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第2章 トーランスの竜巻

The Torrance Tornado

 の夏、オレは悪い習慣はキッパリやめ、狂ったようにトレーニングに励んだ。まずはビーチにヒッチハイクする代わりに、レドンド・ビーチまでの4マイル(※6.4キロ)を走り、次にビーチ沿いを2マイル(※3.2キロ)、それからまた4マイル走って、トーランスに帰った。母ちゃんに買い物を頼まれても走った。週末は山間部にトレーニング場所を移し、湖の周りを走り、鹿を追いかけ、ガラガラヘビや倒木、せせらぎを飛び越した。オレは今までずっと一人だったから、孤独でいても全然気になどならなかった。ともかく走って走りまくり、1マイル1マイルを積み重ねるごとに、芯から自由になるように感じた。 学校が再開した時、体が充実していることは確かだったが、しかしそれはどれだけのものなのか、試合ならどれだけ戦えるのかは、見当もつかなかった。そこでオレは9月にUCLA(カリフォルニア大学ロスキャンパス)で行われる2マイル(※3.2キロ)のクロスカントリーにエントリーした。大会は100名を超える選手が、カリフォルニア中から集まるレースで、2年生はクラスCに属し、それは各クラスの中でも一番若い下級生たちが走った。とにかくビリだけは嫌だと思って走ったのが、レースの途中はまるで一切地面を蹴っている感触がないようで、2位には4分の1マイルの差をつけると、今までのA・B・Cクラス、全ての記録を破ってしまい、タイムは9分57秒、大学レベルのものだった。 後で審判の人に、コースを無意識のうちにショートカットしたんじゃないかと聞いてみたが、答えはちゃんと全てのコースを走った、とのことだった。今となっては、覚えている人も数少ないだろうが、あれは人生の中でも間違いなく最高のレースで、そこで自分は気がついた。自分がピートに、また自分自身に誓ってみせたことは、実際に実現するやもしれないことに。 自分はランナーに、本物のプロ・アスリートになれるのかもしれない。

 1933年のUCLAクロスカントリー大会2マイルレース。後ろにいるのがピートだとされる

 「マジメ」になったのは、グラウンドだけではない。学校の科目にも同じ態度で臨んだのだ。本気になって勉強するなんて、自分にとっては新たなる挑戦で、もちろんその進歩の度合いなんてあやふやなものだったが。ぶっちゃければ、やっかいな数学の問題だの作文だのに直面すると、教科書なんかパタンと閉じて丘へでも走りに出たかったのだが、そこはチームに残るため、じっと耐えた。部活の参加にはある程度の成績が必要だったからだ。競技と勝利によって認められる自分。その障壁となるようなことは、何もあって欲しくなかった。

 こうなると周囲の反応は今までとは打って変わり、オレは毎日のように、まるで転校でもしたんじゃないかと思ったもんだ。ホールなんかですれ違っても挨拶してくれたし、立ち止まって話したりしてくれた。時には周囲の人間が

 「ルイス・ザンペリーニ!?あのどこの馬の骨とも知れないイタ公の不良が、マジで生まれ変わったぞ」

 という尊敬の空気すら感じた。

 だがオレは自分の内面の変化に猛烈にこだわる一方、その実、性格はほとんど変わってなどいなかった。依然として周囲とはあまり付き合わず、些細な事で腹を立てては、自分のやり方を押し通そうとし、それでもトレーニングを通して、肉体的な痛みは受け入れるようになっていた。ピートは相変わらずオレに追い込みをかけていたが、もう鞭を使う必要はなくなっていた。厳しいコーチであり続け、自分の手ほどきが必要だと考える時には指導をしてくれた。

 「自己管理ってやつだよ、トゥーツ。いつもそばにいるわけにはいかないだろう?週末にまで、オレについてけってのかい?」

 そんな風に言われて、オレは週末にアイスクリーム・サンデーくらいは食べに行きたかったのだが、ピートの言いつけを守った。ピートの期待に背きたくなかったのだ。同時に、どれだけ反発しようとも、陸上が自分の進むべき道だということも理解していた。

 だから真っ当な自分であり続けるため、実は秘密の誓いも立てていた。1年の間は、いかなる天気だろうと毎日トレーニングに出る、というものだ。学校で練習できなかったり、グラウンドがぬかるんでいるような時には、夜にランニングシューズを履き、家の周りの区画はたぶん1マイル半(※2.5キロ)くらいだったろうが、それを5~6回ぐるぐる回った。その冬は2度の砂嵐があって、外に出るにも濡らしたハンカチを口の周りに縛らないといけなかったが、それでも走った。ボクシングのトレーニングも続けて、これは胸の筋肉を作るのに役立った。最終的にはおそらく、ピートが自分に望んだ以上に、自らを律することができたろう。

 そして迎えた1933年の2月、その頃にはもう準備は万端だった。ウチの高校の陸上のユニフォームはウールでできていて、重いしチクチクして最悪で、母ちゃんには「むしろマッパな感じ」で走れないかと言ったもんだ。すると母ちゃんは絹のシャツを買い、古い黒いひだのついたサテンのドレスで、オレのショート・パンツを縫ってくれた。母ちゃんによれば、内側には聖テレジアのフェルトのマントが一部縫い込まれているとのことで、まあそんなものは当時何百万と出回っていたんだろうが、そこはオレも突っ込まないでおいた。シューズはリデルの革のやつでキメた。これにはスパイクをねじ込むため、中にスチールのプレートが入っていて、今のスポーツシューズと比べれば3倍くらいの重さだった。

 ルーイーのスパイク・シューズ。リデルは今でもアメフトで有名なスポーツ・メーカー。裸足で教会に行った人にすれば、相当嬉しかった?

