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メール・オン・サンデー 8月20日 1995年

50年目にして遅きに失する

死の収容所の鬼  遂に謝罪

大変に申し訳なく思う

ピーター・ハドフィールド(東京)

クレア・ヘンダーソン(ロンドン

 

 最も悪名高い収容所の看守の一人が昨日、戦時中における自身の残酷な行為について謝罪の意を表明

 

 大森収容所の鬼として捕虜達にその名を知られた男、渡邊睦裕が、自身の所有する資産価値にして1億円以上の東京のマンションにて、インタビューに応じた。

 「捕虜達の負の感情も私は理解できるし、彼らもなぜ私があれほどに苛烈であったのか、不思議に思っているだろう。だが今となっては私は謝罪をしたいと感じている。深く、心より謝りたい」

 戦時中軍曹だった彼は自分の顎を突き出し、右手でパンチのゼスチャアをして見せると言った。

 「もし当時の捕虜達が望むなら、ここへ来て自分を、殴るなり打つなりして貰って構わない」

 今や髪も白くなり、腰も曲がった渡邊は77歳となるも、戦争終結と共に逃亡すると、戦争犯罪者としての訴追と直面することは、決してなかった。

 だがこんにちでは、自身の行為に真の罪の意識を公言する。

 「私は苛烈な人間でした」

 彼はゆっくりとうなずきながらこう言った。

 「自分は極めて苛烈な人間だった。だが武器は使っていない。使ったのは拳と手、それだけだ。私は日本の軍事政権の下、捕虜達に軍の規律を教えなければならなかった」

 

絞首刑

 

 「もし自分が戦時中にまっとうな教育を受けていたなら、自分はきっともう少し親切な、もっと友好的な人間であったろうと思う。だが私が教わっていたのは、戦時捕虜達というのは降伏した人間であって、彼らにとっても恥ずべき行為だということだった。ジュネーブ条約については何も知らなかったし、自分の司令官についてそれを聞いてみたら、『ここはジュネーブじゃない、日本だ』ということだった」

「妻と息子、娘の他は、誰も自分が何をしたか詳しくは知らない。だから外の人に向かってこの事を話すのは今回が初めてだね。何というか、何と言うか、気がラクになったよ」

 渡邊は1945年に、日本の中央に位置する長野の山中に逃げ込んだ。そこには彼の母親が別宅を持っていたのだ。そこで「オワタ(※大田三郎)」と偽名を名乗ると、彼は温泉保養地に仕事を見つけた。

 「自分は当時アメリカ政府から指名手配を受けていてね。同じ戦時捕虜収容所からは他に7人もの人が裁判にかけられてね、全員が絞首刑になったよ。その後のある日、新聞を見たら、もう政府からの指名手配ではなくなった人のリストが載っていてね。自分の名前がそのリストにあるんだよ。だから元の所へ戻ろうと決心したんだ」

 彼は東京へ行くと、保険会社へ入り、その後自身が契約代理店を始めるまでになった。今では東京の瀟洒な一画にあるマンションでの部屋と、オーストラリアの老人ホームを行き来する生活を送っている。

 一方3年と7ヵ月もの間、戦時捕虜だったトム・ヘンリング・ウェイドの脳裏には、渡邊の残虐性の記憶が鮮明に残っている。

 21歳の王立連隊(北ランカシャー州)諜報部将校として、彼は毎日、ほぼ慣例ともなった渡邊の殴打に耐えねばならなかった。

 彼らは1943年9月に東京湾の島であった大森で初めて会った。

威張り散らす男

 

 現在エセックスのチグウェルに住むウェイド氏は言う。

 「今でも渡邊のことはハッキリと顔が頭に浮かぶよ。まあでもそれはいつでもずっと、27歳の男のままなんだがね」

 「毎日彼は、罰則だの締付だの虐待を、収容所の全員に対して行っていた。あそこに居たのは550人の、イギリス人とアメリカ人とオーストラリア人だった」

 この暴君は、ちょっと脇見をする、敬礼が雑、ニヤっと笑う、ということだけで激怒し、怒ると口の周りに泡を吹いて犠牲者に殴打を加えた。

 士官達は平均して、一般兵の10倍から15倍の罰則を受けたという。

「もし一般兵が一人何か間違うと、彼は私にもその一般兵と同じだけの殴打をしたね」ウェイド氏はこう当時を回想する。「渡邊はコレの専門家で、コレがもう本当に大好きなんだ」

