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6、「貝」になりたいのはもう一人のバード?

加藤哲太郎考

 書籍版「私は貝になりたい」より家族写真。本人は後列右2人目、妹と父が助命に大きく貢献したが、ここで妹だけ「都立第8校女3年」と学歴が強調されている

減刑が決まった、実質死刑回避の瞬間の写真

 「その後になってオレは知ることになるのだが、大森の副指揮官である加藤少尉でさえ、ただの操り人形にすぎず、彼はバードが懲罰を執行していると、見て見ぬフリをしていた。」

 本編ではこの一行しか登場しませんが、バードの操り人形の「Omori’s second-in-command, Lieutenant Kato」とは、加藤哲太郎のことになります。この人物は日本ではひと昔前、終戦記念日の度に放映されたテレビ・ドラマ、「わたしは貝になりたい」の「原著者」として有名で、この「ドラマ」は架空の人物である高知県の理髪師、清水豊松を主人公に、一般兵として徴兵された主人公が、上官により捕虜を銃剣で突くように命令され、その後この捕虜が死亡したことから、戦後に殺人を犯した戦犯として裁かれ、絞首刑となるフィクション・おはなしです。「私は貝になりたい」というのは、この主人公が絞首刑を受ける前に述べる遺書の内容から来ており、まず1958年に最初のバージョンがTBSにより放送されました。脚本を書いたのは著名な脚本家の橋本忍で、これを皮切りにその後も主演を時の有名人に変え、繰り返しテレビ・ドラマ化されています。しかし、これらは全て創作、つまりフィクションであって、書籍版の「アンブロークン」や「連合軍捕虜の墓銘碑」のように、調査内容を記述したドキュメンタリーではありません。実在の本人は日立大雄院収容所と新潟収容所の所長も務めた士官で、後者においては刺殺命令を下したと軍事法廷で判断され、一度は絞首刑を下されますが、家族らの助命嘆願により減刑となり、有罪のままではあっても処刑は免れています。フィクションでは銃剣による刺殺を命令される側、もしくは部下の暴発時に現場にいなかった責任者ですが、戦後の法廷では逆に「殺害の意図を持って命令した」とれっきと認定されているのです。

 ではフィクションなどではなく、実際には一体何が起き、戦後法廷へと至ったのでしょう?インターネットが無かった頃のテレビの影響はあまりにも強く、フランキー堺に所ジョージ、中村獅童や中居正広といった有名人が演じるその姿は、得てして「かわいそうな人」のイメージばかりです。中村獅童バージョンに至っては、題名もなんと「真実の手記」とし、主人公も清水豊松から加藤哲太郎・本人となり、まるで所長自らが捕虜射殺(刺殺ではない)の責任を一身に被り、それ故に戦犯となったかのようですが、そもそも起訴されたのは、この1件だけだったのでしょうか?

 そこでまず事実関係を、イギリス王室もその功績を認める「連合軍捕虜の墓銘碑」とPOW研究会のレポートから拾ってみましょう。まず加藤哲太郎は、東京第7分所(日立大雄院)で所長となった後、大森へ配属されます。その後、死者の頻出した新潟収容所(東京第5分所)の所長として就任。大森ではバードとも仲も良かったと見られる記述があり、大森収容所第2代所長の酒葉要から信頼され、死者の頻出した収容所に配属されるのはバードと同じと言えるかもしれません。

http://www.powresearch.jp/jp/pdf_j/research/tk05_tk15_niigata_j.pdf

http://www.powresearch.jp/jp/pdf_j/powlist/tokyo/tokyo_5b_niigata_rinko_j.pdf

 新潟における加藤哲太郎の在任は1944年8月28日~1945年8月20日で、この間も5名の死者が出ており、その内の一命は脱走した者が捕まり、収容所側に刺殺されたとあります。終戦後は加藤哲太郎もバード同様、逃亡をしますが、しかしこちらは逃げおおせることなく3年後に潜伏中の東京で逮捕、起訴されています。起訴状に関しては、ドイツの大学がネットに上げている裁判記録で確認できます。  https://www.online.uni-marburg.de/icwc/yokohama/Yokohama%20No.%20T361.pdf