 現在も続くトーランス高校。実は歴史的な建造物で、何と「ビバリーヒルズ高校白書」を始めとする、セレブな高校生ドラマの撮影にも使われている。ここに行けばあなたも、スポーツカーに乗った夢の高校生活が!?http://thetorrancetornado.com/

 今度は2年生として、クラスBの1,320ヤード(1,200M)つまり3/4マイル走にエントリーした。その時も実は、未だにひょろ長い足が恥ずかしくて、観客には見えないよう、ウォーミングアップは観覧席の雛壇の後ろでやった。だが一度レースが始まってしまえばそんな心配など吹き飛んでしまい、ただがむしゃらに走ればレースには常にトップであり続けた。

 そうなると自分も俄然1マイル走を走りたくなり、照準はクラスAへと定まっていく。これに出てみると自分は4分58秒で、ピートの持つ学校記録を破って勝った。ピートはこの時、おそらくオレ以上に喜んでいたろう。その春も過ぎる頃に、自分はロサンゼルス・メモリアル・コロシアムでの初めてのレースに、再びBクラスの1,320ヤード走に出て、3分17秒のタイムで州の記録を更新した。楽に勝てた試合で追い込まれたりもしなかったが、これは後にトーランスの地元紙の記事を飾った。記事ではオレのことを誉めそやしていて、以前にワルさをして地元紙の記事になってしまった時とは、(名前は出なかったが)だいぶん違った気分がしたもんだ。

 トーランス・ニュース・トーチより、「ザンペリーニ、未だ無敗」

トラック競技は1周400Mのトラックを周る。3周で1,320ヤード、4周で1マイル。オリンピック競技の5,000Mは12.5周する

 ピートはオレのコーチを続けて、競技がない時には、わざわざレース中にオレと一緒に走る許可まで貰ってきて、こちらが最後まで全力を出し切るよう、追い込みをかけてきたが、これは何とも賢明なやり方だった。一度、自分は1分にも渡って、最終周での痛みと疲労に不平を言ったことがあるのだが、ピートがこれに答えたアドバイスは今でも心に刻まれている。
 「たった1分の辛抱が、一生の栄光にもなるんだぞ!」
 ピートはこの自身のアドバイスを身を持って理解していた。ピート自身もその時、全大学でも7番手の1マイル走者で、さらなる結果も望める選手だったのだ。オレに尽くしてくれたことが、自身の成績に響いたのは間違いない。ピートの手助けがあってこそ、オレが世界クラスのアスリートになれるチャンスが大きくなるのを、自分とて理解していた。
 自分はさらに他の選手のトレーニング方法を調べると、それを2倍にして自分に課した。そして彼らを負かすようになると、ここに極めて単純な秘訣があることが分かった。ともかく練習に努めるのだ。
 そんな中、問題が一つだけあった。自分はピート以外の家族には、誰にも試合に来て欲しくなかったのだ。変な話に聞こえるのも分かるが、しかし自分はまだ不良からマトモ、へ変わっている最中で、期待に胸の膨らむ両親を試合に迎える前に、しっかりした最初の一歩を踏んでおきたかったのだ。今まで自分が両親にさせてきたことを思うと恥ずかしかったし、ほんの少しでも無様な姿を晒す可能性があるのなら、それを親の目の前でブチかましたくなどなかった。家でちょっとでも「私達もレースに行こうかしら」なんて話が出ようもんなら、オレはギクッと固まってから、ともかく来るなと両親に釘を刺した。それでもある日の午後、母ちゃんは試合に来てしまった。オレは試合中にトラックを2週走り終えるまで、それに全く気づかなかった。そして気づくとトラック上にピタッ、と止まってからフェンスまで流し、母ちゃんにどこかに行くように言った。
 「早く!もう、追いつかれちゃうじゃない」
 だがオレは母ちゃんが折れるまでそこを動かなかった。それからレースに戻り、そして勝った。
 走れば走るほどにオレは上達し、半マイルに3/4マイル、そして1マイルに出場した。自分の名前は地元のスポーツライターの記事に出るようになり、「革の肺」だとか「鉄の男」と呼ばれるようになった。これはなかなかに悪くない気分で、人生で自分が初めて名声というものと出会った瞬間だった。キャンパスでも有名になり、パーティーへの招待が殺到し、学校でのダンスではデートの相手に不自由することもなくなった。だがそんな環境にあってすら、オレは自身に渦巻く葛藤に囚われていた。かつては悪いことしかしなかった自分など、そんな扱いを受ける価値が無いと思っていたのだ。名声によってではなく、悪いことをするのでもなしに注目を得たいという思いと、そんな物は御免だという思いの、板挟みとなっていた。

 だがそんな葛藤はさておき、学校では女の子達が自分の名前を覚えてくれ、こちらのこともスゴーい、なんて目で見てくれるようになり、校内ではいつも挨拶までしてくれるようになっていた。その中に一人、とても感じがよくて、こちらにも話しかけてくれる子がいて、自分は彼女とタイプ・ライターの授業をとることにした。別にタイピングにそこまで興味があった訳ではないのは言うまでもない。彼女がテニスをとれば、こちらもテニスをとり、すると程なく自分達は、デートもするようになった。
 ある日、学校には新しく、リタという女の子が来た。彼女は今まで出会ったこともないようなタイプで、彼女については、瞬く間に「ホットペッパー」とか、「ファイヤークラッカー」という噂が広まった。(※総じて積極的な女の子。注目を浴びることを好む)
 リタはこちらに極めて思わし気な態度をとり、いつでもこちらに笑顔で「ハーイ」とか言ってきたりした。が、こちらは無視した。彼女は誰とでも遊んで周っていたからだ。それに正直言うと、オレはリタが本気で怖かった。女の子とキスならしたことはあったが、それは普通の女の子とだけであって、かわいくて干渉なんてしてこない、控えめな子達だった。好きな子にはこちらからアプローチをして思いを伝えたかったから、リタの積極性はオレの手に余った。
 それにリタはこちらがほのめかしても、気持ちを汲み取ることができなかった。あるスクール・ダンスの時、リタはオレをダンス・スペースに無理やり連れだし、でないと皆の前で恥をかかせちゃうわよ、と脅してきた。それから喉が渇いたから、2人で外に出ようと言い、嫌々ながら水飲み場までついて行くと、そこでいきなり抱きついてきた。こちらは衝撃の余り動けなかったが、ディープ・キスなんてそれまでしたことがなかったのだ。自分にはそれが信じられず、ぶっちゃけて言うとかなり嫌だった。リタは自分の体を強く押し付けてきたが、しかしそこまでで、オレは彼女を止めると中に戻るようエスコートした。
 一度そういうことがあったんだから、オレはそれを教訓にすべきだったんだろうが、でもしなかった。数週間後、オレは自分の彼女を妬かせるために、リタをデートに誘ったのだ。そのダンスの途中で、オレ達はリタの車に行ったのだが、そこで何と彼女はそのままコトに及ぼうとした。オレは彼女を突き飛ばすと、そのまま外へ出た。
 抑制をかけない彼女の積極性を、オレはコントロールできないだけでなく、こちらも選手としてトレーニングの真っ最中で、コーチも以前から、シーズン中はオレ達に自制するよう警告していた。
 「純粋に、全てを自分達の競技に捧げないといけないよ」
 別にこれは禁欲について説教をしているのではなく、コーチは直接の肉体関係に伴うとされている、感情的な繋がりが、選手とそのトレーニングをダメにするのを心配していたのだ。どんな選手でも、男女間がこじれればすぐにダメになる、これが彼の信条だった。
 そしてこれは正しかった。最初の彼女と3週間に渡って関係が壊れると、オレはひどく悲惨な気分になり、トラック上でもいいパフォーマンスができなくなってしまった。トレーニングだけでも大変なのは言うに及ばず、自分の大好きな人までが、こちらに対して怒っていたりしたら、それはもうほぼ無理ってもんだ。

