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あとがき

Afterword

 2003年に「悪魔に追われし男」が出版された時、私は86歳だった。自らが人生で経てきたこと、そして生き延びることができた試練の数々を思い、私は以下の言葉よりこの本を始めた。

 「私は生まれてこの方、いつでもラッキー・ルーイーと呼ばれてきた。これは何も不思議なことではない」

 ここでこの新版に馴染みのない読者に向けて、簡単な総括をしよう。

 私はカリフォルニアのトーランスで育ち、それは今で言う所の非行少年だったが、高校でその生き方を変えると、陸上競技の選手権者となり、1936年にはオリンピックへも行った。自分は1マイル(※1.6キロ)4分の壁を、初めて破る人間の一人となるやもしれなかったのだが、しかし第二次世界大戦が勃発して1940年の東京オリンピックが中止となると、私は代わりに国への軍役を決意した。そして1943年、救援ミッションで自分が乗った爆撃機が太平洋に墜落すると、奇跡的に生き残った3名の内の1人となった。その海上で過ごした33日目に、3人の内の1人は死んでしまうのだが、パイロットと私は47日間もの間、西へ向かって2,000マイル(※3,200キロ)流されるのを耐え忍び、結局それでも日本軍に捕らわれる結果となった。日本側は自分達を幽閉すると拷問し、屈辱を持って尊厳を否定し、精神を病んだサディスティックな看守の一人は、私に目をつけプロパンガンダのため、ラジオ録音をさせようとした。しかしそれでも一度として、自分は圧力に屈したことはない。

 戦争は2年半後に終結し、我々は傷ついていたが、しかし自由を手に入れた。ロサンゼルスに戻ると、私は自分が戦時捕虜の身となっている悪夢に悩まされ、好んで喧嘩をするようになるとアルコールに溺れ、妻を失う寸前にまで至った。しかし当時はまだ若かったビリー・グラハムの説法を聞くと、何とか顔を上げ、どん底へと落ちる前に信仰と出会った。続いて私は日本へと戻ると、かつて自らを幽閉した看守達と会い、彼らを赦した。その後、手に負えない少年達のための課外活動キャンプを始め、社会の一員として認められるべく努力し、聞いてくれる人がいるなら、誰にでも自分の話をした。

 私は自身の身に起きたことを、恨みに思うこともできはしたろう。だがもし自分が人生から学んだことが一つあるとするなら、それは神はすべてのことを働かせ益として下さる、ということだ。(※ローマ人への手紙第8章28節)当時は自分はそのことを理解できず、率直に言えばあんな悲劇に遭うなんてもう二度とゴメンだが、しかし最後にはその苦難をも含めた全てが、結局は多くの機会や賞賛、それより得た貴重な経験をもたらしてくれることとなった。

 2001年にウィリアム・モロウが、今あなたが読んでいるこの物語を私に書いてみるよう勧めてくれた時、自分は本当に運のいい人間だと我ながら思ったものだ。今となればもうほぼ94歳ともなり、それでもまだ元気にやっている。

 あれから、色々なことがあった。

 この「悪魔に追われし男」への反響は、全く以って圧倒的と言う他にない。この本が出版される前は、私は自分を忙しい人間だと思っていたのだが、それからさらにどれだけ忙しくなるかなど、予想だにしていなかった。自分の所にはほぼ毎日のように、老いも若きも読者からの電話や手紙が舞い込み、私はその全てに返事をし、返信の封筒には本のカバー写真のコピーを添える。そして自分の元にはさらなるスピーチの依頼が、もはや自分がこなせる以上に来ることとなり、今でもたゆまずあちこちへと赴いている。

 ここに新たに嬉しい反響が、また一つある。「悪魔に追われて」が、第二次世界大戦の歴史教材として、アメリカ各地の学校で受け入れられ始めたのだ。これは夢にも思わなかったことで、認知により私は国内の軍隊のみならず、海外駐在のそれでも度々スピーチができるようになった。(※おそらくこちら―https://awesomestories.com/pdf/make/140366・一部要登録)