 これによりますと起訴内容は、

 1,1945年7月19日、新潟収容所にて、意図を持って不法に銃剣で捕虜フランク・スピヤスを突き、他人にも突くよう命令、これにより死亡せしめた

 2,1944年8月と10月に、同じく新潟収容所でマイケル・O・キャロンを、意図を持って不法に拳と剣で殴打、足及びその他何方法で打撃し虐待、意識不明にまで至らしめた

 3,1945年5月1日から7月1日の間に、同じく新潟収容所にて、意図を持って不法にアルフレッド・J・ブライアンドを剣でもって殴打を加え虐待

 4,1945年3月31日から9月1日の間に、同じく新潟収容所で、他の者と共に意図を持って不法にドナルド・W・ボイルを殴って蹴り虐待、またウィリアム・B・シャウを殴って蹴り、踏みつけて意識を失わせるまでに至らしめた

 5,1944年5月1日から7月1日の間に、大森収容所にて意図を持って不法に、ブライス・J・マーティンを蹴って殴った虐待(※捕虜国籍など省略。詳しくはリンク先をどうぞ)

 となります。この内、捕虜殺害については、「所長自らが銃剣で突いた」また「命令をした」と言う証言が存在する中、本人はこれらを否定。裁判の構造としては、収容所の所長が、自身の与り知らぬところで殺害が(※虐待が)起きたと言う主張は、直江津の石川常雄・大田成美所長及び、大森の酒葉要所長の陳述と何ら変わりありません。そして前述したように、絞首刑が下りますが、作家にしてクリスチャン、かつ著名人に知り合いの多かった父親と妹が助命嘆願に動き、また父親と中学が一緒で後に総理大臣を務める片山哲、さらに父親が日本に招致したことのある当時アメリカに亡命中だったトルストイの3女、アレキサンドリア・トルスタヤ等が呼応。本人も獄中で週刊誌への投稿を盛んに行い、「私は貝に~」の原案となった「狂える戦犯死刑囚」等が雑誌に掲載されます。その後、マッカーサーへの直訴までした親族の減刑運動が功を奏し、書籍版「私は貝になりたい」によると、上記5件は有罪ではあるものの、その程度が「人事不省にまで至らしめてはいない」「失明はさせていない」という部分で減刑がなされ、懲役30年の判決で恩赦を迎えると釈放を得ます。ちなみに上のリンクの裁判記録は、この無期減刑時のもので、(sentence : CHL for life, confinement at hard labor 重労働での終身刑)失明云々については書いてありませんが、いずれにせよ一番大きな要因である、1,フランク・スピヤス刺殺への責任は、「あった」と法廷で認定されたままなのであって、これは部下の罪を肩代わりした故の冤罪、もしくは嫌疑不十分で絞首刑が回避された訳ではありません。本人はこの裁判について自書にて、正当な裁判がされていないと言っているようにしか読めない訳ですが、しかしこの人物、実は大森においてはかなりその言行が記録に残っているのです。大森でバードと共に現場を担当したが故に、日本のテレビドラマなど見ようはずもない捕虜は元より、看守の側にすら記録があり、PWIR・戦後取調調書にも登場する回数もかなり多いのです。では今まで何度も出て来た面々に、その様子を本を通してさっそく聞いてみましょう。

 ——①ロバート・マーティンデール「13番目のミッション」

 「一見して分かる日本人スタッフの捕虜に対する態度は、控えめな同情から、残忍そのものに至るまで広範に渡り、後者は以下の3名が特にその権化となった」とあり、加藤哲太郎、栗山迪夫、バードの名が挙げられます。また

 「自分が聞いた話と検証を総合すると、最も多くの盗品が(※大森)収容所に入ったのはおそらく、加藤少尉が日本の労働隊の担当官に任命された、短い期間だ。彼はアメリカで幾らかの教育も受けており、英語もなかなかに話した。彼は大森でこの新たな任務に就いてまもなく、(※派遣先)日本企業に対し、捕虜の労働対価としての賃金を引き上げた。彼は捕虜側の班長達に、自分も彼らが(※収容所内の配給以上の)追加で食料が必要なのは分かっていると言い、彼らが収容所に帰って来た時の検査を、形式だけかつ数回だけの物に減らすと言った。この検査を減らす見返りに、一般兵達は彼らが収容所に持ち込んだ盗品の、50%を渡すことになっていた。このみかじめ料の結果、盗品の量は飛躍的に増加したが、この比較的な激増と言える状態は、この中尉が突然姿を消す、約二ヶ月しか続かなかった」