 名声というのは面白いもので、自分にはデートの相手や人からの評価以上の、ある物をもたらした。なんと、3年生の学級委員長に選出されたのだ。立候補はしたのだが、しかし勝つとは夢にも思っておらず、選挙の結果も両親にこちらからは言わずにおいて、自然に伝わる方を選んだ。1週間後、両親がいかにも期待で胸がいっぱい!といった感じで聞いてきた時、こちらは前もって準備しておいた、だから何?みたいな感じで、肩をすくめてみせた。自分のこういう態度は、今現在でもほとんど変わらない。もちろん心の中では興奮しているが、それでこちらのエゴが肥大してる、なんて人に思われたくないのだ。自分はあるがままの人生を受け入れてきた。だからかもしれないが、その数年後に一人の友達が言った。
 「有名になっても、ルーイーは全然変わらなかったよ。ホントに気取らないんだ」
 まあぶっちゃけて全てを言ってしまえば、自分が自慢をしないことに全力を尽くした一因には、イタズラ好きな子どもとして、何かをしでかしても、絶対にそれで自分がキャッキャッと喜んでしまわないよう、自らを訓練していたことがある。イタズラがうまくいっても、それは人に言ってはならない。おそらく小さい時から今まで、ずっとそうしてきたんだろう。

 1マイル走は日に日にラクに勝てるようになっていった。ハイスクールの3年生として、4分28秒や29秒の数字も、自分を追い込まずとも走れた。しかもトーランス高校の競技場は砂が多く、プロの使う本物のトラックなら、もっといい記録が出ると思われた。オレには本当の実力を試す必要があった。そしてその機会は、すぐにやって来た。
 1934年5月19日、南カリフォルニアでも最高の1マイル選手を集めた大会が、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで大規模に行われた。選手の中にはバージル・フーパーがいて、彼は4分49秒2の州記録を持っていて、既に4分24秒の記録も出していた。下馬評では彼が勝つだろうと言われていて、対抗馬としてはウィッティア高校のボブ・ジョーダン、及びシャーマン・インディアン高校(※居留地外にあるネイティブ・アメリカン用の全寮制の高校)から来た2人のインディアン、エルモ・ロマチュツケオマとアボット・ルイス。彼らも以前に4分30秒以上のタイムを叩いていた。
 数日に渡り、オレとピートはずっとレースのことしか話してこなかった。何度も何度もイメージ・トレーニングをしては、前もってレースの展開を割り出そうとしていたのだ。ピートはその頃にはコンプトン大学の学生自治会の会長になっていて、UCLAと戦った初出場の競技会で、州の1マイル大学記録を塗り替え、それによって南カリフォルニア州立大学への奨学金を、ほぼ確実なものとしていた。オレ達は共にフーパーを警戒していて、戦術としては、ゴールラインに向け、いつスパートをかけるかが問題だった。
 迎えた大会当日。朝起きると、気分は最悪だった。頭痛がして、胃の中がキリキリする。だがこれは病気などではなく、単に緊張からくるもので、しかも毎度のことだった。ピートはこんな時、オレを安心させるために
 「あー、トゥーツ、そんなの楽勝だよ」
 と言うのだが、決まってこちらは
 「楽勝なレースなんてあるかよ」
 と噛みついて、ピートはこの言い方が好きなようではなかったが、無論こちらを理解してもいた。
 レースの前はいつも一人になるのが、自分のやり方だったのだが、この日の朝は一人で出発して集中するにはあまりに不安で、このままではうまくいかない理由を、ズラズラとピートに向かって並べてみせた。
 「オレはちっこいひなびた街の出身だし、周りは名前の通った選手もいて、4年ばっかの中で3年はオレだけじゃないか、それをこんなデカい会場で・・・」
 ピートは最初こそこれを聞いていたが、最後にはこの泣き言に割って入った。
 「だからなんだよ?え?」
 そして挑発を入れてきた。
 「オマエ、ビビってんのか?」
 これにオレはムカッと来た。
 「ビビッてなんかねえよ、気分が悪いだけだってのに、ちゃんと話聞けよ」
 「このふにゃチンが」
 ピートに家のキッチン・テーブルを投げつけてやりたかった。が、その代わりに、オレはくるっと方向を変えて母ちゃんに向かうと、
 「じゃあ走って来るよ。例えオレの首が落ちたって、足はそのまま走ってるだろうよ」
 と言い、ピートはそれを聞くと、歯を剥いてニコーっと笑っていた。
 だがコロシアムに出ると、オレは再びピタッと止まってしまった。選手が多すぎて、スタートを2列でやらねばならず、後列は前列の3ヤード(※3M弱)ほど後ろかつ、しかもくじ引きの結果、オレは第3レーンの後列になってしまったのだ。これは2秒プラス数ヤードのハンディと言ってよく、オレは頭に血が上った。こんなんでどうやって、フーパー相手に勝てと言うのか?もう知ったことか!そう決めるとオレは、トラックを出た。するとピートが向こうから飛んできた。
 「どうしたんだよ?」
 「走ってられるかよ、見てみろよコレ・・・」
 だがピートはこちらが言い終わる前に一撃を加えた。
 「このふにゃチンが。さっきは冗談で言ったが、どうやらこれは冗談じゃあ済まないようだな」
 「ちげえよ」
 「だったらさっさとトラックに戻れ」
 だがオレはその場でも譲らなかった。するとコーチの一人がやって来て
 「オマエならそのくらい、すぐに何とかできるぞ」
 と言うので、方向転換してスタートラインに戻った。
 スターターピストルが鳴り、オレはスタートを切った。勝利へのイメージはこうだ。最初の3週は3分17秒で、つまり自分の出した3/4マイルの州記録で走り、そこからスパートを切るのだ。ところがスタートが第2列になってしまったせいで、オレはすぐに集団の中に巻き込まれてしまい、抜け出せなくなってしまった。走者達は前に群がっては横に伸びる。そんな状況でできたのは、ペースを守って集団が割れるのを待つことだけだった。
 その間、エルモとアボットの2人のインディアンは、1週目を58秒、2周目を2分1秒と、もの凄いペースで捲ってきた。こちらも既に順位は上げていたが、追いつこうとはせず、自分のペースは崩さなかった。彼らがそんなに早いなら、もはや勝つべくして勝つというものだ。しかし3週目の第1コーナーを迎えると、彼らは2人とも急速に勢いを失い、オレは2人を捉えた。
 ピートが1/4マイルと1/2マイルでオレのタイムを読み上げる。
 「スリー・セブンティーン(※3分17秒)!」
 そして3周目の叫び声を聞いた時、オレはペースを上げると全員を抜き去った。フーパーは首にできものができていて、それが原因で既にレースを脱落していた。ブッチ切りだ!少なくとも自分はそう思った。しかし残り200ヤード(※メートルほぼそのまま)を切った頃に、踵に何かが当たった。グレンデール高校のダーク・ホース、ゲイロード・マーサーが、こちらとの差を詰めていたのだ。彼の先行する足がこちらの後ろの足を蹴る。するとこれに自分はウサギのように飛び出すと、そのままゴールを切り、彼には約20ヤードは差をつけたろう。記録では最終ラップは64秒だった。
 ピートの手によりメダルがオレのシャツに付けられる時、当のピートは言葉を失っていた。当時、国際学際記録と呼ばれた1マイル部門を、どうやら18年間ぶりに更新したようなのだ。タイムは4分21秒2で、それから20年の間、この記録は残ることになる。さらに周囲が驚いたのは、レースの後の自分の様子で、1分後にオレをインタビューしたラジオアナウンサーは、こちらが鼻で穏やかに息をしているのを見て呆然としていた。

