分の2に減らされた。収容所を構成していた建物の内、最後の1棟となったこのキッチン棟は1980年代まで残った。このかつて収容所だった区画には、現在では建物は1棟だけ、小さな記念館がある(※上越平和記念公園のこと)」

 犬肉については、「Prisoner of the Japanese」でも直江津で提供されたとある

 ここに及んでもはやオレも、機会さえあれば日本側から食料を盗むことに躊躇などなくなった。これには以前に大森の王立スコットランド連隊から学んだ常套手段を使うべく、短い竹の棒の片端を尖らせると、自然の漏斗を作った。これを穀物の入った、ざらざらの網目の袋に一度刺せば、中身が抜き取れるのだ。

 自分達は毎晩、収容所から支給されたパジャマに着替える必要があった。ズボンの腰の部分と裾の所には紐があり、裾は締めると暖気が逃げないようになっていた。また股間には前開きがついていて、これはトイレの小の時に使うようになっていた。直江津収容所では全ての穀物をトイレ近くの小さな部屋に保管していて、壁にある節穴を通すと藁の袋が見えた。オレはトイレに行きます、と言っては約2フィート(※60cm)の竹の漏斗を持って穀物の部屋の外に立ち、片方の端は股間に突っ込んだ。それから開いた節穴に向かって寄りかかり、鋭利な方の端を米袋に入れる。すると程なくして、足の方に米が流れて来るのを肌で感じるのだ。これをふくらはぎの高さまで一杯にすると、次はもう一方の足をいっぱいにする。

 自分達は3階建ての施錠された建物に住んでいたのだが、ここにドアは一つだけで、2人の看守が両脇を守っていた。オレはトイレから帰って来ると、2階でフィッツジェラルド司令官の所へ行き、毛布の上に立つと裾の紐をほどいた。フィッツジェラルドはこの禁制品を靴下の中や、偽装用の壁板で隠した。バードはオレ達にお茶用で小さなバーナー(※赤十字の箱や装備品にはバーナーがあった)を使うことを許可していて、オレ達は看守達が外にいる時はいつでもこれで米を炊き、定期巡回で入って来る時は隠した。

 怪我をして働くことができなかったせいで、オレの食事配給は半分だけで、収容所にも缶詰めになっていた。するとある日の午後、ドア越しに網戸の向こうの部屋を覗いていると、そこにはウチの母ちゃんが使っていたのと同じような、シンガー社のミシンがあった。子どもの頃はズボンの継ぎ当てを自分でしたもんだ。そこでオレは食事の配給量を、元の一人分に戻す方法を思いついた。

 「あなたの服をハリウッド風にしますよ」

 オレは上級の看守にこう言った。

 「クラーク・ゲーブルみたいに!」

 オレは半日掛けてミシンを掃除し、油を差しては調整をした。それからその看守のコートを仕立て直し、他の看守達がそれを見た時、コートは注目の的となった。バードですらその内の一人で、奴もオレに自分の服を仕立てて欲しいそうで、そこでオレは

 「配給を元に戻してくれたら、いいですよ」

 と言い、奴もこれに同意した。そしてオレはその仕事が無くなるまで、全員の服を仕立て直すこととなり、するとバードは再びオレの配給を半分にした。

 次にオレはバードの副官である、河野伍長の所へ行った。これは実に意地の悪い嫌な奴で、河野は渡邊をヒーロー扱いにしており、いつでも真似しようとしては、機会あるごとに剣道スティックでオレ達を殴打し、本当はおぼつかない己の胆力を鼓舞するような男だった。

 俳優のクラーク・ゲーブルと、1943年のクリスマスで開かれた、収容所の音楽会での写真、「貝になりたかった男」より。後ろに立つ左の眼鏡の人物が大田成実所長で、最前列の眼鏡の人が河野広明上等兵。以下は「Prisoner of the Japanese」による河野広明上等兵の描写

 ―「この男もまた、自身で考え付いた狂った虐待をやって見せた。二列に並ばせた一般兵達に、互いの鼻をねじらせ、舌を引っ張らせたのだ。『ネジレエ!ツヨクウ!』奴は叫んだ。奴と渡邊と加藤中尉、この3名だけは、解放後に自分がその虐待を報告することになる」