 とあり、どうやら派遣先である三菱の倉庫で(ここでスコットランド隊が継続して砂糖を盗んでいた)、盗みを容認していたようで、これはそのまま「連合軍捕虜の墓碑銘」にも載ります。これに対し本人の著作「私は貝になりたい」では、一日一人平均12トンの荷の積み下ろしを、

 「一人当たり15トン平均の作業をせよ、それが終わったらすぐ帰ってよろしい、ただし、それ以上に各人一トン作業すれば煙草一本、二トンやれば三本支給する」

 と言うことで、捕虜の作業効率を上げたとあり、当たり前ですが自分が盗みを容認していたとは書いていません。

 

 ②当時大森を担当し、戦後に軍事法廷に呼ばれた藤井浩軍医(見習)の戦後取調調書(PWIR)

 「私は渡邊と加藤(収容所司令官)が捕虜を殴打するのを何度も見ており、また彼らが捕虜を殴打したと何度も耳にもしているが、これらは余りに数が多く、全ての詳細を覚えていられないくらいだった。私はまた、栗山ニチエ(迪夫)一般兵が捕虜を虐待したと聞いている」

 

 ③飛田時雄「C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン」

  飛田時雄は大森では事務方でしたが、たまたま訪れた捕虜棟での出来事を記しています。

 章名:「暴力、虐待の横行」

 「ところがその日、夜だというのに収容所はひどく騒がしかった。不信に思った私は、外のガラス窓越しから部屋の中をのぞいたところ、ちょうど渡辺睦裕という軍曹が革のスリッパを振り上げ、捕虜たち一人一人を殴打している最中だったのだ。大森捕虜収容所には、捕虜に厳しく容赦ない制裁を加えることで評判の渡邊睦裕軍曹と加藤哲太郎中尉という人物がいることは聞いていた。二人はなにかにつけて捕虜を暴行し、虐待するという噂だったが、まさか本当のことだったとは・・・」

 

 ④八藤雄一「ああ大森捕虜収容所」

 「加藤、渡辺は夫々(おのおの)後年『私は酒葉大佐に可愛がられた』と取材記者に語っていたという」

 「当時所内の秩序、捕虜の管理は渡辺一人に握られていた。そこへ最近日立の派遣所を嫌われて追われ本所に戻って居た少尉加藤は渡辺が余りにも絶大な権力を握っているのに嫉妬羨望を抱いていた。

 『俺は将校だ。渡邊より偉いんだ。渡辺一人に俘虜全員を自由にさせてなるものか』

 という示威行為であった。」

 (中略)

 「マーチンの制裁は初(※はじめ)、渡辺が、

 『自分がやりましょう』

 いったのを、加藤が、

 『いや待て。俺にやらせろ』

 と自ら買って出た。この間の状況は私は目の前で見ていたし、当時の通訳兵菅原兵長(関東学院出のインテリ兵)からもきいた。」

 とあり、ブライス・J・マーティン大佐に「洗面器一杯の鼻血」を出させると、「その様は生き地獄」とし、暴行には後遺症が残ったことが、マーティンデールから八藤雄一への手紙には記されます https://jfn.josuikai.net/circle/eigo/1993/1993april22.htm

 

 ⑤ルイス・ブッシュ「おかわいそうに」、及びPWIR

 ルイス・ブッシュは、PWIR・戦後取調調書において、加藤哲太郎を捕虜収容所・東京司令部での戦争犯罪者として、位の高い順に5番目にその名を挙げてから、著作において

 「相当高い教育を受けていながら、精神的なバランスに欠けた人間で、ブラウンに勝さる(ママ)とも劣らない病的な男だった。本名は言いたくないから、渾名のまま『ドブネズミ』としておく。」(日本語版より)