 大会翌日のロサンゼルス・タイムス。競技の様子は新聞のみならず、何とバッチリYouTube にも上がっている。15人もいるのにその中の2人になるんだから、クジ運はかなり悪いと言える!?

1934年5月19日南カリフォルニア高校生大会

 その2週間後、オレは再びロサンゼルスのコロシアムに戻ると、スタートラインに並んだ。今度は大学生相手の、1,500M走で、これは1マイルには119ヤード足りない。この大会の本命は、USC(※南カリフォルニア大学)から来ている太平洋大学連盟のチャンピオンで、勝者は、映画俳優のアドルフ・マンジューから寄贈された、金の腕時計が貰えることになっていた。
 スタートラインでは、嫌味にも
 「坊や、これはオトナのレースだからさ、走るの邪魔すんなよ」
 とか
 「本当のレースのお勉強かい」
 とブツブツ言ってくる選手もいたが、オレはあえて何も言わず、レースで実力を見せつけてやると、太平洋大学連盟チャンピオンとやらを、20ヤード近く離してやった。タイムは4分ちょうどで、マイルに換算すれば4分15秒。別に全力を出し切った感もなく、まだまだいけると感じていた。
 自分に素質があるのは分かっていたが、実際に大学生を負かすまで、どれくらいなのかは分かっていなかった。一方でピートとスタジアムを出る際、自分の気持ちは晴やかなものではなかった。3位以内に入れなかった選手を、その家族や友達が慰めたり励ましたりしており、彼らが背中を叩かれたり、抱擁を交わしたりしているのを見ると、勝者であるはずの自分が、孤独に思えたのだ。
 それからというもの、オレは両親を大会の度に必ず呼ぶようにした。自分が両親を呼べるということは、誇らしい気分になる。そして勝つということは、他者と分かち合えないと本当の喜びたりえないということに、自分は気づいたのだ。

 4年になると、オレは生徒会の会長に選ばれ、肩の力を抜くと言おうか、記録を破ることに専念するというより、自分のスタイルで走るようにした。ピートもコーチを続け、オレは1936年の1月に高校を卒業すると、次のオリンピックの1,500Mの代表を本気で狙いたい旨を、ピートに伝えた。無論それが簡単なワケはない。2人とも知っていたが、アメリカには5人の強豪がいて、全員が既に大学を卒業していた。一人はグレン・カニンガム、自分の尊敬するヒーローだ。彼は子どもの時に足に酷い火傷を負っていて、(いつだったか、実際にシャワールームで、自分の目で傷跡を見るチャンスもあった)それでも彼が選手なったのを読んだことは、自分にとって大きなインスピレーションで、自分にも陸上のチャンピオンになる、チャンスがあることを教えてくていれた。