 「配給を元の一人分に戻して欲しいんです。何か仕事を貰えませんか?」

 河野はこれをバードに相談すると、奴らはオレに一匹の小さく痩せた、病気のヤギの世話をさせることにした。この仕事はバード自身がオレに命じ、これはオレを侮辱する意図に満ちていた。

 「ヤギの世話しろ。大切に、だ」

 何だってやろう。オレにはただ食料が必要なのだ。

 だが運が悪いことにその晩、誰かがそのヤギを穀物小屋に入れるとドアを閉めた。そして次の日の朝、オレは叫び声を聞いた。

 「ザンペリーニ!」

 バードはオレをキッチン棟に押し込むと、レンガの窯に横たわって喘ぐ、まだ若いヤギを指さした。一晩中麦を貪っていたのだろう、その体は膨らんでいた。

 「オレはオマエに、ヤギ世話しろ、言ったはずだ」

 バードは金切り声で叫んだ。

 「ヤギ死んだら、オマエ死刑!」

 

 オレがヤギの看病をする間、このバードの最後通告の噂は収容所全体に広がった。だがその甲斐空しく、1週間後にヤギが死ぬと、オレはバードの通告が冗談であったことを心から祈った。オレも奴が実際に誰かを殺した現場は1度も見てはいなかったが、それでも脅しの根拠がないという確証もないのだ。幾人かの上級将校達はバードが人を殺しかけたのを見たことがあったが、オレには山羊のことがバレる前に、脱走を試みるよう助言してきた。

 だがオレはその通りにはしなかった。代わりにバードの元に直に赴くと、そのまま真実を述べた。奴は激怒し、こちらに飛んで来ると、オレは判断を誤ったと思った。渡邊はオレを殺すことなど簡単にできただろう。奴はオレに殴打を加えると外に引きずって行き、収容所の端に立つように言うと、そこで6フィートのフォー・バイ・フォー(※8.89cm×8.89cm×1.8m)の材木を、頭上に腕を伸ばした状態で持ち上げそのままでいるように命じた。それから

 「そのまま持ってろ」

 と言うと、近くの低い小屋の屋根に登って座り、他の看守と喋りながらこちらを眺めていた。

 最初の3分間はオレはもう痛みに耐えきれず、筋肉という筋肉が焼けるようで、まるでもう倒れてくれと懇願しているかのようだった。その時100ポンド(※45キロ)しかなかった自分の全身は麻痺すると、その姿勢のまま固まってしまい、時間すら止まったかに思えた。これにバードは怒りに煮えくり返り、屋根から飛び降りると全力でオレの腹を殴った。そして材木が頭の上に落ちるとオレはうつぶせに倒れ、そのまま気を失ってしまった。

 気がつくと、トム・ウェイドはオレの罰則の時間を計っていたと言った。オレは材木を頭の上に、37分もの間、持ち上げていたそうだった。

 

 それから1週間後、オレはバードに別の仕事がないかと尋ねた。

 「分かった」

 奴はそう言うと、新たな仕事を申し渡した。

 「オマエは豚の世話の担当だ」

 これは冗談ではなく、豚達もあの時はあまりに痩せていて、その向こうが透けて見えるかのようだった。

 「豚のエサは手配してある。オマエは囲いの掃除だ」

 「何か道具はあるんですか?」

 「そんなもんはない。手で綺麗にしろ」

 全くもってこんなに汚ない仕事があろうか?

 彼らは豚に米の削りカス(※もちろん糠のこと)を食べさせていて、これにはビタミンBが多く含まれていた。オレはこれを知っていたので、豚と一緒になって削りカスを食べた。これは収容所に蔓延していた脚気の予防になったのだ。

 

 またある時、バードはいきなり浴槽に水を張ると、この中でオマエを溺れさせてやるから覚悟を決めろと言ってきた。奴がこちらにどんな反応を期待していたのか知らないが、しかしオレが何も懇願せず怖がりもしないのを見ると、急に気を変えたようで、

 「オマエを溺れさすのは明日だ」

 と言い、足を踏み鳴らして出て行った。

 

 4-B収容所のトイレは、セメントの床に小便用の溝が設置してあった。便座の方は屋外トイレによくあるような木製の物で、排泄物は下に設置してある、複数のデカいスチールの汚水槽に溜まった。そしてこれが一杯になると、「Benjo(便所)」当番の捕虜達が6マイル(9.65キロ)先の畑で使うため、木でできたデカいひしゃくで糞便を汲み出し、リヤカーに乗った樽に移した。