 (中略)

 「天長節の慰安会が終わって、われわれが寝てしまった後も、ドブネズミとブラウンは楽団に演奏させていた。その前に椅子を据えて酒を飲みながら、

 『もっとやれ、もっとやれ!』

 注文された節を知らないというと、ネズミが憤慨して怒鳴りつけた。可哀そうに真夜中を過ぎてもまだ演奏していた。その内に酔っぱらったブラウンがわれわれの宿舎にやって来て、寝ている将校全員に合唱しろと命令して来た」(日本語版より。英語版では閲兵場でこれが行われ、リクエストされた曲を知らない、と楽団が言う度に加藤哲太郎が怒り、バードに起こされた将校が加藤哲太郎のために歌うと、加藤哲太郎がふらつきながら指揮をする真似をする)

 また収容所に来たある大学教授に、(デイビッド・ジェームズによると、捕虜を神道に改宗させようとしたフジサワ教授のこと)「私がブラウンやドブネズミの事を話して、若し日本人の名誉を重んずるお気持ちがあるなら、こうした人物を収容所から除くよう取り計らってもらえないかと頼むと、二つ返事で承知してくれた」

 と記しています。面白いのはこの記述について、加藤哲太郎自身も日本語版を読んでから自書で反論していることで、そこではドブネズミとは自分の事だと認め、また「ブラウン」とは「加藤注、私と同年齢の早稲田卒の伍長の渾名」と記した上で、(※バードと加藤哲太郎は一歳差)演奏の強要には「やや誇張がある」とし、これはこの時にリクエストした曲が、

 「今考えてみると、それらは全部アメリカの曲でした、イギリス人の誇りがブッシュの心中を搔きむしったにちがいない」

 として、アメリカの曲ばかりリクエストしたので、イギリス人はそれが気に食わなくて話を誇張した、としています。

 

 ⑥トム・ウェイド「Prisoner of The Japanese」

 「彼と(河野通訳兵)、渡邊と加藤中尉、この3名だけは自分は解放後にその虐待を報告することになる」

 

 ⑦アルフレッド・ワイスタイン「Barbed-Wire Surgeon」

 ワインスタインの入所初日の日直士官だった、マーティンデールが語った内容として、加藤哲太郎を

 「バード以上の最悪な野郎がいるならこの加藤だ」、「根っからのサディスト」

 とし、

 「ある『イギリス野郎』(15年を日本で英語教師として過ごし、日本人と結婚し日本語が流暢、かつ香港で捕まったイギリス人とのこと。つまりどう考えてもルイス・ブッシュ)が生意気と思って、立てなくなるまで刀の鞘で殴ってから、睾丸を危うく切断する程に蹴りまくって、数週間の渡り歩行不能にした」

 としていますが、しかしこの記録は加藤哲太郎側は元より、ルイス・ブッシュにもマーティンデールにもなく、「刀の鞘で殴った」から、ブライス・J・マーティン殴打の件と混同している可能性があります。

 

 ⑧デイビッド・ジェームズ「大日本帝国の盛衰」

 「だが、彼(※バード)の狂気は他の人間によっても共有された。彼の残酷なやり口は、士官候補生の藤井や、収容所司令官の二等中尉加藤、「肉屋」こと品川病室の徳田軍医によって奨励され、(※中略)渡邊が全ての一般兵を、病気であろうと健康であろうと労働のために行進させると、加藤は全ての大森収容所一般兵を、収容所内外への労働隊で「労働に適する」とみなした」——

 長くなりましたが、つまり大森で実際に本人と接した捕虜や日本人からは、かなり暴力を振るったことが多く記されているのです。これらと最初に記した起訴状を見てからTVドラマを見るのと、いきなり見るのではどれくらい印象が変わるでしょうか?え?起訴状の内容なんて覚えていない?大丈夫です。一緒に働いていた藤井浩軍医も、加藤哲太郎の暴行事案はたくさんあり過ぎて覚えてなどいられなかったと証言しています。