大学時代のルーイー

グレン・カニンガム

  事故後は歩くことすらままならなかったが、1932年大会では4位とあと一歩で、ベルリンではメダルが期待されていた

 だがピートはこの決意表明に慎重だった。
 「1940年の東京大会まで待った方がいいんじゃないか?その頃には肉体もピークを迎えるだろう」
 確かにその通りだった。カニンガムは既に屋内タイムで4分6秒04、屋外で4分と9秒、10秒を出していて、こちらは平均でもそれに8秒も遅れていた。8秒、それは多くの状況では大した差には見えないかもしれない。だがレースにおいては誰もが思う以上に大きく、75ヤード(※68M) にも相当した。
 1週間後、ピートが電話をかけてきて、長距離の国内トップランナーである、ノーマン・ブライトが2週間後のコンプトン招待杯に出るようだと言ってきた。出場するのは5,000Mで、これは3マイルをちょっと超えただけの距離だ。
 「これにお前を出させる予定だ。そうすればオリンピック出場をほぼ確実視されるブライトと、どれくらい実力が近いのかが分かるし、それだけでいい。でも1,500から5,000のシフトはちょっとキツイかもしれない。しかもこの距離に体を合わせるのに、12日しかない」
 これにオレは体力と持久力をつけるため、一日5マイル(※8キロ)を走り、各1マイルずつを別の1マイル走者に伴走して貰っては、ペースを作った。ともかく自分を追い込んで、つま先がすり減って、靴下と靴に血が染み込むまで走った。それから距離を短く縮めて行って、最終的にはタイムを出していった。
 しかし自分がブライト相手に、どこまで戦えるかは全くの未知数だった。ピートは既にサンディエゴの大会に偵察に行っていて、ブライトは体力を温存して終盤に仕掛けてくるタイプだということを調べていた。その結果ピートは、最終ラップが来たら伝えるので、それで最後の4分の1マイルをスパートで抜け出し、それでブライトに先行することに望みを懸けた。
 ところが大事なレース本番で、ピートはこちらの周回を数え間違え、スパートのサインを残り2周の地点で出してきた。こちらがスピードアップするとブライトもペースを上げ、そのまま互いに抜いては抜かれを、5~6回も繰り返し、信じられないことに自分はブライトと互角に渡り合っていた。そして最終的にはブライトがスピードを落とし、最終200ヤードを切ったくらいで、こちらが前に出た。オレは肩越しに相手を見て、この様子にスタンドは大熱狂した。
 だがこの後、運営が大きなミスを犯した。周回遅れになったランナーの1人を、オレが右から抜こうとした際、彼にトラックの左側(つまり内側)に避けるよう言う代わりに、彼らは右によけるようゼスチャーしたのだ。これはこっちが左によければよかった話なのかもしれないが、しかし既に勢いがついてしまっていた体は第8レーンへと向かい、そこで2人はメインスタンドの近くでぶつかってしまったのだ。オレはよろめくと、体勢を崩して片手を地面につき、その隙にブライトはオレを抜くと先まで行ってしまい、こちらは体勢を立て直すと内側のレーンに向かい斜めに走った。これには運営側も大興奮してしまい、またもやヘマをやらかした。ゴールテープを落としたのだ。それから急いでサッと拾ったのだが、これはちょうどオレがブライトを、ゴールラインで捉えたのと同時だった。これはほぼ同着にも見えたが、結果は1か2インチ(数センチ)の差で、ブライトが勝った。
 3年半に渡り無敗だったのに、ここに来て初めて負けてしまった。
 自分が試合に勝った時は、友達がオレの背中を叩き、ガールフレンドはハグを、両親は喝采をくれ、ラジオのインタビューを受けた。そこから周りを見ると、勝てなかった選手達も、家族や友達から背中を叩かれるのだが、しかしそのやり方は勝者の受けるそれとは当然違い、その様子を見るのは、いつだって気分のいいものではなかった。いつか自分が敗者の側に回るのは、時間の問題でしかなかったからだ。だからその時が来たら、自分は負けても明るく振舞おう、そうオレは自身に誓った。そしてそれがまさに今、目の前で起きているのだ。さて、自分は文句でも言うのだろうか?負けを受け入れられない?怒りだす?いや、ブライトに駆け寄ると肩に手を回し、心から勝利を祝福した。
 「本当にいいレースだったし、あなたは勝つべくして勝った」
 そう言うとオレは、にっこりと笑った。そして歩いて会場を出る時、今までの全ての勝利以上に、自己肯定感が得られたのを感じた。これからは敗北も、潔く受け止めることができる。

 ところがこの敗北は、ただの敗北ではなかった。この実績によりオレは、ニューヨークのランデールズ島での五輪選考会に呼んで貰えることになったのだ。トーランスではこれに対し、オレの遠征費のためにチャリティーを呼び掛けてくれ、街の商工会では「トーランスの竜巻(※章名:Torrance Tornado)」と側面にステンシルで染めたスーツケースまで作ってくれた。(他の選手にからかわれるのが嫌なので、養生テープでここは隠したが)他にも髭剃りとか、服も寄付してくれた。ちなみにウチでは父ちゃんが鉄道会社で働いていたので、自分は1年に1往復間ならアメリカのどこでも使える、サザン・パシフィック社の券を持っていた。
 しかしそれでも、ニューヨークに行くというのは不安だった。オレはずっと
 「ピート、一緒に来ないなんて、そんなのおかしいよ。街で迷ったらどうするんだ?」
 なんて言っていたが、ピートは
 「もう一人でどこへでも行けるよ」
 と、にべもなかった。
 出発は日が暮れた後だった。その日の夕食は食堂車で、白いテーブルクロスの上の立派な陶器から食べた。あの数年前のサン・フランシスコの引き込み線で、みじめに寒さに震えながら、出発する列車に乗る幸せそうな乗客を窓越しに見て、いつかはあちらの側になることを夢に見た自分。
 今その夢が、叶っているのだ。