 土砂降りが続いたある日、自分達はスチールの汚水槽を空にすることができず、汚物が小便用の溝に溢れると、次にセメントの床全体にまで押し寄せた。これはそれだけでも吐き気を催す光景だったが、収容所に絶えず蔓延する病気と、それによりもはや常態化した下痢は、トイレをさらなる惨状へと悪化させた。

 バードはバードであるが故に、これに抜き打ち検査の号令をかけた。トイレで下痢を催していた男達も捕虜棟に向け全速力で戻り、自分達の靴をドア近くの棚に乗せる。というのも、オレ達は室内で靴を履くのが許されていなかったのだ。そしてベッドの脇に各自、気を付けの姿勢で立った。バードは捕虜棟に2人の看守と共に入って来ると、男達が今トイレから帰って来たばかりなのを百も承知で彼らのブーツを調べて回り、するとそこには3足のブーツの底に便がついていた。バードはブーツの持ち主に喚きたてると、

 「オマエらはブーツの底を舐めろ、でないと死刑だ」

 と言った。奴はこれを冗談ではなく、本気で言っているのだ。バードは時折オレ達に、小便用の溝の上で腕立て伏せをさせ、オレ達が顔から下に突っ伏す迄これを強いたりもしていた。オレはこの(※ブーツの)様子を、ベッドの上段で104度(※40℃)の熱に苦しむ最中に見た。もしあれが自分だったら、死を選んだだろう。自分はいつでも細菌恐怖症だった。オレなら奴の言うことなどできはしなかったろうが、彼らはやった。どうしたらそんなことができるのか、自分には分からない。

 

 夜には巨大なネズミが何匹も、ベッドの上段側に寝ているオレ達の上を走り回った。これは叩き落そうとすれば必ず報復され、誰もこの不潔で攻撃性溢れる生き物から噛まれたくなどなかった。

 とはいえ、オレ達も黙って見ている訳にはいかない。ある晩、オレは流木で作った木製の櫂を用意した。これを胸の上に置き、そして、うとうととまどろみかけた時、自分の両膝の間の毛布に、デカいネズミが立っているのを肌で感じた。オレはゆっくりと木の櫂を握ると、持てる力、全てを込めた。外す訳にはいかない。

 すると衝撃と共に鈍く気持ちの悪い音がすると、ネズミは壁に掛けてあった調理器具の上に落ち、ガラガラというデカい金属音を立てた。これには捕虜棟全体が爆笑の渦に包まれた。

 それから誰かが電気をつけると言った。

 「あれは、死んだのか?」

 これには一人のオーストラリア兵が

 「いやいやいや、あの野郎は足引きずって穴に帰ってるよ」

 と言うと、皆がもう一度爆笑となった。

 心の底から笑うことこそ、オレ達の必要とする薬そのものだった。

 そして次の日には、櫂を振るうのが自分の仕事となった。

 

 ある時、2人の一般兵が干し魚のかけらを石炭船から盗んだ時、これを誰かが密告した。(食料や少しでもマシな扱いを求める余り、こちらの幾人かは密告に及んだのだ。オレ達としても全員が苦しみのさなかにあり気持ちも分かったが、しかし密告は容認することはできなかった)収容所に戻ると、これでバードは自分の大好きな懲罰方法に興じることとなった。一般兵に士官を殴らせたのだ。

 奴は時にもっと手の込んだこともした。バードと河野がアメリカ式ボクシングの本を手に入れたことがある。すると奴らはオレ達を全員、閲兵場に出し列を作らせ、それぞれに番号を振った。自分の番号を呼ばれると前に出ないといけないということで、それから奴らは本の内容を見ては、前に出た捕虜を殴ったのだ。日本人達は通常、握った拳の内側で人に打撃を加え、拳でのナックル・パンチを知らなかったのだ。渡邊はそれでもオレ達が倒れないと満足せず、これがうまくいかないと、奴のムカつくチビの子分は、オレ達をしっかり倒せるよう剣道スティックを使った。誰もこれを3発と受けることはできず、食らうとその場で気を失った。

 それでも収容所生活を通して自分達は刑罰より、まるで人間以下の何の尊厳もない存在として扱われることの方が苦しかった。痛みや流血なら耐えることができたし、わざわざ気に病む程のことでもなかったろう。だが動物にも劣る権利と敬意しかないとなると、これは自らの尊厳が心の底より奪われた。