 その後の加藤哲太郎ですが、恩赦まで服役すると出所。1959年には婦人公論の取材を受けていますが、それ以外の公的な著述は見られず、1976年には食道がんのため亡くなっています。この間、テレビ・ドラマは度々放映される訳ですが、実は書籍版の出版は戦後50年となる1994年で、これは本人の死後に著作権者であった妹が行っています。著書のカバーによると、ここには「巣鴨プリズンでの膨大な著作」が収録されていますが、しかし八藤雄一はこれについて、自書で以下のように述べています。

 「(※渡邊と)もう一人の巨魁が加藤哲太郎、戦後の『私は貝になりたい』を読むと彼の妹、加藤不二子が(※家族写真の本人右)、兄の弁護一心から彼の悪行は一切ふれず、如何に彼が慶応出の秀才であったか。(ママ)東俘収新潟第五分所長時代俘虜を大事に扱ったかを全編に綴っている。然し彼の狂暴な性格、実情を知る私は著しい反感を覚える」 

 というのも、実はこの著作は、

  A、巣鴨獄中から週刊誌に投稿した、匿名かつ「フィクション」を交えた文章4編

  B、1959年3月の婦人公論の記事、「私はなぜ『貝になりたい』の遺書を書いたか」

  C、親族・恩師との文通内容

  D、助命嘆願文と再審決定命令訳文

  E、著作権紛争の経過資料

  F、本人年譜

 からなっているのですが、肝心の起訴の原因である、大森及び新潟収容所で何があったのかについては、系統だった記述はほぼされておらず、時に矛盾する主張が同書内で繰り返されると、著述で事実描写が積み上げられているとはまず言えないからです。実際に内容を見てみましょう。

 まず本人は本文中で、Aの投稿文の中の一つ「戦争は犯罪であるか」で、「あなた自身のおこなった戦争犯罪を告白すべきである」と書いている一方、同じくAの投稿文、「狂える戦犯死刑囚」では、自身をまるで「中国戦犯」であるかのように書いており、中国で関与したと主張する殺人事件については触れていますが、自身が立件された国内の捕虜虐待については全く触れておらず、(事実と異なるが、フィクションだからウソではないとなる)「自身のおこなった戦争犯罪を告白」はしていません。ではなぜフィクションを交えたのかについては、B、本人も釈放された1959年の婦人公論の記事において、「スガモプリズンでの暗い生活で、戦犯の私達には、フィクションでしか発表の自由がなかったのです」とし、そうなると読者はここで、今度こそ事実関係の描写を期待する訳ですが、しかしこの記事でも自身の暴行については、触れるのは1と5のみで、2~4は全く触れられず、また命令したとされる捕虜殺害に関して記されるのは、

 「ある朝の点呼に、俘虜一名が不足でした。一夫多妻で有名なモルモン教の狂信者で、俘虜仲間も手をやいていたスピヤズが二度目の逃亡をしたのです。(改行)そこでくりひろげられたものは、程度こそ違え、あの中国の捕虜処刑の再現でした」

 の3行のみです。これではまるで自身に命令の権限がないかのような、また問題ある狂信者には処断される原因があるかのような表記です。しかもこれは昭和19年の初秋に新潟収容所で所長になるにあたって、仮名で「坂本大佐」より(「ああ、大森俘虜収容所」及び「13番目のミッション」によると鈴木、酒葉の交代は昭和19年4月であることから、これはどう見ても酒葉要)、「今年は一名も殺してはならぬ」と命令された後のことだそうで、そうなると完全に上官の命令にも背いており、となればこの殺害の責任についても、現場の所長の責任が重く問われるはずですが、当人は先に捕まった上司、「坂本大佐」が無期で済んでいることから、「私がその全責任をとらされていることを意味しました」「下に重く上に軽いのが戦犯裁判でした」と述べ、まるで現場責任者の咎を、大森にいた本所の所長にとって欲しいかのようです。これは訳者の推測ですが、この矛盾は酒葉要が「今年は一名も殺してはならぬ」と命令したのが虚偽、ウソで、逆に逃亡した捕虜は殺害しろと言う命令が本所よりあったのなら、ピタリとパズルピースが合致します。「下に重く上に軽いのが戦犯裁判でした」と「私がその全責任をとらされている」もピッタリ符合し、さらに他の捕虜との記述とも綺麗に合致するのです。酒葉要についての各記述も見て見ましょう。