 ニューヨークには、その数年の内でも最も熱い週に到着した。宿泊先はマンハッタンで、部屋は前もって借りておいたものだった。この旅行は楽しいものだったが、それはニューヨークの地元紙の反応は除いて、だった。地元では自分の名前を新聞で見るのが当たり前になっていたのに、東海岸のマスコミは、オレの名前を聞いたことがないようで、これにはイラっとしたのだ。ピートに書いた手紙にはこうある。
 「こっちの新聞に日曜の5,000Mの勝者予想に名前が挙がってるのが、1・ラッシュ、2・ブライト、3・ロックナー、4・オッティ、5・デカードってさ。オレが走ることさえ知らないんだよ。だけどこの暑さを何とか対処できれば、ブライトを負かしてラッシュを脅かすこともできる。そしたら名前も新聞に載るよ」
 サインには「ベルリンへ向かう弟より」とした。

 1936年7月9日付のシラキュース・ヘラルド。同紙によるとニューヨーク市は摂氏で41度以上となり、12人が倒れ、死亡者も4人出ている。記録では史上最も暑い日となり、これは温暖化が進んだ2022年現在でも破られていない。エアコンなど当然公共施設にしかなく、当時の選手達は異常な暑さに苦しみ、数日で体重を減らす程だった。競技会場は摂氏で38°だったとされる。https://www.syracuse.com/weather/2020/07/july-1936-cny-roasts-in-a-week-long-heatwave-that-saw-3-straight-days-over-100.html

 トーランス市のサイトによると、地元で用意してくれたのは「お札(※カンパ)でいっぱいの財布(※画像)、列車の切符、服、髭剃り、そして悪名高きスーツケース」とのこと。数々の遠征に使われたスーツケースに名前は識別できるが、残念ながら「トーランスの竜巻」は見えない。反対側に書いてある!?

 http://thetorrancetornado.com/

 ランデールズ島には船で行った。(※現在は橋がある)ウォーミングアップをすると日陰に寝転んだのだが、これは意味がなかった。日陰も凄く暑かったからだ。競技開始10分前に、ストレッチをしてから筋肉をほぐし、イメージ・トレーニングをした。実のところを言うと、ラッシュには勝てるとは思っていなかった。ラッシュは2マイル(※3,200M)の世界記録を持っていて、それを計算に入れても、自分は2位か3位につけないと、オリンピックチームには入れなかった。
 そしてレースが始まる。オレはピートから授かった戦術に専念した。先頭集団の後ろにするっと入り、可能な限り近くにつけ、トラックの内側をキープして焦ってはならない。前に出るのは緊張を強いるやもしれないのだ。そこではたった一人だし、誰も前には見えない。先頭のすぐ後ろにつけて、その足を見ながら走るのが自分のスタイルなのだ。もし先を行く走者が1フィート(※30センチ位)トラックの白線の外側を行くなら、オレは3インチ(※10センチ位)の所を行き、ショートカットで心理的な優位を確立する。戦術こそ我が勝負。脇を走る走者にも注意を怠らず、囲まれてしまわないようにする。自分より下馬評の高い相手と競る時にも用意の戦術があって、トレーニング時に1周(※400M)で50Mダッシュしてはペースを戻し、またダッシュしては元に戻りを繰り返した。これを実戦で行うと、他の選手はオレが抜け出る度にこちらについてこざるを得ず、トップ選手もやがては消耗してしまい、最終ラップにはこちらが抜け出せるのだ。
 レース序盤、ランナーは全員、固まって走った。オレはたぶん16人中10番手だったろう。ブライトはすぐ前にいた。レースは最後までまだまだ長い。とにかく焦らずペースをキープした。約1.5マイルを終えると、1人の選手が暑さにやられて倒れ、残りの選手は全員、彼を飛び越えて走った。そしてこれは最終的に、ブライトにも起きた。強烈な太陽は、白い肌やそばかす顔、薄い茶色の髪には容赦がなかったのだ。オレはブライトの横につけると最後まで走るよう促したが、ブライトは1週間前に走った10,000Mで水ぶくれができていて、この痛みはとても耐えられたものではなかった。自分としては、この挑戦だけでも称賛に値すると思う。もちろんブライトには勝ちたかった。何としても勝ちたかったが、しかしこんなものは勝ちではなかった。
 最終ラップの直前では、ラッシュが前に出ていて、デカードがそれを追い、さらにそれにオレが迫り、3人は他を引き離していた。そこからゴールと反対側のバック・ストレートに入り、ラッシュに向かってスパートをするなら今だという瞬間、しかしオレの頭の中は数秒の間、うわの空を漂っていた。心の中では、どうやってあのフィンランド人達から(※当時のトップランナー)記録を奪ってきた世界チャンピオンを抜かすってんだ?という声が聞こえ、スパートする代わりにその背中に見とれていた。すると最終カーブに入る前でデカードが第2レーンに入ってきて、そのせいでこちらは第3レーンに追いやられ、これでオレも目が覚めた。デカードを抜いて第2レーンに入り、ラッシュの後ろにつける。そしてこちらが仕掛けると、自分達は最終ストレートをスパートで競り合った。チャンピオンと競り合う自分。無論、王者というものは、簡単に勝たせてなどくれはしない。オレ達は、ほぼ同時にゴールテープを切った。
 自分はラッシュを捉えたと、自分は勝ったと思った。だが場内のアナウンスでは、自分ではなくラッシュの名前が呼ばれた。それを聞くとオレはラッシュの勝利を称えることなく、トラックを離れた。スポーツマンシップにもとる?誰もオレのことなんか知らないクセに、知ったこっちゃあない。西海岸のランナーであるオレを、アナウンサーときたら黒いトラック・スーツを着てるだけで「ダーク・ホース(穴馬)」と呼びやがった。オレはさっさとロッカールームに引き上げた。だが誰かが急いで追いかけてくると、オレをもう一度、外へと連れ出し、大会委員の一人が「1位」と書いてある証書を手渡してきた。レース・フィルムが同着を判定していたのだ。これにはオレも最高の気分だった。だがもっと最高だったのは、ニューヨークのマスコミのほとんどが、オレの名前のスペルを正確に覚えたことだ。

「おめでとう、ルーイー。皆とコールダー署長より」

―CBSドキュメントより

「自分にとって、一世一代のレース。ドン・ラッシュと私は、1936年7月のオリンピック代表選考5,000M走を同着で分けた。私はいつでもレースは最後まで走った」―03年版より