 

 そして遂に、夏がやって来た。それは人を押し付けるような暑さと、害虫の大群の季節で、害虫共は夜になると天井や垂木から滴り落ちて来ては、古い捕虜棟の床板の間を這い回り、オレ達の体をミミズ腫れだらけにした。スナノミはあまりに厚く積もり、まるで地面そのものが蠢いて、うねる波のようにすら見えた。オレは屋外で寝ようとしたが、あきらめることにした。疲れ切っていたし、もう正直どうでもよくなっていたのだ。オレ達の苦しみの中では、虫など小さなものだった。

 「(※大森収容所は)夏になると捕虜棟はノミの支配されることとなり、これは想像などより遥かに痒かった。シラミは収容所に決して大きく広がることはなく、南京虫は最後の年にのみ現れた」—「Prisoners of The Japanese」

 そんな中もはや、迅速な戦争終結への希望だけがオレ達を生き長らえさせた。自分達はドイツが既に降伏していたことを知っていたし、自分は遂にB-29の編隊が、完膚なきまでに東京を爆撃したことも聞いていた。戦闘の継続はここに至って明白に意味をなさず、それでも日本は降伏しようとはしなかった。彼らの戦争を引き延ばそうとする意志は常識では考えられず、しかし彼らは自分達の信じる神だか何だかは、日本の側にあるが故に、日本は戦争に勝つと主張していた。

 この信条は彼らの歴史に深く根ざしている。1273年クビライ・ハーンは、巨大な船団とモンゴル人戦士の大軍をもって日本の沿岸に襲来した。この状況は侵略者側が日本の民衆を圧倒するにつれ、絶望的なものとなった。これに最後の手段として、日本人達は彼らの神に祈り、すると突然、台風が吹き荒れたかと思うと、全モンゴル船団を破壊したというのだ。

 1281年にクビライ・ハーンは再び、今度は2倍の船団でもって侵攻を試みた。するとまたもや2度目にして、別の台風がこの船団を破壊するに至った。日本人達はこれを神の介入だと信じ、この巨大な台風を「神聖なる風」つまりカミカゼと名付けたという。

 状況が悪くなるに連れ、バードの行動もさらに突飛なものとなっていった。自分の代わりに河野を据えると、一度に数日間もの間いなくなり、かと思うと帰ってきて、服や食器の扱いがどうという些細な規則違反をあげつらい、被害者の脚を掴んで閲兵場に引きずり出しては、この間に他の看守達がオレ達の私物を漁った。この動きは予測など完全に不可能で、自分達がもはやこれ以上耐えられないのは明白だった。

 8月には、解放の時も直前に迫っていることが自分達の肌にも感じられるほど明確だった。飛行機がこちらの頭上で行き来するのが耳に届くのだ。ある晩、オレ達は何人かでトイレに集まり体から虫をとろうとしていると、遠くでドカンドカンという音が聞こえた。そして夜明け前にB-29が単機、近くの製鋼工場を旋回すると、おそらくは残った自由裁量分の爆弾を標的から少し外して投下し、その凄まじいまでの爆発は、そこにあった村をほぼすっからかんにした。その後、バードはアメリカ人士官達を閲兵場に呼びつけ罰則を与えた。すぐ北にある新潟をアメリカ機が空襲したとのことだったが、これにより爆撃自体が確認されることとなった。

 アメリカ軍の標的概要。収容所の東2キロの地点にあった日本ステンレスと信越化学は隣り合った工場で、2022年の今も稼働している。工場には地元の人も労役に出て、給料もよかったそうだが、(貝になった男より)軍需工場は爆撃の標的となった

前述、デイビッド・ミッチェルヒル・グリーン「最悪を極めた日本の捕虜収容所」より

https://www.docdroid.net/GpJqrc6/naetosu-japon-pow-ejecucion-sgt-siffleet-after-the-battle-169-pdf

 この爆撃手達はオレ達を勇気づけ、捕虜の数人は戦争終結後に、間髪を入れずにバードと河野を殺害する計画を温めた。戦時法廷の行程などどうせ遅々として進まないのだ。オレもそんなものを待つより、この企てに加わることにした。自分達はどうにかこうにか、100ポンド(※45キロ)くらいのデカい岩を持ってくると2階に運び、窓のそばにしまった。その窓からは、自分達の捕虜棟ギリギリにまで迫る塀の、そのすぐ先に流れる川が見下ろせた。次にオレは、穀物小屋からロープを幾らか盗んだ。計画はこうだ、バードを引っ張ってきて岩に縛り付け、奴と岩を窓から泥水の中にブチ込んでやるのだ。