 一、ワインスタイン。酒葉要が栗山通訳兵を連れ満島に巡回に訪れ、病人を労働に駆り出し死者を頻出させた

 二、八藤雄一。「酒葉は立身出世、少将への進級が最大の関心事、東俘虜で成績をあげて昇進したい。その為には加藤哲太郎、渡辺のように殴っても蹴っても俘虜を働かせ得る人間が酒葉にとって最大の武器、道具であり、最良の部下である」

 三、「連合軍捕虜の墓碑銘」。飛田時雄が一時勤務していた大森で、「SA・K大佐より『渡辺を見習え』と指導された」

 四、ルイス・ブッシュ、・「ハバカリ先生」—「鈴木大佐の後任は残忍な人物だった。東京空襲で撃墜された捕虜には負傷したものが多かったが、一切手当てをしてはいけないという命令を出したのは彼だった」(中略)「彼は終始無罪を主張した。責任は他の誰彼にあって、自分には絶対にないというのだ。そして彼はキリスト教に転向した」

 五、藤井浩軍医のPWIR。特別捕虜だった、ジル・アーサー・ヘンドリクス伍長の死について、「私はこの死を報告し、酒葉大佐に死亡証明を書くべきか尋ねた。大佐は陸軍は特別捕虜は通常の捕虜とは認めておらず、従って彼らの死亡証明を作成する必要はないと答えた」

 六、ロバート・マーティンデール。「彼(大森収容所所長・鈴木薫二)の後任は酒葉大佐で、前所長以上に渡邊を支援する、残酷な人間であることが分かった」

 七、デイビット・H・ジェームズ。「彼は古参にして徹頭徹尾、皇道派に傾倒しており、戦争犯罪者以外の何物でもなく、100%のサディストだった」

 八、「アンブロークン」—「バードに殴り蹴られてもブッシュは屈しなかった。徳川(※義知)はたいへん心を痛めて、軍当局と赤十字に行って訴えたが、なかなかうまくいかないことをブッシュに伝えた。だが正月を目前にしたある日、ついに成功した。バードは大森収容所を離れるよう命じられたのだ。(中略)バードがとがめられたわけではないことを示すために、サカバ大佐は彼を軍曹に昇進させた。(内容はローラ・ヒレンブラントが、八頭雄一に文書インタビューにて確認)」

 九、これらに対し、加藤哲太郎は上記Bの婦人公論で、「坂本大佐」を、「今年は(※捕虜を)一名も殺してはならぬ」と自身へ命令。「このように階級意識を忘れて頭をたれて、一少尉に頼んだ老大尉もまた懸命だったのです」とし、またC、恩師への手紙では、今度は本名で酒葉要に言及し、「職業軍人には珍しいクリスチャン」としています。

 お分かりでしょうか?加藤哲太郎だけが、酒葉要をまるでクリスチャン=人格者であったかのように表現し、他の描写では元捕虜は勿論、日本人ですら本人の死後においても(酒葉要は巣鴨収監中に死亡)辛辣な内容になっているのです。④の八藤雄一の記録で加藤哲太郎が取材記者に対し、酒葉要についてどのように語っていたのかをもう一度見て下さい。そして書籍版「私は貝になりたい」にはもう一人、加藤哲太郎だけが好意的に描く人物が存在します。誰を隠そう、あのバードこと渡邊睦裕です。Bの記事でブライス・ J・マーティン殴打に関し、自分を止めに入った人間として「W大出の、私と同年配の好漢で、金持ちの息子で鷹揚で明るい性格の持ち主」の横田軍曹という人間について触れているのですが、これは④八藤雄一の目撃談を見ても、ルイス・ブッシュの著作に加藤哲太郎が、「ブラウン」について自書でどう注釈をつけているのかを見ても、いやそんなの全然見なくてもバード以外の誰でもありません。バードのことを「好漢」「鷹揚で明るい性格の持ち主」と記録するのは、いくら世界広しといえども加藤哲太郎だけですが、この大森の2枚看板の言い分を比べて見ましょう。