 本の評価が極めて高かったことはありがたいことだが、しかしそれ以上に大切なのは、読んだ本の内容に反響して、本当に多くの人々が自分に連絡をくれているということだ。

 私はよく、自身の世代について聞かれることが多い。人はこの世代のことを「最も偉大なる世代」と呼ぶが、私はこれを「忍耐ある世代」とも呼んでいる。何が自分達を忍耐強くしたのか?それは他ならぬ大恐慌の日々で、自分達がカネの力で甘やかされることなど、なかったのは確かだ。揉め事があれば弁護士など立てずに路上へと出ては、時には喧嘩で折れた骨や鼻を抱えたまま決着をさせた。あらゆる部分でお互いを助け合い、分かち合った。隣りの人達と一緒にピクニックに行き、おもちゃも自分で作った。(おもちゃ屋なんてなかったから、レーシング・カーは自分で作ったのだ)スケボーなんかも、初期の頃の奴の、箱が前の所についているのに乗っていた。サッカーボールは町内4~5ブロックに住む子どもに一個しかなくて、一度でもそれを蹴れるんなら幸せってもんだった。だがヒマな時間だけは有り余る程にあって、娯楽と言えばラジオはあったが、テレビなんてなかったし、映画は週に一回しか観られなかった。

 困難の時の数々にも関わらず、私達は現代の人達より幸せだったろう。自分達は逆境を乗り越え、その度に自らのたくましさを高めていたのだ。

 また我々は、勝負に勝っても負けても潔くいる術を心得ていた。自分がまだ若き陸上選手だった頃、3年半に渡り無敗を誇っていたが、しかしこの軌跡も永遠には続かないことを、つまりいつの日か自分とて負けることは分かっていた。そこで私は自分に、負けるならどんな風にありたいか自問をし、潔くいようと決心したのだ。そしてその日は、決意の日の4~5ヵ月後にやって来た。自分ではない走者が勝てば、私は彼の元に駆け寄りその勝利を祝し、彼の家族とその恋人とも抱擁を交わした。

 こんにちでは負けた側というのは、ずっと下を向いている。そんな様子を見て私は思う。一度でいいから、負けた側のコーチが歩み寄って、勝者側のコーチを祝するのが見たい、と。

 自分の所にはほぼ毎日のように、幅広い種類の集まりにスピーチの依頼が舞い込む。その全てに赴くことはできないのだが、私はできる限り公演をするようにし、特に学校からの依頼には行くようにしている。中学生から大学生、自分は今まで何千人もの生徒に話をさせて貰っているが、しかし単に戦争体験を話したりはしないようにしている。まずはDVDを見て貰い、それから質問を受けつけて、現在から未来を生きる生徒にとって、身近な話題から入るようにしている。

 こんにち彼らが興味を持っていることや、今、彼らを悩ませている物に、共感できるように努めているからだ。

 多くの質問は、今の子ども達の見本となるべき所を、失態を犯してしまった人達や、彼らがなぜそうなってしまったのか、また薬物や性交渉や不貞についてだ。生徒達は私の時代は一体どんな感じだったのかを聞いてきて、私がそれに答えるととても驚くのが分かる。そして生徒やそれ以外の読者が、

 「自分には問題があると思っていましたが、あなたが経験してきたことを知った今、自分をかわいそうだと思うことがなくなりました。自分で自分を責めるのではなく、自身の問題をもっと軽く扱いたいと思っています」

 と手紙を書いてくれると、とても嬉しく思う。

 またストレスとそれが何をもたらすのか、どうやって制御するのかを話すのも好きな所だ。現代において、それはとても重要になる。

 こんな話がある。ある日、電話で戦時捕虜の公助をご存じですか?と言われたことがある。自分も戦時捕虜として、政府よりかなりの額の給付金を貰う資格があったのだ。そこで私も何枚かの紙にサインでもするべく、申し込みに行くことにした。ところが実際にそこで待っていたのは、1週間分にも相当する健康診断で、これには引き続いて心理学者による面接も行われた。セラピストのオフィスに行くと、彼女はまずはお掛け下さいとこちらに言い、それから私が緊張やストレスを、どうやって緩和するようにしているのかを聞き始めた。彼女からすれば、ストレスはあって当然の前提だ。

 「そういうのは、全然ないですね」

 自分がそう答えると、セラピストは言った。

 「そんなまさか、緊張やストレスは誰でもあるものですよ」

 「そうですか、でも自分にはないですね」

 彼女が自分を信用していないのは、こちらにも明らかに分かり、そこで自分は「釈明」をすることになった。そして詰まる所の結論を言うと、こうだ。

 「自分としてはそういうものを、自分の中に入れていない訳ですから、外へ放出する必要もない訳です」

 これに対しセラピストは、私に質問の嵐を浴びせ続けた。おそらく彼女はこれでこちらの緊張や不安感を誘発して、私の申告を反証しようとしたのだろう。だがこれは失敗に終わった。このセッションは45分の長さにも及び、そしてこれがようやくにして終わると、セラピストは笑顔を見せてこう言った。