 

 連合軍の侵攻が迫り来るにつれ、予想通りではあったがある噂が広まった。全ての戦時捕虜は、最初の外国軍の上陸と共に簡単に処刑が行えるよう、山奥に連れて行かれるというものだ。それからある朝、オガワさんと言う捕虜の畑までの引率を担当した、親切な年配の民間人の看守が、オレに酷い殴打を加えた。彼は以前に自分達に怒りは元より苛立ちすら見せたことがなかったので、オレはこの行為は理解に苦しんだ。天皇が捕虜を相手に最後の抵抗を呼び掛けたのかとも考えてみたが、それでも筋が通るとは思えなかった。

 その日の午後、河野が全ての捕虜に、閲兵場に整列するように命じた。ショボショボと所定の位置に着くと、オレは疲れ果ててボロボロで、最悪の事態を予期した。

 「戦争は終わった」

 河野は端的にそう言った。

 「今日は仕事はナシだ。戦争は終わった」

 これには誰も動こうとしなかったし、誰も歓声を上げたりもしなかった。これらの噂は以前からオレも聞いていたし、このニュースを本気に受け止めるには、あまりにも多くの絶望を味わわされていたのだ。だが河野は一人で同じことを繰り返すと、オレ達に司令部と捕虜棟の屋上に「POW」とデッカイ字でペンキで書くように、また体を綺麗にするため川で泳ぐようにと言った。

 ここまで来て、ようやく自分もコトの成り行きを少しずつ信じ始めた。

 

 その日はどの日とも違う、平和な一日となった。一機の飛行機がゆっくりと捕虜棟の上を旋回すると翼を揺らせ、オレ達が飛行機乗りに向けて書いた、屋上のペンキの字を見たことを合図した。またオレと他の捕虜達が川で泳いでいると、一機の海軍の雷撃機が飛んで来て、機体の両側についた赤いライトを明滅させると、モールス信号を送ってきた。川には通信士も何人かいて、これはその場で訳された。

 「戦争は終わった」

 パイロットは飛び去る前に赤いリボンを落とし、この端には一口かじったチョコレート・バーと、2本抜かれたタバコの箱が結んであった。このチョコレート・バーとタバコは、300人もの捕虜達で分配されねばならなかった。そこでオレ達はチョコレート・バーは小さなカケラになるまで切り刻み、タバコは円を幾つも作って火をつけると、一息ずつ吸ってはこれを順番で回した。

 その数時間後、雷撃機は戻って来ると今度は何か、死体のようなものを落としていった。それは一着の海軍のズボンで、中には嬉しいものが色々と詰め込んであった。とはいえその中身が全部嬉しかった訳ではない。そこにはタバコのカートンと駄菓子が入っていたが、他にも一冊雑誌があり、表紙には爆発する原爆の写真が載っていた。そこにいた担当将校はこの雑誌をさっと引っ掴み、これにオレ達は雑誌を見ようと彼の肩越しに顔を寄せ合ったが、ゲンシ爆弾?何だそれ?聞いたことねえな、という感じしかなかった。写真はニュー・メキシコで撮られた物で、オレ達はこちらの側の兵器の威力が分かると、ショックで一瞬、凍り付いてしまった。(ドイツも日本も原子爆弾の開発をしていて、こちらの爆弾が、運よく先に世に出ただけだと、後になって分かった)

 ニュー・メキシコで行われた、史上初の核実験と、

ライフ・マガジン、1945年8月20日号

 この雑誌はオレ達がおよそ2週間前に聞いていた話の、新たな事実を浮き彫りにしていた。自分が最初にコートを仕立て直してやった看守が、オレを脇へ呼んでこう伝えていたのだ。

 「広島という都市で、とんでもないことが起きたようだ」

 自分は広島という名前は聞いたことがなかった。

 「コレラの爆発的な感染で、広島は立ち入り禁止になったんだ。誰もそこに行けないし、出ることもできない。電話さえかけられない」

 オレはそれを聞いて、そりゃあ酷いもんだと思った。一都市が丸ごと伝染病で隔離だなんて、人は戦争だけでは飽き足らず、コレラでも死なねばならないというのだろうか?