 これには家族や友人から、お祝いの電報が山のように送られて来た。ピートや自分の存在を世に知らしめただけでなく、自分が、この自分がオリンピックチームに入るのだ。
 代表選考に漏れた選手達も立派なもので、自分達上位3人を称えると、ベルリンでは素晴らしい時間を、と言ってくれた。感情的になることなく健闘を祈ってくれたのだ。しかし最近では状況が変わっている。チーム入りできなかった選手は、その場に泣き崩れたりしている。自分達の時代では、誰もトラックに倒れて赤ん坊のように泣くなんてことは無かった。負けても毅然としていたものだ。それは勝者の側も同じで、勝ったからといって、まるでこの世の王のように威張り散らしたりなどしなかった。あの時代のアスリート達は、勝利に対して全くにして謙虚だった。
 あの頃は、今より成熟していたものがあったと私は信じている。こんにちのアスリートはより筋力を蓄え、優れたトレーニングプログラムを擁し、より軽い靴で高速トラックを走る。しかしそこには勝つにしろ負けるにしろ、機嫌よくことを終えることができない人達がいる。これはメディアがアスリート達にプレッシャーをかけ過ぎているからかもしれないし、金銭がそうしているのかもしれない。自分の時代では、我々は競技への愛があるが故に競ったのだ。ドーピングの類とてなかったとは言わないが、誰も不正を犯したり、健康を害してまで勝ちたいとは思わなかった。自分達の時代では自分を負かした相手の背中を叩いて健闘を祈り、それで終わりだった。
 自分とてあの時、感情がなかったと言うつもりはないし、自分はただいつものように、それらを内側に秘めていたにすぎない。だが心の内では、カリフォルニアから来た高校の若造は勝利に対し、はしゃぎにはしゃいでいた。

 全米代表が決まったドン・ラッシュ、ルーイー、トーマス・デカード

 ドーピング:2000年代にアメリカのプロスポーツ界では、あらゆる有名選手がドーピング漬けだったことが大きな問題になった。メジャーリーグのホームラン王、マグワイヤは公聴会、日本で言う国会に召喚され、彼はここで薬物の使用を否定も、後に陽性反応が発覚。しかもプロのみならず、学生選手達も勝利至上主義ゆえにドーピングをしており、これは現在にも続く

オリンピックID

 あくる日、オレはオリンピック委員の事務局へ選手登録に行き、そこで公式チームウェアのための計測を受けた。白のスラックスに、五輪の紋章が各ボタンに入ったネイビーブルーのジャケット、麦わら帽も支給された。競技用のユニフォームはサテン調のパンツに、シャツは軽いウール素材で、これが支給された後、自分はゲン担ぎのラッキー・パンツは家に送った。靴は今、使っているのを、そのまま使っていいそうだった。
 その後、オリエンテーションを受けた。内容はドイツへ行く時の豪華客船、SSマンハッタン上や試合での行動規範のようなもので、運営側はこちらに、まるで子どもに対するかのように話していた。
 そして来たる7月15日の水曜日、SSマンハッタン号は11度目のオリンピックに向け、港を出港した。全員が甲板に集まってグループ写真を撮り、それはそのまま多くの新聞の一面となった。頭上には飛行機や飛行船が飛び、上昇しては急降下をし、沿道の人達は選手団に向かい何度も「アメリカ・アメリカ・エイエイオー!(※’Ray, ’ray for the USA! A・m・e・r・i・c・a!)」と唱えていた。船には赤と白と青に塗られた巨大な煙突が2つあり、1,064人もの乗客を満載していた。その内訳は334人が選手で、354人は役員、コーチ、トレーナー、新聞記者、選手世話役と親族だった。
 選手は船の2等席が割り当てられた。部屋は特別室をビリー・ブラウンと共同で使った。彼は三段飛びの選手で、自分と同じく、自身の競技では一番、年の若い選手だった。船内の各設備は最高で、特に大きな舞踏場は、自分の一番のお気に入りになった。フレッド・アステア(※当時の人気ミュージカル俳優)レベルではないにしろ、自分のダンスの腕前は決して悪い物ではなかったし、年上の女の子達にはお礼を言わないといけないが、一緒に踊ってくれた。ホールではワルツの、優雅でゆっくりした曲なんかも流れて、これで踊るのも楽しかった。だが一度、船が嵐に遭い、縦に横に激しく揺れるあまりに、乗客全員が床一面に滑ってしまうことがあった。そこには一番シャイな選手もいたが、この時に頭から一人の女性アスリートに突っ込んでしまい、とても恥ずかしい「ご挨拶」になってしまうと、これに手すりや固定部分に掴まっていた周囲は大爆笑だった。船が元の位置に戻ると、彼はそのシチュエーションから解放されたが、顔を真っ赤にすると舞踏場を走って出て行った。
 そして食べ物。これはもう本当に凄くて、並べられた見た目からして、信じられないほどに豪勢だった。思い出すのは人生初の外食で、自分はドラッグ・ストアでサンドイッチにオリーブが楊枝で刺さっているのを食べたのだが、当時はそれですら凄いご馳走だった。ところが船の食堂の品揃えは比べものにならず、もはや言葉にできないレベルで、しかも全くの無料だった。食事の間、それぞれのテーブルには甘いロールパンがバスケットにいっぱいになっているだけではなく、そこには6種類ものバリエーション用意されていた。ここにロサンゼルス・タイムスに載った、一品メニューのリストの一部がある。「昼食 ローストビーフ、ベイクドポテト、セロリの煮込み、牛乳、紅茶、焼きリンゴ。我々は全部で700ポンド(※300キロ以上)ものビーフを平らげた。夕食 チキンスープ、ローストチキン、クランベリー・ソース、マッシュドポテト・グリンピース・アイスクリーム・飴」