 「今日はとても勉強になりました」

 勉強。自分が勉強したことと言えば、人は他人を助ければ助ける程、長生きするということだろうか。気持ちのよい感情の数々は、人を治癒するものがあるのだろう。狂おしいまでの恋をした時と、同じことが起きるのだ。この話に関しては、まだまだ掘り下げることもできるのだが、ここでは白血球が大量に流れ、これが免疫系統を増大させるとだけ言っておこう。そうすれば風邪だって、治るのが早くなる。

 私はこの20年の間、病気になど罹っていない。

 私の生涯を、何か魔法でもかかっていると言うなら、自分とてその通りだと思う。齢もそろそろ94歳にして、私は有益なライフスタイルの恩恵の好例ではないだろうか。これは肉体的な鍛錬と食生活、快活さと慈善運動の組み合わせから生まれるのだ。

 私はいつでも自分の運と人生を、最大限に活用できるよう心掛けている。できるだけたくさんのことを学ぶ。これは私にとって昔から大切なことだ。(夢を実現させる時間のため、映画に行くことすらやめたが、これでおまけに1万5千ドル(※195万円)もの節約にもなったと思う)今では自分が熟達、もしくは免許があったり、専門家となった分野は84にも及ぶ。そこにはスキューバとスキーのインストラクター、ライフガード、氷河登山家にして氷河スキーヤー、それにパイロットまでがある。

 自分の人生に起きた出来事の数々を思い起こすと、そこには怪我を負ったり骨が折れたり、拷問を受けたりさらには臨死体験の数々があり、まーあ自分には面白い話もあったもんだが、振り返るといつも思うことがある。我が人生を、もう一度生きる気にはなれるだろうか?ということだ。確かに自分の人生には、多くの最高とも言える日々があって、これが上がり下がりのバランスをとっている。劇的なまでの成功や大冒険、家族や友人がいるお陰で、恐ろしい経験の数々も中和されてはいるのだ。とはいえ既に書いたように、この質問に関する答えはズバリ、ノーだ。

 だからまたもや自分に幸運が舞い込んだ時に、私がどれだけ驚いたことか、考えてもみて欲しい。

 作家のデビット・レンシンと自分が、まさに「悪魔に追われし男」を終えようとしている所に、大ベストセラーとなった伝記「シービスケット・あるアメリカ競走馬の伝説」を書いた若き女性、ローラ・ヒレンブラントより、一つの小包が届いたのだ。中にはシービスケットの本が一冊と、ビデオ・テープが1本、また手紙も入っていた。ローラによると、シービスケットについての調査をしていると、幾度となく私の名前が出て来たそうで、伝記を書かせて頂けませんか?とのことだった。

 「これはまさに自分にとって、作家の醍醐味とも言える物語なんです」

 彼女にそう言われては、もちろん私とて嬉しくないはずはない。だが私は彼女に、このアイデアは思い留まるように促した。

 「もう全ては自分の本に書いたんだよ。一つとして書き残したことはないし、他に伝えるべきことは何かあるだろうか?」

 ローラはこの件について1年近くも考えを巡らし、それからこんな手紙を書いて寄越した。

 「でも、それでも私はこれを書かねばならないんです」

 彼女は私の賛意を欲していて、そこで私はこう答えた。

 「あなたがあくまでやると言うなら、やられたらいいでしょう。自分にできる協力は、できる限りにしますから」

 彼女の本である「アンブロークン」は、2010年の11月に出版された。それは私についての物語だが、それ以上のものともなっている。「悪魔に追われし男」と総合して見ると、そこには2つの視点があり、これは伝記作家の技量が、対象の周囲を広範に取り入れるということと、主観として近くから自身について書くというもので、これにより全体像が部分と部分の足し算以上のものとなるのだ。

 すると突然、私は今までよりさらに忙しい身となった。そしてこんな一瞬一瞬を、愛おしく思っている。

 私は生まれてこの方、いつでも「ラッキー・ルーイー」と呼ばれてきた。

 そしてこれは、何も不思議なことではない。

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