 だが今、自分達は全員が事の真相を知ることとなったのだ。

 それからあれは30分位の間だったろうが、収容所には音のしない、しん、とした時間が流れた。つまり、今後不可避となる恐怖と、もしその原爆が再び使われたなら、世界は一体どうなるのだろうということが、時間をかけて考えられたのだ。

 またオレ達は、中に一通のメッセージが入っているのも見つけた。それによると、他の救援物資も程なくパラシュートで投下されるとのことだった。

 最初の投下による配達は、一つの袋に満載された靴だった。オレはそこから一足の靴と数組の靴下を貰った。ところが運が悪いことに、その投下物資は兵舎の屋根に当たるとそれを突き破り、一人の捕虜が死亡し、2人の負傷者を出した。それは激しい勢いで墜ちてきて、オレは投下が収容所の敷地外でなければまずいことになると気づいた。そこで自分は作業隊を組むと、石灰を使って「ココヘトウカ」と書き、一緒にデッカイ矢印も添えて1枚の田圃を指し示した。

 1945年の9月2日、日本が公式に降伏したその日に、ほとんどの支援物資が配達された。当直士官は自分で、物資は1機のB-29により運ばれた。最初のアプローチがあった時、機体は高度約1,000フィート(※304M)を飛び投下する標的を探していた。オレ達は屋根にPOW(※戦時捕虜)と書き、「ココヘトウカ」と田圃の近くにも書いたのだが、文字は空からではおそらく小さくしか見えなかっただろう。次のアプローチで機体は高度およそ800フィートを(※243M)飛び、前方の爆弾倉を開けると一つの包みを放出し、これは田圃に落ちた。ところが前もって安全性について伝えていたにも関わらず、兵士達は建物から飛び出して行き、オレは必死になって戻るよう手を振った。自分が建物内に全員残るように努めたのは、パラシュートがあっても投下物は衝撃で高台に、1フィートもの(※30センチ強)くぼみを残していたからだ。すると爆撃機は再び旋回し、次なる投下のために戻って来て、オレが人をよけ周辺を空けると、積み荷を放出した。これにどうしても待ちきれない日本人農夫が一人、脇目も振らずに飛び出してくると、積み荷をモロに食らいペチャンコに潰れてしまった。

 前述「最悪を極めた日本の捕虜収容所」より、収容所を特定するため、8月25日に航空母艦から飛び立った雷撃機、TBM-3Eが撮影した直江津収容所の画像。画像右のリストは支援物資の投下の概要(原文にもあるが、リストと日付は一致せず)。ドラム缶は44ガロン、200Lと言われ、上坂冬子の「貝になった男」によれば、ドラム缶にパラシュートをつけた救援物資が家の屋根を突き破り、中にいた地元の少女にこれが当たると、その後に義足の生活を余儀なくされ、しかも何の保証も得られなかった話や、東京を焼け出された後に、同じくドラム缶の直撃を食らい、数日後に亡くなってしまった男性の話が記される。また「アンブロークン」によれば、直江津でも足を折ったり頭蓋骨にひびが入った捕虜がいたとある。日本全国で4080米トンもの食料が落とされたとも

 「13番目のミッション」より、解放後に無人となった大森収容所6番棟。一番右に見える天井の穴は、支援物資の投下で空いた穴で、低高度で物を落とすとパラシュートが開かなかったという。マーティンデールがバードの使っていた部屋に居ると、轟音が聞こえ木の箱が落ちて来て、数回バウンドしたかと思ったら窓の下に激突し、中から出てきたココアで机から椅子から服までがココアまみれになったとも。大森では見張り塔に病人を入れて警報を出させたが、それでも打撲や捻挫、骨折が発生した。デレック・クラークによると、投下により大森でもアメリカ軍の兵糧であるKラションが豊富になったので、作業中に盗んでおいた米はもう用なしになり、親切にしてくれた日本人にあげたという

 それからB-29は最後に、高度約500フィート(※152M)を飛び、翼を揺らして合図を送った。オレは開けた場所に立つと自分のシャツを振ってこれに応答し、上を見上げた。するとB-29は機体を傾け、その瞬間にパイロットの顔が見えた。向こうからもこちらが見えたのが分かり、あの時あのパイロットと彼のクルーに会ってみたいと思ったのをよく覚えている。向こうも同じく、オレが一体どこの誰で、どうしてあそこにいる羽目となったのか、考えながらボソッと独り言でも言ったのかもしれない。