 —「言語、習慣の異なった敵國人との間に当然起こるべくして起こった摩擦もあった。私達も軍隊で命令を受け動いている以上、より多くの誓約を受け、規律を維持するに必要な厳格さも要求させられた」—文芸春秋1956年4月「アメリカに裁かれるのは厭だ!」

 —「横田君(バード)が止めにはいりましたけれど、彼だけにいやな役目をさせる訳にはいかない。私の手も汚れている。日立でも規則を破った俘虜をなぐったことがある。なるようにしかならない。私はマーティン大尉をなぐり倒し、足蹴にしました」 —B、1959年3月婦人公論

 暴力はやむを得なかったとする主張、またそれらの状況を修飾する2人のフィクション・物語の論調は、スピヤズ刺殺の経緯と比べても、驚くほど似ていないでしょうか?

 

 また本書に筆を加えたのは本人だけではありません。序文では助命に動いた妹が以下のように記しています。

 「大森の俘虜収容所や日立鉱山へも何度か兄を訪ねた記憶があります」「職務とはいえ自分の責任の範疇を越えてまでも預かった俘虜を大切にし可愛がっていた兄ですから、一部の不平分子はともかくも大方の俘虜からは親しまれ信頼されていたのです」「アメリカ軍俘虜将校のひとりから『ポツダム宣言の条項にふれるから収容所関係者は罪が重い!逃げろ』と忠告され」「すべては加藤の責任だということにして、皆は助かれ」

 最後の一文は、本人が部下とそう約束したとあるのですが、本人の記述にある、「私がその全責任をとらされていることを意味しました」とは矛盾します。無論人間とは一度約束しても、後で気が変わる生き物ですが、しかしそれを犯罪において認めてしまうと、殺害命令を出した人間が「後で気が変わった」ことを理由に、罪に問えなくなります。妹によると、兄は頭のいい人格者のように描かれ、兄は自分だけに責任が来るのは納得が行かないと書く。この2つはどちらが本当かというのは元より、他の記録、供述と照らし合わせると、2人共真実を語っていない可能性が極めて高いのです。人は自分が死刑ともなれば、家族総出でウソでも、気が狂ったフリでもするものですが、出版年は1994年となり、解放された本人も既に死去しており、それでも「フィクション」が必要とされる理由とは、一体何でしょう?

 さらに最後の巻末解説では、時折テレビにも戦争特集等で登場する、ある大学の教授が著者について、「アジアへの加害という視点をふまえて日本の戦争責任を考え続けた加藤哲太郎氏の手記は・・・」と評するのですが、本書では中国での殺人における懺悔モドキが記されるだけで、その後被害者を特定して謝罪したなどの記録はなく、裁判で自ら加担したことを認めた戦争犯罪への事実関係や内省が記されているとはとても言い難い内容に対し、どうして「日本の戦争責任を考え続けた」となるのか、少なくとも訳者には理解できません。もしこれを上記の元捕虜や看守、①~⑧の人達が読んだとしたら、一体どう思うでしょうか?

 

 そして本稿は、過去の話だけでは終われない側面を含みます。なぜならこのプロパガンダとも真実の隠蔽ともとれる主張が、本人が死去して40年を越える現在でも、未だ日本で終わったとは言えないからです。前述しましたが、2007年に日本テレビで放映された、「真実の手記 BC級戦犯加藤哲太郎 、私は貝になりたい」では、主人公をハッキリ加藤哲太郎にし、題名も「真実の手記」と銘打ち、タレントの優香演じる妹、不二子に主人公が「兄ちゃんは決して罪など犯してはいない」と言っておきながら、戦後法廷で自身が命令したと認められた捕虜刺殺事件を、部下が偶発的に起こした射殺事件にすり替え、あまつさえそれを自身の高潔さが故に、身代わりとなって罪を被ったとされるからです。飯島直子扮する奥さん役が言います。