アイスクリーム・サンデ―

 1930年代から~80年代に有名人にも愛された、ロサンゼルスのシュワブス・ファーマシー(薬局)こと、ドラッグ・ストア。当時、薬局は日用品の他に軽食喫茶も兼ねていて、アイスクリームやソーダは、そこでないと食べられなかった。本編にも登場する、ホット・ファッジ・ブラウニー・サンデーは上記店舗発祥の大ヒット商品で、カウンターでミルクシェイクを飲んでいた、ラナ・ターナーがハリウッドにスカウトされたという逸話も残る

https://www.foodrepublic.com/2016/10/10/a-look-back-l-a-s-schwabs-pharmacy-was-more-than-a-drugstore/

左:公式ウェアを着る選手とフェンシングの練習風景

https://www.cruiselinehistory.com/the-kennedys-olympic-teams-and-stars-sailed-aboard-the-ss-manhattan-during-the-1930s/

右:Universal Pictures 「アンブロークン」より、カラーで再現されたユニフォーム

セレブしか乗れない豪華客船は絵葉書に

1936年、ニューヨークを出港するSSマンハッタン
https://www.cruiselinehistory.com/1936-nazi-olympics/

 オレはもう自分を抑え切れなかった。ドイツに着くまでには、確実に10ポンド(※4.5キロ)は太っていたろう。
 食堂でたらふく食べていない時は、一等席のエリアに行って、他の選手たちとトレーニングに励んだ。甲板は船の上でぐるっと一周していて、途切れず走って一周できたのだ。船の右舷と左舷には収納があり、ビールが貯蔵されていた。オレ達は激しく走った後は、ビール樽の蛇口の所でグラスをとると、2等席へと戻った。
 自由時間には、「お土産集め」もした。灰皿、タオルと何でも集めた。元不良・コソ泥として訓練していた自分からすれば、この手の話はチョロいもんで、しかも気づけば自分だけでなく、他の人もほぼ全員がこの「コレクション」をしていた。また船には、自分にとってのスポーツ・ヒーローとも言うべき選手達が乗っていて、オレは彼らに会いに行くと、そのチームメイトの輪に加わった。年上の選手達はこちらに色々と、世話を焼いてくれた。
 ヘレン・ヘイズや、大会後に仲良くなったジョー・E・ブラウンといった映画関係者は、大会役員と同じように全員が一等席にいた。役員のメンバーはほとんどが裕福な金持ちで、彼らが生まれながらの金持ちなら、こちらは百姓というか小作人であって、選手は彼らと決して対等ではなかった。今のオリンピック委員はそうではないし、彼らと選手はお互いを尊敬しあっている。

 夜になると選手たちは、「上」から招かれない限り、2等席で過ごした。1932年にオリンピックを制した背泳ぎのトップ選手、エリナー・ホルムは、この時このお招きに与った。彼女は練習中にファースト・クラスで、ウィリアム・ランドルフ・ハースト・ジュニア(※新聞王ハーストの子ども)と知り合い、友人になっていた。ところがオリンピック役員のお歴々は、彼女がハースト・ジュニアと踊っているのを見て、彼女が選手の側にいないことを心よく思わなかった。そして次にエリナーがシャンパンを飲んでいるのを見て、彼らは「処置」に出た。最初に彼女の所に警告は来たのかもしれないが、詳しくは分からない。自分が思うに、彼らは彼女のマイナス要因を全部、繋いで合わせたんだろう、次の日エリナーはエイブリー・ブランデッジに呼び出しを食らうと、オリンピックチームから追放された。

アイドル・アスリートだった、エリナー・ホルム。1939年5月9日号のルック・マガジンではカバー・ガールに

 ブランデッジは厳しいアマチュア主義者として有名だが、その実はただの偽善者だった。自分達アスリートは全員、アマチュア憲章が決めていた額より、ちょっと多い額の金銭を報酬に受け取っていたのだが、ブランテッジが非難するケースはまちまちで、一貫などしていなかったのだ。特に大恐慌の時代には、その1ドル1ドル(※1,606円)は選手達にとって貴重で、とはいえルール違反はルール違反ということにはなる。それなら言い方を変えると、私は今まで世界クラスのアマチュア・アスリートで、その言葉通りにアマチュアであった人など、見たことがない。
 かの偉大なジム・ソープに何が起きたのか見てみよう。彼は極めて貧しいインディアンだった。そしてたった12ドルを、プロ野球で稼いだというだけで、(※33,000円)オリンピック委員会は罰則として彼から、(※1912年のストックホルム10種競技と5種競技の)メダルを全て剥奪し、その精神ですら打ち砕いた。彼がまるで犯罪者のように批判されるのは、もう痛ましいとしか言いようがなかった。実際それはあまりにもバカバカしい話で、委員会は10年前に全てのメダルを遺族に返還した。
 実は彼とは、自分が高校の世界記録を塗り替えたすぐ後で、一緒に講演ツアーに行ったことがある。あれはトーランスのキワニス主催で、(※世界三大社会奉仕グループの一つ。日本にも存在)キワニスはまさにジムのサポートに努めているところだった。その時、自分は「最近の高校における陸上競技」について簡単に話をすると、ジムはインディアンの頭の羽飾りをつけ、そのいでたちで講演をし、短い挨拶をして、謝礼に10ドル(※2万円)を受け取った。
 あの時、誰もがエリナー・ホルムへの罰則は明らかに行き過ぎだと思っていたろう。年上で大人の選手達はブランデッジに抗議をし、その件について全員で投票をしようとも提案した。自分とてもしホルムがその地位を追われるのなら、チームの95%もビールを飲んだということで、追放されなければいけないと思った。だがブランデッジは抗議を受け付けず、決定を下すのは彼だった。世界を冷酷に支配する独裁者のように、その勅令は全員が従わねばならなかった。ブランデッジなら、他の役員にも投票などさせなかったと自分は思う。もちろん、ハーストはホルムを即座にオリンピック特派員として雇い、ともかく大会には行けるように図らった。だが彼女がベルリンで競技に出た訳ではない。これが我々にとっての損失でなくて何であろう。
 この話は本当に不愉快な話だった。だが終わってしまったことは取り返しがつかない。加えてその頃には、SSマンハッタン号はドイツのハンブルグに接岸し、選手達は列車に乗り換え、ベルリンへと向かっていた。そしてそこでは自分の戦うべき競技が待っていた。

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