 戦争からは信じられないような話が多く出てくるものだが、これもその一つとなるだろう。それから数年後、自分がABCのテッド・マローンのラジオ番組でインタビューを受けているのを、あの時のパイロットであるバイロン・W・キニーの友達が聞いた。キニーは友達である彼女に、直江津近くの北日本の収容所へ支援物資を投下した話をしていたので、彼女はこの話に聞き覚えがあることに気がついた。キニーも地上でシャツを振っていた兵士とお互い交わした視線のことを覚えていたのだ。この友達はキニーに電話をし、キニーはマローンに手紙を書き、自分の住所を教えて貰った。自分は彼から手紙を貰うと、お互い情報を交換し、そこから自分があの時、地上にいた男だったというのが分かった。

 ここに、自分が彼に宛てた手紙の一部抜粋がある。

 

 —「あなたの手紙はとても興味深いのですが、特にそこにある言葉がどれも本当のことばかりで・・・

 あの時、収容所には合計で700人もの捕虜がいて、中にはオーストラリア人も275人いました。ウェイク島の人達はほとんど、直近の5ヵ月で送られていたんです。あなたの収容所の描写は正確で、描いてある絵や橋についてもそうです。そちらの飛行機が最初に収容所上空を飛んだ時、自分はその音を聞いていました。高度はなかなかに高かった。最初の投下の際に、こちらは物資の回収のため班を編成していると、多くの一般兵が食料目掛けて飛び出して行って、次の投下があるかと思うと自分は彼らを戻さねばなりませんでした。そちらの飛行機が収容所の上を超低空で飛んでくれたお陰で、自分達は本当に興奮したものです。あれは食料以上に、特に航空隊の面々には嬉しいものでした。自分達は物凄く汚いナリだったけど、世界で一番幸せな男達だった・・・久しぶりに自分達は、本当にアメリカ人なんだという気持ちが湧いて、自分達の苦しみも、決して無駄ではなかったんだと分かって・・・

 あなたが来る数日前に、戦艦もしくは航空母艦から、海軍のTBFが数機(※前述の雷撃機。TBFの後継がTBM)、飛んで来てはいたんだけど、投下できたのはこちらが味見するくらいの量しかなくて・・・そちらの機体で初めて収容所全体に行き渡るだけの食糧を投下してくれて、しかも自分らに吸いきれない程のタバコもくれて・・・

 あなた方が食料を投下してくれたその日以来、誰が自分達に、こんなにも最高な差し入れをしてくれたのか、ずっと知りたかったから、こうして連絡してくれたことを、何より嬉しく思っています」—

 

 キニーが1948年に休暇でロサンゼルスに来た際は、自分に会うためにこちらにも立ち寄ってくれた。だがタイミングが悪いことに、その時自分は不在にしていたので、その37年後の1985年11月1日、自分達はようやく面会することができた。

 

 食料がこちらの軍隊から届けば届くほど、オレ達は急速に体重を回復していった。そして幾人かはこれをやりすぎた。濃縮されたグリーンピースのスープを水で戻さず、そのまま、しかも熱も通さずに食べたのだ。そんなことをしては下痢をしないハズがない。食生活は一晩にして変えられるものではないのだ。これは訓練や自らの体験故に、自分には分かっていたことだ。しかし食べ物ならどんなものでも助けになった。そうしてオレは4-B収容所を出る頃には、体重が110ポンド(※約50キロ)にまで回復していた。

 アメリカ軍の兵糧:Kラションと、夕食ボックスの一例:ブレックファースト、ディナー、サッパーの3つに分かれている。時期によって異なるが、基本は乾パンが2種類、日本で言うコンビーフの缶に入った子牛の肉にポーク・ローフと、本文に出てくるブイヨン・ペースト、タブレットに入った砂糖にインスタント・コーヒー、粉ジュース、ガムが入っている。これにプラスでチョコレートやキャラメル、タバコもついた。「アンブロークン」によると、濃縮スープをそのまま飲んだのは・・・