 「何百回も自分達は、叩かれては殴られて蹴られて、何人かの人間に至っては、あと少しで死んでしまうところだった」

暴君渡邊 画 ウェイド

​悪名高き東京大森収容所

被害者

戦時中のトム・ウェイド

罪の意識:現在の渡邊・・・私は苛烈な人間だった、謝罪したい

  写真:ティム・エクスリー

 自分の拳と手しか使わなかったという、現在の渡邊の主張にも関わらず、ウェイド氏の記憶はこれとは異なる。

  「アイツは激怒すると、消防用の道具みたいな何かで人を殺そうとしたよ」

 「彼は人を地面に殴り倒して、頭まで割ろうとした。かなりの数の人間が腕や歯を折られたり、鼓膜を破られたりして、

そうでなくとも彼は人のどんな所でも蹴り飛ばして、首でも顔でも胸でもだ」

 渡邊はまた竹刀と呼ばれる、剣術の練習用の道具である、竹の武器で捕虜達を殴打した。

 一度なぞ、彼はウェイド氏を36回に渡り、頭とその周辺をこの武器で、しかも木でできた固い持ち手の部分で殴った。ウェイド氏によれば、この収容所で渡邊に殴られて直接死んだ人間はいないとされているが、しかし殴打の数週間後に死んだ人間はいるという。

 「ともかく生き延びるのに精一杯で、あそこにいた人間は飢えと寒さに晒されていた。ひとたび病気になって精神的に苦闘するのをあきらめてしまうと、あそこではもう絶望的だった」

 

              苦難

 

 ウェイド氏は自書「プリズナー・オブ・ザ・ジャパニーズ」で、大森の捕虜達がいかに絶え間なく人権を踏みにじられ、苦難の時を忍んだかを描いている。病気は死を意味し、脚気でつま先のほとんどを亡くした人間も、一人や二人ではなかった。収容所の医者は後に戦犯として絞首刑になったが、彼は脚気の患者に「火傷療法」を行った。米の籾殻を体にのせて、これに火をつけたのだ。

 また厳しい冬の最中に、一人の捕虜が日本人士官の絹のシャツを盗んで着ていた廉で、寝巻のまま三日三晩もの間、屋外で木に縛られていたこともあった。

  渡邊は謝罪を拒み、自身の残虐性の釈明すら拒む中、ウェイド氏はそれに対する苦しい思いと共に、50年にも渡り生きてきた。

そして昨日、ロンドンでの退役軍人のパレードへと出立する前に、彼は旧敵が赦しを乞うていることを知らされた。

 「彼がそう言うならとても嬉しいよ。謝罪も受け入れるし、老後は安心して生きて欲しい。この期に及んで憎悪にこだわるなんて、よくないからね」

 とはいえ、渡邊の殴ってもいい、という提案は受けるだろうか?

 「長年に渡って自分は何度も、もし対面したら、一発凄いのをお見舞いして、オレ達がどれだけの苦しみを耐えたのか、教えてやろうって思ってたよ」

「提案通り顎を突き出してきても、手を出したりはしないと思うけど、一発くらいは思いっきり殴っちゃうかも知れないかな」

 渡邊によれば、彼はウェイド氏のことは覚えていないとのこと。

 「捕虜は沢山、何百人もいましたからね」

 「説明は難しいが、当時自分の中には2人の人間がいて、一人は軍の命令に従い、もう一人はより人間的だった」

「当時でも、自分は人としての心を認識できる時が何度かあったが、あの時の日本はそうではなかった。戦時でなかったら、自分はあんなことは絶対にしなかっただろう」

「戦争というのは人間性に対する犯罪に他ならない。自分達の首相が戦争に対して謝罪したことを自分は嬉しく思う。しかし政府全体が謝らないのは理解できない。悪い内閣を持ったもんだよ」 

 50年に渡り渡邊は沈黙を守り、インタビューを受けるよう、何度も言ってきた日本の新聞やテレビを拒んできた。

 ではなぜ彼は今になって口を開こうというのか?

 「我々は50年の平和を祝っています。今がその時なのです」

アラン・クラーク:日本人が対面を失うことなど決してないー28ページ

アンカー あぶみ

 ※消防用の道具みたいな何か:スターアップ(あぶみ)ポンプ

 空気入れで圧を足すと、バケツに入れた水がホースから出た昔の消火器。これが大森には常備され、常に使える状態でないと担当士官虐待の口実になり、上記の殺されかけた捕虜とは、おそらくルイス・ブッシュのこと。この時は運よくバケツが外れ、駆け付けた藤井軍医が介入。ブッシュは命を救われた―と、大筋で3者(バード除く)の供述が一致している。一方で大森収容所は四方を海に囲まれ、延焼が及ばなかったため、焼夷弾の直撃でもない限りポンプの出番はなく、3月10日の大空襲ですら物見の見物となった。ちなみに消火訓練名義の捕虜虐待を見かねた中には、日本側の司令官にもいて、根元凌一大尉はこれに激高して・・・!?

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