 「私にはどうしてもあなたが悪い人間だとは思えない」

 「私、人を見る目があるの」

 果たしてそうでしょうか?2007年及び、2021年現在では、加藤哲太郎について知る人は決して多くはなく、接点があるとすればテレビドラマがせいぜいで、英語で書かれた元捕虜や、国立国会図書館でしか読めない元看守の記録を読まずに、このドラマだけを見た人は、加藤哲太郎についてどのような人物像を描くでしょう?タイトルで「真実の手記」と銘打っておきながら、ドラマの最後には狡猾にも、「このドラマは、加藤哲太郎氏の実話に基づいたフィクションです。登場する団体、人物の名称などは実在のものとは関係ありません」とテロップが出てきます。「フィクション」と断ってから、自身に都合のいいプロパガンダを巣鴨から発信し続けたのは、一体誰でしたでしょうか?そしてこれを、本人も助命に動いた家族も死去して久しい中、テレビドラマとして放映しようとした人間は、一体誰で、どんな目的で、このことは「文部省(文化庁)芸術祭賞」に値する行為なのでしょうか?

 またこの「貝~」という言葉の原点にも触れねばなりません。実は毎年放映されたテレビドラマで有名になった加藤哲太郎は、決してこのドラマの脚本を書いた訳ではありません。著名な脚本家である、橋本忍が筋書きをしたドラマを本人が見て、獄中で書いた「狂える戦犯死刑囚」の主人公の遺書が、ドラマに無断引用されているとして東宝を提訴し、これにより「題名、遺書、加藤哲太郎」のクレジットを得た経緯があります。書籍版の「私は貝になりたい」には、本人が有罪判決を受けた事件についての詳細は、ほぼ述べられませんが、その一方で東宝との著作権紛争の経過資料は、ちゃっかり掲載されているのです。裁判所に認められたが故に、自身の発案と言いたいのでしょうが、しかしこの「私は貝になりたい」という文言についても、実は加藤哲太郎のオリジナルではないとする記録があるのです。同じく新潟収容所で軍属として働いていた、新潟海陸運送(株)の取締役にして後の戦犯、小島一作により巣鴨で書かれた詩より由来しているという記録があり、これはPOW研究会のHPにも紹介されています。もしこれが本当だとすると、「私は貝に~」を加藤哲太郎の枕詞とするのにも、疑問が湧いてきます。

http://www.powresearch.jp/jp/pdf_j/research/tk05_tk15_niigata_j.pdf

 —「石黒正英は『貝は口を開いた―小島一作聞き伝え』『いしぶみ 第11号』 (新潟拓本研究会所蔵)の中で『昭和三十三年度文部省芸術祭賞を受賞したテレビドラマ『私は貝になりたい』のタイトルが、小島氏が巣鴨在監中に書いた詩の題からとられていることを知っている人はもっと少ない』と記している」—

 

 この加藤哲太郎の一連の処遇と言動について、バードが戦後に知らなかったとはどう考えてもありえず、またテレビで「私は貝になりたい」が、放映される度に思い出さなかったハズもなく、

 「オレだって捕まっても、父ちゃんの中学の同級生が総理大臣で、世界的文豪だか何だか知んねえけど、それの娘が除名嘆願に動けば恩赦になったのか?」

 「オレも巣鴨で反省したフリをして週刊誌に取り上げられれば、テレビドラマの主役になったのか?」

 「オレだって同じ論調で投稿をすれば、週刊誌に取り上げられるのか?」

 と思ったと、そしてそれが1956年の文芸春秋への投稿に強く影響したと想像するのは、訳者だけでしょうか?戦後、日米英のメディアにそれぞれ1度だけその姿を現すバードですが、訳者はここにおいて是非とも、加藤哲太郎についても触れて欲しかったと考えます。それはバードの言い分が、動画や新聞記事として残ったこと同様、「一戦犯」の思考ログが書籍として残ったことにも価値があり、その一方が一方について触れる時、2つの深層がさらに明らかになると考えるからで、つまり一見すると本編、「悪魔に追われし男」 に関係がないかに見える、加藤哲太郎や酒葉要を知ることは、ルーイーに多大な影響を与えた渡邊睦裕を知ることになるからに他なりません。

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