 自由の身であるということは不思議な感じがした。だが最も変な感じだったのは、さっきまでこちらを捕らえていた側と、自分達の立場がそっくりそのまま入れ替わったことだ。看守達は今やこちらの囚人で、とはいえオレ達は、彼らをそんな風に扱ったりはしなかった。こちらが食料を得るや否や、彼らはこちらにペコペコと従属的になったかと思うと、自分達の苦境を訴えてきた。オレ達は彼らにたらふくメシを食わせると、アメリカ製の上等なタバコやチョコレート・バー等、配給品を彼らの家族の分までやった。あの最後の日まで抱えていた、怒りや復讐への執念は既にして薄れ、消え行こうとしていた。妙なもので、いっときはあれだけ人を殺してやりたいと思ったにも関わらず、それから相手が実はどれだけ惨めな存在なのかを見ると、それはまるで尻尾を両足の間に垂れた犬のようで、自分は相手を助けてやりたいと思ったのだ。

 だがこの新たなる情景において、一人だけそこにいない看守がいた。―バードだ。

 渡邊は停戦の2日前に収容所を後にすると例の如く出かけており、それから戻っていなかった。オレ達がバードの部屋を調べてみると、私物は全て消えていた。オレは(※元)看守達にも聞いてもみたのだが、しかし彼らも奴の今までの行先や、現在の居場所に関しての情報は一切持っていなかった。奴はこちらの企みを察したのだろうか?もしくは単に、こちらの鬱積した怒りを恐れていたのだろうか?奴は東京へ、もしくは朝鮮へ逃げたのだろうか?でなければどこかの街で囚われの身となっている?だが一つだけ確かな事実がある。戦争が終わった以上、誰も奴が自分の意志で戻って来るとは思わないということだ。それはまるで、計画通りに渡邊を処分する代わりに、こちらの企みそのものが、捕虜棟の窓から消えたかのようだった。

大森で解放されるボイントンと、歓喜に溢れカメラマンに挨拶するアメリカ兵達―共に13番目のミッションより

 朝鮮:1945年9月の時点で、朝鮮半島と中国、さらにはドイツとベトナムが二つに割れることはまだ誰も知る由もなかったが、しかし新たな戦争のことは誰もが予期していた。(NHK「映像の20世紀」等より)1945年に全ての戦争が終わった、と未だに無意識のうちに思っているのは、戦後生まれの日本人だけ!?

 左:終戦後に大森を空から見た写真。屋根には「ボイントンここにいます」とも書いてあり、これを受けて酒のボトルを空から落とした海兵隊のパイロットもいたという。Pの字は「はだしのゲン」にも登場するが、これは戦中に空襲除けとしては機能した訳ではなく、書かれたのは終戦後で、文字もPだけではなく、P・W。大森は周囲を水に囲まれていたので延焼を免れたが、川崎扇町分所では捕虜棟が全壊し、22名もの捕虜が死亡、第14分所では30名が死亡した。「あるB29の飛行士の証言によれば、彼らは爆撃目標地域に捕虜収容所があることを全く知らされていなかった。たとえ知っていたとしても、23,000Mもの上空からそこだけ避けて爆撃することは事実上不可能だった」とも。—POW研究会

http://www.mansell.com/pow_resources/camplists/tokyo/kawasaki_1B/tk01_ooshima_j.pdf

右:大船収容所での捕虜解放の一幕

https://donmooreswartales.com/2012/12/19/luther-johnson/

 一方、河野は残っていた。実はオレ達には、河野に対しても殺害計画があった。しかし奴が士官達の所に来て、泣いて慈悲を乞うた時、オレ達が相手に抱いたのは軽蔑の念だけであって、恨みのそれではなかった。

 

 1945年9月5日、特別列車が直江津駅にやって来ると、オレ達はボロ服と私物をまとめ、4-B収容所の木製ゲートを行進してくぐった。こんなことをするのももう最後になる。自分が上って来た、村から駅へと向かう坂を後ろに振り返ると、そこには年老いた農夫のオガワさんと、大船の時のハタのように、オレ達の配給を収容所奥の塀越しに横流ししていた、調理担当の本間さん、河野伍長が見えた。今となってはもうどうでもいい存在となったこの男は、オレ達の出発をじっと気怠そうに眺めていた。

 彼らが手を振るとオレも手を、―オガワさんに振り返す。それからオレが曲がり角を曲がると、収容所が視界から消えた。頭の中にあったのは、もはやあの多くの苦しみではなく、生き残ったのだという思いと、これから始まるであろう、新たなる人生のことだった。オレは長い間、焼ける程に執着してきた誓いや計画、夢の数々を、遂に実現するチャンスを得たのだ。

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